URAHARAを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
他者が存在せず、全てが自意識の中で完結するサーキュラー。緩やかな微睡みを拒絶して、少女たちは外部を目指す。金魚鉢の外、クリエイティブティの先へ。
みさとエビフリャー、相互理解と固着に別れた他者と一緒に追いかけっこをする回。呑気なラスト戦闘がらしくて良い。
というわけで、妄想と現実、嘘と真実の区別がないみさとの対話は、基本全部セリフでやっちゃうURAHARAである。いい加減このスタイルにも慣れたが、やっぱもったいないよ~。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
コーナーミラーに閉じ込められた子供とか、足元に広がる『スクールゾーン』の檻とか、要所でキレてる演出しとるのになぁ。
三人娘は妄想と現実を確固たる区別で切り分けるが、そこで本当なのは感情だけだろうか? 具体化した妄想は、例えばURAHARAというアニメーションのように共有可能なものになり、賛否好悪別れる他者性に
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
放り込まれる。
好き/嫌い、正しい/間違ってる。妄想だって都合が悪いふるいにかけられる。
りと達が作り上げてきた妄想の原宿が、出口を持たない内的なものだったのか、どこかで接触点を確保した外的なものだったのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
それはバリアの外側に在る東京の『現実』を見てみないと、判別しきれない部分だと思う。それは『現実』にりと達のクリエイティビティを見てもらうことでもある。
主体と客体は常に交流する。どれだけ内部に閉じ込めようと思っても、妄想は頭蓋骨をはみ出し、誰かに見られたがる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
寂しがり屋の人類は、一人で大丈夫と暗示をかけても誰かを求めて、手を伸ばして繋ぎ、あるいは奪う。そこに在る孤独と痛みと喜びは、三人娘の青春妄想戦闘の中で、しっかり描かれた。
URAHARAがドキュメンタリーではなく御伽噺/アニメである以上…というか、現実を冷静に切り取ったとされるドキュメンタリーもまた、恣意的な現実の編集を常にはらむ御伽噺であり、御伽噺が比喩とデフォルメを活用して現実の別側面を見せる以上、妄想と現実の境界線は常に曖昧だと、僕は思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
それでも妄想/現実の間の『/』にこだわる少女たちは、自分たちの曖昧さに気づいていないのだろうか?
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
そうではないと思う。彼女達は(こんなフワフワのアニメのキャラでありながら)妙に健全で、自分たちに都合の良い夢が続く世界が、むず痒くて我慢できないのだ。妄想の断罪は、多分皮膚感覚由来だ。
都合の悪さの中で試されたい。永遠は続かない。呼吸をしたい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
そういう意識があったから、三人の生み出した妄想の原宿にはゴミが溜まり、不都合が蓄積された。
都合のいい優しい大人としてさゆみんを生み出しても殺してしまったし、PARLはありふれた小さなお店のままだった。
キモいと蔑まれ、ワケワカンないと嘲られ、話にならないと拒絶される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
『現実』で幾度も繰り返される他者とのディスコミュニケーション。夢を価値のない妄想に書き換えてしまう人間の修正に、三人娘は嘘をつけなかった。それは自分たちが体験し、嫌というほど傷つけられた事実だったから。
その都合の悪さこそが、生きる実感なのだというマゾヒズム。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
三人娘が『特別で大事な三人』で閉じず、金魚鉢の外側に出たいと願ったのは、痛くて気持ちいい他人の視線がそこにないからだ。
都合がわるいからこそ、一瞬触れ合えた幻想がとんでもなく心地いい。コミュニケーションの快楽を知ってるからだ
異質なものを許し、対話し、そこから受け取る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
みさを許すのも、妄想の中の一面の『正解』を見つけるのも、やっぱりりとである。PARKの想像力エンジン、本物の才能は虚飾を排し、真実を見つけるのが圧倒的に速い。
ここら辺の性質の差は、ずーっと丁寧に描いてきたものなので、特権にも納得がいく。
自分の中のクリエイティビティ≒人間性を再発見し、ビーズの指輪に込められた約束を架け橋にして、嘘と略奪に傷つく人間の『普通』を理解していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
みさの変化と和解は、ベタ足ながらキッチリ欲しい所に話を運んでくれて良かった。巨大な断絶を楽観的なジャンプで飛び越えるのは、この作品の味だ。
妄想という麻酔の強大さとか、りとが一人ゾンビ化した原宿を駆けたときの絶望とか、みさがさらけ出したコミュニケーションの不全とか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
このアニメが切り取る壁の高さは時々凄くシリアスで、ぴょんと飛び越えてしまって良いのかなと首を捻るほどにニヒルだ。でも、あえて軽々しく飛ぶ。
それを軽率と取るか、自由と取るかは視聴者次第だろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
『現実は甘くない、様々な不可能が覆いかぶさるに違いない。飛べない』と見るか、『嘘っぱちの御伽噺だからこそ、自在に飛んでくれ』と願うか。
青春期をひた走る女の子が抱える、無限の可能性に期待を込めて、あえて飛ぶこのアニメ、俺は好きだ
そういう積極的楽観主義をジャンプボードにして、みさと三人娘はわかりあい、スクーパーズはクリエイティビティを手に入れる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
みさの保護者であり大人でもあったエビフリャーが、『スクーパーズかくあるべし』という内部規程から脱出できず、何もかもぶっ壊そうとするのは正反対である。
対話可能なみさと、対話不可能なエビフリャー。他者が確かに持っている二面性を描くためには、二人をキレイに分けることが必要なのは判る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
が、長尺で回されるゆるーい追いかけっこのノンキさを見ていると、頭固いオッサンも変わっていける緩やかな希望を、最後に見せて欲しくもなる。
創造性が種族を超えるなら、年齢や立場や外見も飛び越えていいじゃないか。少女たちの都合の良い妄想は、外部を求めて破綻しつつある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
その時、身勝手でロクデナシで、でも一緒にいると楽しくもあった不思議な隣人もついでに引っ張り上げて終わってくれたほうが、僕は良いなと思っている。どーなるか
ここでアニメ力バリバリの超絶ラストバトルではなく、原宿を舞台にした追いかけっこを決戦の舞台に選ぶのが、URAHARAだなぁと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
変身バンクは使わない、お風呂シーンはカット、触手はねとねと女の子を嫌な触り方しない。『アニメっぽい』映像言語を拒絶し続けた、このアニメらしいなぁ。
戯れているような最後の戦いの中で、少女たちは世界も自由に書き換えられる妄想のパワーを活用し、りともアマツマラの少女に変わる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
全てが都合のいい嘘だとしても、それはやっぱり面白い。そのフィクショナルな輝きもまた、消え行くURAHARAから持ち帰ってくれたら。そんな期待が最終話にある。
あの原宿追いかけっこは”夏色キセキ”の下田マラソン、あるいは”うる星やつら”の第1話/最終話を思わせて、ノンキで好きだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
愛と正義の正統派バトルヒロイン『ではない』からこそ、闘争から離れた戦い方も出来る。じゃれ合いで世界が壊れて生まれなおしても、別にいいじゃないか。
そんな感じの、URAHARA最終話一個前でありました。ワリと欲しい所にしっかりボールが来て、このアニメが好きな自分は満足である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
ふわっと分かりにくいように見えて、『青春とシスターフッドの話なのだ!』という軸はブレんからな。それを語るために必要な貯金は積み立てて来たし、今払い戻しの時だ。
楽しいことも苦しいことも色々あった、ドタバタ夢の金魚鉢。そこから少女たちが飛び出していく未来をどんな色彩で描き、彼女達が求めた『外』に何を配置するか。答えはだいたい見えている。あとは細やかな装飾が語るだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月14日
URAHARA最終話、とても楽しみです。いいアニメだなこれ。