イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ヴァイオレット・エヴァーガーデン:第13話『自動手記人形と「愛してる」』感想

かくして少女は死の国より帰り来て、言葉は未来へと繋がっていく。
ヴァイオレット・エヴァーガーデン、最終話です。
テロリズムと対峙した陸橋攻防戦、少佐を失った哀しみを共有するブーゲンビリア邸での対話、代筆屋がようやく己のための言葉を手に入れる航空祭
3つのクライマックスを繋ぐことで、ヴァイオレットの旅路(≒彼女を主人公としたこの物語)が何を失い、何を再獲得するものであったかを確認するお話となりました。
美術と撮影の圧倒的アドバンテージを信じ、ゆったりと風景を見せる終わり方が、凄く『らしい』な、と思いました。


『旅立って、戻る』という基本構造は今回も健在であり、第1話のサブタイトル『「愛してる」と自動手記人形』を回収する形で、今回の最終回となりました。
むろん旅路は、その途中経過を吸収して変化するものであり、ヴァイオレットは物語の開始時に『わからない、知りたい』と願った『愛してる』を追いかけるのではなく、確立した自分によって『愛してる』を受け入れる側へと変化しています。
前方にあって届かない遺言を追いかける内に、人間の心の機微、失われ続けなお進む人生の不思議を学んだヴァイオレットは、その疑問よりも大きなものを獲得し、『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』を肯定し、再生させました。
そのためには第1話から第13話に至る全ての物語で、恋人や家族、生者や死者全てに向けた『手紙』に想いを込める『仕事』が必要だった。

物語の始原に戻ってくるということは、ヴァイオレットの獲得したものは、おしなべて再獲得であった、ということです。
作中でも言っていますが、少佐が幼いヴァイオレットを怒鳴りつけながら見ていた風景、『戦場』に収まらない慈愛や平等は、自覚されないだけで人形の中にもあった。
しかしそれを再獲得するためには、傷を癒やし、様々な人の心に触れ、技術と承認を他者から与えられる必要があります。
ヴァイオレットは『良きドール』として他者の心に触れ、治療しながら、自分の傷も治療していました。
顧客が言語が出来ない心や切なさを『手紙』に込める行為が、実は自分自身の柔らかな内面に潜り、機能不全に陥っていた瑞々しい感情を再生させるためのリハビリテーションでもあった。

その歩みを確認しながら、彼女は初めて、自分のための手紙を書きます。
第3話で『言葉にならなくても、手紙なら伝えられる』といった己の発言を追いかけ直すように、ゆっくり自分に向かい合い、今の自分を記述していく。
それは常に再獲得であり、再生です。
『戦場』で焼き尽くされたように見えても、しぶとく芽を出し花開く人間的感性は、ヒトがヒトであるための初期条件であり、傷つきながら常に脈を打っている。
その蘇生は、優しい人々の手助けと、自分自身の再生力によってのみ可能だということを、この作品全体が語っているように思います。

過去の闇を凝集したようなテロリズムのトンネルを抜け、『そうあったかもしれない自分自身』と向き合ったヴァイオレットには、『戦場』から飛び火した傷が刻まれます。
ブーゲンビリア邸での母との対峙、少佐を失った痛みを共有できる存在との対話を経て、その傷は航空祭のときには治っている。
幾度も超絶作画で強調されてきた、ヴァイオレットの美しい顔。
そこに刻まれた傷が身体的なものではなく、心理的・時間敵・概念的な傷であり、それは痛みの源泉を表面化し、許しを与えられることで快復可能なものであることを、早すぎる治癒が示している気がします。

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<心理的外傷と向かい合った結果として、表面化された損傷は高速で治癒する>

それは『良きドール』として(あるいは、それを手に入れる以前から一個の人間として)ヴァイオレットが様々な人に行ってきたことです。
物語の終わりにそれが遅れて彼女自身を治癒する姿は、遥か過去の姿が作り出す星空のようでもあって、ずっと星を見上げてきたこのアニメに相応しいモチーフだな、と思いました。
孤独なまま病院で傷ついた体を横たえ、命令に服したまま不在の少佐を待ち続けていたら、ヴァイオレットは少佐への『手紙』を書けなかったでしょう。
あの言葉は、ホッジンズが連れ出し、変えるべき『家』と『良きドール』というセルフ・イメージを与え、『仕事』の中で出会った沢山の人、そして場所が作り上げてくれた、復活の証です。
そして同時にそれは、どんなに見えにくく傷ついていても、人形にしか思えない少女の中にずっと息づいていたもので、『戦争』の厳しさの中でも少佐は、その真実に目を向け、不器用ながら諦めなかった。
そんな彼が最期に残した『手紙』が、他者からの命令ではなく己の中から溢れてくる感情に従うようになったヴァイオレットによって返信される終わりは、非常に綺麗に収まったと思います。


今回のエピソードは、13話に渡る物語を収めきるべく、複数のクライマックスがあります。
ヴァイオレットが己を再獲得する巨大なピークは、第9話で登りきっている感じもあるので、主人公ではなくお話全体、救われなかった人たちに可能な限りの救済を与える物語を、最期に選んだ感じでしょうか。
前回から引き続いた第1のクライマックスは、テロルの阻害です。
闇の中で『戦争』を再演する列車の旅は、あの時は的確に止めることが出来なかった死と破壊を、両腕を犠牲に止めます。
第8話で銃弾によってもがれた腕は、再び弾け飛んで、銀のワイヤーで出来た血を流す。
破壊は『戦後』にも当然あって、死と喪失は人間が在る限り幾度でも繰返します。
『戦後』に適応できなかったテロリストたちは、世界のそういう薄暗い闇だけを真実だと思い込んだ、もうひとりのヴァイオレットなのでしょう。

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<銀色の血液。痛みと贖い。再生可能性を確認するように、再度失われる腕>


しかし銀腕は、ヴァイオレットが学習した人間の可塑性を再現するように、事件が終わってすぐに再獲得されます。
『戦場』ではやってこなかった外部からの救済も、ベネディクトの飛び蹴りという形でやってくる。
喪失の宿命を避けることは出来ない。
既に失われた娘、死にゆく母。
もう会うことの出来ない死者たちに『手紙』を書いてきたヴァイオレットは、その不完全さを思い知った上で、それでも何らか意味のある『物語』として、残されるものの言葉を紡いできました。
そのことが、ヴァイオレットが暗い闇に囚われず、虚しくこだまする『戦場』の命令から抜け出すための、大きな足場となっています。


ヴァイオレットは、テロリストを救済出来ません。
それは第11話で、死にゆくエイダンの命を助けられなかったのと同じ、厳しいルールです。
ヴァイオレットの手はあくまで、暴力に対抗するための暴力と、混沌とした闇に目鼻をつける『手紙』を書く能力しかなく、救命は『良きドール』の職分を越えているわけです。
しかし闇の中での奮戦は、彼女を(そして多分自分自身を)魂無き人形、哀れな生存者としてしか見ていなかったディートフリートに、新しい世界を開かせます。

ヴァイオレットが少佐の死に支配されたように、愛弟を失ったディートフリートもまた、『戦場』から抜け出すことが出来ないまま、道を探していた。
どれだけ言葉で伝えても、『戦後』のコードを背負って『良きドール』としての姿を見せても、ディートフリートは『ヴァイオレットはもはや、人形ではない』というコードを判別できなかった。
彼の中で弟を奪った『戦場』は未だ現役で、『良きドール』として『戦場』から抜け出したヴァイオレットの姿は、同じ地獄を背負っておきながら一足先にリハビリを終えてしまった、無責任なものに写っていたのかも知れません。

そんな無理解を、ヴァイオレットは『戦場』のコードを的確に使うことで乗り越えていきます。
優秀な兵士のように命令に服し、情報を分析し、体を張って暴力に立ち向かう。
北と南の『戦後』を繋ぎ兵器ではなく救援物資を繋ぐ鉄橋を守る姿、そのために銀色の血を流す姿は、ディートフリートにも理解可能な『戦場』のコードで描かれています。
そういうメッセージを伝えるために、ヴァイオレットは戦うわけではないけども、しかしその真摯な姿勢はディートフリーとの頑なさを乗り越え、闇を払う。
『戦後』の意味を一切知らないヴァイオレットに、緑のブローチで、『ヴァイオレット』という名付けで、あるいは言葉や行動の全てで、少佐が『戦後』を語り続けたように、たとえ意味を受け取ってもらえないとしても、ヴァイオレットは自分に書ける『手紙』を、必死に綴ります。

そして、それは受け止められる。
爆弾を解除した瞬間、過去と死に囚われた闇は晴れ、水柱が上がります。
それはある種の祝砲であり、窓を叩く水滴は、弟の死を適切に処理できないまま『戦後』を生きてきたディートフリートが、ようやく流せた涙でしょう。
軍人とドール、立場は違えど『戦後』を守る戦友として『戦場』を同じくしたことで、ディートフリートは弟を死なせたヴァイオレットを許し、弟を死なせた自分自身を許し、涙を流す脆い心を再生させた。
1つ目のクライマックスを照らす払暁は、そういう心境の変化と呼応しているように思います。

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<払暁。過去からの脱却。テロルに囚われるものと、再度生まれ直すものの差異>


ヴァイオレットの奮戦を受け取ったディートフリートは、軍服を私服に着替え、ヴァイオレットの領域である『会社』に自ら赴きます。
第5話、あるいは第11話で頑なに自分の領域を動かない足元がクローズアップされていた彼が、自分の足で他人(しかも愛弟を守りきれなかった人形)の領域に踏み込んでいくことが、攻防戦の中で彼が受け取ったメッセージの強さを、巧く表現しているように思います。
そして彼は、頑なに隠し守ってきた自分の門も開け放ち、私邸というプライベートな場所、母という家族を、ヴァイオレットを前に開け放つ。
鉄橋で発生した爆発のカタルシスが、彼とヴァイオレット、『戦後』、あるいは弟を守りきれなかった彼自身との関係を、大きく変化させたが故の歩みです。

息子を失ったブーゲンビリア夫人は、過去と現在が曖昧となっています。
しかしヴァイオレットと対話する内に時間的認識を再獲得し、自分が伝えたいこと、受け取りたい言葉を取り戻していく。
夢の中を漂っている状態から、為すべき任務を取り戻し、伝えるべき許しの『手紙』をヴァイオレットに手渡すまでの変化を、高島雅羅が見事に演じきっていました。

柔らかな光が差し込む私室の中で、ヴァイオレットは緑のブローチを幾度も触ります。
これは様々なシーン、エピソードで繰り返された愛着の行動であり、自らの胸(心の在処)に密着した少佐の存在を確認することで、ヴァイオレットが前に進もうとする動作です。
今回もヴァイオレットは夫人と対峙するとき、少佐と同じ目の色の石を触り、少佐と同じ色をした母の目を見る。
それは失った過去への愛情を確認する行為であり、同時にそれが失われてもなお生きていかなければいかない辛さに、向き合うための行動です。

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<繰り返される接触。思い出と愛情の在り処。断絶を超えるものの再確認>

母もまた、ヴァイオレットが息子から受け取ったもの、失われたものを見て取ることで、遠い過去に確かに在った光の反射を受け取る。
『世界のすべて』とも言える愛する人をもぎ取られても、人生は続いていってしまうし、それは悲しいことではない。
傷は痛み続け消えはしないが、癒やすための努力は可能だし、そのために手を差し伸べることも出来る。

この物語が様々な『手紙』を追いかけて描いてきたテーマを、もう一度母はヴァイオレットに語りつつ、多分自分にも言い聞かせていたのだと思います。
ヴァイオレットが顧客の代筆を行い、同時に自分を再獲得してきたように、言葉と物語は他者に語りかけると同時に、自分自身にも反射し、失われた機能を再獲得させていく。
時が流れても失われないもの、時間だけが許し癒やしてくれるものを光の中で確認しながら、母と子は同じ傷を持つもの同志の連帯を感じながら、お互いを許し、お互いを癒やしていく。


そしてその光は部屋の外にいるディートフリートにも拡大し、かつて自分の所有物であった人形に、最後の命令を下す。
生き残ったものとして、愛する者のいない世界で惨めに生き続けろ、と。
それは少佐が死ぬ直前に、ヴァイオレットに残した祈り(あるいは呪い)と同じであり、二人が兄弟であることをしっかりと示しています。

母の言葉が、同じ喪失を共有するヴァイオレットと、彼女に反射する自分自身に向けられていたように。
ディートフリートの命令もまた、同じ存在を失ってなお生き延びてしまう、惨めな自分自身への『手紙』だったように思います。
自分を包む過去の闇へ、世界を引き戻そうとするテロリストを相手に共闘し、未だ『戦場』を生き延びる戦友としての共感を手に入れたディートフリートは、母を曖昧な過去から引き戻し、優しく強い存在として快復させたヴァイオレットの姿を見て、最後の扉を開ける。
それは『戦場』のイメージで静止し続ける、人形であり兵器であり狂犬でもあるヴァイオレットのイメージを未来と解き放つと同時に、弟の死、それを止められなかった自分自身への無念を開放する、未来に向けた命令でもあります。

テロルと対話の間に挟まれる、失われた過去の回想。
ヴァイオレットの人間性に無自覚である哀しさを、不器用に振り回す少佐が、未来への祈りを込めて命令を否定するシーンの最後に、絵本と時計が写ります。
過ぎ去っていく時間の優しさと寂しさ、『物語』が空疎な闇をいかに払うかをずっと描いてきた物語らしい、とても示唆的なアイコンだと思います。
たとえ永遠に思えても、意味ある『物語』を持ちえない『戦場』はいつか終わるし、世界が『物語』を回復する瞬間はやってくる。
たとえそこに辿り着くまでに、多くのものがもぎ取られ、痛みが刻まれるとしても、それもまた時間と対話が治癒してくれるかもしれないという願いが、あの二つのフェティッシュには込められている気がします。

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<絵本と時計。物語と時間。断絶と超越。ここまでの物語が紡いできたもの>


ヴァイオレットが自分の意志で、自分のための手紙を書く。
命令に支配された『戦場』のコードではなく、自発的な意志で進んでいくしかない『戦後』のコードに適応した証明書を、ヴァイオレットは自分で自分に課します。
そういう意味では、雪のように空から舞い降りる手紙は、第3話でローダンセ教官が与えてくれた襟章と同じく、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが『良きドール』であることを世界に、また自分自身に証明するための、大事なフェティッシュだと言えます。

モノに喋らせるこの作品の話法はこのシーンでも健在で、ヴァイオレットの旅路は印象的で美麗な風景によって暗示され、深い奥行きをシーンに与えます。
第3話で、兄弟の絆を再獲得し両親の喪失を肯定し得たモールバラ兄弟(二人は『戦場』で傷つき機能を回復させるヴァイオレット=物語全体の歩みを、1エピソードで完走し先取りしていた、とも言えるでしょう)が、再度見つけた黄金のライデン。
ヴァイオレットはもう一度『世界一番高い場所』に登り、そこからの景色を見つめます。
愛する人が死んでしまってもなお輝く、美しい世界。
『戦場』のコードが強く刻まれた第3話では、その黄金は無慈悲な墓標を想起させたわけですが、今のヴァイオレットにはおそらく、違うものが見えているはずです。

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<黄金のライデン。世界で一番高い場所。かつてと同じで、違う風景。帰還と再出発>

 

空から降り注いだ思い、過去への愛とある種の決別は、ゆっくりと地上に舞い降りる。
手紙とすみれ、ヴァイオレット・エヴァーガーデンを構成する祈りの全てが詰まった情景を切り取って、物語は収束していきます。
第5話ラストでは大砲と隣り合っていた、『ヴァイオレット』という名前への祈りを込めた花。
それは『良きドール』として彼女が必死に歩いた道のりを込めて、今では『手紙』と隣り合っています。

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<手紙とすみれ。ヴァイオレット・エヴァーガーデンそれ自体>

 

言葉にならない言葉、喪失された『物語』を探り当て、代弁し、救済する『良きドール』。
手紙とすみれ。
第9話冒頭では銃を握り、他者を殺すために行使されていた銀の腕は、様々な人々の視線を反射しながら、『人を結ぶ手紙を書く』ツールとして機能します。
失われ、それでも再生する。
ありふれた魂のリハビリテーションとして物語を進めてきたこのアニメが、一体何を描き、何を語ってきたかは、過去と未来に繋がる現在を静かに語る『手紙』と、豊かな情景の重ね合わせで、とても雄弁に語りきられたと思います。
他者を覗き込む視線、傷への共感、自己投影と反射を扱ったアニメが、非常にハイレベルな撮影に支えられ、多彩な『光』の表現に彩られていたのは、なかなか面白いところです。


というわけで、ヴァイオレット・エヴァーガーデンが終わりました。
この作品に僕が抱いていたものは、結構な分量書いた感想の中にあると思うので、引っ張り出しはしません。
京都アニメーションが持つ頑なさを全力で振り回し、象徴を豊かに組み上げ、情感を複雑に編み込む。
ウケの良い作風ではないでしょう。
難しすぎるかもしれません。
しかし、そういうか足り方を選ばざるを得ない頑なさも含めて、僕はとても好きだし、意味のある表現だったと思います。

手品のネタバラシをするようでちょっと気恥ずかしいんですが、一つ蛇足を。
僕はこのアニメの感想を書くとき、ずっと『平和』という言葉を使わないよう心がけてきました。
『戦後』と言い続けてきました。
『戦争』と『平和』は対義語のように扱われますが、それは相補的なものであり、片方だけで成り立つ状態ではないと思っているし、このアニメにもそういう認識を持って『戦場』と『戦後』を扱ってほしかったからです。

翻って、第9話で『ヴァイオレット・エヴァーガーデン』というアイデンティティを再獲得し、『戦後』に生きる自分を肯定し終えた後、物語は過去の闇、ヴァイオレットが振り払った『戦場』に帰還していきます。
その、薄暗い寄り道とも取られかねない歩き方が、何よりもこのアニメが『戦後』をどう見たかを、しっかり証明しているように思うのです。
殺人者でもあるヴァイオレットを、真実『戦後』に帰還させるためには、今もなお残響する『戦場』について、それが地続きでありなおかつ肯定可能でもある希望について、足を止めて語る必要がある。
そう思ったからこそ、『戦後』の中の『戦場』について、最後に語ったのではないでしょうか。

『物語』は必ず終わり、人は死ぬ。
それでも続いていくものの価値を自分のものとして、ヴァイオレットの物語は一旦幕となりました。
その先にも『良きドール』としての、リハビリが続く敗残兵としての生き方は続いているけども、一つの終わりにたどり着けたことには、大きな意味があると思います。
いいアニメでした、ありがとう、お疲れ様。

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