イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

長雨また楽し -2018年4月期アニメ総評&ベストエピソード-

 

 ・はじめに
この記事は、2018年4~6月期に僕が見たアニメ、見終えたアニメを総論し、ベストエピソードを選出していく記事です。
各話で感想を書いていくと、どうしてもトータルどうだったかを書き記す場所がないし、あえて『最高の一話』を選ぶことで、作品に僕が感じた共鳴とかを浮き彫りにできるかな、と思い、やってみることにしました。
作品が最終話を迎えるたびに、ここに感想が増えていきますので、よろしくご確認を。

 

ウマ娘 プリティーダービー
ベストエピソード 第6話『天高く、ウマ娘燃ゆる秋』

祭りはその幸福で十全な空気を吸い込める仕上がりになっていて、とても良かった。

ウマ娘 プリティーダービー:第6話『天高く、ウマ娘燃ゆる秋』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 2018春アニメ最終回の先頭を切ったのは、競走馬擬人化ソシャゲアニメ・ウマ娘であった。トンチキな設定、ビッグバジェット特有の粗雑さを警戒しガードを上げて見たアニメであったが、”走る”ことへの真摯さがアニメ全体に行き届き、作品が持つ熱量にぐっと引き込まれていった。
作画も音響も演出も、アニメを構成する全てで”走る”ことを本気で描こうとする姿勢は、そこに感情を燃やすウマ娘たちを魅力的に照らした。負けの苦さ、勝ちの喜び。勝負が生み出す全てのもの(スズカを襲った不幸含めて)を真摯に受け止め、そこに流れる熱い血潮を大事に進める。
女の子たくさんコンテンツにありがちな、肌色推しの中心のない作りを拒絶し、サービスシーンは少なめ薄め、むしろおバカなギャグで色を付けていく演出方針も、個人的な好みにバッチリだった。

各エピソード粒ぞろいで、どれを選ぶか非常に迷ったが、この第六話を選ぶ。直後の七話はサイレンススズカのドラマが頂点に上りきり、祈りを込めて夢を紡ぐフィクションの救いが結晶化した傑作だ。勝負を描くという意味では、第2話、第3話、第8話、第10話、第12話あたりも素晴らしい。
しかし僕は、このお話のAパートの牧歌的で幸福な空気が、ほんとに好きなのだ。色んな連中がいて、ウマ娘も人も一処でまとまり、祭りを楽しむ。遊んで食べてボテ腹になって、幸福な日常を送る。
そういう”走る”以外の場所を大事に大事に描いたからこそ、当たり前の喜びを心から大事にできる奴らなんだと見せれたからこそ、ウマ娘の”走り”は鮮烈だったのだと思う。ただ疾走するだけのマシーンを見ても、僕の心は動かない。いろんな個性と、それが噛み合って生まれる和が日常にあふれているからこそ、彼女たちが”走る”姿に感動し、夢も託せる。
どうしてもスピカとスペスズに焦点がよってしまいがちな作りの中で、あれだけの大人数をAパートだけで捌き切り、楽しく見せる手腕も見逃せない。色んな奴がいるからこそ楽しい、そんな世間の愉快な表情を、祭りの高揚感に乗せて見事に書いていた。

そんな多幸感だけで終わらせず、Bパートでスズカの”走り”を確認する作りになっているのも、非常に良い。ウマ娘は”娘”であり、当たり前の日常を心から楽しむ。食べすぎてボテ腹にもなるし、トンチキな奇声も上げる。
しかしやはり、馬は”走る”のだ。影も踏ませないスズカの疾走は、前半の暖かな気配をスッと冷やし、ウマ娘のもう一つの顔を作品に取り戻させる。楽しいだけではない、厳しいだけでもない。それら全てが輝いて、このお話があるのだ、と。
作品の特徴である熱量やバランス感覚がレースパートに乗っているのも良いし、常識から少し外れつつ魅力的な連中が、とにかく気持ちよく仲良く生きてくれている喜びに満ちているのも最高だ。俺はとにかく、ノーマルの範疇から外れつつも魂の綺麗な連中が、世界から大事にされて笑顔になってる姿を見ているのが好きなのだ。
思い返すと、このアニメはずっと粗ウイウ風計を見せてくれたと思う。オタクオタクしたギャルゲの文法を踏まえつつも、なんか人間の匂いがするヘンテコ娘たちが、人間を遥かに超えた迫力と気高さで疾走する。その温もり、その風。
いいアニメでした。ゲーム待ってます。

 

Lostorage conflated WIXOSS

ベストエピソード 第3話『始動/日常と非日常』

清衣ちゃんがこれから追いつかなきゃいけない決着は、長くて険しい。 しかしそれは、どこにあるか分からない終わりではなく、ここまでの物語全てを決着させるに相応しい終着点でもある。

Lostorage conflated WIXOSS:第3話『始動/日常と非日常』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

conflatedはぶっちゃけ、凄く難しい終わり方をした。物語が始まっていた時見たかったものが見れたか、と言われれば正直NOだし、シリーズラストの責任を完全に投げ捨てたかと言われれば、それもまたNOだ。
どうなれば自分が見たいものが見れたのか、それを盛り込んだ時物語はどうなっていたか。あくまで無責任な想像の枠を出ず、なかなか明瞭な形にもならず、しかし『こうなって欲しかった』という期待は、Webに記録(ログ)として残っている。
このエピソードでカーニバルと清衣が対峙した時の、高さと遠さ。これが暗示で終わらず、しっかりしたエピソードの血肉を手に入れ、説得力を持って描かれること。カーニバルが乗り越えるべき壁に相応しい内面と情熱、過去とモチベーションを描写されて立ち塞がること。それを最後の主人公が堂々と乗り越えていくこと。
わざわざ主役に選ばれた清衣ちゃんが、 conflatedという物語が、ただの過去の焼き直しやファンサービス、取って付けた綺麗なお題目でまとまるのではなく、独自の息遣いをもって走りきってくれること。僕がWIXOSSアニメが好きな理由、キャラクターの生々しい(ときに毒々しくすらある)活力を、ちゃんと獲得してくれること。

そういう期待を煽るのに、あの対峙は十分だったと思おう。それが満たされなかったフラストレーションがあるから、こういうグズグズした文章を書き残しているわけだが、だけども、あの絵を見た時僕が感じた期待も、それをこの作品が抱かせたことも嘘ではない。
沢山のオーダーに縛られ、大量のキャラクターと物語を乗せて、舵取りの難しい船だったと思う。それを一応とはいえ大団円の岸につかせたのは、やっぱ大変なことだと思う。お疲れ様でした、ありがとう。

 

・Caligula-カリギュラ

ベストエピソード 第12話『理想(きみ)を壊して、現実(じごく)へ帰る――。』

そこら辺の”現実的”な対処よりも、大事なのは律のたどり着いた場所、自己の存在証明、それがμに届くか否かである。

Caligula-カリギュラ-:第12話『理想(きみ)を壊して、現実(じごく)へ帰る――。』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 ”アニメ化”には色んな答えがあると思う。アニメに必要な改変をそれと気づかれないほどスムーズにこなして”原作そのままだ”と錯覚させるもの。アニメというメディアの特殊性を乗りこなせず、原作の魅力をコンバージョンできないもの。作り手のエゴが出すぎて、原作をただの材料に堕してしまうもの。
Caligulaのアニメが、本当にどういう料理法で”アニメ化”されたかは、原作ゲームを体験していたい僕には言えない。ただ周辺的な情報と、アニメを見通した実感を合わせて考えると、原作から大胆に離れつつ、原作のエッセンスをしっかり背負った”アニメ化”だったのではないかと推察する。
個別のコミュを主人公が掘り下げ、メビウス住人の心の闇に踏み込む。プレイヤーがコントローラーを握って、自分が選び取った物語を積み上げていくゲームメディアの主人公。式島律はそうではない。そう思わせておいて、実はそうではないことが最後の三話で一気に判明する。それが、カリギュラアニメが最初から仕込んでいた、超変化球ながらよく刺さる爆弾だ。

律はμとメビウスの生みの親であり、あまりにも生々しくダメな人間である。救いの神であり、救われない衆愚でもある。主人公がイカニモ無色透明なゲーム主人公”ではなく”、アニメのメビウスで展開する物語、ヒロインであるμに分厚い当事者性を持った一キャラクターであること。彼を主人公にしたアニメカリギュラは、そういう物語であること。
第1話のわざとらしい衒学趣味と律の浮きっぷりとか、μのヒロイン力高い書き方とか、メビウスが牢獄であることに気づくまでの時間の長さとか、アクションシーンの少なさとか。思い返せば、ヒントは到るところにある。
第9話のエレベーターで律が見せた、あまりにもそっけない態度。それが起爆点となり、彼が”帰宅部”を主体的に攻略していく、無人称なゲーム主人公”ではない”ことがどんどん明らかになる。部員の心理切開はカギPがタクトを握ってガンガンやってしまい、律は一足先に現実に帰る。
そこで橘慎吾という、現実に適合できてしまう才能を持った男が描かれ、彼をアバターとして選び取り、忘却を背負ってメビウスに沈んだ律の姿が顕になる。ここで物語構造は完全に反転し、律は自分の物語……μとのラブストーリーへ邁進しはじめる。
ここに至るまでの、ちょっと部長置いてけぼりな展開そのものが伏線であり、それでも”部”を得た繋がり、紡がれた物語には意味がある。そこで出会った痛みを、自分のものとして受け止めたからこそ、律は自分がμとメビウスを殺し、救う物語を強く求めたのだ。『みんなを助けるんだ』と、本気で吠えるのだ。

自分が見ていた物語が、実はぜんぜん違う形をしていて、しかしこれまでの物語は全てそれを描くためにあった。作品へのイメージが反転する快楽と、凄くシンプルで切実なストーリー。この合わせ技で、最終回まで一気に走り切る。
アニメスタッフが描いた”カリギュラアニメ化”という犯罪計画は、見事に成就した。律のクソブサイクで、でも必死なあがきはアツくて痛かった。μは哀れで幼く、無邪気で可愛かった。救われてほしいと本気で思ったし、救われないのだろうなとも感じていた。”式島律の物語”になったカリギュラのアニメに、思う存分入り込めた。
そういう計画的で、でも頭で考えた冷たさを感じさせない、むしろ練り上げた構成が意外性と納得を伴って視聴者を殴ってくるような楽しさのある最終回が、僕のベストエピソードだ。凄く面白かったです。

(ていうかだね、プリパラに魂を焼かれちまったアニメオタクが、『無垢なる電脳アイドル(CV上田麗奈)』なんていう危険物品を無視できるわけがないんですよ。ジュリー! 見てるかジュリー!! やっぱ俺オマエが好きで、オマエとぜんぜん違うけどどっか似てたμと、そんな彼女が本気で好きだった律のことが好きだよーーーー!!!!)

 ・あまんちゅ!~あどばんす~

ベストエピソード 第9話『終わりのない夢とナミダのコト』

アニメの再構築があまりに的確で、非常に収まりよく進めまとめたと感心しました。やっぱアニメ化は再編集だなぁ、と思う。コアを捉えた上で、時に大胆に攻める誠実さ。

あまんちゅ!~あどばんす~:第9話『終わりのない夢とナミダのコト』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 佐藤順一が総監督に退き、佐山聖子が前に出たあまんちゅ二期。コアとなる良さは欠片すら手放さず、ポエジーで真っ直ぐな内面吐露、美しい美術、みずみずしい青春とキャラ描写が楽しい、”僕らが見たいあまんちゅ”であった。
それと同時に、一期の物語を経てたくましくなったてこの表情、描けなかったぴかりの一面などにも彫り込み、大胆に原作をカットアップすることで、アニメディアでより伝わりやすくなるような再構築・再編集も適切に行われていた。
大成功に終わった一期をただ踏襲するのではなく、優れた原作をそのまま写し取るのでもなく。アニメというメディアで何を、どのように描けば”良さ”が伝わるのかをしっかり見据えて、自分たちの筆で書ききる。責任とプライドと愛情を持って、原作を料理する。
そういう”アニメ化”最良の仕事が、シリーズの到るところで弾ける、非常に楽しいセカンドシーズンであった。

この話数をベストに選ぶのは、無論ピーターを巡る不思議な冒険が好きだというのはあるけども、あどばんすが持っている強さが非常に良く、多岐にわたって発露しているからだ。
原作ではかなり長い時間に分散していたピーターの物語を、”文化祭前夜”というマジックアワーの力でギュッと圧縮し、まとめる再構築能力。
ピーターとまとちゃんと姉チャン先輩の三角関係で閉じてしまいそうなところを、前々から描写を埋め込んでいた”夢渡の力”で繋げて、主役コンビにも見せ場を渡すアレンジ。
”その先”へ踏み込むことを恐れるピーターの手を取り、新しい海へ生み出していく勇気を与える姉ちゃん先輩の勇姿。クール全体を貫く、一貫したテーマ性。
初恋の終わりの苦さと、時間を超えて巡り合った恩師にして親友への愛情と、新しい景色の眩しさがひとまとめになったラストシーンの詩情。

あどばんすが持っている強さが、随所で光を放っているのに、非常にまとまりが良い。前三話、あるいはクール全体を通して一貫性があり、同時に個別の物語としての命が躍動している。
そういう明瞭な理性と、躍動する楽しさ、作品としての血潮が非常に高度なバランスで共存しているこのエピソードは、あどばんすがたどり着いた凄くパワフルな表現力、その代表だと思えた。
ピーターの不思議エピソードを無理なく伊豆と接合する計算と、ぶっ飛んだファンタジーが同居する第4話&第6話、こころちゃんとの不思議な出会いがキラッと進行する第2話&第11話など、他のエピソードも良い。
しかし難しいピーター三部作をしっかりまとめ上げ、夢と想いへのダイブを丁寧に描ききったこのエピソードの力強さ、丁寧さ、計算高さ、楽しさを買って、ベストエピソードとします。

 

ラストピリオド

ベストエピソード 第10話『はぴえれ怪』感想ツイートまとめ

特権的に『ゲーム』を操作してたちょこが、実は既に『ゲーム』という現実の中にいて、もう出れない状況であると示して、今回のお話は終わる。 檻は無限に広がり、出口はない。全ては仮想と現実の合間、あやふやなダンスの中だ。

ラストピリオド:第10話『はぴえれ怪』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

ラストピリオドは良いアニメだった。原作再現を大胆にすっぽかし、メタと毒で可愛い世界を色づける。作品の根本的な人の良さが、岩崎監督のテイストといい化学反応を起こし、柔らかなペーソスが漂う仕上がりとなった。
時事ネタ・メタネタを致死量ぶっこんでくるスタイルは、時に滑る。ネタがネタで終わってしまって、話の主軸に絡まない(絡めると大事故になる)からだ。真面目に拾い上げてたら、自分も中毒死しちゃうような濃口の毒。それをどう扱うかは、結構難しい。
他の話数では基本”受け流す”ことで対応していた(だけだと、メタネタやってる意味合いが薄いので、第四の壁を超えてくるちょこがツッコミ役をときどき担当する)が、このハピエレ回ではメタ構造自体を話の基礎に置き、そこから物語を作っていた。

いろんなゲーム世界を行き来する、自社コラボ回。ゲームとゲームの間にある壁、ゲームと現実の間にある壁をホラーテイストで活かし、切れ味の良い短編に仕上げる。特権的に”プレイヤー”をやってたちょこが、実はゲームのキャラでしかないというひっくり返し。
ハピエレ世界の作り込みといい、ラスピリアニメのクレバーな部分が最大限発揮され、不条理短編として強い力のある一話であった。ガハハと気楽に笑える序盤、深刻さを増す中盤、ひっくり返して投げ捨てる終盤。視聴者を乗っけて振り回す構成の力が、ベーシックかつパワフルだ。
この話に代表されるクレバーさと、本気でふざける姿勢が噛み合って、ラスピリアニメはのんきで楽しい、毒まみれのアニメになった。そういう”強み”を一番感じられるエピソードとして、この話数が僕のベストである。

 

ひそねとまそたん
ベストエピソード 第6話『君の名前を叫ぶから 』

アツくて良かった。

ひそねとまそたん:第6話『君の名前を叫ぶから 』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 

根性ドブゲロの限界人間どもが、それぞれの凶器をぶん回しつつ自分を見つけ、社会とのゴルディロックス距離を見つけ、なんとか成長していく。ひそまそは”花咲くいろは”の系譜を組むお仕事アニメであり、花いろで迷走した(部分もあった)成長への足取りを、かなり計画的に積み上げて実りのあるゴールへとたどり着く、発展形でもあろう。
3×4で12話を分割し、徐々に人数とテーマを増やしていく作りも、そんな計画の一端であったと思う。キャラの成長を嘘にしないために、特定のキャラが前に進んだら新しい燃料を投下する。しかし、煮込みが足らなかったり過積載にはならないよう、投下タイミングは計算する。
こういう目の良さ、計画性の高さはあらゆる場所で生きている。例えばエグいキャラと柔らかなキャラデザの組み合わせだったり、BGMや効果音を活かすタイミングであったり。ぬぼーっとした第一印象を裏切って、相当に計算され冷静に運用された、クオリティの高いアニメーションであった。

さて、そんなひそまそ二部のクライマックスが、僕のベストエピソードである。相当難あり物件だった星野が自分の殻を破り、Dパイとしてチームに馴染むために必要な通過儀礼。名前のなかったF-2が、ノーマというアイデンティティと関係性を手に入れる物語。その変化に、クソマジレス凶器を口から垂れ流すしかなかった主役が、有効に絡む変化。
色んなことが多層的に、怒涛のように押し寄せてくるエピソードで、非常にひそまそ”らしい”お話でもある。
ダイナシトホホ系の笑いで愛着を作り、生臭いエピソードと実在のネタを織り込んで手触りを生み、ダメ人間が自分と世界を発見していくベーシックなドラマをど真ん中でやりきる。
そういうひそまそのテンポが、全話数中最も鮮明に、元気に躍動しているエピソードだと思う。ストイックで優しいノーマのキャラクター、それに気づかない・気づけない星野のダメっぷりと、それを必死で乗り越えるからこそのアツさ。彼らの成長に、たしかにひそねが関わっている変化の喜び。
飛翔の快楽が乗っかった空戦シーン、話数折返しということで大量に埋め込まれた伏線と、ドラマ面以外の見せ場も多い。そういう器用さが感じられる部分も含め、ひそまその強みが一番出ているエピソードだと思う。面白いアニメだった。

 

ソードアート・オンライン オルタナティブ ガンゲイル・オンライン

ベストエピソード 第10話『魔王復活』

世界全てを塗り替えてしまうほど、強力でなくとも。 リアルな生き死にがかかっていなくても。 ゲームの中のロールと、現実の自分がどうしても離れてしまうとしても。 それでも、本気で遊ぶゲームは面白いし、そこで生まれる体験は特別だ。人生を豊かにするのに、十分なくらい。

ソードアート・オンライン オルタナティブ ガンゲイル・オンライン:第10話『魔王復活』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 

ぶっちゃけ、GGOは構えて見始めた。SAO知らないというのもあるし、VRとRの境を扱うフィクションは時に、どちらかを過剰に持ち上げてバランスを崩すことがあるからだ。リアルの仇をバーチャルで取って悦に浸るのも、しょせん仮想と嘲られるのも、ちと耐えられないと思っていた。
フタを開けると、そこら辺のバランス感覚は相当いいアニメで、とても楽しめた。クレイジーでダメダメな味わいを存分に楽しませつつ、根っこには真面目で冷静な現実認識がある。時雨沢恵一らしい、シニカルでヒューマニティを大事にした、いい寓話だった。
色んな鉄砲がバンバンされまくるアクション、情け容赦なく切り株にされるキャラ、ゲーム特有の気楽な悪趣味。神経をつかうのではなく、細胞を湧き上がらせる楽しみにもちゃんと気を配って、しっかり盛り上げてくれた。とても良質のエンターテインメントだと思う。

そんな中で、この話数をベストに選ぶのは、テキトーな傭兵が死ぬほど煮えるシーンが好みだったから……ってだけではない。すごく好きだけど。ロールに熱が入って、適当に配置したはずの要素が思わず加速し始める瞬間の醍醐味とか、TPRGゲーマーとして死ぬほど共感するけど。
この話で描かれている犠牲と、それを物語として楽しく、真剣に消費するプレイヤーの姿が、このお話が見据えているテーマを一番色濃く表している気がしたからだ。作品の骨子を一番掴める話、というか。
ゲームはゲーム。一見冷笑的な割り切りだけど、SJに参加しているバカどもは、心の底から割り切っている。現実では叶えられない充実感、後ろ暗い欲望を思う存分加速させて、みんなで楽しんでいる。
満足して死んでくアマゾネスや傭兵を見ていると、それは良いことなんだと、作品に保証されている気がした。”しょせんゲーム”はとっても楽しくて、真剣にやるだけの意味があるのだと、大声で言ってくれている気がした。
それは(没入型FPSTRPGという、ジャンルの違いはあれど)ゲーマーである僕にとって、すごく身近で切実なエールだったのだ。なんだか自分が褒められているようで、嬉しくて誇らしかった。
エンターテインメントをしっかり作りつつ、そういうメッセージを盛り込んでアニメを作れるのは、凄く良いことだと思う。大上段にテーマを振りかぶって、大真面目に振り下ろす。そういう作品も僕は大好きだが、こういう陽気で小洒落た伝え方も、凄く好きだ。
そう思えるエピソードなので、このお話が僕のベストだ。

 

メガロボクス

ベストエピソード 第9話『A DEAD FLOWER SHALL NEVER BLOOM』

樹生が今回負けたのは、歯車の一部として、機械に身を任せて戦ったから…ではない気がする。

メガロボクス:第9話『A DEAD FLOWER SHALL NEVER BLOOM』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 

メガロボクスは、とても読み甲斐のあるアニメだった。底辺から拳一つで這い上がる、身体性に満ちた物語。男臭いストイシズムを反映して、物語やキャラクターはセリフではなく、仕草で語ってくる。
そこに込められた意図と意味を自分なりにほぐして、作品を理解していく。アニメを読むという行為は、僕にとってはとても楽しいもので、だからたっぷりと”読ませ”てくれるこのアニメとは、多分相性が良かった。
原作へのオマージュとか、成り上がりストーリーのアツさとか、積み上げられるチームワークの光とか。物語のシンプルな部分が力強いので、あんま読まなくても十分楽しい。しかしそこに加えて、インテリ風味を匂わせた謎掛けが随所に埋まっていて、それをほじくり返していろいろ考えるのが、とても楽しい。
ジビエ。カルペ・ディエム。蠍と蛙の寓話。十字架に刻まれた警句。細かいパーツが、汗臭い作品に知性と奥行きを与え、魅力を増す。野生の獣の匂いを消すように、語らず魅せてくる演出方針が生きてくる。
そういうアニメであったと思う。

そんな作品の中で、一番読みにくかったのが樹生で。好きな作品なので、キャラも好きになりたいがなかなかに複雑で、自分をみんな曲げない。だから、自分なりに行動を噛み砕き、収めるべきところに収める必要がある。
”読む”ことで、僕はそういう作業をしていたのだと思う。野良犬とカリスマを同居させる、ジョーの光芒。縛り付けられた鎖を、最終的に引きちぎるユーリという魔狼。そんな彼に選ばれない哀しみを、しずかに飲み込むゆき子。盲ることで真実を見つける贋作。もう一人の、道に迷った子供としてのサチオ。
色んなキャラが、仕草と行動の中に謎を隠していて、それを解体し読み解いていくのが楽しかった。藤巻は特に難しく、贋作の諦めに厳しくツケの支払いを求めてくる”現実”の容赦の無さ、痛みを伴う公平さの具現として受け取るまで、時間がかかった。

そしてそれ以上に、樹生は難しかった。拳一つで世界をひっくり返せる、ジョーの背負った公平さ。それを巨大な”階級(クラス)”で押しつぶしてくる、ルール違反の卑劣漢。
それで終わってしまうのかな、そういうキャラクターを生み出すのかなという、作品全体への危惧もあって、樹生を僕の心に収めていく”読み”は、なかなか難しかった。同時に、楽しくもあった。
それが一つの納得にたどり着いたのが、このエピソードだ。Aに”あした”を見て、それでも孤独で、だからこそあがいて。彼もまた、もう一人の”あしたのジョー”だったと気づいた時、僕は樹生とこの作品が、とても好きになった。ウンウン唸りながら”読ん”で、良かったなと思った。

そう思わせてくれるアニメ、そう感じさせてくれるエピソードは、とても希少だ。ユーリとジョーが”出会えた”のと同じように、僕もまた幸運にこのアニメに出会えた。そういう感謝を与えてくれるアニメは、やっぱり大事だ。
そう思わせてくれたので、僕はこのアニメとこのエピソードが、とても好きだ。ベストである。

 

ダーリン・イン・ザ・フランキス

ベストエピソード 第13話『まものと王子様』

ゼロツーとヒロのロマンスが原点に帰還し、未来に歩みだした子のタイミングだからこそ、そこから広がっていく(と僕は思いたい)他者への視点が、とても気になる。 どういう方向にお話が転がるにしても、このエピソードは決定的な質的転換点なのだろう。

ダーリン・イン・ザ・フランキス:第13話『まものと王子様』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 『らしさ』がどこにあるのか、規定するのは誰か。ダリフラを見ながら、ときおりそんな事を考えた。物語を紡ぐオリジナルの特権は、やっぱり作者側にある。僕はそちら側に絶対踏み込めないまま、しかし自分の感情や感覚だけを足がかりに物語を咀嚼するしかなく、他人である作者の始点は、結局なにかに反射した形でしか見えない。
真実なれど確認できない作者の意図か、より親しいけども作品の真実をうがってはいない自意識か。どちらに描かれたもの、受け取られたものがより真実の『らしさ』なのか、ということを、ダリフラは考え直させてくれた。

こういうテクスト論の紛いごとみたいなのを書くのは、つまり僕の感じた、貫いて欲しかった『らしさ』と、作品に投影されたと思える作者側の『らしさ』認識が、最終的にズレてしまった(と同時に、不思議と響き合った)結果だ。
僕はダリフラの息苦しい所、近すぎる所、繊細過ぎる所がとても好きだった。病としてしか定義づけられない思春期のど真ん中で、勝手に伸びる身の丈と精神に悩みつつ、他人に優しくしてみたり、自分勝手に振る舞ってみたり、歪な青春を歪な世界で送り続ける青年たちの物語が。
それは非常に間接的な筆致で、様々なフェティッシュと暗喩、示唆と夢に塗り込めて描かれていて、それを感じ、読み解く快楽はかなりのものだった。根本的に、判りにくいものが好きなんだな、と思い知ることにもなった。読みでがあるアニメが好き、というか。

そういう意味で、この第13話はある種、最も(僕が思うところの)ダリフラ『らしい』回である。すべての起源となるイノセント・デイズ。運命的なロマンスの始動。略奪され歪まされることを約束された、凶暴なる無垢。失われた過去を再獲得していく構成とセッティングが、まずエモい。
それに加え、コンテを担当した高雄統子の映像詩学が凶暴に唸る。あらゆるカット、あらゆる構図、あらゆる静物配置に込められた、過剰な意味と感情。関係性はキャラクターの仕草だけでなく、建造物や無機物の中に、ある種生物的なぬめりを伴って増殖していく。
その過剰な言語が、物語が始まった場所を示す。受け取った絵本。消された出会い。運命のカップルはすでにであっていて、その時始動していた人間性が、否応なく主人公とヒロインの行動を規定していたという事実。その運命論に必要な熱量が、この痛ましく美しい過去の物語には、みっしりと詰まっている。

このエピソードで描かれたものが、どう発展し(あるいは発展せず)、あの結末にたどり着いたのか。僕が身勝手にもダリフラ『らしくない』と思ってしまった、神話的(あるいはロボアニメ史の再々再生産的)スケールの物語と、この小さくて切実な人間サイズの回想は、どう繋がっているのか。
それも、しばらく考えることになるだろう。僕はゼロツーとヒロがここで見せた、凄く人間的な繋がりが個人の領域を超えて、より広い社会へと拡大し、不善なるオトナ社会を革命してくれる展開を望んでいた。
しかし、最終的にゼロツーとヒロは”みんな”ではなく”ふたり”であること……このエピソードで示された白い脱出行に帰還し、”みんな”を夢見つつ二人きりの始原に帰る。その象徴として、巨大なる母の胎内で永遠に結合し続ける真アパス&叫竜ヒロは、グロテスクな説得力も持っていた。
”みんな”はヒロの背中に憧れ、ゼロツーという異分子によって変化を促進された13部隊が背負う。人類史を再生させ、子供を生み、それを守る『良きパパ』へとなっていく。しかしその営みに、主役もヒロインもいない。それは、社秋への適性と指向性があった他人が、勝手にヒロの英雄性に夢見て、勝手に成し遂げたことだ。

そうやって、ヒロをミーイズムの人として描いたこと。描くしかなかったこと。このエピソードで示された、幼い日の永遠の約束に二人を静止させてしまうことが、むしろダリフラ『らしさ』なのではないか。
より広い社会を是とする社会倫理ではなく、一個人の身勝手な自己決定を貫通させることこそが、物語の背骨だったのではないか。この美しいエピソードは、そこから先に広がっていく可能性ではなく、帰還するべきゼロ地点として描かれていたのではないか。
そもそも、”みんな”を至上の価値とする社会性は、絶対至高となりえないのではないか。

そういうところに疑問を投げかけたくて、ダリフラというアニメがあったのか。はたまた、別の価値を見据えての話運び、終わり方なのか。そういう難しいことは考えていないのか。
終わってもなお、そんなことを益体もなく考え続けている。ただヘタクソだっただけ、と切り捨てるには、僕はこのアニメに愛着を抱きすぎているし、全肯定するにはキライな部分が多い。なかなか厄介で、曖昧な関係になったなぁ、と思う。
グダグダ考えていると、自分が結構社会や人間の価値にポジティブというか、性善説というか、甘ちゃんというか、そういう感じの考えでモノを見ているなぁ、と思う。”みんな”は一個人より大きなもので、より善いものであってほしいし、そうあるべきだとも感じているから、ヒロのミーイズムが自己規定をはみだす予感をうねらせつつ、突破しなかった/出来なかった終わりに、色々含みを感じるわけだ。
それはやっぱり、とても美しく正しいものを見せてくれたこのエピソードの、心地よい残滓が胸の中で響き続けているからだと思う。ここで僕の感じたダリフラ『らしさ』が、たとえ作者の意図とは違ったものだったとしても、僕個人には決定的に真実だったからだと思う。
そう思わされるほどの表現力、テーマ性、メタファーとレイアウトが、みっしりと詰まっているからだと思う。やっぱり、このエピソードが一番好きだ。だから、しばらくは余計なことを、いろいろ考え続けるだろう。

 

Fate/EXTRA Last Encore
ベストエピソード 第7話『誰かの為の物語 -ナーサリー・ライム-』

ありすが可哀想だ

Fate/EXTRA Last Encore:第7話『誰かの為の物語 -ナーサリー・ライム-』感想ツイートまとめ - イマワノキワ

 LEはなかなかに難しいアニメだった。文章メディアに特化した奈須きのこの作家性を、アニメ脚本で難しさが、スケジュール管理含めて映像から滲んだようなさくひんだったとおもう。
すっかりポップな熱血伝奇メディアとなった”Fate”だが、その起源たる奈須きのこのテクストは難渋で湿っていて、感情のポエジーが濃い。繰り返しと言葉遊びが多く、情景が想像しにくい重さに塗れている。
実はそんなにポップでもない気風に帰還し、Fate(というか奈須きのこ)のややこしい部分を強く取り込んだこの作品は、やっぱり判りにくい作品であった。アニメーションに翻訳するにあたり、その分かりにくさを魅力や唯一性のある表現ではなく、分かりにくさのまま描いてしまったような印象を、最後まで見通してやはり受ける。

僕はそのややこしさ、分かりにくさこそ好きな部分だから、楽しんでみていた。同時に、信者補正を外して客観的に見るとあまり上手いアニメではなく、もう少し巧く伝えられるアニメであったとも思った。
そこら辺は部外者の気楽さ、スケジュールと予算と現場の難儀を知らない外野だからこそ無責任に言える感想なのだが、シャフトの前衛的な表現を活かすか殺すか、どちらにせよもう少し鮮明なアニメとして整形できたのではないかなと、ついつい考えてしまう。
映像のパワーを信じて、喋りすぎないことで理解してもらうか。あるいは、映像と台詞が歩調を合わせ、お互いを高め合うように噛み合って進んでいくか。どういう形にせよ、描きたいものに似合った描き方はあったように思う。

ナーサリー・ライムにまつわるエピソードは、そこで思い切って的を絞り、判りにくい方向に徹底して舵をとった。佐伯監督の少女趣味的なセンスが、イヌカレーの尖った作家性と共鳴して、非常に独特の絵が生まれていた。
そこにシャッフルした時系列と、ループする世界と、混迷する認識を混ぜ込む。わけがわからない混乱の中で、ありすの健気さと変質の残酷、デッドフェイス達のやるせなさが立ち上がってくる。
『判るやつだけ理解れ』という、凄まじく高慢な態度ながら、同時に『わかるやつはいる』という信頼感も見て取れるような、不思議なエピソード。僕はその不親切な親切に導かれるように、ありすと二人のハクノの記憶をたどり、その痛みに共感した。面白かった。
全編この調子で、あまりにピーキーな前衛アニメにすることは当然出来なかったのだろうけど、絵の表現とテクストの詩情が共犯し、わけの分からななさにわけの分からなさを掛け合わせて勝負してくる尖ったセンスが、僕はやっぱり好きだった。
もしかするとこのぐらい、悪夢的幻想にどっぷり浸かったアニメでも良かったんじゃないかと思うが、実際やられたら更に訳わからなくなるのは目に見えている。この回に見える童話への耽溺、混乱した認識、摩耗しつつ輝く真心は、あくまで一回こっきりの変化球だからいいのだ。
しかしその魔球が、実は一番作品のコアたる部分を示し得たのではないかと、終わってみて僕は考えている。それぐらいこのお話は、心地よい悪夢、残忍な御伽噺として素晴らしかったのだ。だから、これがベストだ。