イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

BANANA FISH:第4話『楽園のこちら側 /This Side of Paradise』感想ツイートまとめ

追記 クリント・イーストウッドキャプテン・アメリカの敗戦、その先にも続く長い道を、アッシュは別の角度からハイヒールで歩いているのだ。

一応補足。
ここで『理想化されたヘミングウェイ』と言ったのは、(大概の作家がそうだが)作品に照射された彼の理想像…タフでドライなアメリカ的マチズモは、作品を超えたヘミングウェイ自体に貫通されることなく、現実と衝突して自殺という『”女々しい”』手段に追い込んでいるからだ。

弱さを見せる、受け止めてもらう。そういうケア自体を”女々しい”と切り捨ててしまう、乾いた(そして湿った)マチズモ。
その幻像が飛行機事故によって維持できなくなった時、ヘミングウェイは文筆的不能に陥り、その果てに自殺した。

殴り合い、分かり合い、己を立てる。
自立自存のアメリカ的”男”のイメージは、がっしりした体のマックス、細身の媚態の中に凶暴さを秘めたアッシュの暴力的交流に、確かに投影されていると思う。
しかしその、アメリカ的マチズモへの憧憬はすでに裏切られているし、常に裏切られ続けている。

そういう意味では、少年娼婦を主人公とするこの作品はヘミングウェイの”失敗”(あるいは不適合)の後にある作品(ブコウスキーとか)の文脈に、おそらく凄まじく意図的だ。
ただ拳を屹立させ、背筋を伸ばして”男らしく”あるだけでは、生きられないほどに悪が切実な世界。神話が死んだ後の世界。

そこを生きているアッシュは、つまりマックスとの殴り合いだけでは救済されない。
それとはまた別の、湿って弱く”女々しい”道を、なんとか歩かなければいけないからこそ、彼はヘミングウェイを愛読しつつ、反ヘミングウェイ的主人公として作品に産み落とされている。

そこら辺の批評眼が、漫画というメディアを最大限活かしつつ猛烈に発揮されているのが、BANANA FISHの怪物的なところだと常々思っているのだが。
さて、アニメ版はどのようにそんな味わいを取り込み、あるいは切り捨て、フィルムに焼き付けていくのか。僕はその読解をちゃんと受け止められるのか。
咀嚼法が楽しみだ。