BANANA FISHを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
暴力が渦を巻き、性の略奪を見世物にする悪徳の檻。監獄の中も外も、大して変わりはないさ。奪わなきゃ奪われる、憎まなきゃ生きていけない。
悪徳と臆病が不自由に、男たちを縛り上げる中で、それでも光を求めて杯を干す。一足先に、自由になった兄弟のために。
というわけで、スピーディー&サスペンスフルに状況が進展するBANANA FISHである。内海監督がコンテから外れ、圧倒的な”圧”を宿した絵は減ったが、力みが取れてダイアログの力、繰り返されるモチーフとテーマに目が行きやすくなった気もする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
しかしやはり、監督のセンスは凄まじい。不在こそが教える
さておき、今回も暴力と抑圧と迷妄が渦を巻き、簡単には答えを教えてくれない物語が展開する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
アッシュはゴルツィネの手下の誘惑を、つまらねぇと跳ね除ける。人を殴り、娼婦の分前を奪う。セックスとバイオレンスを操る…ように見えてその奴隷である生き方は、まっぴらごめんだ。
とはいうものの、アッシュの前には暴力とセックスだけが置き去りにされている。嫌っていようと、暴力を使うしかない世界の貧しさ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
それはアッシュだけの貧しさではなく、彼が囚われている世界(あるいは“アメリカ“という国)の困窮でもある。だから、様々な人が性と暴力に引きずり込まれ、己を見失う
冒頭、診療所を襲撃したオーサーは、『奴にはさんざんコケにされてきた』と口にする。女役として嬲られるはずだった檻のなかで、アッシュは暴力で立場を逆転させ、『一端のオスだ』と周囲に認めさせる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
男であること。腐った世界で称賛を浴び、食われる側ではないと証明すること。
それこそがおそらく、全ての人を閉じ込める最大の檻だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
(ヘミングウェイを引用しまくる子の作品なら、”男”の檻だと言いたくもなるが、作中”女”がほぼ描写されない現状、それが性別由来の不自由さなのか、判別しきれない。あるいはそれを際だたせるために、男だけの世界を描いているのか?)
他人を殴り飛ばすこと。上に乗っかって、ペニスをへし折って、惨めな気持ちにさせること。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
それだけしか承認の手段がない歪んだ王国が、アッシュとオーサーを包囲している。オカマ掘られるだけのお姫様じゃねぇなら、その爪で血を流しな。
© 吉田秋生・小学館/Project BANANA FISH pic.twitter.com/8tkybtIBOH
”バナナ・フィッシュ”はそう誘惑してきて、過剰な暴力を加速させる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
ナイフ、あるいは鉄製の山猫の爪を、二人とも首筋に突き立てて脅す。なめんじゃねぇ、バカにするんじゃねぇ、俺はお前の思い通りにはならねぇという、自尊の吠え声はなぜか、暴力に変換されてしまう。
それが自分を見失わせ、死に地下付けていくことは”バナナ・フィッシュ”の薬効からも判る。過剰な暴力は他人を支配する道具ではなく、自分を殺す首吊り縄になる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
それでも、暴力に溢れた世界では暴力を使うしかない。そのカルマから開放されているのは、異国の少年…えーちゃんだけだ。
死を目の前に感じても、自分自身が血を流しても、逃げることなく友に報いる。正義を信じ、人が死なない”異国”のルールを広げようと、必死に頑張る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
その無垢性、特異性に引きつけられたからこそ、アッシュは英二に口づけしたのかもしれない。そしてそれは、英二の特権ではけしてない。
コネを駆使して、州判事の介入を呼び込んだ刑事。あるいは、一度は自責の念に押しつぶされアッシュから離れつつ、対話(コミュニケーションたりうる暴力含む)を通じて彼を見据え、自分とグリフの関係を見つめ直したマックス。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
善を求める人は、確かにそこにいる。
オーサーの銃弾は、狙ったわけではないのにアッシュの愛する兄を殺した。アッシュは敵のペニスを去勢(『バナナをぶっ刺』)しても、命は奪わなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
同じ誘惑にさらされても、取り返しのつかない暴力の沼に堕ちるものと、その淵で耐えるものがいる。
暴力をいかに使いこなすか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
マックスはアッシュと、自分が壊した戦友との繋がりと、自分の中の哀しみと向き合う辛さから逃げてしまう。結果、孤独になったアッシュは性的誘惑を隠れ蓑に、致死性の暴力をふるいかける。
ブルの顔にかけられたシーツは、顔を奪う。個性、尊厳、理性の宿る場所を。
他者の否定は常に、自己否定にも繋がっている。ブルの額を割る暴力(アッシュが”お姫様”ではないと周囲に認めさせる証明書)は、同時に房内の鏡も割ってしまう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
顔を確かめるツール。個性、尊厳、理性の宿る場所を、もうアッシュは確認できない。
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加速する暴力はその至る場所…殺害にたどり着く寸前で、帰還したマックスによって静止される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
自分の後悔と、断罪の瞳と、向き合うのはまっぴらごめんだと逃げ出したはずなのに、良心の囁きはマックスを捉え、性と暴力が交錯する荒野に帰還させてしまう。
悪から目をそらす弱さと、悪が生み出す痛みに向き合う強さ。その中間地点で揺れ続けている人々と、とっとと悪に沈んでしまった人々。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
このアニメは、そういう人々の相互作用で満ちている。覚悟を決めきれないマックスだが、もう一度アッシュのいる作業場…性と暴力の交錯する荒野に帰還する。
ここでもアッシュは暴力を行使し、食われるだけの羊じゃないと吠える。フォークの爪を以て、お前の喉笛をかっ切れるんだぞと主張する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
それは幼いときから”お姫様”として、性暴力の餌食にされ続けた反動か。本当にそれ以外に、自分がそこにいることを伝える手段はないのか。
これはおそらく、アニメ全体を通して問われ続ける大きなテーマであり、簡単には答えが出ない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
それこそイラクで、ベトナムで、アメリカで、当然”異国”たる日本でも、歴史の教科書に沢山乗っかり、現在進行系で犠牲を生み、皆が戦っている大事な問いかけだ。
だから小さく、力強く、何度も答えを出していく必要がある。あるいは、真剣に問いかけるだけの難しい問題だと、しっかり作中で描き、問う必要がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
グリフの死を知り、マックスはアッシュとようやく向き合う。そこでかわされるのは、言葉でもセックスでもない。拳だ。
山猫の爪を捨てたアッシュと、海兵隊時代(グリフと親友で要られた時代)に戻ったマックスは、対等に殴り合う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
アッシュ天性の媚態に惑わされるでも、鍛え上げた自己防衛手段に押しつぶされるわけでもなく、刑務所で初めて向き合える相手を手に入れた。
その事実は、ぶつかり合う肉と肉が証明する。
そういう形でしか向き合えない極限が、実は世界中にあふれていて、むき出しの暴力が持つ嘘のなさに無縁だった英二も、自分の意志でそこに接近していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
そしてアッシュは、人を殺さない暴力を選び取って、マックスと対話していく。憎めればいいけど、憎めない相手なのだと。
悪の渦中にいて、ともすれば彼自身が悪の誘惑そのもの(”バナナ・フィッシュ”)であるようなアッシュはしかし、善を求め続けている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
人を殴らなくても、性を搾取しなくても、誰かに優しく出来る世界。傷ついた相手を踏みにじるのではなく、手を差し伸べることで承認される世界を。
やけっぱちの孤独から離れ、苦い酒を受け取ることで、アッシュはそんな自分とも向き合う。それは鏡合わせに、マックスの中の善性を照らしもする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
俺はグリフを撃った。それでもあいつは親友で、死んで哀しい。それはマックスだけの宝物、何者にも侵されない心の聖域なのだ。
盃を干しながら、マックスはその苦味、胸を焼く熱さが自分のだけのものだと認める。グリフが殺されて怒る自分こそが、真実自分なのだとプライドを持つ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
殴ることで、あるいは犯すことで損なわれるものを、拳と酒で回復させていく。(理想化されたヘミングウェイ作品的だなぁ)
脅しにも誘惑にも屈しない、プライドを持った己。マックスがそれを回復することで、アッシュはマックスをまっすぐ見据え、信頼する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
自分が知る”バナナ・フィッシュ“の全て(差し出せる唯一の、アッシュだけの宝物)を差し出す。マックスの人間性が、アッシュのそれを回復させるのだ。
その前段階として、制御された暴力(無邪気な喧嘩)があり、固めの盃がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
同じ男を愛した同士として、この弔いを干してくれ。それは俺だけの痛みだけど、お前の痛みでもあるはずだ。
そういう盃である。美味いから飲むわけではないのだ。(ホンっとここ良い台詞て、死ぬかと思った)
バーボンが暴力と、あるいは”バナナ・フィッシュ”というドラッグと同じよに、人間から顔を奪い、酩酊と破滅を呼び込む存在であるのは注目したい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
そこに哀しみと愛を込めて、二人の男は盃を交わした。飲み干し、コントロールした。
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己を保ち、誘惑を飲み干すことで、それは力と尊厳に変わりうる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
暴力とドラッグを制したアッシュだが、今後セックスも乗りこなせるのか。えーちゃんとの愛はどこに泳いでいくのか。彼自身が発する誘惑は、また人を狂わせていくのか。
そこら辺が気になりもする。
しかしともかく、アッシュは自分を他人の前にさらけ出し、マックスへの信頼を鏡にして、まだ人間である自分を確認した。兄が死んで哀しい、兄を愛していた自分を。まだ泣ける自分自身を確認し、他者と共有できた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
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悪徳の渦の中にあってなお、そうやって自分で、人間で居続けることは出来る。傷つき、迷い、逃げ出し、溺れたとしても、まだ帰ってくることが出来る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
ただしそれは多大な苦労を要求する奇跡で、座っていれば叶うわけではない。悪は身近にあり、だからこそ制御しなければならない。
そういう厳しさと、だからこその奇跡の意味をじっくり確認する、監獄の旅路でした。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
檻から離れた外界でも、アッシュを求め、あるいは救おうとする意思が渦を巻いて、それぞれの運命が変化している。この相互作用の火花が、なかなかにアツくて魅せる。
オーサーとアッシュが違うのは、己を反射し受け止めてくれる他者の不在かな、とも思った。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
アッシュには英二がいて、マックスがいて、死んでしまった兄やスキップがいる。抱え込んだ善を善だと認め、暴力や性を差し出さなくても肯定してくれる人がいる。
しかし王様ぶりつつ、オーサーは孤独だ。ナイフで脅し、銃弾で殺す以外の道を誰も示さず、求めもしない。その孤立が、悪を前に悪に飛び込んでしまう弱さを、オーサーに与えているのかもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
…孤独なる王だから”Arthur”なのかな?
悪徳と暴力を話の真ん中に据えた子の物語は、善なるものの姿が見えても、簡単には力を与えない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
問題を解決する実行力は、つねに暴力とセックスに宿る。善意は無力であり、決意は簡単に覆り、人はあっけなく死ぬ。
そういう世界に包囲されてなお、内なる、そして外なる善を抱きしめられるか。
アッシュの物語はそういう物語であり、そしてソレに関わる人々もまた、己の意思と尊厳を持って自分の物語を生きているのだ、と。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
しっかり見せる、マックスの物語でした。抑えめのキャラデザがソリッドな物語に噛み合い、非常に雄弁です。来週も楽しみ。
追記 クリント・イーストウッドとキャプテン・アメリカの敗戦、その先にも続く長い道を、アッシュは別の角度からハイヒールで歩いているのだ。
盃を干しながら、マックスはその苦味、胸を焼く熱さが自分のだけのものだと認める。グリフが殺されて怒る自分こそが、真実自分なのだとプライドを持つ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年7月29日
殴ることで、あるいは犯すことで損なわれるものを、拳と酒で回復させていく。(理想化されたヘミングウェイ作品的だなぁ)
一応補足。
ここで『理想化されたヘミングウェイ』と言ったのは、(大概の作家がそうだが)作品に照射された彼の理想像…タフでドライなアメリカ的マチズモは、作品を超えたヘミングウェイ自体に貫通されることなく、現実と衝突して自殺という『”女々しい”』手段に追い込んでいるからだ。
弱さを見せる、受け止めてもらう。そういうケア自体を”女々しい”と切り捨ててしまう、乾いた(そして湿った)マチズモ。
その幻像が飛行機事故によって維持できなくなった時、ヘミングウェイは文筆的不能に陥り、その果てに自殺した。
殴り合い、分かり合い、己を立てる。
自立自存のアメリカ的”男”のイメージは、がっしりした体のマックス、細身の媚態の中に凶暴さを秘めたアッシュの暴力的交流に、確かに投影されていると思う。
しかしその、アメリカ的マチズモへの憧憬はすでに裏切られているし、常に裏切られ続けている。
そういう意味では、少年娼婦を主人公とするこの作品はヘミングウェイの”失敗”(あるいは不適合)の後にある作品(ブコウスキーとか)の文脈に、おそらく凄まじく意図的だ。
ただ拳を屹立させ、背筋を伸ばして”男らしく”あるだけでは、生きられないほどに悪が切実な世界。神話が死んだ後の世界。
そこを生きているアッシュは、つまりマックスとの殴り合いだけでは救済されない。
それとはまた別の、湿って弱く”女々しい”道を、なんとか歩かなければいけないからこそ、彼はヘミングウェイを愛読しつつ、反ヘミングウェイ的主人公として作品に産み落とされている。
そこら辺の批評眼が、漫画というメディアを最大限活かしつつ猛烈に発揮されているのが、BANANA FISHの怪物的なところだと常々思っているのだが。
さて、アニメ版はどのようにそんな味わいを取り込み、あるいは切り捨て、フィルムに焼き付けていくのか。僕はその読解をちゃんと受け止められるのか。
咀嚼法が楽しみだ。