※訂正
以下の文章の多くで、『白帯』と書くべきところを『白線』と間違えています。申し訳ありません。
はねバド! 第13話を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
ネットの向こう側には、ただ敗北しかないわけじゃなくて。今全力でシャトルを打ち込み、打ち返してくるあなたが、それを打ち返す私がいる。
そんなシンプルな、当たり前の答えにたどり着くために。負けから始まった少女と、負けることが出来なかった少女の物語、その終わり
そんな感じの、アニメはねバド最終回である。一番の難敵だった綾乃の自意識に関しては、先週ラストで応援の声を聞き、広い世界にいる自分、それを取り巻く他人を見つけた時点で、ある意味終わっている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
なので、Aパートの試合はとにかく見たまんま、作画のフィジカルを酷使するカロリー勝負である。
文字演出やミュートなんかを駆使して、とにかくフィジカルな存在感でゴツゴツ殴ってくる演出は、ここまで積んだ感情のボルテージ、バドをアニメに落とし込む解像度の高さを信じた演出と言える。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
さんざん拗らせまくったんだから、そこを乗り越えた後は素直なパワー勝負。キャラのドラマと演出が重なる
余計なことを考えすぎて、なぎさちゃんの術中にハマっていた綾乃は、世界を見て、他人を見て、自分を見て取り戻したところで、シンプルなスタイルに戻る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
相手を動かして、圧倒的な反射速度の後手で思考速度を削る。それに追いつくべき体力は、なぎさが先に払っている。勝敗の天秤が、再度揺れる
それは母に捨てられた後、それでも続けていたバドミントン、エレナが再会させたバドミントンに帰還する、ということだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
強敵とのマッチアップは汗を流させ、余裕を奪い、嘘も強がりもない真っ白な場所に、綾乃(となぎさ)を連れてくる。そこに至ってようやく、綾乃は過去を取り戻す。
それは母との関係に癒着していた、懐かしき日々だけではない。そこを超えて、思う存分他人を踏みにじってきた性格の悪いバドミントン、性格の悪い自分が、結局自分なのだと肯定する、ということでもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
だから、”キャラ変わりすぎ”な敗北の後、相変わらずのクソガキっぷりに戻ってくるわけだ。
今回はサブタイトルどおり、ネット越しの描写が多い。バドミントンがそれを前提に組み立てられた競技である以上、白帯の向こう側はいつも存在していたわけだが、綾乃がそこを見据えるのは今回が初めてになる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
©2018 濱田浩輔・講談社/「はねバド!」製作委員会 pic.twitter.com/gZiUJQCTJ0
かつて綾乃は母との別れの時、境界線の向こうに孤独と絶望、『他人は結局他人なんだ』という切断面を見たわけだが、今回綾乃(たち)はネットの向こう側に、光を見る。他者に反射し、自分に帰還することで自己像を作ってくれる光を。https://t.co/EM0TogTNKN
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
それは母親との人格境界線が曖昧な幼年期を、哀しい切断で強制的に終わらされた(が故に、子供時代を終わることが出来なかった)綾乃が、他人と自分の距離感を適切に調整する、ということでもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
あなたがいて、わたしがいる。そんな当たり前の、孤独で寂しくて真実な世界に綾乃はようやく飛び込む
他人と私が別の存在でも、だからこそ、ラリーは成り立つ。全力をぶつけて敗れ去っても、その先に時間は続いていく。致命的に傷ついたとしても、立ち直ることだって出来るかもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
そういう、なぎさが第2話で、理子が第6話で、コニーが第5話と第9話の間でたどり着いた場所に、綾乃も流れ着く。
正直、ようやく、である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
綾乃の幼さ、身勝手さはここでぶっ壊れるからこそ成長のカタルシス、それを生み出すバドミントンの特別性も強調されるわけだけども、そのために綾乃を幼さに閉じ込める時間が、アニメはねバド! はシャレにならず長かった。しかし、ちゃんとたどり着けた。ありがたい。
綾乃の洒落にならない傷とエゴイズムに、原作序盤のフニャッとした作風はちょうどよくクッションをかけていたのかなぁ、と、それを奪ったアニメ版を見終わって思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
原作が一歩一歩コマを埋めながら、自己(それを受け取る読者も)改造しつつ進めてきた、むき出しの熱さへの歩み。
それが筆に乗り、あるいは背負い切るために必要だから原作の絵柄はあんなに変わるわけだが、統一したキャラデザインで押し切るアニメ版は、この最終決戦、綾乃の小さくて大きな一歩から逆算して物語を再構築した。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
その容赦の無さは、綾乃の傲慢や孤独や頑なさも、フィルタなしで叩きつけてくる。
その重たさは好みが分かれる所だろうし、受けきれない人もたくさんいると思う。自分だって、色んな意味でしんどかった。親に捨てられたまま一歩も動けない迷子に、綾乃が縛り付けられている状況を(再)認識してからはなおのことである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
それでも、アニメでも綾乃は白帯の向こう側を見れるようになる
そこまでちゃんとやってくれて、やっぱり僕は嬉しかった。母との絆を表すへその緒のように、愛着を込めて結ばれたデカリボン。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
先輩の方を素直に借りて、応援に礼を言った綾乃は、母への愛着をリボン結びした自分を肯定した上で、そこから離れていく
©2018 濱田浩輔・講談社/「はねバド!」製作委員会 pic.twitter.com/6dFL7WvcMS
心の中でグジャグジャと渦を巻き、溢れて他人を傲慢に傷つけ、己を自由にしなかった母への愛憎。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
それをするりと乗り越えていく綾乃は、どこか素直すぎるようにも見える。しかしそれだけ、あの白く躍動する瞬間、向き合っていたなぎさの圧力は、圧倒的で特別だったのだろう。
もっと言えば、母を超えて前に進む綾乃の動きは、唐突でも意外でもない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
友達が欲しかった。バドミントンが好きだと、素直に言いたかった。部活の仲間に入りたかった。そういう気持ちは、ここに至るまでの長い物語の中で、やっぱりちゃんと積まれている。
なぎさに追い込まれ、自分を偽れない極限まで追い込まれた綾乃は、ようやく自分が何を貯め込んできたかを理解する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
バドミントンの練習をしてきた。”部”に入って一緒に練習した。それは偽りでも慰みでもなく、ごっこ遊びでもなく、他ならぬ綾乃が走ってきた、唯一つの青春だった。
だから声援も、広い世界も、ギリギリのところで顔を出す”羽咲綾乃のバドミントン”も、唐突な嘘ではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
綾乃がずっと求めていて、トラウマと未成熟と怯えに抑え込まれていた流れが、堰を壊されて溢れ出た結果。それがあの白い空間であり、変化と成長なのだろう。
まぁ有千夏の未熟とエゴイズムは、彼女が”母”であり大人であるがゆえにかなりシャレにならず、最終話に相応しいさわやかさで終わるためには、綾乃に追い抜かせる形で一気に振り切るしかなかった、というのもあると思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
原作だとまさに現在進行系で、ガリガリ言いまくってる軋みだしね…。
Bパートからは試合の余韻を背中に受けて、才能に溢れる”勝者”が、自分を支えてくれた”敗者”に報いていくシーンである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
やっぱこー、そういう場面に尺取らないのは嘘だろうし、第3話、あるいは第6話があってこその女と女の激重感情ビッグバンだと言える。
寡黙なスーパーゴリラとして、軋む膝を抑え込んで戦ってきたなぎさちゃんは、いつもの河原でようやく素直に、理子にお礼を言う。綾乃からエレナへの”ありがとう”と合わせて、ようやく必要な言葉がビシッとハマった感じがある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
©2018 濱田浩輔・講談社/「はねバド!」製作委員会 pic.twitter.com/Vl7wI87uXe
才能の残酷さ、悪辣さ。勝敗が魂を削り、満たされない魂が歪む様子を容赦なく追いかけてきたこのアニメ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
そのビカビカな明暗は、やっぱり綾乃となぎさ、二人の才能から照射されていて、だからこそ二人は、早々簡単にただの可愛い女の子にはなれない。
でも、それも本当の顔なので。
ちゃんと友達のありがたさに礼をいい、頬を赤らめあるいは涙をながすところに押し上げてくれたのは、とても良かったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
あの真っ白な場所も、クソみたいにあれてた時代も、友情に素直に向き合う顔も、全部ひっくるめて人間であり、少女なのだ。それはやっぱ、豊かな視座だ。落差激しいけども。
ずっとエレナに共感してきたので、彼女が圧倒的に”勝って”終わったのは有難い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
第3話でなぎさに、綾乃の心をつかむ権限を預けてしまった少女の向き直り。シャトルを握らないエレナは、しかし”バドミントンをしない”綾乃をずっと見つめ、抱きしめ続けてきた。https://t.co/7za7mhM7GP
今回エレナと綾乃のシーンは、試合の後に回ってくる。それこそが本番とばかりに繋がる心と心は、やっぱりシャトルを握る特権持ち、なぎさがいればこそ生まれた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
でも綾乃の気持ちを受け止める特権は、たこの公園で遊んだ過去を共有する、エレナの持ち物なのだ。
大 勝 利!(イェイ)
激戦の決着が『綾乃がラケットを持てなくなること/手放すこと』で終わり、あるいはエレナの優しさ、自分の優しくなさに向き合う綾乃が『バッグを取り落とす』描写があることは、このアニメらしい鋭さだと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
©2018 濱田浩輔・講談社/「はねバド!」製作委員会 pic.twitter.com/Fj2WzZ4VWa
強くならなければ、勝ち続けなければ、バドミントンをしなければ意味がないと思い込んでいた綾乃は、負けることでその思い込みから開放される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
そう思い込まされていた、”母”への癒着を手放し、”お母さんのバドミントン”ではなく”羽咲綾乃のバドミントン”を掴み直す自由を、ようやく手に入れる。
それはバドミントンを手放すこと、離れることも含めた自由だ。心のガットが切れた綾乃が、エレナに背中を押されるまでそうしていたように。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
でも綾乃は、自分の意志でラケットを握り直す。部活を自分の居場所、スタートラインと位置づけて、クソガキむき出しでバドを続けることにする。
その鎧のなさ、自由闊達さ、靭やかな強かさは、やっぱり成長と言って良いのだと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
己を(己が、己で)封じ込めていた枷を壊し、あるいはようやく壊されて、貯め込んでいたパワーが外に向かう。白帯の向こう側に、自分を投影し、投射し、歩んでいくための足が、スラリと伸びていく。
その一環として、エレナへの感謝と謝罪がある。自分としては待ちに待ったシーンで、ほんと必要だし大事だと思っていて、それに完璧に答えるシーンでもあり、ありがたさしかねぇ…。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
俺はずっと、綾乃がエレナの優しさに、優しくしてもらえる自分の尊厳に、ちゃんと向き合ってくれる一瞬を見たかった。
「ありがとう」
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
そんな当たり前の言葉を、綾乃がエレナに言えるまでの物語でもあったのかな、と思う。
シャトルを握らない、競技から見れば勝負以前のところにいる大事な存在に、最後にしっかり報いるシーンであった。そういう意味でも、アンチスポ根というか、ねじれた位置にいる作品なのだ。
というわけで、アニメはねバドが終わった。重たく、真面目で、真面目すぎて不器用なアニメだった。繊細で、大胆で、加減を知らないアニメだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
その一直線の突進、ある種の暴走は、人によって評価が分かれるところだと思う。僕も好きな所、首をひねる所ある。
しかしスポーツを物語化してしまいがちなフィクションの中で、倫理や人格が勝敗に直結しない残酷さ、フィジカルがメンタルを呼び込まない冷たさを、堂々と書きに行く姿勢は、良いものだったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
それでも、結局は人間と人間の真っ当さに戻ってくるドラマ性も引っくるめて、である。
なぎさは第一話で間違え、第二話で己を正す。以降、そこまで大きく間違えはしない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
寡黙でなかなか本心が見えなかったり、少し迷ってブレたりしても、自分を大事にしてくれる他人、白線の向こうの他者、そこに反射する自己像を見落としはしない。マトモな主役である。
対して綾乃は最悪である。第3話でピカピカなゴールっぽいものを見せておいて、それ以降はブレるわ迷うわ仰け反るわ、傲岸不遜な大暴れ、毛筋すら応援したくない主役として、駄々こね逃げ回り罵倒を重ねていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
それでも勝つ。”才”とはそういうものであり、祖ういうものでしかないからこそ哀しい。
綾乃は最悪の態度で他人を踏みつけにしていた時、自分を温もりから遠ざけて自己防衛していた時、欠片も面白くなかったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
シニシズムとニヒリズムで分厚く自分を鎧い、蛹の殻に幼さを閉じ込めてどこにも行けなかったのは、とても苦しかったと思う。その苦しさすら、自覚できないほど幼いとも。
綾乃を最悪のままにしておかないと、彼女が最悪じゃなくなる(普通の女の子まで一気に身の丈を伸ばす)クライマックスには、カタルシスが足らなくなる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
そういう事情もあってか、綾乃はずっと不自由な蛹の中で、ドロドロの自分を捏ねくり回し続けてきた。
踏みつけにされる側の尊厳を思えば、飲み込める不遜ではない。ガキが勝手にひねくれて、それで砂かけられる側の気持ちになれば、『成長できてよかったね』では終わらないだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
しかしこのアニメは、そういうふうに踏みつけにされてなお、ラケットを握り直す”敗者”を色濃く描いても来た。
そこには人間の不屈への信頼が、凡人だからこその尊厳が、やっぱり捉えられていたような気がする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
原作からかなりの部分をパージしても、負けていく”部”を深く描いたのは、綾乃が蔑ろにしているものの価値、それでも立ち上がる人々のタフネスを、大事にしたかったからではないか。
勝って勝って勝ちまくって、”敗者”を散々バカにして、綾乃はドンドン哀しく見えていく(少なくとも僕には)。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
負ける者たちが、勝敗を超えて白線の向こうに見る、勝敗よりも大事なもの。人間の背筋を真っ直ぐに立たせて、困難に立ち向かうパワーを生み出してくれるもの。
勝ち続ける綾乃は、勝ち続けるからこそそれを獲得出来ない。そういうねじれを生み出してしまった”母”と、物理的に近い距離にいても、心理的には向き合えない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
逃げ場がなくなる中で、綾乃はドンドン足場を落とし、ドンドン最悪になり、ドンドン勝ち続ける。勝てば勝つほど苦しくなる。
その苦境にシンクロできるか否かが、このアニメ版の評価を、結構な部分分ける気がする…のは、シンクロ”出来てしまえる”側だからこその思い込みか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
それを万人に食いやすく味付けするより、ゴツゴツとした勝敗と才能の素材感をむき出しで叩きつける方向に、舵を切った感じもある。
何度もいうが、賛否はあろう。”賛”の側に近い自分でも、当然そう思う。明暗は色が濃すぎ、空気はシリアスすぎ、描写は難しすぎる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
それでも、アニメ版はねバドが切り取りにいったもの、そのために使った表現の力強さは、やっぱり良いものだったと僕は思う。
個人的には身勝手でクソガキで、露悪的なくせに臆病者で、ずるくて卑怯で最悪な綾乃の子供っぽさが、泣けて泣けて仕方がなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
そんな幼さを大事に大事に、シャトルを握らない、”母”でもない自分の無力さ存分に噛み締めつつ、それでも戦い続けたエレナが尊く見えて仕方がなかった。
僕は綾乃に甘いと思う。ぶっちゃけダダ甘だと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
それは(彼女ほど激烈に切り裂かれたわけでも、才能が試される極限に身をおいたわけではないけども、やっぱり)僕の中に住んでいる小さな子供が、白線の向こう側に見えたからだ。
最悪な綾乃は、どっか僕に似ていたからだ。
そんな綾乃が、ようやく自分を大切にしてくれた人に涙とともに礼を言い、大切に(してくれたんだろうが、方法があまりに不適切だった)してくれなかった”母”と笑顔でお別れ(することで、新たな関係を結び直す)最終話になれたのは、やっぱり良かったなぁ、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
言い訳になるけども、第11話から感想が停滞したのは、ある種の怯えがあったからなのだと、見終えて思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
綾乃を最悪に留め続けてきた筆が、そこから彼女を開放してくれるのか。原作知って結末は判っていても、その的確な激烈さ故に不安だった。
僕もまた、飛び込むことを恐れる子供だったのだ。
しかし今、なぎさちゃんの鋭いスマッシュで壁を壊され、白帯の向こうに己を見た綾乃を見届けて、僕もこのアニメを見終えてよかったな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
たかが24分の映像、生きるの死ぬのの話じゃない。でも、アニメを見るのってやっぱ、本気だし疲れるし怖いものなんだ。少なくとも、僕にとっては。
バドミントンという競技のフィジークな手触りを、渾身の作画で塗りこむ努力。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
原作のエッセンスを独自の解釈でよりぬき、それを物語で語っていくために決死で物語を、演出を、アニメ独自に再構築する奮戦。
その真面目さ故に、的を外した部分もあるだろう。力み故に、捉えそこねたものもあるだろう。
それでも、むしろだからこそ、アニメ版はねバド! は好きになれるアニメだったし、いいアニメだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年10月4日
圧倒的な熱量を持つ原作に、アニメスタッフが敬意とエゴをもって本気でラリーした、一つの勝負だった。
僕はそれを、拍手と歓声で迎えたい。
ありがとう、お疲れ様。僕はこのアニメ大好きです。