イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『若おかみは小学生! 劇場版』感想

若おかみは小学生!の映画版を見てきました。
名作”CLOVER”"茄子 アンダルシアの夏"”茄子 スーツケースの渡り鳥”の高坂希太郎監督を筆頭に、旧ジブリ系の人材が大量投入された本作。
驚異的な作り込みの美術と撮影が、ファンタジックな異界感と、死と喪失にど真ん中から挑む脚本に、しっかりとした骨を与えています。
スペクタクルとイマジネーションに満ちた映像表現と、生活感のある日常の描写が見事に噛み合い、幻想と現実、生と死の際が曖昧でありながら、残酷に切り離されてもいる不可思議な空間を、スクリーンに焼き付けていました。

90分の尺の中に濃厚にドラマとキャラクターが圧縮されており、主役であるおっこの可愛さ、健気さ、哀しさは勿論のこと、彼女を助ける実在の人々、不在なる霊たちの強さと優しさも、丁寧に胸を打ちます。
自然が溢れ、動物が生死を繰り返す花の湯温泉に馴染めなかった、都会っ子のおっこ。
両親を奪われ、否応なく飛び込んだ新たな場所で、が”若おかみ”という職能を与えられ(ある意味では押し付けられ)た少女は出会いと別れ、成功と失敗を繰り返しながら、少しずつ大きくなっていく。
しかしその喪失はリアルに受け止めるにはあまりに大きすぎ、余人の目には触れ得ぬ幽霊たちの支え、あるいは幽明境明らかならぬ幻想の麻酔によって、おっこは巨大過ぎる”死”から逃れていきます。

その優しく曖昧な境界線が、否応なく破れた後、おっこは初めて涙を流し、生身の少女としての顔をむき出しにする。
その後”若おかみ”へと帰還し、花の湯に真実馴染むラストシーンの雄姿も含め、一少女が親を失うとはどういうことなのか、非常に真摯に描いたお話でした。
そこには喪失……それを現実として受け止める姿勢すら奪ってしまうような巨大な喪失があり、その虚無におっこが食われないよう、ウリ坊や美陽、鈴鬼といった超常の存在は、彼女に優しく寄り添う。
しかし現実に未練を残しつつ、死によって隔てられた亡霊たちにも彼らなりの哀しさがあり、子供を護るために泣けない大人たちにもまた、哭くほどの悲哀がふとよぎる。
それでも季節はめぐり、人は生き、霊たちもまた新たな輪廻へと踏み出す準備を整えていく。
悲しみと喜び、生と死がぐるぐると巡る世の情を大事に、美しい景色のなかで巡りくるおっこの一年を、優しい視線でまとめきった作品でした。

非常に面白いです。
上映館も少なくなってしまっていますが、是非に見に行く価値があると思います。
おすすめです。


こっからバリバリとネタバレしていきます。
物語は児童文学らしく、異界とファンタジーに満ちた物語なわけですが、同時に死の非常な手触りも逃げることなく、しっかりと描いています。
冒頭、全ての始まりであり巨大な喪失でもある事故シーンの冷たいリアリティは、おっこが何を奪われたのか、百万言を費やすよりも重たく強く、視聴者を殴りつけてくる。
神社を自在に動き回る無数の人々の作画だけで『とんでもないな……』と息を呑むクオリティですが、神楽が不気味に後を引き悲劇を高らかに切り裂く事故のシーンが、やはりこのアニメ相手に褌を締めてかからせる、一番最初の勝負どころと言えます。

彩度を上げつつ細密な美術、包丁の反射やメガネレンズの歪みまで考慮した撮影と、このアニメのクオリティはとんでもないことになっています。
子供向け作品には不釣り合い……と見る向きもありましょうが、むしろ子供に向けた作品だからこそ、嘘のないファンタジー、重たい人生のリアルを飲み込んでもらうために、徹底的に世界を作り込む必要がある。
細やかな作画力はおっこの少女らしさ、彼女を撫でる両親の手の暖かさもしっかり伝えてきて、つまりはそれを奪われてしまったおっこ、何度も夢の中で父母に再会する彼女の傷を、明瞭に教えても来る。
徹底的なクオリティの追求が、現実でありながら現実よりも輝いて見える花の湯温泉の景色、そこに覆い重なってる幽玄のファンタジーを、絵空事とは思わせてくれないわけです。
このガッチリとしたグリップ、クオリティ・コントロールが最後まで緩むことなく、映像美の意識、ドラマの運びとして展開し続けているのは、この映画の大きな美質と言えます。


神楽の春に始まり、神楽の春に終わる。
物語は明瞭な円環を描くわけですが、それは単純に同じ場所に帰るわけではなく、むしろ取り返しのつかない喪失と、それをどう受け入れどう前進していくかが、90分間ずっと追いかけられる。
何かを失い、何かを手に入れながら、時の流れの中で螺旋を描きつつ時を重ねるしかない人の性、業を見据えてい、おっこの一年間は流れていきます。
喪失されたおっこの両親は夢や幻想の中にしかなく、亡霊たちも愛おしい人々を見守りつつ、もう生身で触れ合うことはできない。
それでも、生きるものも死んだものも皆、なんとか前に進んで生き続けなければいけない業の中にあるし、そういう苦しさのを支えてくれる縁の温かみというものも、しっかり描かれています。

祖母を幼少期から見守ってきたウリ坊の助けにより命をつないだおっこは、彼の望みに応える形で"若おかみ"となり、慣れぬ仕事を始める。
いわばお仕着せの衣装で空っぽの喪失を鎧った形なんですが、そうやって"形"を追いかけていく中で客と交わり、同じ喪失を抱えたあかねくんと出会う。
『無理する必要ないときに、無理するやつはバカ』とうそぶく楓くんですが、おっこが必死に"若おかみ"を演じ、『胸がギューッとなるような思い』に突き動かされて夜の街を駆けていく姿に、少しずつ心を解きほぐしていく。
それは外から押し付けられた"形"をこなしていく中で、自分が情の深い、思いの強い人間なのだとおっこが学ぶ行為であるし、その情から生まれた行動がしっかり報いられるドラマでもある。

あかねくんは母を喪失した悲しみに呆然とし、自分を大事にできず、しかし優しく手を差し伸べてくれた情を受け入れて、ようやく泣きます。
それは90分続く、おっこの喪失との戦いの先取りであり、傷つき薄汚れた心を"若おかみ"がしっかり温め、洗い、温泉プリンで腹と気持ちを満たせた職業的成功の描写でもある。
最初は薄汚れた衣装を来て、部屋に上げるかおっこに迷わせた神田親子ですが、喪失と向き合い温泉から旅立つときには、お父さんもひげを当たり、あかねくんも曇りのない顔を見せている。
その間、青楓が美しく萌える水辺(イノシシの親子がそこを訪れるのは、良いモチーフでした)が、幽玄と現実の曖昧な境界線として、静かにあかねくんを見守ってくれていました。
あのテラスの畳み掛け描写は、『境界線を描くぞ! 異質な存在が隣接してくる曖昧な場所を描くぞ!!』という意欲がみっしり詰まっていて、凄く好きです。

衣食を満たすことで、傷ついていた心を癒やし、喪失と向き合自力を取り戻していく描写は、例えば最初は下着姿だったのに旅立つ時(そして真っ赤な跳ね馬で王子様よろしくおっこを助けに来る時)はバリッバリにキメてたグローリー様、事故以来食を制限されていた文太が塩っけと油っけのあるメシを喰って生き返る演出からも、感じ取ることができます。
創意工夫と真心、自分のプライドや哀しさを時に押し殺してまで客を慮る"若おかみ"の職能は、そういうモノを通じて人の心を満たすところに在るわけです。
着物の着こなし、女将らしい身のこなしも含めて、衣食住の手触りを人間性の回復と重ねて描く筆使いは、この映画に確かな体温を与えていたと思います。


ここでウリ坊が、おっこにだけ聞こえる声で『何を為すべきか』を指示し、良心と天道に恥じない指針を与えているのは、なかなかに面白いです。
ウリ坊は外見こそ童子ですが、本来は白髪の女将と同じだけ歳を重ねてもいる。
人が何を為すべきか、重なる時間の中で考え学んではいても、実際にそれを行う身体はない。
現実に干渉するにしても、不可思議なポルターガイストとして作用するしかない。(ウリ坊・美陽・鈴鬼と、現実への干渉能力が各々階層的に異なっているのは、結構面白い描写ですね)
そんなウリ坊が、『他人を外見で判断せず、為すべき行いを果たす』というオールドスクールな倫理を外付けで与える(何しろ、それを本来与えてくれる良心はもういないわけで)ことで、"若おかみ"見習いのおっこは職能を果たすことが出来る。

この見た目と中身のギャップ、守護霊としての仕事は美陽にも共通してて、亡霊たちは大人にけしてなることができない哀しさを背負ったまま、自分を置き去りに成長していく愛子たちを見守り、導こうとする。
真月はおっこと正反対に霊感がなく、ロジックと努力で現実を制圧していくスーパーレディ(それが"田舎"をホームとする彼女の属性なこと、"都会"から来たおっこが古来よりの巫女的能力を持っているのが、なかなか面白い転倒ですが)であり、自分が生まれる前に死んだ姉の声は聞けない。
そんな彼女が、全てが終わる神楽の直前、姉の優しさに思いを馳せ口づけを受けるシーンは、情の濃い、とても良いシーンでした。

このように子供の亡霊たちは、生者の時間に取り残されてしまっている哀しさ、現世に干渉できない苦しさを、静かに画面に焼き付けていきます。
話の主軸となるおっこの喪失ほど強くはありませんが、そういう亡霊なりの哀しさを見落とさず、しっかり描いているのは良いなぁ、と思います。
成長し、花の湯温泉に地歩を気づいて、だんだん充実していくおっこ。
彼女は次第に霊能を喪っていき、超常の存在はだんだん感知されなくなっていきます。
文太の正体に気づき、泣きながら駆け出すおっこをウリ坊も美陽も、当然抱きしめようとする。
しかし亡霊である彼らの身体は生者を受け止めることはできず、ウリ坊達の涙は虚しく消えていってしまうわけです。
あのシーンのどうとも言えない悲しみ、生者と死者の悲哀を同等に描いていく筆の鋭さは、やはり凄いなぁ、と思います。


生者と死者の境界線が曖昧なのは、なにも悲しいシーンばかりではありません。
美陽が初めて顔を見せる鯉のぼりのシーンは、山間を抜ける皐月の風を頬で感じさせる最高のスペクタクルですが、現実の中の幻想、幻想が現実に手を伸ばした瞬間を、見事に描いています。
あそこでピンふりちゃんが「人のいるところに落ちたら大変!」と、まず人間のことを考えるところが切れ味鋭すぎる"器"の描写なんですけども、思わぬアクシデントは見えない姉のいたずら、超常からの働きかけである。
古い自然が残り、人間の領域にトカゲだのイノシシだのが顔を見せる花の湯温泉は、冷たい現代のロジックに追放されつつある温もりが、未だ密やかに息づく土地なわけです。
その由来を伝えるために神楽はあり、おっこと真月が同じ舞台に立つのは、そういう霊験の里を継いでいく存在として、成長し霊能を喪ったとしても異界に敬意を持てるようになったからこそなわけです。

ウリ坊がおっこを勇気づけるために見せた花畑は、スーパー経営者・真月のライトアップという形で再演され、超自然的な演出だけが、美しいものを世界に運んでくるわけではない、と教えてくれる。
『どこの王侯貴族だ……』とつぶやきたくなるスーパー私室(というか図書館)で、"ホモ・デウス"原著を読み漁る努力があってこそ、真月は小学生なのに経営にガッチリ食い込み、現場の大人の敬意を集めている。
そんな人間的な営みは、ときに幻想よりも美しいものを現実に呼び込める。
オカルトに素養が一切ないのに、客のために医食同源を志し、陰陽五行の知識をため込んでいる描写とかにも、真月が『智慧としてのオカルト』に敏感なのが分かります。(『霊能としてのオカルト』に、おっこがセンシティブなのと良い対比だと思います)


オカルトを本業とするグローリー水領様も、傷ついた状態で春の屋にやってきます。
おっこのドジで崩れ去る占いセットを見てもわかるように、彼女は自分の天職に自信が持てなくなっている。
というか、持って生まれた霊能とのバランスが崩れ、常人(元恋人)が身を置くリアルな世界と、巧く接合できなくなっている。
おっこと触れ合うなかでグローリーさんは心が癒やされ、そばかすが目立つ顔に化粧を施し、気合の入った衣装を着こなすようになる。
彼女がプライドと活力を回復させる(そしておっこが事情を打ち明ける)切っ掛けが、破妖の力を持つとされる"桃"のジュースなのは面白いところですね。

グローリーさんはおそらくインチキ霊媒ではなく、(物語が進むにつれおっこが失う)霊能を持った、本物の占い師です。
おっこが切り出すよりもその喪失を見て取り、共感の涙を流す代わりに頬に髪から水滴が垂れるのは、最高にキレた演出でした。
グローリーさんは"大人"なので、なかなか泣けません。(これは文太も同様。旅館の"大人"たちも基本泣かないけども、比較的涙腺が緩い。"家"を共有する親しさ故か)
泣いてしまったら、後々おっこが地獄に追い込まれた瞬間を見計らい、完璧な助け舟を出す仕事は果たせなくなってしまう。
でも"若おかみ"の健気な殻に隠された、グズグズにかき乱されてしまったおっこの中身を感応すれば、当然涙も出てくる。
そんな心の表れとして、一筋頬に水を置く演出は、仮想のキャラクターのプライドを本気で守っていて、極めて粋でした。

"若おかみ"あるいは小学生として、花の湯温泉から出ることなく(そのことで守られ、自分を知らずケアしてきた)おっこを、グローリーさんは海へと連れ出します。(美陽が『海見るの初めて~』と無邪気に言う描写で、その機会を得られなかった短い生を思い、また涙であります)
トラックが視界に移った瞬間、おっこは過呼吸に陥り、過去との対峙が全くできていない現状を、グローリーさんと僕らに教える。
どれだけ職能や正しさ(これ以外伝えるものを基本持っていないのが、峰子ちゃんの哀しさであり強さなわけですが。女将としておっこに職能を与えることでしか、もう祖母は孫に繋がることができない)で外側を鎧っていても、その内側にはどうしようもない哀しさがあり、取り返しのつかない喪失への想いがある。
それをどう受け止めるかは、3人目の客が足を運ぶ冬に、また語られることとなります。

 

ブランド品を片っ端から買いあさり、健気な小学生児童を思う存分着せ替えさせて、魂の洗濯を果たすグローリー様。
『あんだけ太い財布あるってことは、政治家や財界人に分厚いパイプあるんだろうなぁ……おっこがもらった名刺、とんでもないぞアレ……』みたいな推測も出来るわけですが、ここでグローリーさんは"大人"のもう一つの顔を、おっこに教えてくれています。

"若おかみ"として清く正しく生きる喜びだけでなく、健全な享楽に溺れ、友と歌い騒ぐ自由さも、大人になれば手に入る。
圧倒的にハンサムな女であるグローリー様は、祖母とはまた違ったおっこのロールモデルであり、父母が失われた世界でなお、生きていこうと思える希望の源泉でもある。
ペアのトロピカルドリンクを満面の笑みでチューチューする所とか、『約得すぎねぇ? 伊豆のポリスは何やっとんの?』と思わなくもないけども、それもグローリー様が自分の職分を果たし、たっぷり稼いだおかげではあるわけで。

花の湯温泉だけだと"正しさ"に過剰に偏りそうなところを、グローリー水領という規格外存在に横紙破らせることで、"楽しさ"の風を入れる。
あかねくんを鏡にすることで、布団の中で涙を流せる"子供"のあるべき姿を描いた後に、"大人"のもう一つの魅力を強烈に焼き付けてくるのは、面白い運びだなぁ、と思います。

そんなあかねくんもグローリーさんも、一時のレストレーションを終えれば、春の屋から去っていく"客"です。
去っていくものへの寂しさは濃淡様々に、このアニメの中をみっしり埋め尽くしているわけですが、去りゆく"客"への名残惜しさ、それを引き受けてまた帰還できる喜びを大事にしているのも、とても良いところでしょう。
おっこはそんな寂しさも"若おかみ"の職能と受け止めつつ、一年とその先を進んでいくわけです。


グローリーさんがゴージャスに暴れまわった後は、かつての関親子の気配を残す三人連れが、冬と一緒にやってきます。
正しさと強さを既に身に収めている真月と、喪われていく超常に気もそぞろのおっこは、いまいち気が合わない。
本音むき出しの衝突(真月の語彙が姉そっくりなのが、"血"を感じさせ良い)を抱え込んだまま、おっこは"若おかみ"として文太の要望に誠実に寄り添い、自分のプライドをかなぐり捨てて真月に教えを請う。
誠実さが友との和解、己の成長、客の満足を連れてくるいい流れ……なんですが、こっからの踏み込みとひっくり返しこそが、この映画最大の見せ場とも言えます。

真摯にもてなすべき客は、父母を奪った仇でもあった。
その事実を突きつけられたおっこは、夢で出会っていた父母と現実の中で再開し、その喪失を残酷に突きつけられます。
おっこが"現実"を認識した瞬間、父母の幻影が別れを告げに来るのは、彼らはウリ坊達『実在する亡霊』とはまた違うロジック……現実を認識しつつ受容できない、脆く不安定なおっこの深層心理を反映した『不在なる亡霊』だからでしょう。

おっこの主観では父母は実在し、今まさに別れを告げようとしているわけですが、ガラスには文太とその家族が冷たく移っている。
包丁に反射する卵焼きまで、マニアックに描いてきた撮影技術が、作品のコアを見事に切り取る、緊張感あるシーンです。
目に映る世界が必ずしも"現実"ではなく、むしろ心理と認識によって幾らでも歪んでいくという心理優先主義は、時折顔を出すレンズ重点の演出にも、結構反映されている気はしますね。

このアニメは反射物がとにかく多くて、その描写も気合い入りまくりです。
ガラス戸、窓ガラス、車の窓、瞳、グラスに入ったお茶、水面。
様々なものに幽玄の世界は映り込み、幽明境は時に曖昧に、時に残酷に境界線を揺るがせる。

おっこは不在の両親を『いる』と思い込むことで、自分を守ってきました。
それは当然のことで、大人の文太や峰ちゃんですら背負いきれない"死"の重たさを、小さな子どもが真正面から受け止めれるわけがない。
鏡の中では、喪われたもの、目に見えないものもゆらゆらと揺らぎ、夢の中なら何度でも出会い直せる。
人知らず揺らぐ境界線、その曖昧な優しさは、おっこをちゃんと守ってきました。(ウリ坊たちは、その境を超えておっこに接触する)

しかし文太の真実を知ってしまうことで、その優しさは一旦破綻する。
曖昧さのない現実に押し流されたおっこは、もう一つの現実に属する仲間たちを見つめるグラムサイトを失い、孤独なまま闇の中に駆け出していきます。
あかねくんのために夜の街に駆け出した時、あるいは文太のために真月の元に急いだ時(ここで『鼻緒が切れる』のが、後の不吉を予告する良いモチーフだし、その不幸を繕う鈴鬼くんの立ち回りも見事です。オカルト的存在であるからこそ、不幸をあざない、亡霊たちがあるべき場所へ帰る道行きも整えられるわけですね)とは明らかに異なる、冷たく寒い夜。
そこに投げ出されてしまえば、あまりの冷たさに心が死んでしまうような暗闇を、ヘッドライトが切り裂きます。
グローリーさん……アンタが超絶金持ちのハンサムな霊能力者で、マジ良かったよ……。

おっこの悲しさは峰子ちゃんの"正しさ"では癒やされきれないし、そこを担当する王子様役がグローリーさんなのは、婚礼を前提とした王子様ロマンスのヤダ味を削り、『年の離れた友人』とのシスターフッドの物語に巧く収めていて、良い配役だと思います。
なによりまぁ、ずっと見てきておっこの喪失、健気さにぐいと引き込まれている身分としては、絶対にやってほしいことを完ぺきにこなしてくれた彼女のことは、嫌いにはなれない。
あそこはまぁ、都合のいい最高の奇跡が起きなきゃならんところだし、グローリ様は"本物"なので虫の知らせもビンビンに感じるわけだしね。

降りしきる雪から身を守るポルシェは、かつては明るい夏への足となり、おっこに身を整える喜び("若おかみ"として客に与えてきたもの)を教えてくれた魔法の馬車です。
そこでグローリーさんに寄り添い、自分だけが見える世界(家族にも親友にも言えなかった秘密)を共有し、直面した喪失の重たさを半分持ってもらうことで、おっこはずっと背負ってきた"若おかみ"に戻る準備をする。
むき出しの個人が処理しきれない感情を、かつて押し付けられた"形"を内面化すること……"大人"になってしまうことで方向づけるする準備を、ポルシェというシェルター(喪われてしまった温かい寝床、不帰なる子宮)で整えると考えると、グローリー様は友人や恋人通り越して"母"になっちゃってる……のかな?


おっこが"若おかみ"として文太を許容するシーンは、これまでの物語の豊かさを反映し、様々に読むことができると思います。
ピンふりが一切動揺することなく文太を引き受けている動きはあまりにハンサムすぎますが、感情をむき出しになじるのではなく、"若おかみ"の規範と職能に基づき受け入れる姿勢は、"子供"が果たすにはあまりに正しすぎるかもしれない。
しかし峰子ちゃんとウリ坊が、空っぽだった(そして自分が空っぽであることに気づかない、気づけば壊れるしか無い)おっこに託した"若おかみ"という規範がなければ、おっこはむき出しの喪失、その取り返しのつかなさに溺れていくだけだったのではないか。
そうやって、"形”から始まってそれでも必死に掃除に料理に接客に、体を使って頑張ってきたおっこの日々があったからこそ、グローリーさんの赤いシェルターを出て、失われた過去に向かい合う魂が作り上げられたのではないか。
外部から”若おかみ”という”形”を与えられ、それに従うようロールを繰り返す中で、おっこは空っぽの器に詰め込むべき自分を、ゆっくり見つけていたのではないか。
おっこ最後の決断は、そういう"形"が持つ強さと優しさ……曖昧であやふやなものを受け入れてくれる境界線としての役割を、非常に大事にした描写だったと、僕は思います。

自身も体を大きく損ない、何よりも罪悪感に心を削り取られていた文太に、おっこは関織子ではなく"若おかみ"のおっことして、許しと受容を与える。
このとき翔太くん(あり得たかもしれない『子供らしいままでいられた、もう一人のおっこ』)がわがままを言って、両親をせき止めていたのは面白いところです。
彼が"子供っぽく"振る舞わなければ、真月のクールな大人っぽさがすべての事情を飲み込み、木瀬家は秋好旅館にいっていたわけで。
おっこは結局"若おかみ"という職能に帰還し、またその”形”に支えられることで喪失を噛み締め前に進んでいくわけですが、それとは別の"子供らしい子供"の生き方も、またある。
そんな子供の我儘を後押しする側に立ってしまったおっこは、哀しいくらい大人になってしまったわけで、それこそがこの作品が最後に描く喪失、悲しさなのだと思います。

 

季節はめぐり、冒頭"客"として見ていた(そして受け入れなかった)神楽の伝統に、おっこは踏み込む。
獣と人が相争うのではなく、同じ湯で傷を癒やした逸話はどこか、文太の喪失(と、取り戻した幸福)を"若おかみ"として祝いだおっこの姿に重なります。
ウリ坊が温泉の中で死んだ蛾に『手ぐらい合わせぇ』と諭したことを思い返すと、有形無形の命をいだき、非情なる業の中で傷つき倒れていく同志として、草木禽獣を敬う尊さは、ずっと作中にあったものです。
オカルト的な感覚が薄くても、『草木も眠る時間だから、ライトアップは程々にね!』と言えてしまえる真月の、圧倒的な器量も、この文法に位置しているのでしょう。
そういう作品だからこそ、おっこ以外の目に見えない、声も聞こえない大切な友達は、かけがえのない存在として描かれ続けるわけです。
何も掴めない悲しい生だったとしても、そこに誰かを思い、正しきを為す心があるのならば、それはやはり命であるから。


散りゆく桜吹雪の中で、姿は定かに見えなくても、確かにそこにあった友達の声を、おっこは確かに聞く。
それは失われ、また取り戻されていくものの声であり、境界線はいつでも複雑に揺らぎつつ、確かなものと曖昧なものは優しく交流していきます。
野に満ちる雑多な命、温泉に呼ばれて死んだ蛾を拒絶していたおっこは、もう一人の自分である翔太くんがとかげを石で打ち、殺してしまうのを留める。
かつてウリ坊が担当していた『外付け倫理装置』の仕事(”大人”の仕事、と言い切って良いのかは悩むところです)を果たせるようになったおっこは、ようやくウリ坊の導きなしで、残忍な世界に歩き出す準備が整うわけです。

霊能の力を喪ったとしても、おっこは思い出の中で父母に出会い、ウリ坊や美陽や鈴鬼くんを思い出すでしょう。
それは幻想で麻酔をかける生き方でも、幽玄なるものを切り捨ててしまうでもなく、それが境を維持しつつ重なり合う不可思議で豊かな世界を、自分のものとした証です。
光の反射の中、鏡面に映る一瞬の霊異を、それが癒やしてくれた傷を、愛おしく撫でれるような生き方。
90分に濃縮された一年の物語の中で、おっこや彼女の友達たちはそれにたどり着いて、お話は終わる。
いいアニメでした。


(こっからは余談というか寝言なんですけども、レンズ効果が非常に大事にされ、演出としても多用される本作。
おっこが見ている不思議な世界、生き死にの境が曖昧な人間の不可思議を、映像で描く面白い描写だと思います。
魚眼、過剰なクローズアップ、据えたアングルと、カメラ的な遊びが映像の面白さになって、アニメ的起伏をしっかり付けているのはリッチで、とても面白いですね。
異常なマニアックさで、メガネをかけた時のレンズの歪みが描写されまくるこの作品、いわゆる"四つ目"の描写も多い。
つうか、アニメでここまで"四つ目"の描写をきっちりやりきってるアニメ、多分他にはない。

それはもしかしたら、片方の目で幻想を、片方の目で現実を見る視線が、おっこ(作中、メガネをかけない少女)のものだけではないと言ってるかもしれない。
僕はそう感じました。
誰も悪くない関の死の運命に、おっこも峰子ちゃんも文太も深く傷つき、あるいは過去を夢の中で蘇られ、あるいは罪悪感の中で歯を食いしばって、必死に生きていた。
それは現実を見る2つの目に、もう一つの現実を見る仮想の両眼を重ね合わせるような生き方ではないか。

文太の声が山寺宏一さんなんで、視聴しててどうしても"COWBOY BEBOP"のスパイク・スピーゲルを思い出してしまいました。

『そん時から俺は、片方の目で過去を見て、もう一方で現在(いま)を見てた。目に見えているものだけが現実じゃない。そう思ってた。醒めない夢でも見てるつもりだったんだ。』

最終話でそう言い放ち、捨てたはずの過去、死んでしまった女の復讐のために死にに行くスパイクと正反対に、文太は"若おかみ"の言葉で過去を救われ、罪悪感の"四つ目"で世界を見る視点から開放されます。
文太もおっこも、"醒めない夢"から瞳を上げて、喪失に満ちた現実をなんとか生き延びていく方向に、必死に歩いていく。
それはスパイクとは正反対なんだけども、自分の中で同じ重たさ、同じ手触りがあったわけですね。
まぁ文太なりおっこなりが過去に囚われた亡霊と化し、現実のままならなさに押し流されてしまう物語は、夢と幻想と救いがなさすぎて、児童向けの枠には収まらんわけですけども……若おかみは小学生!、相当にハードボイルドでもあるんで、ビバップと並べるのは個人的にはそこまで抵抗ないんですよねぇ。

おっこが"若おかみ"であること(と、グローリーさんや峰ちゃんに優しく"峰織子"を抱きしめてもらうこと)を選んで、文太(と自分自身)の過去を救済した姿を見て、ついついそんな夢想を広げもしました。
やっぱ自分の中でビバップは特別で、後悔と喪失の物語を見るたびに、どっかで思わず比べている自分に気づきます。
これもある種の"四つ目"の視点……なのかな?)


というわけで、非常に優れた、面白い映画でした。
笑えるシーン、可愛いシーンがたくさんあって、シンプルに心が踊る所。
作品世界全てを圧倒的な美麗で満たし、リッチな映像体験を堪能できる所。
短い尺をテンポよく取り回し、キャラクターの魂がすっと胸にたどり着く所。
シンプルながら骨の太い喪失の物語を、快く見終えるよう、しかしその痛みや哀しさに嘘はつかないよう、本気で取り回した所。
良いところが山のようにある、優れた作品です。

個人的には神秘的なものの扱いが非常に明瞭、かつ正統で、オカルト映画として相当な仕上がりだったように思います。
オカルトは一時期の気晴らしのためのファンタジーではなく、人間の領分に余る不可思議を少しでも引き受け、自分の人生に取り入れるための智慧だと、僕は思っています。
わからないもの、理不尽だけど確かに存在するものを、少しでも納得して引き受けるための必死の身じろぎとして、心霊や占い、神事に人間は本気で取り組んできました。
そういう人の営為としてのオカルトに、非常に敬意を持って描きぬかれた作品だったなぁ、と思います。

そんな理不尽の最大のものが死であり、また悲しみに満ちた生でもあります。
両親のリアルな死、それを抱え込み麻酔をかけたまま生き続けるおっこの幼年期と、”現実”の無残さをいつか思い知らされるしか無い……そこを乗り越えてこそ誰かにより優しくなれる脱皮の瞬間を、"客"として友として職場仲間として携わる様々な人々交えつつ、美しく真剣に、しっかりと描く。
人が死に、生き残ってしまうということがどういうことなのか、揺るぎなくクオリティを保ち、それを的確に使って書ききる。
そんな難しい創作を、必死にやり遂げてくれたことが、この作品の面白さ、強さ、素晴らしさにつながっているのだと思います。
いい映画でした、本当に面白かったです。