イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ユリ熊嵐感想まとめ(第1話~第6話)

ユリ熊嵐:第一話『私はスキをあきらめない』
『百合で熊で嵐! ユリでクマでアラシです!!』とばかりに始まった、イクニチャウダー改めイクニゴマモナカの新作。
お話を一言でまとめると百合で熊で嵐なわけだが、普段のイクニを更に上回るメタファーと舞台演劇的カット割り、攻めた色彩のラッシュで、『起こること全てが隠喩、もしくは詩である』と考えたほうが気分が楽になる、そんな圧倒的にワケワカンナイアニメ(超褒め言葉)だった。
とりあえず、分けわからないなりにまずは溺れるのがいいな、と思った。
溺れるだけの水量と熱量は、既にあるのだ。
とは言うものの、ゴボゴボとイクニ汁飲まされているだけでは勿体無いので、少し読む方向で感想を書く。


全体を制圧しているトーンが思いの外陰鬱で緊張していたのは、主人公紅羽といきなり喪失されるヒロイン純花が、出だしから日陰者として描写されているからだろう。
一見平穏に見える嵐が丘学園(このネーミングからしジェンダーSFっぽいよな。ブロンテ姉妹)だが、クマというアウトサイダーを『断絶の壁』によって排除し、内部の規範から離脱するものは『透明な嵐』によって害される、統制的な世界だ。
タイトルにもなっている『私はスキをあきらめない』とはクマの言語でもあるわけで、クマ的なユリである主人公と、わざわざ人間の世界に侵犯してきたユリ的なクマが、教室と世界の地盤を揺るがしていく展開を幻視したりした。

乱入者たるクマが『あの子もこの子もよりどりみどり』状態なのは、蛮種たるクマ以外に公認された暴力が存在しない、不健康で去勢された世界だからなのかなぁ。
純花失踪事件の時、警察来てたけど。
ウテナでもピングドラムでもそうだったけど、社会変革のお話になりそうな気配がムンムンしてる。

クマが『そういうもの』として行使する暴力(こっちには?が付くが。あの子らがブルータルな存在なのは間違いないのだと思うけど、描き方がいちいちコメディなので、どこまでをメタファーとして食えばいいのか、いまいち間合いが判っていない。全部食えばいいと思うけどさ)は開けっぴろげで後悔がないが、百合の花を摘み取るハサミだとか、空から落ちてくるレンガだとか、学園内部の暴力には顔がない。
それは暴力を引き受ける責任がないということであり、クマが百合の花の雄しべをぺーろぺろするのには『ユリ裁判』の承認が必要であるのに対し、顔のない暴力はどんな劇的装置もコメディのタッチも必要とせず、それこそ嵐のように吹いている。
2つの暴力に最速で対面してしまった委員長、百合園蜜子の扱いが気になるところだ。


あとまー、エロスの描写が今までよりはるかに解りやすいというか、比喩表現が比喩に為っていないというか、少なくともメインテーマの一つにセックスがあるんだろうなとは感じた。
『庭いじりをして、手が汚れたから友達』という直線勝負の描写には、思わず声を出して笑ってしまった。
熊が女の子を食べるとき必ず女の子が寝てるとか、受粉する前に切り取られてるめしべとか、露骨なメタファーは他にも多かった。

主役四人が全て、人間のふりをしているときは帽子で髪を覆っているのも、一つには性的抑圧/放埒のメタファーなんだろうなぁ。
屋上でユリ熊乱暴された後、紅羽の髪の毛も着衣も乱れてたし。
特に髪の毛というフェティッシュだけがそうではないんだけど、このアニメのメタファーは『~~である』という一対一交換ではなく、『~~という側面も含む』という一対多交換になるのが、難しいと同時に面白く魔術的であるところだ。
帽子で言うなら、熊のや教室の反逆者といった主役たちの本性をクローゼットしているという味方もできるし。

メタファー的な話をすると、今回一番のキ印シーンである『断絶のコート』での裁判シーンなのだが、あれはすごく素直な『良心の葛藤』の表現でもあるんじゃないか。
つまり、『そういうもの』として自分を認識しているクマも、女の子を食べるのに躊躇いがあって、非常に古典的な天使と悪魔の言い争いよろしく裁判官と弁護士と検察を呼び出してるという見方も、あのシーン出来んじゃないかなあ。
無論それ以外の意味も大量に含んでいるだろうし、そこら辺は次回以降見えてくるとは思うけど。


百合に関しても、例えば『嵐が丘学園』が『バショ』、『クマリア流星群』が『レキシ』とカテゴライズされるように、『椿輝紅羽』『泉乃純花』『百合白銀子』『百合ヶ崎るる』は『ユリ』としてカテゴライズされている。
これは個人的な感触なのだけど、この世界の性別は男/女ではなく、ユリ/熊なんじゃないかなぁ。
とすれば紅羽と純花がひっそりと育てていたタブーとは同性愛ではなく、もっと別の秘密が透明な嵐を呼び込んだんじゃないか、とも感じている。

わざわざユリ/熊という第三/第四の性別を製造したのは、男/女という差異に既に張り付いてしまっている種々のイメージを取っ払って、物語に必要な性別を再構築したかったのか。
はたまた男性性/女性性を一旦ミキサーにかけて、ユリ/熊という別の入れ物に再分配したかったのか。
まだまだ解らないことだらけなので確かなことは言えないが、気になるポイントだ。


全体的に見ると、話数がウテナの1/3、ピングドラムの1/2という事もあってか、最初から寓話としての側面を隠さずぶっ込んできた印象。
だから分かり難いし、むしろ解りやすいというなかなか厄介な出足になったと思う。
しかしこれだけ溺れさせてくれるアニメも滅多にないんだから、肺いっぱいにユリとクマとアラシを吸い込んでから、色々考えるなら考えるといいんじゃいかと思いました。
素晴らしいアニメであり、今後も楽しみで仕方ないです。
スゲェぜ。

 

ユリ熊嵐:第2話『このみが尽きても許さない』
一話の疑問点が一部解消され、新たな疑問が増えていくマジック・フェミニズム的アニメーションの二話目。
ユリの領域がかなりの勢いでクマに侵食されていたり、正義を司る存在かと思ってた委員長が陰謀を覚えたクマだったり、紅羽さんを取り巻く世界は思いの外険しい。
一話で感じた緊張感は、そこまで理由のないものではなかったなという感想を抱きました。

今回一番クマショックだったのは、銀るるコンビがバッチリ食ってたっぽい所。
ファンシーな外見に惑わされてたわけですが、お葬式されちゃぐうの音も出ねぇ。
食われた純花が、回想や他者からのリフレインという形で生存した紅羽に墓所から影響を及ぼしている以上、生き死にの問題はやっぱメタファーとして捉えるべきだとは思うけど。
そういう意味で、死んだこのみを『死骸』と呼んでいたのは、ユリの領域におけるクマの扱いが見て取れる描写だったと思う。

姓にユリが付くのが『ユリの皮をかぶった熊』というルールが今回見て取れましたが、ユリーカ先生も熊なのかしらね。
とすれば、紅羽さんのお母さんの生き死にも、裏が一枚ありそうな感じ。
クマである以上食人(食ユリ?)の欲求は基本的に抑えられない感じなので、哀しみとともに食ったのかしら。
ていうか、あの世界のユリはどういう風に生殖するのかしらね。

疑問といえば、委員長はいつ純花の味を知ったのか。
三つ折りソックスが映ってたところを見るだに、銀るるが食ってたのは純花で間違いないと思うのだが、食い残しをハイエナしたのか。
それとも、クマの捕食には肉を食べる以外の意味合いがあるってことだろうか。
いやどう見ても暴力的なセックスの暗喩含んでんだけどさアレ。
作品内のルールとして、クマの捕食はどういうもんなのか、今後注目したいところです。


一つの映像に多重に意味をもたせた魔術的表現作品である以上、描写への疑問はじっくり見ながら、自分で納得するのがいいと思っています。
そういう意味では、今回勝手に納得した部分も多々あって、一つは紅羽の特殊性。
彼女はクマを憎む言動を繰り返し、実際に銃を持っているけど、それを的確に行使できていない。
"銃"にも色んな意味が付与されていると思うけど、暴力という意味合いで見れば、『透明な嵐』という顔のない暴力も、『クマの捕食』という個別の暴力も、紅羽と純花以外のキャラクターは的確に行使している。
そんな中徹頭徹尾"銃"が当たらない、もしくは"銃"を構えることすら思いつかない紅羽は、特権的に暴力の行使から隔離されているキャラクターなのかなと思いました。

クマから身を守るべく構えた銃はクマ排除の役には立たず、露骨に性的なアプローチをかけてきた委員長から身を守る最後の一線として、儚い障壁の仕事をしているだけです。
露骨なファルス主義的見方をするなら、あの銃は男根の解りやすいメタファー。
"それ"以外に委員長の邪悪な陰謀を拒む手立てがない、もしくは"それ"こそが邪悪な陰謀から乙女を守っているっていう絵面は、個人的に意味深だなと感じました。
紅い椿の花言葉は「謙虚な美徳」「控えめな素晴らしさ」「誇り」だそうですが、椿輝紅羽は激しさとは無縁の特性を持ってるのかなぁ。

とまれ、紅羽の銃弾が一番最初に誰を貫くかで、あの銃に何が込められているかが判る気がします。
……『LOVE BULLET→YURIKUMA ARASHI』なんだから、好きになった銀子を貫く愛の銃弾というのが一番素直なんだろうが、それはちょっと寂しい気もします。

手早く食われて死に、『対話可能なキャラクター』ではなく『再発見を繰り返される謎』になってしまった純花も、暴力から隔離される特権を有しているのか。
今見せられているように百合の花と花壇と紅羽を愛し、純粋さと無垢の象徴のような女の子のままなのか、それともそれをひっくり返す真実が墓所から暴かれるのか。
なかなか油断の出来ない所だなと思います。
ピングドラムの眞悧先生やプリクリ様、TV版の御影、劇場版の暁夫や冬芽などなど、イクニ作品は亡霊が元気よね。


暴力を男性的な属性とするのは、比較的一般的な観念だと思います。
実在の怪しいユリ裁判の面々以外男の外見をした存在が排除されているこの作品で、暴力はクマの属性とされている。
捕食という暴力、思い出や哀しみに接近しようとしない直線的な肉欲は、常に『ユリの皮をかぶった熊』が受け持っているわけです。
(『透明な嵐』という暴力はユリの専売特許なわけで、目に見えない陰湿な力の行使は『女々しい』行為なのか、透明な存在たる『スキを諦めた』ユリたちの内実が描かれないとなんとも言えないところです。)

ならば単純に『クマ=男』という図式、『ユリ=女』という絵が描けるかというと、そう簡単でもないかなと感じています。
この作品のクマは常に『ユリの皮をかぶった熊』だし、ユリも"銃"を使うことでクマに対抗し殺すことができるし、というか基本女の外見をした存在しかいないしで、『ユリ/クマ』と『女/男』は単純な照覧関係にはなく、境界線は揺れ動いている。
暴力を行使できないにしても紅羽はクマに殺意を持っているし、"銃"も所持している。
クマである銀子も、紅羽の"好き"が本物であるか否かを重要視する、非暴力的な視点を持っている。

ココらへんの揺れを担保するために、『ユリ/クマ』という区分を創造したのであれば、それは成功していると僕は感じます。
涙の味を分かろうとする銀子と、クマを憎みつつクマを殺せない紅羽が、近づいたり離れたり、食われそうになったり愛し合ったりする運動が、このアニメの根本的なエンジンだと現状思うわけです。
紅羽の家はユリの世界と断絶の壁、その分岐点に存在してるわけですし。

というか男性性/女性性で暴力という属性を区分するのではなく、暴力を人間の属性として見なおせつーことなのかもしれん。
そうなると暴力に抗う手段も保たず死んでしまった(と現状理解できる)純花は、非人間的な属性を持っているんだろうか。
判んねー事たくさんあって、なおかつ判りたいと思えるのは、幸せなことなんだと思う。


色んな要素、色んな意味、色んな意図が映像の中に練り込まれているアニメなので、此処でグダグダ考えてることもまたひっくり返ると思います。
それもこの作品を見る楽しみだと思うので、積極的に妄想を吐き出していこうと感じています。
自分はフェミニズムや魔術に興味がある人間なので、ユリ熊嵐をそういう視座で受け取っているけど、興味の領域が違う人は全く違う意味を、映像から受け取るのかなぁ。
そんなふうな作品の外側に、興味の矢印が向くアニメって、かなり豊かなんじゃないでしょうかと思うわけです。

 

 

ユリ熊嵐:第3話『透明な嵐 INVISIBLE STORM』
委員長がその邪悪な正体を露わにし、透明な嵐が吹き荒れ、紅羽がようやくその銃弾を命中させる回。
『クマのメガヴァイオレンスも相当だが、ユリの陰湿な暴力も大したもんだぜ!!』と言わんばかりに、学園裏サイトっぽい吊し上げが結構クッキリ描写されてた。
クマの世界もユリの世界も、どっちもどっちって感じ……なのかなぁ?

正直もう少し引っ張ると思っていた委員長は、悠木碧渾身の怪演をブースターにして突き抜けていった。
撃ちぬかれたのは腕章だけなので、その実死んでないというルートもあるとは思うが、重要なのは紅羽が『殺した』と認識してる所だと思います。
クマの正体を見てもなお、紅羽は蜜子を人間だと認識し、自分の行為を殺人と認識して気絶した。
割りきれているようで混乱した思春期に彼女はいて、そういう女の子がクマに好かれていて、多分クマに好かれる。
紅羽さんの心の天秤は今後も揺れ続けるんでしょうが、その不安定なバランスと、それ故に所持しているポテンシャル両方を見た気がしました。
とりあえず、童貞(刃牙のガイア的な意味で)は失い大人の階段は一歩登ったやね……女の手助けで鉄砲うつってのも、ファルス主義的だな。

三話目でようやく手にした力を行使し、生き残るための戦いに紅羽は勝利したわけだけど、同時に殺人という咎を背負うことにもなった。
生きるということは変質していくことで、綺麗なものも幼い部分も否応なく変わっていってしまうのだとしたら、永遠であるということは死ぬことでしか保証されない。
永遠に綺麗な思い出を保存するべく、純花さんを早々に退場させたのだとしたら、やっぱこの話は残酷だ。


そして蜜子は見事なヘイトアーツの使い手だった。
あの眼鏡を使った煽りは紅羽に最後の一線を越えさせるだけではなく、純花さんのピュアネスも強調しており、いい悪役してんなぁと思います。
指すら触れ合わない消しゴムの受け渡しを見ても判るように、純花さんと紅羽さんの交流は肉の接触を極端に少なくしたストイックなもので、何かというと肌を舐めに来るクマとは大きな違いがあるね。

銀るるが『純花は』食べていないことが公開されてましたが、同時に他の人間は食ってるっぽいことも公開情報に。
最後のクマショックを見るだに、彼女らが守りたいのはスキを諦めない人間であり、透明になってしまった人間を食うのに躊躇いはない、ということだろうか。
『そういう生き物』であるクマに、ユリですらない人間社会の善悪を当てはめてもしょうがないが、単純に『いいクマ』とは言えない含みのある終わり方だ。
感情の天秤が揺れ続けているという共通点だけではなく、『スキを教えてくれた』という関係性も、ユリサイドのカップル・クマサイドのカップル両方に共通してる感じ。


排除の儀の閉塞感と気持ち悪さは、クマを断絶して世界を成り立たせている人間側の異常性が良く出ていて、なかなかパワフルなシーンだった。
一心不乱に自分の正義を信じきって、真顔で生贄を選び出す少女たちの顔は、鏡のように不気味だ。
メタファーも何もないかなり直線的な比喩が出てきて、ちょっと見方を変えられる気持ちよさもあった。

食われるだけに見えた『透明な存在』も、透明なりに悪質な敵意をむき出しに荒れ狂っており、今後彼女たちがどういう任を担っていくのか、個人的な注目ポイントだったりする。
顔もなく名前もなく、ただ脅威だけを担保する一種のシステムなのか、それともスキを諦めないことに何らかの価値を見出すものも出てくるのか。
あんま関係ないけど、カチューシャさんが幕を天井から下ろしていたのは、レンガを落とした犯人つー暗示だったりするのかね。


素直に見る、という意味では、蜜子の悪辣さを壁にして描かれた純花さんの純粋さも、心に刺さるものだった。
死人でありながら出番が多く、『何か』を期待させる立ち位置にいる純花さんに、僕ら視聴者は色々な考えを抱くわけだけど、嵐の百合園のシーンは真っ直ぐでとても良いシーンだったと思う。
クマが絡んだ時、暴力的なエロティシズムが画面に突き刺さるアニメなので忘れがちだけど、純花さんと紅羽のシーンは『思春期に起こる友情と愛情の狭間(これを『百合』と呼称していいかは、それがあまりに乱雑にジャンル語として使われすぎた結果を鑑みると、頷きかねるけど)』の描写として、清潔さと健気さに気を配った、素直かつ丁寧な映像になっている。
その後裸で隣り合っても、指すら触れ合わない辺り、二人から生殖の匂いを排除する方針は徹底してる。
その純粋さが、スキを諦めない人間だけのものなのか、個人的に気になる所。


抽象と具象、比喩と事実の境界線が分かり難いアニメだとは思いますが、むりくり区別をつけて一方の見方だけで押し切るのではなく、両方に足場を作って行き来するほうがより作品を楽しめるのかな、と思える第三話でした。
当面の脅威となりそうだった蜜子が(一時的に?)退場したので、今後の物語を回す軸が何にになるのか、あんまり読めません。
ユリの姿をしたクマを撃ち殺し衝撃を受ける紅羽と、『食べる』と『食べない』の間を行ったり来たりする銀子。
両主人公が持っている不安定さが、物語を回すエンジン……でいいのかなぁ。

 

ユリ熊嵐:第4話『私はキスをもらえない』
イクニの切れ味鋭いコメディがフル回転になる回……と見せておいて、るるのオリジンが全て開示される、かなり直球な回。
話数が少ないからか、ユリ熊嵐は過去作品と比べるとほんとにストレートな表現が多いなぁと思います。
無論言葉遊びというか暗号というか、言い換えとメタファーはたっぷりあるのだけれども。

るるちゃんはクマの国の王女様で、罪グマで、カインコンプレックス持ちで、弟のことが大好きで、大嫌い。
銀子が王子様かつ罪グマであることも含めて、この話貴種流離譚でもあるのね。
『無垢なる存在を既に失ってしまっていること』『スキ(愛すること?)とキス(愛されること?)の間にいること』などなど、紅羽と共通する部分が多いことが、オリジンが開示されることで明らかになってました。
三人目の主役である銀子も、既に何かを失っていると示唆されていたけど……最後に出てきたネックレスを素直に読むと、紅羽母との因縁かな?

釘宮さんが非常に良い演技をして、弟くんの無垢さは胸に刺さりました。
(熊でミルンという命名が、相変わらず衒学趣味剥き出しで好きです。
アラン・アレクサンダーなのか、それともクリストファー・ロビンなのか
姉に何度殺されても、ただ姉を愛し続けキスを強請るミルン王子の幼稚な純粋さは、暴力的ですらあってなおかつ寂しく、綺麗。

紅羽が何を見ても失った純花を思い出すように、るるも世界の全てが弟を思い出す縁なのだとしたら、なかなか辛い生き方だったろうなと思います。
るるちゃんが王子たる銀子の言葉と行動で救われたように、銀子と心を通わせれば、紅羽も純花を諦めて、新たに旅立つ事ができるんでしょうか。
あの子の純花ロスも相当に深刻ですが、まぁしょうがないよね、純花ちゃんいい子だから……。


弟を殺した赤い蜂は常時るるちゃんの周囲を旋回し、他人を寄せ付けない防衛機構。
弟くんはその内側に最初から入り込んでいるわけで、何度も弟を殺す憎悪と矛盾しますが、その矛盾は作品冒頭からずーっと『大好きで、大嫌いだった』と宣言されております。
アレを無理くり解釈すると『愛憎半ばする虐待の末に殺しちゃった』と受け取ることも出来ますが、あんま解体せず、描写を素直に飲み込むのがいいかなぁと個人的には思います。
ともあれ、抱え込んできた矛盾を受け止め、言葉と行動で生き延びる道を示してくれた銀子にるるちゃんが惚れ込むのも、納得の行く描写だったかと。

弟が何度も持ち帰った永遠のキスを、蜂蜜粥にして傷ついた紅羽に分け与えようとしてるるるちゃんは、紅羽を見つめる銀子に嫉妬を抱かない、献身的な子だなと思います。
キスを諦めてスキを選んだ結果、既にるるちゃんは過去との決別ができてるってことかなぁ。
何かを捨てて人間の姿になるというのは、人魚姫を思い出して暗い気持ちになるので、るるちゃんにもビターでハッピーな何かを残してあげて欲しいものです。
……エピソード一発でるるちゃん凄く好きになってる辺り、俺も綺麗にイクニの手のひらの上だな……。

怒涛のように駆け抜けた三話までとは打って変わって、キャラクターの内面とそれを生み出した歴史に、解りやすくアプローチするお話でした。
今回足を止め、キャラの内側に入る回を入れてくれたお陰で、登場人物の心理に共鳴しやすくなって、とても良かったなと思います。
いつもの様に色んな事を考えて、先のことに思いを馳せて、多分大半は勘違いと思い込みで。
そういう事をさせてくれるアニメって希少で、好きですね、僕は。

 

ユリ熊嵐:第5話『あなたをヒトリジメにしたい』
ユリとクマが織りなす青春期フェミニズム童話、そろそろ折り返しの五話。
前回るるちゃんがどういう子なのか説明したのに引き続き、銀子の内面やオリジンがかいま見える回でした。
クールなキメ顔で王子気取ってるクマが、まさか脳みそドピンクの中学生男子とは思ってなかったぜ。
しかし腐れ妄想ぶん回しのヨダレだらだら熊だとバレた方が、素直に銀子を受け入れる事ができたので良かったと思います。

銀子が中学生マインドなのは何かと紅羽を剥きたがるからではなく、塩辛ナポリタンで判るように、相手の事情を斟酌せず自分の好きだけを振り回すから。
そのことに彼女は自覚的で、今回の裁判で議題になったのも『スキという感情のエゴイズム』でした。
確かに相手が自分のことを『本当にスキ』なのかは、人間にもユリにもクマにも判らないことであり、スキは常に一方通行で時に相手を傷つけるものなのでしょう。
その上で、自分の中の『本当にスキ』を諦めず前に進む所が銀子の未熟であり、同時に王子の冠を被る資格なわけです。

そこで空気を読んで引き下がってしまえば、彼女が捕食している『空気を読んでスキを諦めた、透明な女の子』になってしまうわけで、バカでスケベで絞れば青汁が取れるくらいに青臭かろうと、銀子は銀子の『スキ』を諦めず猪突猛進(熊突猛進か?)する。
そのことでぶち壊れる壁もあるだろうし、相手のことを考えずにぶつけた『スキ』が裏返って『キス』が帰ってくることも、あるかも知れないしないかも知れない。
結果を手に入れるためにはとにかくやってみるしかないわけで、その行動力が銀子を主人公たらしめているのでしょう。

紅羽にはむっちゃ欲情するのに、一緒にお風呂に入って裸エプロンするるるちゃんには毛筋もピクリしてない辺り、銀子からるるちゃんへの『キス』は確かに望み薄。
それでも断絶の壁を超え、敵の只中に一緒に飛び込み、銀子の中学生恋愛をサポートしてくれるるるちゃんの献身は尊いなぁと思います。
クマの恋は(今まで演出された部分を見ると)打算と肉欲にまみれてるわけですが、特別なクマである銀るる両方が、プラトニックに相手を思いやる恋をしているのは面白いところだ。


銀子が理想化された中学生男子だとしたら、純花を『ただ一人の相手』と思いつめ、狭くて苦しい世界を守ろうと足掻いている紅羽は、理想化された中学生女子だと言えます。
『ただ一人の相手』が失われても、大概の子どもたちはその消失に折り合いをつけ、何とか生きる術を手に入れ、面白くもなんともない普通の大人になっていくわけですが、純花はそういう普通の解決法を、頑なに拒絶します。
これは純花が母を一度喪失し、その時にクマとユリが仲良く暮らせるような、理想化され保護された世界も同時に失ってしまっていることが、影響しているのかもと思いました。
銀子のことを思い出せないのも、失ってしまった黄金期の記憶を思い出せば出すほど、それがもう手に入らない現実を痛感し、その痛みを避けるべく防衛行動にでているのかも。
しかしそうなると、紅羽は既に一度『スキを諦めている』ことになるわけで、ココらへんの謎解きはまだまだ予断を許さないところであります。

紅羽の頑なな態度は変化の拒絶なわけですが、純花は既に死んでしまっているし、紅羽自身も銃をとって蜜子を殺している。
紅羽自身がいくら望んでも、時間という止まることを知らない川は流れ続け、子供じみた紅羽を押し流していく。
このアニメにおいて、変わらなくても満たされていた二人だけ-最初は紅羽+母親、後に紅羽+純花-の世界は最初から失われており、そういう意味においては非常に残忍なリアリズムが埋め込まれた物語なんだと思います。(青春の季節を切り取った物語がより良いものになるためには、絶対この認識が必要だし、幾原邦彦作品は全て、ここを立脚点に物語を開始しています)

抽象度が極端に高いため、全てをメタファーとして読んでしまいがちなこのアニメですが、紅羽の頑なな態度の描写は、孤高に世界と戦う少女の姿として、何らかの秘められた価値をほのめかす以上の意味、映像単独の肌理をしっかり持っていると感じました。
銃という実力の行使を引きずり、己が持っている暴力に怯える様子も引っ括めて、脆くて強く、綺麗で汚い紅羽の姿に、単なる象徴以上の感情を抱いてしまう。
透明な嵐に毅然とNOを叩きつけ、フツウになってしまうことに抗う紅羽の姿は、とても苦しそうで気高く、僕はとても好きなのです。
そういう感情のうねりがしっかり生まれるのは、アニメとしてとても良いなと思います。

変わっていく景色、変わっていく立場に適応し巧く生きていく方法は沢山あり、一つは全て忘れて透明になってしまうことであり、もう一つは『スキを諦めない』まま変化に抵抗する(もしくは変化と巧く付き合う)方法を見つけることです。
死んでいるはずの純花は、『誕生日の日まで封印された手紙』という秘密を今回提出してきました。
秘められたものが明らかになり、困難に対応するすべが見つかったり、あるいは新たな困難が出現したりすることが相互対話の重要な仕事であるのなら、『封印された手紙』は死者との対話を可能にする重要な装置になるでしょう。
既に己の死を予感していたようなやり取りも含め、『封印された手紙』との対話が始まれば、紅羽の閉じて尖った世界は否応なく変化と直面させられるんじゃないでしょうか。


理想化された子どもたちは以上のように、泥の中から生まれた蓮のような描写をされていますが、それを取り巻く顔のない人たちはまぁ胡散臭いことこの上ない。
『クマ=ユリ』という世界の真実を巧みに否定し、何かと肉体的接触を図るユリーカ先生の保護者面。
哀しみを偽装して紅羽に近づき、彼女の最も大切な場所を愚弄しにかかる針島さんの狡猾さ。
音頭を取っていた鬼山さんが行方不明になっても、制度として継承されてしまう『排除の儀』。
『クマもユリもろくなもんじゃねぇなぁ』と思わざるをえない、薄汚い描写が冴え渡っておりました。
『雑巾を一番みすぼらしく見せるためには、飾り立てるのが一番』というメイキャッパー理論をナチュラルに実践する辺り、すんげーイヤーな描写だったねアレ。

今回衝撃的だったのは、今までさんざん好き勝手に食い散らかしてきたクマも、狡猾なユリの知恵に返り討ちにされることがあるというラストの展開です。
『そういうもの』として説明されていたクマの捕食は、それこそ嵐のように作品の中で絶対かと思っていたわけですが、綺麗にひっくり返されてしまいました。
同時に王子たる銀子も罠にかかり、血を流す一匹のクマであると示されました。
ここら辺は前半、コメディ成分たっぷりに見せられた煩悩全開のキャラ崩壊と、背中合わせかなと思います。

心を閉ざしたお姫様を救いに来たクマの王子は、脳みそドピンクな上に下らん奸智の罠にハマる、等身大のクマでした。
『この話童話と象徴一辺倒ってわけじゃなく、結構生臭い人間の血まみれ青春闘争なんだぜ?』と囁かれるようなエピソードだったかと思います。
透明な嵐に取り巻かれながら、自分たちのスキを諦めず、それ故分かり合うのが難しい子供たちのお話は、まだまだ続きます。
彼女たちのことがより好きになれて、とても良い回でした。

 

 

ユリ熊嵐:第6話『月の娘と森の娘』
気づけば折り返し点のブルータル・フェミニズム童話、六話目。
過去と未来を純花の手紙で折りたたみつつ、銀子が秘めた罪を開示してショックを与えてヒキという、見事な構成でした。
同じ内容の手紙が、一回目と二回目で完全に意味を真逆にするのが、とても鮮烈。

もともと暗喩と抽象化を駆使しているこのアニメ、非常に童話っぽいところがあるわけですが、その作中で語られる童話は非常にスムーズに銀子と紅羽の過去と現在、そして未来を指し示していて、お話の真ん中らしいアイテムでした。
鏡に向かい合う最後の障壁は、まんま己のエゴと対峙する運命と解釈していいのだろうか。
鏡が割れて見えた相手は獣と獲物なわけで、月の娘は持っている銃をどうするのか。
続きが気になるので作者に聞きたいこと沢山あるけど、お母さん死んじゃってるしなぁ。

あ、さんざ紅羽を『暴力とセックスから遠ざけられてる子供』扱いしてた僕ですが、嵐の花壇の後ガッツリ純花と寝てて、『あ、すいませんでした紅羽さん、思いの外大人でしたね』と謝罪しちゃった。
ゴミクズ人間針島さんと陰謀の黒幕(多分ユリーカ)の褥に比べっと、やっぱ清潔な印象を受けるので、『寝てる寝てないが問題じゃない! 寝ることで何が生まれてるかが大事なんだ!!』と言い張ってみようかな。
……流石に聞き苦しいなコレ。
今回出てきた2つの婉曲的ベットシーンに差異があるとしたら、それが多分紅羽を主人公たらしめてるポイントだとは思うので、考えてみるのは大事な気がする。


『飾ってから地面に叩きつける』方式で、効果的に紅羽の心を折りに行った透明人間たちですが、いざ死人が出そうになると即座に逃げる辺りも引っ括めて、最悪に胸糞悪くて素晴らしかったです。
可愛いデザインとトンチキな演出で相当緩和されてますが、それでもアイツラ気持ち悪い。
『透明な嵐』という行為に嫌悪感を感じさせないと、このお話成り立たない部分があると思うので、あの生理的嫌悪感は凄く巧く出しているなぁと感心します。
すんげー頭沸騰した後に、二分くらい経って『でもなー、こういう部分あるよなぁ俺にも。あーやだホントやだ俺がやだ』みたいな気持ちになるのが、凄いなぁと。
起こっていることは寓意的で婉曲的なのに、自分に照らし合わせて考えちゃうのであれば、それは最上質のファンタジーの証明だと思うんすよね。

その悪意に取り込まれつつも、想い人に願いを届けた純花さんはほんと凄いなと思います。
純花さんはユリたちの同調圧力に殺される前に、クマの衝動的殺意に喰われたわけで、作品世界に存在する暴力全ての矢面に立った。
それでもなおスキを諦めず、紅羽にもスキを諦めさせなかった。(紅羽がスキを諦めていたなら、自分を傷つける手紙は燃えるがままにしてただろうし)
純花さんの小さな英雄的行為は、自分的にはすごく大事にしたい決断なわけです。


一方、ヒロイシズムを引き継いだように見える銀子は、とんでもない罪を告白していた。
叙述トリックを活用する作品なので断言は出来ないですが、仮に蜜子の殺人を見過ごしていたとしたら、『銀子は紅羽がスキ』というだけで許される罪ではない。
『あなたをヒトリジメしたい』気持ちが故に恋敵を間接的に殺害して、どういうルートをたどれば紅羽のキスを手に入れることが出来るのか、現状自分には思いつかない。
ここら辺は今回のラストカットの真相と、秘密を抱えたまま縮まった二人の距離がどうなっていくのかで明かされていく部分でしょう。
上手いヒキだなぁ。

るるちゃんは献身的に介護をしていたのに、目覚めるなり『紅羽!?』って為ってたのは、ほんとヒドい。
前回王子様の仮面が綺麗に剥げて、ダメダメな部分も見せてきてるが故の発言なんでしょうが、もうちょっとるるちゃんに優しくした方がいいぜ銀子くんよー。
まぁるるちゃんは銀子からのキス貰えなくても、ずっと銀子の事スキでいるって決意してるからね、外野がとやかく言うことじゃないんだけどね……。

綺麗な記憶も怪しい過去も暴露され、過去と現在の帳尻が繋がらないまま、一時の劇的山場を超えた今回。
過去が現在と未来に、どういう捻れを与えてくるのか。
今後が更に楽しみになるエピソードでした。