イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ユリ熊嵐感想まとめ(第7話~第12話)

ユリ熊嵐:第7話『私が忘れたあの娘』
記憶と殺意が交錯する惑乱のメモリア、七番目のお話は銀子の看病。
その合間にゴミクズ人間針島が食い殺されたり、銀子のルーツが判明したり、紅羽の記憶が戻ったり、るるが甲斐甲斐しかったり、今週も盛りだくさん。
というか、単純な物語的進行という意味では一番進んだ回かもしれん、銀子寝込んでたのに。
クマ世界は今まで描写されていなかっただけで、ユリ世界と同じくらいかそれ以上に、同調圧力と詭弁が吹き荒れる、碌でもない現し世でした。

王子様と思われていた銀子ですが、孤児で少年兵というヘヴィな身の上の、偽装王子だったことが判明。
ユリの世界にクマが潜んでいるように、クマの世界でも透明な嵐は吹き荒れており、断絶の壁と言いつつ、内実は差がない。
孤独な魂に神の愛情を約束し戦場に突っ込ませる構図は色々生々しすぎて、そらー影絵少女風の演出でフィルタかけないと描写できないわ、って感じ。
熊が女をぶっ殺した後の表現が控えめに言って絶頂(エクスタシア)であり、別の意味で生々しくもあるんだけどさ。
どこもかしこも毎日吹雪吹雪氷の世界であり、そういえばピンドラのサブタイトルで使ってましたね『氷の世界』


一方紅羽は案外満更でもなく、非常に珍しいことに純花さんの回想シーンが今回存在しなかった。
これが失ったものを忘れ、新しいスキで欠損を埋め直していることになるのか、かつてのスキを思い出して現在の傷を修復しているのか、多分どっちも正解なんだろう。
死者の残した傷を生者との関わりで埋めていくのは、健全、かつ不完全な僕達にはそれしか許されていない手筋だと思うのですが、まだ表に成っていないカードが何枚かあるので、安心はできないなぁ。
健気なるるちゃんの描写といい、表情の柔らかくなった紅羽といい、安心したい気持ちはたくさんあるんだけどね。

母の死、純花の死。
穏やかに治癒されつつある現場をひっくり返す鬼札が、全部墓場に埋まってるのは、クマが殺人鬼的側面を持つ以上、正しい作りだと思う。
『クマは人を食べる、そういう生き物』である以上、銀子と紅羽を繋ぐ『母の死亡』に銀子が関わっているのは間違いなく、そのサスペンスが現状物語を引っ張るエンジンなのかな、とCパートを見ていて思う。
針島さん殺害のシーケンスを見るだに、ユリーカ先生の関与が最重要なのは揺るがないけど。
TDといい、紫色のクソレズがひっそり心理誘導を仕掛けるのが流行してるクールなのか、今期。


見せ掛けの壁を乗り越えて、幼き黄金期を作っていたのが幼少期の銀子&紅羽なわけですが、それを断絶するのが母親の死。
生まれた時から愛されず認められない『透明な存在』だった銀子が、死地に赴いた理由がクマリア様という偽物の母親だというのも引っ括めて、銀子も紅羽も、母を失った子供という共通点がある。
銀子に掛かっている『母殺害容疑』『紅羽見殺し容疑』が本当だとすると、二回母親を殺して、想い人を自分と同じ境遇に引きずり下ろしてることになるわけだけど……それはないと思いたいなぁ。

主人公二人が思い出を取り戻し、話は完成に向かう……と思いきや、薄暗い秘密が墓場に眠りすぎててまだまだ不穏、というお話でした。
過去作に比べてユリ熊が(比較的)解りやすいのは、殺人を軸としたサスペンスの構図がお話の骨格を浮かび上がらせ、フーダニットが話を引っ張るエンジンになってるからというのは、確実にある。
そんなことも考えさせられる、折り返しの出題編第二弾でした。

 

ユリ熊嵐:第8話『箱の花嫁』
愛と激情のフェミニズムサスペンス、八話目はユリーカ先生のオリジン暴露と、四人の臨界点。
現状見せられてるカードを全て使って、屋上での四すくみを成立させてるお話運びは、疾走感と緊張感があって非常に良い。
この盛り上がりであと四話もあるのだから、一体どうなってしまうのか、期待大ですね。

Aパートを使って語られたユリーカ先生の過去は、見事なまでに『失敗した主人公』だった。
銀子と同じように要らないクマとして生まれ、人と触れ合ってスキを知り、しかしスキを諦めて己を匣に変えた女。
紅羽と同じように友情を育み、それを支えに孤独を癒して、しかし自分自身のスキを自分の手で破壊してしまった女。
屋上でのセリフが全て、自分自身に帰ってくる作りも当然という、綺麗で歪なシンメトリーでした。


ユリーカの歴史には二つの目配せがあって、一つは先述した『今の世代』との重ねあわせ。
愛する人と百合を育て土に汚れたのは純花/紅羽と同じだし、クマとしての欲望と人への愛情の狭間で擦り切れていたのは銀子/るると同じ。
同じ部分を強調することで、違う部分も強調されるという演出が良く効いていて、醜くも切ない『親の世代』の愚行がスルッと入ってくる。
これは、『今の世代』が魅力的なキャラクターとして描写を積み上げてきた、という証明でもある。

『百合の摘み取り』という行為が『今の世代』と『親の世代』で全く異なる行動になっているのは、個人的に面白い。
『今の世代』に取っては守りたくても透明な嵐によって強制的に摘み取られてしまうもので、『親の世代』は箱に閉じ込めて永遠にするために自分から行う行為。
『今の世代』が萎れた百合を一切描写しなかったのに対し、今回の回想では箱に閉じ込められ、精気を失っていく花の死体が、大量に描写されている。
思い込みと憎悪で作った箱に百合を入れても、その美しさは醜く変質してしまい、手と顔を泥に汚し、雨に立ち向かいながら根っこ付きで育てることでしか、百合を咲かせ続けることは出来ないというのは、示唆的な描写だ。
ユリーカも、スキの相手とともに百合を愛でることをしていたはずなのに、結果は異なってしまっている。
つくづく、呪いは恐ろしい。


もう一つは監督の過去作への目配せで、ガラガラの音とともに回る天蓋はピングドラムを、イノセンスを閉じ込める箱としての学園はウテナを、それぞれ強烈に思い出させる。
死人が出るたびに描写されていたロッカーもウテナの間宮編を思い出させていたが、今回その中身が語られたことで、更に印象を強くしている。
ユーリカが捨て子であることも考えると、『コインロッカー・ベイビーズ』への目配せでもあるのかな。

歪みきった無垢への渇望をその身に受け、傷つけられる役をピングドラムで演じていた能登麻美子が、今回は傷つける側に回っているのは、非常に印象的だ。
『既に終わってしまった青春期を懐かしみ、永遠に年老いないまま、現役の少年少女を玩弄する邪悪な男』というモチーフは幾原作品にはバンバン出ていて、ウテナの暁夫なり、ピングドラムの眞悧なり、枚挙にいとまがない。
"彼"もまたそういう亡霊の系譜に連なる存在だとは思うのだが、その妄執はユーリカに受け継がれ、学園という百合の箱庭も継承される。
ユリにしろクマにしろ男という存在がほとんど見受けられない世界で、"彼"と明言されている男が世界を歪めているのは、個人的に面白いポイントだ。

クマが人を喰う存在であり、ユーリカにとって捕食とは「スキを体内にし、空疎を満たす」行為である以上、失われるとはいえスキをくれた"彼"をおそらく、ユーリカは食しているのだろう。
既に"彼"の肉でみっしりと埋まってしまっていた結果、澪愛を食しても空疎は満たされなかったのか。
それとも捕食という行為それ自体が間違いなのか、既に間違えてしまったユリーカには一生わからない。
同じ立場にあった銀子も紅羽も正しい選択をしているのは、育てていた親の違いなのかもしれない。


仮面の告白が終わり、物語は屋上での対峙に向かって一気に滑り落ちていく。
未完成の童話が示唆するように、鏡を割って見えた本当の姿……怪物に銃弾を撃ちぬいたところで、今回の話は終わった。
メタファーに満ちたこの物語が、ただ寓意譚として進むのではなく、お話としての上がり下がりを兼ね備えたサスペンスに仕上がっているのは、個人的には驚きであり、嬉しい事でもある。

クマである罪を許し綺麗にまとまろうとしたところで、るるちゃんが出てきたのは嫉妬半分、正義半分といったところだろう。
今回、銀子は明確に紅羽へのスキを選択し、るるを切り捨てる。
自分るる好きなんで『もうちょっとその、なんというか手加減を……』とか思ったりもしたが、あそこは選択しなければいけないタイミングだというのはよく分かる。
判るんだが、何とか銀子が傷つかないように行動し続けるるるの姿が、愛しくて切なくてどうにもできなくて(唐突な言い訳Maybe

Aパートでユリーカの過去を見せておいたことで、紅羽を誘導しかつて自分がたどり着いた間違いに落とし込もうとする彼女の言葉が、全て自身に帰ってくる構造は巧い。
彼女の空々しい嘘はただ嘘であるというわけではなく、『親の世代』と『今の世代』の差異を強調する反響材になっている。
更に言えば、自分のスキを自分で滅茶苦茶にしてなお生き残ってしまうユリーカの性と、その結果犯した親殺し、恋人殺しの罪への裁きを求める心理も、彼女の嘘の中に見えてくる。
澪愛を食い殺した時泣いていたのを見ても、ユリーカは死にたくて死にたくてしょうがないのに、生き延びてしまうクマなのだと思う。

雷の音で台詞=過程=真相を省略し、銃声という結果が先に届いて引いた今回。
見事なクリフハンガーであり、次回が非常に気になります。
『あなたの箱を開けて』つーのはcome out of the closet(隠していた性的嗜好をオープンにする)とかけてんのかなとか、井上喜久子短時間ならまだまだ萌声行けるなとか、色んな事を考える回でした。

 

ユリ熊嵐:第9話『あの娘たちの未来』
衝撃の第8話ラストから、実写を挟んでの今回。
銀子の自問自答と紅羽の逡巡、ユーリカ先生の決着が描かれるお話でした。
共通しているのは過去との対話……なのかなぁ?

紅羽に撃たれた銀子が目覚めた場所は、かつて少年兵としてクマ的生活を営んでいた氷の世界であり、時間が巻き戻った場所です。
なので、死人のはずの蜜子も出てきて色々喋ってくれる。
彼女が銀子を責める良心と、真実を開示する探偵の仕事を同時にやってくれているので、あのシーンは凄く解りやすく展開してたと思います。
クマの世界とユリの世界を分けるという意味では、断絶の壁と同じ役割を持っている場所であり、あの蜜子はジャッジメント・ガイズと同じ仕事をになってるって考えられるかな?

銀子は秘されていた真実を蜜子の協力で思い出し、開示していき、己の罪を白日に晒していく。
蜜子の声は銀子の良心の声でもあるわけで、『『食べた』のは蜜子でも『殺した』のは銀子』という告発は、銀子自身の強い後悔を意味しているわけです。
だから、るるちゃんは「見殺しにした」と言っているのに、それを受けた銀子は「私が殺した」と言い換えている。
銀子の中で、泉乃純花殺人事件の犯人は自分であり、嫉妬という動機も強い後悔も、スキの裏側(内側?)でくすぶり続けていた。

銀子が純花と出会っており、会話もしていたという事実も公開されていましたが、強い後悔の念を見るだに、嫉妬すると同時に純花のことをスキになりかけていたじゃないかなぁ、などとも思ってしまいます。
『大好きで大嫌いで、ずっと友だちになりたかった』という繰り返されるモノローグは、銀子から純花への語りかけでもあるのかもしれん。
まぁ俺が純花大好きマンであるっていう事、みんな純花のことスキであって欲しいという願いを持ってることは、この読みに強いフィルタをかけてはいると思いますが。
でも、ただの嫉妬と罪悪感だけで、人間って死を覚悟できるのかしら?


蜜子の亡霊は彼女自身が言っていたように、銀子の欲望≒クマ的な部分でもあるわけで、銀子パートラストで蜜子を食し、一体化するのは欲望に身を任せることにした、という解釈が出来ます。
その結果「私はあの子を食べるよ」という宣言に至るわけですが、愛するものを食した末路は今回、ユリーカ先生がイヤッというほど魅せつけてくれているので、銀子は同じ間違いをしないと思いたいです。
あの終わり方が二回繰り返されるのは、ちょっと寂しすぎる。

しかし『あなたをヒトリジメしたい』という欲望は、けして切り離せないスキの一部分でもあって、蜜子との一体化は見方を変えれば、綺麗事ではないスキの本質と向かい合うため、絶対に必要な出来事と言える。
ここで欲望だけに押し流されてしまえば、空っぽの箱を満たすことも出来ず、自分自身が作った箱のシステムに殺されたユリーカ先生と同じ末路を、銀子は辿ることになる。
ユリーカ先生の断末魔を、母の面影を背負った紅羽が聞いたことも引っ括めると、間違えてしまったかつての主人公たちとは、違う道を歩かせようと物語は動いてると、僕は思うわけです。
思いたいだけなのかもしれんですが。

氷の世界から帰還した銀子は、否応なく生者としてもう一度、紅羽に再開しなければいけない。
その時彼女はユリに化けたクマではなく、ユリ的なモノを剥奪された剥き出しのクマになっているはずです。
ここら辺の流れは『月の娘と森の娘』そのまま。
今回その結末を仄めかして引いたので、断絶の壁を超えたクマとユリは一体どうなるのか、箱の中の結末を早く知りたいところですね。


一度は銃という暴力で銀子を排除した紅羽ですが、特に誰の力を借りるでもなく、銀子の本心と向かい合いたいという気持ちに辿り着いています。
クマを排除する存在としてではなく、友達として再話に立ち向かいたかったというのは、ユーリカの誘いに銃を持たずノコノコ出てきたことからも見て取れます。
こういう暴力への恐れは、迷わずユーリカ先生を撃った大木蝶子と対照的だなぁと思いました。
友達だった純花を殺し、自分自身も迫害したシステムの暴力に助けられる展開は、すんげぇ皮肉だった。

銀子と触れ合っていくうちに、紅羽は純花を凄い勢いで忘れていきます。
あれだけ回想されてた死人のシーンは露骨に減り、ペンダント触るだけでいいのに胸元に手を差し入れようとする紅羽の欲望は、自分としては実は嬉しい。
頑なに他者を排除し、死人のために己を捧げて生きるより、薄情に死人を忘れて、目の前の暖かさに齧り付く浅ましい生き方のほうが、嘘も無理もないように思うからです。
悪意を秘めた透明なクラスメイト達では紅羽の空疎は埋まらなかったわけで、紅羽を薄情にさせる(=過去に囚われるのをやめ、今を生きさせる)のは、銀子だけの特権なわけです。
そう言う唯一性は作中で特殊化されている『スキ』以上の意味合いで、『好き』という言葉にしっくり来る。
ラブ・ストーリーであるこのお話において、そう言う関係性が構築されているのは、良いことだなと思います。
紅羽の、そして銀子の心にも純花という刺が刺さっている以上、完全に忘れ去ることなんて出来るわけもないし。


そして失われてしまった人、壊してしまった関係に一生取り憑かれた人の哀れさが、今週のユリーカ先生の姿であります。
『失われた永遠の名残を恣にすることで、喪失を再獲得しようとする存在』という意味では、苹果を陵辱することで桃果を取り戻そうとしたゆりさんとか、かつての自分の面影を背負ったウテナを蹂躙して憂さを晴らしてた暁夫さんとか、ウテナのことを時子と呼んでいた御影といった、イクニ世界のダメ人間をやっぱ思い出します。
綺麗な時を閉じ込めて湖に沈める試みは、必ず歪んで腐敗していくのが、幾原邦彦の世界律なんでしょうね。

ユリーカ先生は澪愛に選ばれなかったと思い込み、永遠の友達を自ら破壊し、空疎な心の延長として嵐が丘学園を製造し、その内側に透明な嵐という暴力装置を呼び込んでしまった、凄く『悪い』人です。
しかしその心の奥底には、『善き』ものとして描写されている主人公の少女たちと同じ、柔らかで綺麗な愛情があった。
それは歪んでしまったけど、本質的に同じものであり、危険性を孕みつつやっぱり『善い』ものなんだと思います。
そういう『善い』ものがどうしようもなく変わってしまって、何処にも行けない結末を迎えてしまう寂しさと哀しさを、僕は紅羽に看取られたラストシーンには感じてしまう。

今回ユリーカ先生が退場したことで、彼女が主人公たちのうつしかがみ、間違えてしまった主役であるという構図は、凄く鮮明になったと思います。
綺麗な思い出と永遠の約束は四人の少女たち総てに、選ばれなかった切なさは銀子が純花を見殺しにした動機、るるが銀子の真実を告白した理由に、それぞれ結線されている。
ユリーカ先生は澪愛を捕食した瞬間に決定的に間違えてしまったわけですが、四人の少女たちの物語はまだそこに到達していない。
それは、まさにこれから語られる未来の物語なのです。

そして、かつての主人公たちと今の主役たちは、大筋は似通っていても大きく違う所が沢山あります。
紅羽が持っているクマへの憎しみは母の愛情の反転であり、"彼"の喪失を歪んだ形で引き継ぎ、箱への偏愛を募らせたユリーカ先生とは違う。
一度銀子を排除した紅羽は、銀子とるるが与えてくれた友情を頼りに、再話に向かって自分から歩き始めた。

紅羽はこの様に違う部分をはっきりと見せているのですが、選ばれなかった寂しさと独占欲を抱え込んでいるクマたちが、ユリーカ先生とどう異なるのかは、まだ見えない所です。
というか、今週亡霊と対話し一体化した銀子は、かつてのユリーカ先生と同じ位置に立った、と言えます。
そこからどういう道を辿り、どういう結論に至るのか。
とても楽しみですね。

 

ユリ熊嵐:第10話『ともだちの扉』
最終回を前に一話しっかり使って、るるちんを氷の世界に送り出すエピソード。
クマとユリの間を狡賢く立ち回っていた作中唯一の大人、ユリーカ先生が居なくなったからか、学生たちの透明な嵐は本格的な暴走を開始。
壁の内側に残ってしまった紅羽と銀子の運命や如何に、というところでしょうか。

今回は徹底的に紅るる回でして、細かく細かく少女の心が揺れて動いていく様を、たっぷり尺を使って描写していました。
おそらく今回がエピローグ前最後の出番となるるるちゃんは、キャラクターを総括するべく、丁寧に自分の心情を喋り、主人公に真心を残して去って行きました。
途中すんごい勢いで死亡フラグスカウターが数字を上げており、「おいィ? るる死亡は許されざるよマジ!!」とかなってましたが、死ななくて良かった……。
やっぱ可愛いし良い子だよなぁ、るるちん。
かなり好きっすね、ええ。

るるに対応していくことで、紅羽も自分自身のテーマである『クマとユリの間の断絶にどう相対するのか』という問いに、答えを出していました。
るるを抱きしめる決断をすることで、クマである銀子を迷いなく愛する事前準備を済ませるという流れは、なかなかスムーズ。
最後すんごいストロングスタイルのツンデレでるるを追い出してましたけど、まぁ壁の中碌でもないからね……。


一見銀子を間に挟んでスキとキライで拗れているようにみえる間柄ですが、スキとキライ、ユリとクマ、過去と現在の間で面倒くさいことになってるのは、実は登場人物全員同じ。
真っ先に解決したのがるるだったというだけであって、三角関係だから複雑な関係だったというよりは、作品自体が複層的で相矛盾した感情を要求している、という感じですね。

王子様に奇跡を起こしてもらって、弟を失ってしまった自分を救いたい気持ち。
自分より紅羽がスキなのを知っていても、まだ銀子がスキな気持ち。
るるちゃんが抱え込んでいる気持ちはビューティーが指摘していたように、矛盾に満ちています。
その上で、断絶の壁を超えて触れ合った紅羽に、恋敵でも捕食対象でもない、友人としての感情を持ってしまっているのが、ここまで状況がこじれた理由の一つです。

感情と行動に矛盾が満ちているのは紅羽も同じで、『クマは殺す』という建前であり本音でもある気持ちと、クマであるるると友達でありたいという気持ちは、透明な嵐吹き荒れる壁の中では両立できない感情です。
今回透明な嵐が学園の外に飛び火し、魔女狩りめいた過激さを加速させていたのは、矛盾を矛盾のまま維持できるモラトリアム期を終わりにして、決断への圧力をかける意味もあるかと感じました。
いや、殺獣メーサー車とサイボーグゾンビクマ、出したかっただけかもしんないけどさぁ……。

似ている二人は、その矛盾を解決する糸口を既に掴んでいる、というところまで似ている。
るるは紅羽が銀子を撃つ状況を産んでしまった、己の発言への後悔。
紅羽は取り戻した過去の記憶と、母親の死の真相。
いま「それが正しいと思える」ことを貫くためには、過去と真っ向から向き合い、自分の起源を確認することが重要なわけです。

 

過去に向かい合うといえば、親世代の関係を現在の少女たちが再演していく構図は、事態がクライマックスに向かうにつれ強調されています。
今回で言えば、過去において澪愛-銀子が行った逃亡幇助が、紅羽-るるでリピートされている。
クマに戻ったるるが布で包まれているのは、露骨に赤ん坊のイメージ、無力さと無垢さの強調でしょう。
弱くて純粋な存在を逃した後、澪愛はユリーカに食べられたわけですが、紅羽もまた銀子に狙われた所で今回終わっています。

悲劇もまた再演されるのかなと悲観する局面ですが、過去とは類似もあれば合同もあるというのが、このアニメでの再演の法則。
今回で言うのなら、自分勝手で暴力的≒クマ的な愛情を乗り越え、恋敵とすら友達になれた紅羽とるるの関係性は、ユリーカ先生がついに手に入れられなかった夢だと言えます。
今回のエピソードは紅羽とるるのお話であると同時に、紅羽とクマ、紅羽と銀子とのお話でもあるわけで、そこで出た結論「私は、友達を排除させたりしない」もまた、るるだけではなく銀子にも適応できることでしょう。

同時に、蜜子≒クマ性と一体化した今の銀子は、最初から優しく理性的≒ユリ的なクマだったるるとは、全く別の存在でしょう。
絵本の結末のように、断絶の壁を超えた新しい世界へ歩み出せるか否かは、今回一つの答えに辿り着いた紅羽が、土壇場でいかなる決断をするかに賭かっています。
作品全ての価値が主人公の決断に集約していくこの流れ、まさにクライマックスというのに相応しい。
ユリ熊嵐最終盤、いったいどうなることか。
楽しみですね。

 

ユリ熊嵐:第11話『私たちの望むことは』
アバンで全てが終わった後の状況を描写し、そこから銀子の過去と現在をトレースしていく、時間遡行型エピソードでした。
『何故銀子は、紅羽との過去を彼女に開示しないのか』『何故紅羽は、クマへの憎悪という呪いに縛られていたのか』という謎が開示されて、お話のパズル最後のピースがしっかり入った感じがあります。
その上で、未だ嵐の渦中にいる二人がどこに行くのか、それは解らない。

紅羽から見た過去は既に語られているので、銀子から見た過去の真実を描写するのが、Aパートの仕事になります。
かつて出会い、通じ合い、しかしシステムの暴力によって傷付けられて身を引く。
銀子-紅羽の最初の出会いは、やはり紅羽-純花の関係と重なっています。

このリフレインが逆説的に意味しているのは、クマとユリ(ヒト)の間に差異はないということです。
クマもヒトも、『世界で最も強い』透明な空気のシステムに踏みにじられ、ズタズタにされる生贄であるというのは、同じことです。
過去回想の中の透明な嵐も、時間を経て成熟したはずの現在と同じように、無邪気で無垢で、それゆえグロテスクなものでした。
それは、透明な嵐を子供たちが担っているからというだけではない、社会からの排除が持つ本質なのだと思います。

相手の顔を見ない、相手をヒト扱いしないことを前提に加速していく暴力は、まるでサイボーグクマが踏んでる発電用弾み車のように、暴力が無理解を加速し、無理解が暴力を後押しする構図を持っています。
どこまでも転がり続ける『世界で最も強い』システムの前には、クマもクマ寄りのヒトも同じこと。
システムの犠牲者であるという点において、紅羽と銀子と純花、そしてるるは同じラインに立っています。
それでもなお、システムに同化されないという意味でも、彼女たちは同輩でしょう。

断絶の壁を乗り越えた同輩なのは犠牲者だけではなく、加害者もまた同じ要素を持っています。
クマの世界に帰還した銀子は、『お前はクマリア様の子供ではない』『世界を害する毒』と決めつけられ、集団から排斥されます。
世界から排斥された子供を再集結させたあの集団ですら、異分子を排斥するシステムを内包している。
即座に吊るしあげて殺すという、透明な嵐の対応とは大きな差異がありますが、別にクマの世界も楽園というわけではないのです。

こうして考えると、王女というシステムの頂点に立ち、気に食わない弟を何度も排除してきたるるは、システムの内側に居た稀有な経験を持つ女の子になります。
弟の死、システムによる排斥に強い後悔を抱くからこそ、システムから飛び出したアウトサイダーである銀子に、かつて失った夢の再獲得を託したのかもしれません。
るるちゃんの死については、後でまとめて語ります。


システムによる排斥から一度は避難した銀子ですが、断罪のコートによる約束にすがり、共同体を追放されても待ち続け、ついに約束の時を迎えます。
アホな事ばっかりやってるエキセントリック集団なので分かり難いのですが、思い返すと断罪のコートは峻厳な法則の番人としての態度を、ずっと崩していない。
最初は銀るるという特別なクマだけに見える存在なのかと思っていましたが、紅羽にも接触するし、ユリーカ先生ともコンタクトしている。

ヒト-クマの境を代償や契約と引き換えに飛び越えさせる彼らは、人格的な存在と言うよりも、クマリア様や断絶の壁、トモダチの扉といった『アンチシステム-システム』なのかなと思いました。
システムなので人間的な幸福よりも、『ヒトとクマは越境可能である』という法則の維持に関心があるし、『ヒトになりたいクマ』『クマになりたいヒト』には、区別なくコンタクトしている。
紅羽からの拒絶を味わい、クマ世界からも孤立した銀子がコートをとの約束を信じられるのは、それしか希望がないのもありますが、彼らが公平なシステムとして孤独に立っているからではないでしょうか。

彼らを『アンチシステム-システム』と言ったのは、境界を越えようとするキャラクターを襲う困難は、クマの中に潜んでいる本能的欲求にしても、クマ・ヒト両方の世界に存在する排斥にしても、自動的でシステム化されている、強力な存在だからです。
「あの子をヒトリジメしたい」という欲求も、異分子を排斥する空気も、圧倒的で自動的で無慈悲なシステムであり、スキという気持ち一つを抱いて闘うにはあまりに強大過ぎる。
作品内に数多く埋め込まれた『アンチシステム-システム』は、システムから排斥されつつも融和を目指して闘うキャラクターに、そして物語全体に一種の救いを与えるべく用意されている印象を、僕は受けます。
システムと闘うのはただ個人ではなく、真理だとか運命だとか、色んな言われ方をするだろうけども、システムに対向するシステムも同じという視点を、断罪のコートからは感じるわけです。


そういう意味では、蜜子の亡霊も、クマとヒトの融和を遮断する一種のシステムといえるのでしょうか。
あの存在が、銀子の後悔が生み出した幻影なのか、銀子の持つ欲望の具現なのか、はたまた本当に蜜子の死霊なのか、厳密な区別は付けれないし、つけなくてもいいと思います。
重要なのは彼女が象徴するのがクマの本能、「あの子をヒトリジメしたい」という気持ちであり、それはとても強いものだ、ということです。

今回銀子は蜜子の亡霊と決別し、本能に支配されたクマではなく、対話可能なヒトとして紅羽と対峙します。
作品のルールに照らし合わせると、それは無条件に肯定される行為ではなく、だからこそ蜜子は『牙を失った獣は死ぬ』と警告してから消える。
蜜子が銀子の超自我でもあることを考えると、アレは『嫌な予感』というか、クマ的なものを否定してもクマはクマであるという矛盾への危うさに、銀子が気付いているという証明なのかな、と思います。

銀子はクマ的なクマでして、紅羽を殺そうとした透明な女の子たちを何人も殺しているし、それ以前に少年兵として戦場で人間を殺している。
銀子個人がクマ的な自分に決別しても、クマとして殺した女の子達は消えるわけではないし、それを行った自分自身もまた残っている。
ここら辺の不安定な構図が、『それはそういうものだ』という確信に基いて行われているのか、意図的に見落としているのか、はたまた単純に気づいていないかは、紅羽と銀子が最終的にどういう結末を選択するか見ないと、判んない部分だと思います。


その上で、今回るるちゃんが死にました。
るるちゃんは一度断絶の外側、クマの世界に対比させられた上で、ユリ的な自分を選択してトモダチのために帰還し、死んでしまった子です。
銀子に遺言を残す描写、その対話(人間的な行為!)が夢か幻だったかのように急速に切断されクマの死体が映る描写。
影絵で死んでいった透明な女の子たちに比べ、るるちゃんの死は特権的です。

るるちゃんはいい子だったし、好きになれる女の子だったので、彼女の死が特権的に描写されるのは自然なことであり、重要な事でもあります。
『共感できるような女の子が死んでしまったのなら、涙くらい流したい』というのは人情であり、劇作のメカニズムとしては、そこを狙って話を組み立てていく部分です。
透明な嵐に満ちた世界の中で、友のために死ねる子がいるというのは、『アンチシステム-システム』の存在、圧倒的な現実に打ち勝つ夢想的な運命の証明として、重要な事でしょう。

その上で。
特権的に死んでいった女の子たちと、影絵のように消えていった女の子たちの間の差異、劇的な存在と劇性を有することを許されていない存在のそれぞれの死の間に横たわっている差異を、この作品がどう捉えているのかが、僕個人としては気になります。
英雄の死と一兵卒の死が別の問題だからこそ、一兵卒が集団化した時有する『透明な嵐』に圧倒的な力が宿っているということなのか(兵卒が英雄を殺すためには、『透明な嵐』という武器がいるのか)
特権的に死ぬためには透明あり続けない選択、苛烈で鮮烈な生き方(ウテナの歌詞を借りるなら『いさぎよくカッコ良い』生き方)をしなければならない、ということなのか。
影絵のように消えていった女の子にその選択肢はあったのか、それとも彼女たちはあえて透明で在り続けることを選んだのか。
るるちゃんの特権的な死は、ここら辺の疑問を再浮上させる機能を僕に果たしてくれました。

最後の疑問に関しては、書いていくうちにある程度の答えが見えてきて、『機会はあったが選択を拒んだからこそ、女の子たちは影絵のように死ぬのだ』という感じです。
『排除の儀』は投票行為なわけで、それを拒む自由と恐怖が存在しているっていうのは、紅羽も純花が一度あの場に居合わせて、かつ『スキを諦めない』という鮮烈な生き方を選択していることからも、結構見えるところかなと。
しかしそれでもなお、選択を拒んだ透明な影絵の軍隊が奮う暴力、『透明な嵐』は何度首謀者が死んでも、おそらくその起源≒教祖たるユリーカ先生を手にかけても、止まるどころか加速しながら突き進み、ついにるるちゃんを手に掛ける力を持っています。
この話において、劇的な選択をしたからといって必ずしも、己を害する世界に対し何かを成す特権が与えられるというわけではないわけです。
ヒロイックに見えて、ペシミスティックな話だと思いますね。

この話が英雄劇として終わるのか、はたまた悲劇として終わるのか、それとも大概がそうであるように英雄的悲劇もしくは悲劇要素を持った英雄譚として終わるのか。
落着の為所は、やはり紅羽と銀子の決断にかかっています。
スキの行き着く場所が何処なのか、こうして文章をまとめている比較的冷静な脳髄も楽しみにしていますし、スキを諦めない英雄的少女たちの行く末にドキドキしている心臓も、同じように期待を高めている。
……そういう状況で再放送挟むのかよ! 死にそう!!

 

ユリ熊嵐:第12話『ユリ熊嵐
ユリで熊で嵐! ユリと熊が嵐!! なアニメもついに最終回。
透明な嵐を内包した世界の厳しさは一切忽せにしないまま、一筋の光明を掴みとる終わり方でした。
とても良いアニメです。


色々と考えたいことはあるのですが、とりあえず見ながら気になっていた所で、最終話になって腑に落ちた所を書いていきたいと思います。
ミステリでもあるこのお話に最後に残った謎、『過去、運命に操を立てたのは誰?』という問いかけに、今回答えが出ていました。
紅羽の記憶がなくなったのだから、それは当然紅羽……というロジックを、現物が出るまで一切思いつかなかった僕は偉そうなこと言えないなぁ……とか思ったりした。

この謎解きは『自分の願いを他者に押し付ける高慢の罪を、紅羽は過去に犯している』ということでもあり、その事がヒトがクマになる最後の決断に繋がっているわけです。
クマは自分の望むままに人を食べ、自堕落に肌を重ね、相手の気持を考えず行動する宿命を持った生き物だという描写は、例えば蜜子だとかユリーカ先生だとか、過去にたくさんされてきました。
銀子も蜜子と同化することで、クマ的な自分に一度は支配され、それを乗り越えて紅羽の前にもう一度立つ。
それを追いかけるように、紅羽は過去の罪を思い出し、クマ的な自分を受け入れクマへと変わる。
ユリ的なクマとして断絶の壁を乗り越えてきた銀子とルルと出会うことで、『クマを殺す』ことをアイデンティティとして物語に立ち現れる紅羽は、自身の罪によって失われた過去に立ち戻り、クマ的なユリとして再誕し、死ぬわけです。
銀子と紅羽の死については、後で話します。


ともあれ、他人が変わることを望んでいた紅羽も、他人をヒトリジメにすることを願っていた銀子も共に歩み寄り、ヒトがクマになるという奇跡が起こる。
それを前にして、今まで無邪気な子供のように(実際子供の年齢なのですが)銃という暴力を弄んでいた透明な女の子たちは、それが命を奪う道具であることを思い出したように、暴力の行使をためらい始める。
紅羽が最初から銃が下手くそな子であったことを考えると、あの子達は奇跡を目の前にして、紅羽のように変わることが出来る可能性、決断のチャンスを突きつけられたのだ、と言えます。
壁の模様も、トモダチの扉に変化してましたしね。

しかし世界は奇跡に目をつぶり、新たな同胞を受け入れることなく排除し、誰か生贄を捧げて維持される日常の中に帰還していく。
奇跡は目の前で起きているのに、今までそれでやって来た世界から飛び出す勇気を持てず、また人狼ゲームに帰ってしまう蝶子たちを、愚かだなぁと切り捨てることが、僕はどうしても出来ない。
多分僕も、あの場にいたら銀子と紅羽を殺していただろうな、と思います。
蝶子のように、奇跡など起きていないのだと、アイツラは人間じゃないんだと言い聞かせながら、同調圧に背中をされて暴力を振り下ろす決断をしていたと思います。
それが『普通』です。

学園ではなくウテナが消えたTV版ウテナや、全てが消えた荒野に走りだした映画版ウテナ、世界を呪う眞悧という悪意を祓わないまま陽毬の死だけを退けたピングドラム
奇跡には常に犠牲を必要とし、その癖残忍なまま巨大なシステムには変化がない世界を、幾原邦彦という作家はいつでも睨んでいるように思います。
その視線には、強烈なニヒリズムがある。
その上で、一条の光を諦めない信念があるからこそ、僕は彼が監督するアニメーションが好きなのですが。


奇跡は確かに起きていて、たった二人、変わった存在もいる。
あの時銃口を下し、透明な嵐の輪廻から降りることを選択した(つまりは、次の生贄になることを決意した)撃子は、紅羽と銀子が、紅羽と純花が、ユリーカと澪愛が、恋人たちがいつでも出会う場所である『あの場所』でこのみを見つける。
撃子も一人であるなら他の子と同じように、銃を手放さず透明な嵐に加担していたのでしょうが、彼女だけが死んだはずのこのみが涙を流す姿を見ている。
死人でありクマでありサイボーグであるという、他者の刻印を三重に押されたこのみも、奇跡を前にして涙を流す存在に戻る。

もしそれを見ていなかったら、もしくは他の子はそれを見ていないからこそ、銃を手放すことは出来なかったと思います。
透明な存在は透明なままではないけれども、そこから一歩を踏み出すのはとても難しくて、一人ではけして出来ないものだという答えは、銀子が奪ってしまった命の意味を何処に置くかがずっと気になっていた身としては、しっくり来る解答でした。

透明な嵐のシステムが存続した以上、二人のこれからは、銀子やるるや紅羽や純花やユリーカ先生がそうだったように、嵐の中に飛び込むように厳しいことでしょう。
今回の奇跡がそうだったように、巨大なシステムへの無謀な足掻きであり、死を以ってしか成就しない恋が再び生まれるのかも知れません。
世界は依然として、冷たく厳しい氷の世界のままです。


銀子と紅羽がクマリアの元へと旅立っていく幸せな終わり方が、このアニメでは描写されています。
しかしそれはあくまで撃子がガンスモークの果てに見た光景であり、一人称的な世界です。
有り体に言えば、妄想とも希望とも現実ともつかない、箱の中の描写です。
既に銃を手放し世界からドロップアウトする覚悟を決めた撃子にとって、紅羽と銀子に訪れた奇跡は世界と戦う覚悟の源であり、けして否定したくはない『スキ』であると思います。
『スキ』が身勝手なものでもあるというこのアニメのルールに基づいて言えば、紅羽と銀子の旅立ちは、撃子がこの後嵐の中で生きていくために必要な、身勝手な願いかもしれないわけです。
あのシーンを虚実定かならぬシーンとして描いた残忍さは、妥協がなくてとても凄い。

その上で、透明な嵐に飲み込まれないまま一人生き残ることなんて出来ないし、エゴから生まれた愛でも、というかそういう愛しか、私達には術がないということも、このアニメでずっと描かれていたことです。
だから、撃子が見た二人の旅立ちは、現実であろうと虚構であろうと真実であり、真実は強いものなのだと、僕は思います。
身勝手でも何でも希望は投げかけるしかないし、それを受け取ってくれるかもしれないという可能性それ自体が希望だということは、このアニメずっと言って来たわけですから。


虚実定かならぬ描写というのは、抽象度が極端に高いこのアニメにおいて、様々な描写に言えます。
何故クマリア様は純花の姿をしていたのか。
『スキがキスになる場所』というのは(作中における)現実に存在する場所なのか。
ラストシーンで二人が出会った『あの場所』は、断絶の壁を飛び越えたどこかなのか、死後の世界なのか。
これらは全てあやふやで、見る側に委ねられた描写です。

そもだに、断絶の壁によって隔てられたクマとユリという根本設定自体が、非常に抽象度が高く、どうとでも解釈できる要素です。
そして、そこに何を見るかというのは、それこそ紅羽が立ち竦み決意を持って砕いた鏡のように、視聴者の興味や感心を写す所です。
このお話でカメラが捉えていた様々なものは、現実において何を照応するのかというのは、見た人それぞれ答えがあると思います。
同性愛の問題やいじめの問題、地域紛争や高度情報化社会。
もっと個人的なものを投影される視聴者の方も、もちろんいるでしょう。
神話やおとぎ話のように、現実をそのまま照応しないこのお話は、多様な解釈と答えを許容している作品だと思います。

そして、全ての答えは十分以上に価値があるように、このアニメは作られていると思います。
マニアックな設定遊びでも、ペダンティックなメタファーの遊戯でもなく、愛と断絶と排除の話をする上で必要な措置だから、抽象度を上げた。
あやふやで曖昧で、現実には起こりえない設定を持ち込むことでしか、見せられないものがあると信じた。
その結果、直球勝負では辿りつくのが難しい確かさと豊かさで、テーマを語り終えたのだと、見終わって僕は思いました。

『これはどういうことかな』『俺はこう思うな』という反応を導くのは、作品が内包する描写と、反応する視聴者の内側にあるものしかありません。
24分なら24分のボリュームを足場にして、見た人の気持ちや感想、もしかしたら感動というものは飛び立っていくわけで、足場が確かでなければ、高い跳躍は出来ない。
そして、ユリ熊嵐という足場は豊かで確かです。
そこを土台にして飛び立った多様な感想、その人なりの受け取り方というのは、たったひとつの真実によって叩き潰されるものではなく、一個一個がそれ自体貴重なものだと思うわけです。

多様性を許容しておいて自分自身の意見を出さないのもアンフェアなので、この段落の一番最初で上げた、あやふやな描写の僕なりの解釈を書いておきます。
クマリア様が純花の姿をしていたのは、その前に立ったのが紅羽だからでしょう。
峻厳な世界の小さな希望が、個人的な経験の中で最大限自分を助けてくれた尊い人の姿で見えるというのは、個人的に納得がいく所です。

そして、『スキがキスになる場所』も『あの場所』も、両方死後の世界です。
天国か地獄かは判らないですが、ミルン王子もるるも、銀子も紅羽も死んでいます。
そして、そのことはけして絶望ではない。
対話する意識が残っている(≒意識を生の定義とする立場を取れば、亡霊は生存しているという結末を導けるから)からでも、彼女たちの愛の軌跡が鮮烈で『十分生きたから死んでもいい』というわけでもないです。
撃子とこのみという、希望を受け継いた次世代が作品世界に残ったからでもない。
彼女たちの物語はあくまで彼女たちのものであり、死者が大きな影響を与えたとしても、死人のものではないですから。

それは多分、彼女たちの物語がこのようにして収まるしかないように、このお話が説得力を持っていたからだと思います。
自分はこのアニメの『銃』の描写をずっと気にしていて、何も打ち抜けない紅羽の銃弾が最終的に何を捉えるのか、とても注目していました。
彼女が選んだ標的が『鏡に写った自分』だというのは、そういう立場からすると非常に『してやられた』描写でした。
頑なな自分と過去の罪を、持て余し続けた力の象徴で撃ち抜くというのは、思春期の少女が成長していくお話でもあったこのアニメにおいて、圧倒的に正解だと思います。
そして暴力をそのように使ってしまった以上、あの二人に応戦する選択肢はそもそも存在しない。
そういう意味においても、あの二人の死は必然だし、それ故に単なるエンドマーク、作中人物の退場という意味合いを大きく超えている。

死ななきゃいけない宿命にあったというわけではなく、峻厳として動かない透明な嵐の中で、断絶していた二人が出会い、別れ、再び出会うお話として、此処に辿り着くようにしっかりと組みててられたからだと思います。
虚実定かならぬ世界での救いも、『どうせ嘘っぱちじゃねぇの?』というニヒルな反応より、『ああ、そうだと善いなぁ、本当に失ったものを取り戻せる場所があるといいなぁ』と願ってしまうような気持ちを、僕は持っています。
12話(実写も合わせれば13話)見てきて、僕は凄くこのお話に納得している。


それにはこのお話の構成が、強く関係していると思います。
ウテナの1/3、ピングドラムの1/2という尺の短さが逆に、メイン・テーマに関係ない部分をすべて切り捨て、作品の抽象度も天井まで上げる決断を産んで、シンプルで骨太なお話になっていました。
ぱっと見感じるフレイバーに相反して、このお話はとても解りやすいし、飲み込み易いアニメだと僕は思っています。

ただ抽象的なだけのお話は退屈ですが、観客を引っ張る物語としての強さもまた、このアニメにはありました。
過酷な世界に迫害されつつ、宿命に引き裂かれた二人が再び出会うラブ・ストーリーとしての強さ。
別れに傷つき、悪意に躓き、思い出に支えられ、出会いに立ち上がる、波瀾万丈の青春物語としての強さ。
失われた記憶をキーとして、絶妙なタイミングで真相が明らかになっていくミステリとしての強さ。
色んな物語の強さがしっかりとあって、『クマの星が爆発して、クマが二足歩行で人間襲うようになった』なんていう、妄想全開の筋書きが気付けば心のなかに染み渡って、前のめりになるように見ていました。

お話の強さが視聴者を引き込む片輪だとすれば、もう一個の車輪はキャラクターです。
みんなトンチキだけど自分の願いに素直で、自分勝手で優しくて、哀しい子たちばかりでした。
みんな好きなんだけど、一人だけ選ぶなら……純花とるるちゃんで悩むなぁ……。
僕純花好きでねぇ……彼女が見せる優しさと強さは、凄くキラキラして見えたんです。
るるちゃんは個人回で満塁ホームランを撃った後、銀子への愛が暴走しちゃう所まで引っ括めて、最高に愛しかった。
銀子も紅羽も、蜜子もユリーカ先生も撃子もライフ・ジャッジメント・ガイズも、このアニメのキャラみんな好きだったなぁ、俺。


自分たちが描きたいものから逃げず、不器用なくらいに真っ直ぐ、本気で挑んだ作品でした。
そしてその本気は、楽しい亜に目を見たなぁという気持ちに、ちゃんと結実したと思います。
一視聴者の立場から偉そうなんですが、凄く良く出来ていて、凄く好きになれた、大事なアニメになりました。
スタッフの皆さん、ありがとうございました。
ユリ熊嵐、本当に素晴らしい、最高のアニメです。