水気が多すぎる季節にアニメ映画を見まくる企画、第9弾は『さよならの朝に約束の花をかざろう』です。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
脚本家・岡田麿里の初監督作品を、PAWORKSが仕上げたファンタジー映画です。
公式サイトは↓https://t.co/8A8NynDfqg
見た感想は…大変面白かったですッ!
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
生きて死に、愛して闘う。愚かで泥まみれの人の営み、流れていく時間に隣り合いつつも、混ざり合えない長命種。
その悲哀と尊さが、彼女を”母”とした一男性の年代記と重なり合いながら、上手く織り上げられていく立派なファンタジーでした。
『ファンタジーとしてのルックと雰囲気がしっかりしている』てのは、この話に取ってとても大事なところだと思います。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
『織る』種族としてのイオルフにフレッシュで正統な幻想性があることで、テーマが過剰に前に出るのを抑えて、一つのお話としての強さがあった。
僕個人の感覚として、岡田麿里作品には過剰なメッセージ性というか、『それ、お話じゃなくていいじゃん。シュプレヒコールかキャッチコピーでいいじゃん』みたいな身も蓋のなさを、時折感じていました。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
キャラと物語が、作者の言いたいことのツール(メディアではなく)になっちゃってる感じというか
PAの美術力がフルに唸り、イオルフの里、農村、王都、鉄の街と、様々に美しい異世界の景色が鮮烈に刺さる今作。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
キャラクターは”何か”を言うための媒介であり、同時にその世界にしっかり生きている(そして死んでいく)人物としての、重さと実在感がまずあったと思います。
それは長命種としての哀しさ、幻想としての儚さと脆さをイオルフにちゃんと込めて、マキア・レイリア・クリム…三者三様の人生模様を走らせたことで、強く裏打ちされていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
喜びと業に満ちた塵世に、強制的に放り込まれてしまった美しい種族は、一体どういう生き方を選び、世界と他人を巻き込むか。
善いファンタジーに必要な”靭やかな仮想”とも言うべきものが、話の主筋にも、それに巻き込まれるキャラクターにも、彼等が走る世界にも、よく滲んでいました。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
自分が生み出した作品と世界に、がっぷり四つで噛み合ってくれてる感じが随所に匂うのですよね。それが凄く良いグリップになる。
色んな見方ができる作品だと思うのですが、まぁまずは”母”の話で。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
主役であるマキアは、名前に”戦争”と刻まれてる通り急激な暴力に巻き込まれ、白く美しい幻想から強制的に、愚かな外界へと投げ込まれてしまう。
血を流す存在になってしまった彼女は、すぐ物語を終わらせる選択に引き寄せられる。
崖に身を投げようとしたところで、後にエリアルとなる赤子の声がして、彼女は死の国に旅立った聖母から、指を引っ剥がして赤子と”母”の役割を強奪する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
それがとてもエゴイスティックで、自分が生きるための決断だということを、序盤の映像は見落とさない。聖母の話なんだけども、あんま綺麗じゃない
里からはじき出された時、マキアの頬を濡らす”血”は死せる存在としての宿命であるし、母になるために払わなければいけない処女血、あるいは経血でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
しかしマキアはその腹に子を宿すわけでも、ロールモデルとなる父母を血縁に持つわけでもない。幻創種として、血の穢れから遠ざけられている。
イオルフの人工性ってのはこのお話でかなり大事なところだと思いますが、もう一人の主人公であるレイリアは攫われ、侵され、孕まされて閉じ込められる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
肉としての自分を人質に取られて、それ以外に人生を動かすテコを持たないまま”母”にされてしまったことが、全てを失った彼女唯一の支えになる。
血縁・非血縁。自由な在野・王宮という牢獄。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
二人の少女の運命は様々に別れつつ、”母”であることが憂き世を生きていくほぼ唯一のアイデンティティであり、人工的幻創種なりに、時間の歩みが噛み合わない人間世界になんとか地歩を固めようと、塵にまみれようと努力をしている。
これに対しクリムは、『イオルフかくあるべし、略奪された幼年期よ再び』とばかりに、静止した時間から動かない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
暴力によって奪われたものを、暴力によって奪い返すためにテロルに染まり、死によって時間を巻き戻し、停止させようとする。人間社会に溶け込んでいかない。
それは外界を遮断し、布を織って夢を紡ぐ人工的な生き物としての生き方を、テロルによって永続させようとするロマンだと思います。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
そこにあるエゴイズムと醜さもまた、”母”たちの生き汚さと同じように、しっかり切り取られる。というか、クリムの兇猛さは非生産的な分色が濃い。
ままごとの親子ごっこに乳を与え、生きる術を助けてくれるミドさんと出会うことで、マキアは使い方がわからなかったおっぱいを、一応形にできる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
そこから積み重なる小さな日々の描写は、後にマキアの人生を支え、呪う情愛と強がりに納得がいく、とても美しいものです。
幻想をはみ出して、現実に生きることで手に入る喜び。白く美しく冷たい隠れ里では、見られなかった暖かな食事、柔らかな光。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
そこには生きることの肯定があり、忠犬の大往生に見られるような、幸福な死がある。話の最後が辿り着く場所が、ここで示唆されてるのは上手い。
クリムもレイリアも、マキアがミドさん達と暮らすことで手に入れたような、土とお日様の匂いのする人間味は獲得できなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
しかしレイリアは腹の中の実感を唯一の縁に、人の世の残酷、(男性的、って言っていいでしょう)権力装置の身勝手に殺されることなく、生きることを選ぶ。
生きるに値する手がかりが”母”にしかないのなら、子宮を持たない男は、テロルの幻想とその先にある美しい死に囚われるしかないのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
ここにカウンターを当てるのが、当たり前の時の流れに捕まって、成長し置いていくエリアルの人生だと思います。
父になること、男になること。
それを望みつつ叶わず、時に年取らぬ美しき母との近親相姦的危うさに接近しながらも、彼は兵士という”男らしい”職業につき、子を為す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
母へのわだかまりを解消できない”ガキ”であっても、性は反抗期を過ぎて機能し、幼馴染を”母”にしてしまう。
マキアと同じく、エリアルも大人にならないまま親となる
一度も画面に映らない”王子”が一番鮮明ですが、この作品の”親”には何らか欠落、あるいは未成熟がつきまとう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
十全なあるべき大人、あるいは””親”を望めないまま、状況が(只人も長命種も)彼らに子供を与えて、守るために働いたり、人を殺したりする。
そして、クリムはその輪から外れている。
片親、流れ者、長命種と定命の時間。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
様々なズレが幸福だった親子の時間を壊して、エリアルは自立への反抗に旅立ち、マキアはクリムの破滅的幻想に閉じ込められてしまう。
人を装うために染め上げ、編み上げた茶色の髪は、イオルフの証明である白金に変わっていってしまう。
どうあがいてもイオルフは滅びゆく古い幻想であり、人の世に生まれ老いて死んでいくことは出来ない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
このルールを作品はかなり硬く守っていて、その上で長命種だからこそ出来ること、美しき幻想だからこそ飛び立てる空の美しさを、大事に描いている。
”母”を万能札にしないこの運びは、とても良かった
王都攻略戦のクライマックスで、”狂女の最期”という文学的モチーフを正統になぞりつつ、レイリアは空に身を投げる。お転婆で男勝りだった、イオルフの里の自分に、死を捧げて立ち返ろうとする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
しかし最後のレナトを操るマキアの乱入により、落下は飛翔へ、現実は幻想へと塗り替えられていく。
マキアがそれをなし得たのは、義娘であるディタの腹を借りて、血を流す出産を体験したことと、そうして生まれた孫との幸福に背を向けて、エリアルにサヨナラを告げたからな気がします。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
水辺を美しく歩んでいく、儚い幻想。人と同じ場所にはどうしてもいられない、美しい夢。
そんな自分の有り様を、流されるのではなく掴み取って選ぶことで、マキアは序盤の自分と同じように死に喚ばれ、自分と異なり”母”であることが現世にしがみつく縁たり得なかった旧友を、崖から救い得たのではないか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
そこで肯定されるのは、実体を滅しフィクションになっていく、イオルフとしての自分
しかしそこには、人生という経糸、喜怒哀楽の横糸でたっぷりと編まれた布地が、燦然と輝いている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
最後の竜、最後の妖精を人々は高く見上げて伝説にしていってしまうけども、幻想当人には、個別の人生とそこで見つけた使命、決意、尊さが確かにある。
それを翼に変えて、長い時を長いまま生きる。
テロルによる幻想の永遠化に呪われたクリムが出せなかった、どうしようもなく生きてしまう存在としての”現世のイオルフ”の在り方。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
それを編み上げて子と別れ、それでもなお”母”であることを己の布と認めるまでの話…なんだと思います。”Weave”という動詞の多義性を、最大限活かした映画。
物質と同時にメッセージであり、永遠化された情熱でもある布地を作中に生み出したのは、やっぱり強いな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
ある種のテキスタイル・ファンタジーである今作は、様々な布が画面上に舞い、国家の崩壊を象徴するようにメザーテの旗は地に落ちる。あるいは王宮の絨毯は燃える。
布は脆く儚いものであると同時に、丁寧に扱えば時間を飛び越えて思いを伝えてくれる、物質化した永遠(≒現世に降りたイオルフ)でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
切られ、踏みつけられる布の儚さは、透明感のある超越したデザインなのに、凄くあっけなく死んだり犯されたりするイオルフと、確かに歩調を合わせています。
イオルフは別に魔法が使えるわけでも、不死でもないわけです。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
剣で斬られれば死ぬし、犯されれば子も孕む。透明な精神性をデザインに宿しているのに、肉の脆さ弱さから逃れられないし、それを補うための暴力も鍛えてない。
人間が当たり前に持つ愚かな強さを、なかなか掴めない。
クリムはそれを内面化したようでいて、国を動かす時使うのは幻創種としての物語的特権だし、暴力を使って望みを果たす道も掴めない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
永遠に生きる幻想が、生きて死ぬ人間のサイクルとどれだけ馴染めないか、異質な存在なのかを、このお話はずっと睨みつけている。
その上で一抹、出会ったことに意味はあり愛したことに価値はあったと、小さく献花するような話運びが、僕は好きなんです。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
ある意味、ファンタジーとリアルが衝突する話だと思う。幻想を陵辱する現実の愚かさ、それに抵抗できない夢の手弱女っぷり、というか。
僕は”あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない”があんま好きじゃなくて、それは輝ける幼年期という物語から飛び出した亡霊たるめんまが、己も周囲も美しい呪いに巻き込んだまま、終わっちゃったからなんですが。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
強すぎる幻想が現実の背中を押して別れているというより、幻想に喰われたまま現実が続く
そういう不均衡を色んな部分から感じ取るので、あの話に首肯できない部分が強いわけです。感動してる暇があるなら、ぽっぽのカウンセリングを手配しろ!
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
しかし今作は、現実に放り出された幻想の脆さ、それが持つ暴力的な魅力を書いて、非常に適切な距離で手を離し、幻想に己を認めさせた感じがある。
ある意味フィクションが白旗を上げる結末なんだけども、最後まで見てイオルフたちが負け犬だとか、戦争と家族のままごとが醜いとか、そういう事は言えない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
あくまで自分の手で、時に間違えつつひと差しひと差し編み上げた、物語という布地はとても綺麗で、説得力があるわけです。
そこが凄く良いなと思いました。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
過去作とのリンクでいうと、僕が”岡田麿里”を知った最初の作品であるのも合わせて、”シムーン2018”だな、と思ったりもした。
冒頭の死体の指を剥いで自分の大事なものを掴み取るところとか、幻想の古代兵器に立脚する醜い国家とか。
空転する権力装置とか、それが倒壊した後もかなりしぶとく生きてる人々の群像とか、『これはかなりシムーン…』という味わいだった。シムーン大好き人間としては、とても美味しかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
でも、当然これはシムーンじゃない。シムーンを書いた上で、あの花作った上での、岡田麿里の新作。
そういうのとちゃんと向き合える、素直で率直な作品だったのは、僕個人にとって凄くありがたかったです。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
アニメオタクをやってると、製作者を『判った気になる』瞬間が魔物のように襲ってくるわけです。あの監督はこういう人、このスタジオはこういう傾向って真実が、勝手に生える。
でもそれは妄想で、一作一作、一話一話、一カット一カット別個のものとして、アニメは当然湧き上がってきている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
日々新なものとして、”マリー”の型にはめずに岡田麿里をじっと見つめることが大事だな、と思うんですけども、彼女の偉業と徒手で向き合うには、そういうステロも欲しくなって。
しかしまぁ、そういうものは極力持たないほうが良い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
遠くに愛おしく手放しておいて、目の前に提出された作品そのものを受け止めた上で、フッと手を伸ばして確かめ直したほうが、多分良い。
いろんな過去作品が脳裏をよぎりつつ、そんなことを考えたりしました。
作品を穿つノミを一個一個新調するのはまー大変で、疲れるしコストもかかるわけですが、作者が丹精込めて世に送り出した作品を受け止める上で、それくらいはしなきゃいけんのかな、とも思います。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
そういうノミを研ぐ砥石として、凄く面白く力強い作品でした。ありがたい。
僕が岡田麿里に見ていた、文学徒・詩学者としての資質が元気に唸っていて、非常にロマンティックだったのもいいです。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
エリアルが”大人”の通過儀礼として飲まされるアルコールの粘性とか、粘っこい”性”への視線は相変わらず健在なわけだけども。しかしそれは、作中シッカリ機能している。
それはあんまパブリックイメージでは特色と認識されていない、ロマンティックなポエジーを前面に出した”ファンタジー”だったからこその機能性かな、と思ったりもする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
ここら辺、”荒ぶる季節の乙女どもよ。”にも感じた部分なんだけども。”岡田麿里”は制作の根っこに関わったほうが、自分の肌に合うな
この美しい話を素直に語った後の”岡田麿里”が、一体どういう物語を作るのか。そこに期待が持てる、良いアニメでした。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
フィクションを描くものとして、今回切り取った幻想の脆さ、確かな尊さと意味は形を変えて、また力強く顔を出してくるでしょう。
”母”も”性”も、大人というものがどういうものか分からないまま大人にされてしまう者たちの当惑も、作家の背骨として別の作品、別のキャラクターを通じて、必ず顔を出す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
それがどんな顔をしているのか、凄く期待が高まる作品でした。とても面白かったです。
あ、マスケット時代の戦争描写が凄い精密さで、アクションシーンの仕上りがマジマニアックなのはいくら褒めても良い。騎兵が持ってる衝撃力をあれだけ重点して描いてるアニメ、早々ないと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
メロウな母子ドラマだけでなく、そこも大事にしたのは偉い。なにしろ”μαχη(戦争)”が主役だからねぇ…。
追記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
ミドさんの庇護を離れ、一個人としてエリアルを抱え、働いて生きていく。
エリアルが王都の再開と決別の後果たした決断が、彼女にちゃんと降り積もっていると”絵”が喋ってくる、鉄の街の酒場での芝居。
あそこはクオリティと物語の理想的共犯で、作中随一良い。
『おっぱいがわからない』子だったマキアが、忙しない日常を上手く乗りこなして、必死に生きる手段を自分のものにしたこと。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
しかしその異貌は、どうやっても人間の世界からは浮き上がるし、同性が排除された”男臭い”酒場に、彼女を受け止めるものは(息子すら)いない。
そういうことがズバーっと伝わることで、まどろっこしい説明をかっ飛ばして時間経過とか、経験値と摩耗とか、色んなものが判る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2020年7月7日
映像メディアであることの意味合い、『作画が良い』ことの真価があそこでは力強く生きしてて、『あー…アニメ見てるな』って感じだった。素晴らしい。