イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト 感想

”劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト”を見てきたので感想を書きます。
以下バリッバリにネタバレしますが、聖翔音楽学園第99期生2年A組の卒業式として、奇想飛び交う超絶映像体験として、大変満足の行く凄まじい映画でした。
何しろ総合芸術たる”歌劇”なので、音響の良い映画館で体験するのが良いかと思います。
TVシリーズを見届けた方たちは、彼女たちが選んだ未来を見届ける意味合いでも、更に鋭さを増した表現力に打ちのめされる意味でも、今劇場に向かわれるのが良いかと思います。

 

 

 

 というわけで、3年越しの完結編、スタァライト劇場版です。

総集編である”ロンド・ロンド・ロンド”ラストにねじ込まれた、あまりにも血なまぐさい予告。
時間と空間を自在に飛び跳ねながら、軽薄で重厚な思弁的冒険を繰り広げるSFジャンル”ワイドスクリーン・バロック”にLを足した謎の言葉”ワイルドスクリーン・バロック”の実態は、前衛的でありながらポップでキャッチーでもあったTVから更に先鋭化した、なんとも名状しがたい異様な物語でした。
”歪んだ真珠”を意味するBaroqueの名に恥じない、アバンギャルド極まる演出と乱発されるイメージの奔流、それに乗っかって暴れまくる別れと決意への複雑な感情、説明抜きでぶっちぎる感情の沸点。
非常にスタァライト的だと言えるし、あまりに突っ走りすぎて受け止め方が理解らなくもあり、しかしとんでもないものを見て、しっかり一つの物語が終わった実感は心に宿る。
そんな、ワイルドでバロックな物語でした。非常に良かった。

 

見終わった感想は『ワケが分からねぇ……』『だが良かった……なぜだかは理解らねぇ……』というものでした。
これはおそらく意図的で、奈々が凶悪な倦怠とともに幾度も吐き捨てる『喋り過ぎなんだよ……』という言葉を追いかけるように、作品は全体的に順序立てて言葉で理解するのではなく、脳髄の奥の方で感じ取るレビューの連発で組み立てられていきます。
TVラストで度肝を抜いた”約束タワーブリッジ”を挨拶代わりに爆破し、各キャラクターごとに、場面ごとにぶっ飛んだ道具立てが、飲み込む余裕もなくとんでもない勢いで投げつけられていく。
疾走する電車、血しぶき、デコトラ、清水の舞台、切腹と軍曹。アルチンボルドとサルバトーレ・ダリは”キリン”というモチーフで同居し、異様で美しいイメージがグロテスクにコラージュされた舞台空間は、一切ブレーキを踏まずに突っ走っていきます。

場面場面の演出も、左にあったものが右に飛び、過去が未来を追い越して急に展開される。
スマートなロジックよりも、とんでもない変拍子でかき鳴らされるバロックな劇内律が優先されて、見ている側はここが何処なのか、今がいつなのか常に困惑させられる。
衣装も背景も予告なしでバンバン切り替わり、異様な存在感のあるオブジェが画面を埋め尽くし、セリフと歌詞は区別なく、画面演出と猛烈なシンクロを見せながら理解を置き去りに、只々劇中の温度を上げ続ける。

TVシリーズでもレビューが持っていた、理屈を蹴っ飛ばして内実を伝えてくる勢いと力強さ。
それが、”現実”なるものの描写を前半15分に置き去りにして、卒業を迎えた少女たちの想いが延々炸裂し続けるスクリーンに暴れ倒していきます。

物語は最上級生になった99組が、見事な作画で各々得意とする身体表現を果たし、巣立つ準備が整っていることをまず報せます。
進路が提出され、不確かな未来に一応の筋道を付けながら、何処か煮え切らない、くすぶって緩んだ空気が漂う終わりの始まり。
華恋だけが、未来の指標もないままひかりと別れ、現実の切なさを滲ませた迫真の演技で、聴衆の涙を誘っています。

ここから展開していく物語は、ずっとレビューの連続です。合間合間に華恋のオリジンが開陳され、また101回決起集会においてB組二人の震える青春が描かれたりはしますが、基本的にはレールの上を疾走する暴走列車のように、レビューが加速しながら連なっていく。
それが実際に起きたのか、幻想や夢であったのか、それとも何かの象徴なのかは、TVシリーズに引き続き説明がありません。
卒業を控え不安定になった少女たちが、それぞれの思いをぶつけ合い青春にケジメを付けた”現実”を想起することは出来ますが、そういう虚実の対照関係は説明されていないし、多分想定もしていない。
TV版でそうであったように、レビューシーンが現実であろうと虚構であろうと、そこに乗っかった思いと芝居は否定しようもなく圧倒的に真実であり、少女たちの全てはそこに乗っかって、熱く駆け抜けていく。

 

新たなレビュー達が描いていくのは、TVシリーズで描けなかったものです。
これは例外的な”現実”、あるいは回想でも同じで、B組の二人も舞台少女としてどれだけ奮戦し、縁をつなぎ、青春の終わりに震えていたかが活写されたり、華恋が物語の主役になるに至った(そして、主役になることしか出来ない)約束の重さ、絶対性を補強する5歳の、12歳の、15歳の華恋が紡がれていきます。
回想シーンの背景は、一見アニメらしい情感を滲ませた現実に見えますが、よく目を凝らすと舞台の書割のような絵画感があり、ここでも虚実の境界線は意識して撹乱され続ける。
何が現実で、何が虚構なのか。その判別をつける、常識的な認知防衛機構をぶっ壊して、過去と未来、舞台と裏方の入り混じった、目眩のするような麗しいカオスに観客を飲み込むように、作品全体が編まれている印象を受けます。

今回のエピソードはある意味TV版総集編的で、100回目のスタァライトを生み出すまでの旅路の中で紡がれた関係性が、4つのワイドスクリーン・バロックに反射しながらギラギラと、熱く燃え盛っていきます。
圧縮された群像劇という側面を持つこの劇場版、華恋は大トリではあっても唯一の主役ではなく、彼女が主役を務めるべく設計され、彼女もまたその主役として設計されたスタァライト第101回公演がどのようなものであったか、具体的な描写は大胆にすっ飛ばされます。
重要なのは現実の表面で何が起こっているかを追うことではなく、レビューという象徴的で劇的で、その癖リアルよりも圧倒的にリアルな空間で炸裂する感情とその決着なのだから、進路を決めるまでの葛藤も、迷いを抜け出した後の晴れ舞台も、直接描く必要はない。
そんな大胆な決断が、作品を貫通している。

回想の中で華恋は、約束に呪われたように”神楽ひかり”の存在を見ず、聞かず、考えないようにし続けます。
彼女には母がいて、家があり、運命のように微笑ましい幼き出会いがあって、別れて以来約束を追いかけた。
一緒に見たスタァライトの舞台に見つけた(あるいは、一方的に手を引いた)輝きに導かれて、再び舞台の上で出会う日を約束して、大好きなひかりちゃんに甘えないように、自分の舞台を、自分の友だちを当たり前に獲得しながらも、震えながら走り抜けます。
『役柄からの脱却』というのは、卒業をメインテーマに据えた(だろう)この劇場版に置いてとても大事ですが、華恋は特権的な回想シーンによって、どんどん肉付けがされていく。
お母さんの優しさに守られ、暖かな食事を取り、約束が一方通行ではないかと怯えながら……そんな当たり前の姿を、ファーストフード店にたむろする何者でもない同級生たちに羨まれ、またその人間味を確かに理解されながら、ごくごく普通の少女としての歩みを補足されていく。

物語を牽引する主人公は、得てして物語の進行役としての責務を優先して”人間味”なるものを獲得しにくい傾向があると思います。
華恋もまた、TVシリーズではそんな気配を微かにまといつつ、数多のレビューと現実での鍛錬を積み重ねて、見事に第100回公演を新たなるスタァライトとして演じきってみせました。
そんな彼女が主役を演じる舞台が描かれない今回、主役の重責を降ろされた彼女は、主役以外の役柄、ひかりちゃんとの約束以外がない自分に直面し、白紙の進路表を提出する。
何もなくて何処にもいけない自分、既に何かを決めた仲間たちに置いていかれる自分、ひかりちゃんがロンドンに去っていってしまった自分を、彼女はこの劇場版でようやく見つめることが出来、僕らはそれを視ることが出来、作者たちもそれを描くことが出来る。

結局彼女の充足は、ひかりと向き合う運命のレビューにしかなく、おそらく第101回公演で最後のスタァライトをやりきって、何もない自分だからこそ新たな可能性を心に満たせる未来に、ようやく踏み出せたのだと思います。
彼女(達)が進む道はあくまでレールの上であり、野放図に荒野を駆ける自動車ではありません。(ここら辺の対比に、劇場版ウテナとの照応を勝手に感じるところが、イクニチルドレンの悪い癖)
確固たる運命のレールが引かれているからこそ、力強く走り続けられるという矛盾はしかし、卒業を契機に揺らぎ始め、華恋は砂漠の駅に置き去りにされたり、停車駅のない車内に閉じ込められたりします。
レールに乗っていれば安泰かと言えば、脱線はするし分解はするし、電磁嵐に襲われてロケットブースターでかっ飛ばしたり、青春の線路は波乱万丈です。
これらを揺れる心のメタファーとして見ても良いし、作中の現実として受け取っても良いし、虚実判別のつかない圧倒的なカオスとして受け取ってもいい自由さが、ずっとこの作品を動かし続けるわけですが。
さておき、爆走する列車に最後まで乗り続けた華恋は、行き着いたレビューでひかりと向き合い、畏れと魅惑にもう一度焼かれながら、自分を再生産し直す。
その引力に引かれ、約束に縛られて、自ら輝く恒星ではなく誰かの伴星になってしまう(なりたいと思ってしまう)恐怖と恍惚(ここが、TV版のまひると共通している所に、三人の強い縁を感じます)を共有しながら、二人は一つの結末へとたどり着いた。

空っぽであること、主役でしかないこと、約束という呪いへの不安。
一途な運命に殉じたように見せて震える、当たり前の狡さと弱さ。
これらは華恋を主役に展開したTVシリーズでは、その輝きの死角となって彫りきれなかった部分であり、ひかりの側が運命の瞬間をどう感じていたかと合わせて、描かれなかったものを卒業に描ききった形だと思います。

 

他のキャラクターも、レビューのマッチアップから勝敗、そこで問われる思いも含めて、TVシリーズで描ききれなかった、描くべき部分に強く注力しているように感じました。
第1のレビューは香子と双葉のデコトラ大暴走でありましたが、香子は生粋のKUSOAMAっぷりを大全開にし、全員が心の何処かで共有しているオーディションへの憧憬、トップスタァを競い合いたい願望を剥き出しに加速させていきます。

トマトや赤いサッシュ……あるいは大場なな大暴れの電車劇場での冴える殺陣を見ても、今回のレビューは死と暴力の匂いが(ダイレクトにグロテスクに描くことで生まれる品の無さを的確に回避しながら)濃いように思います。
殺し合うほどに本気で、剥き出しで暴かれていくお互いの感情をもって、少女たちの描かれざる感情を燃やし尽くし、卒業させる目的があって、この濃厚なタナトスがあるのかなと感じますが、同時に非常にエロティック(これも見事にダイレクトな表現を避け、ヴェールの奥に隠せばこそのエロティシズムが醸し出されたいます)でもある。
双葉に漂ういい子ちゃんな上っ面、香子に突っ込むべき狡さへの怒りをぶつけ合い、清水の舞台から飛び降りて付く決着は、馬乗りになってとどめを刺すようでもあり、愛する人にまたがり心を繋げているようでもあり、作品全体に漂う生と死の香りが強かったです。

激走するレビューからしかし、描きたいものが不定形のまま伝わってくるのも、奇想を縦横無尽に繋ぎ合わせながらも、そこで演じられる感情に一切の嘘がないからだと思います。
生粋の演劇人である少女たちにとって、『舞台上は嘘』という一般的な境界線はもはやなく、むしろそこにこそ濁りのない真実が宿る。
とすれば、香子が求めていた血湧き肉躍る特別なオーディションとは、進路調査票に取り澄ましてまとめた大人の顔ではなく、学園という殻を破って巣立つ直前だけに許される子供の顔で、思い切り思いをぶつけ合うことなのではないか。
正しく高みに離れていく双葉を嘘つきと罵り、ズルいズルいと罵られ、征く側と待つ側を、大人と子供の役割を入れ替えて、よりよい未来に走るためのイニシエーション。
誰かを追う者同士、クロちゃんとちょっと仲良くなった双葉はんに嫉妬メラメラ、そのくせ『うざくなったんやろ? 別れよ……』とか言い出すクッッッソ面倒くせー香子が、やっぱり僕は大好きです。

 

EDで明かされる”その後”を見ても、皆進路調査票に書いた決断はけして嘘ではない。
でもそこに血が通わない違和感が確かに在るから、大場ななは”舞台裏から決闘を操る、影を背負った実力者”という役柄に戻って、今ひとたびのレビューを駆動させていきます。
ヤンデレで嫉妬深い、ひかりちゃんの報われないライバル』というポジションを演じきって、ひかりちゃんに金メダルを預けたまひるちゃんも、TVシリーズで背負った役割をちゃんと演じつつ、それを全うして巣立っていくレビューを、しっかりやりきりました。
僕はTVシリーズでも第5話がいっとう好きで、あの物語を超えたまひるちゃんが病むのは『おい古川、解釈がチゲぇぞ……』と一瞬身構えましたが、”お芝居”であることが判って、綺麗に転がされてた自分に気づいたりした。

華恋を巡るライバルであり、共に舞台を演じる戦友であったこと。星星がそれぞれの重力を釣り合わせて決まった位置を占め、恒星系を作るように与えられる、集団生活の中での役割。
まひるちゃんはその全てを愛おしく思いながら、華恋と共に運命を背負う”役割”から逃げ出してしまったまひるちゃんを、脅すことで勇気づけていきます。
バッキンバッキンに冴え渡るサイコホラー演出に追い詰められ、物分りの良い仮面を引っ剥がされたからこそ、ひかりちゃんは自分が真実向かうべき場所へ旅立ち、迷えるひかりを待つことが出来ます。
そんな風に見守り導き、お芝居が大好きな自分を揺るがず信じられるようになったまひるちゃんが見れて、僕は凄く嬉しかった。
華恋の伴星であることにしか加賀屋機を見つけられなかったあの子が、一年前の闘いで掴んだものに嘘をつかず、華恋ではなくひかりちゃんとの関係を最後の物語に選び取れた変化と自由が、凄く眩しかった。

”役割と逆転”は、今回のレビューの大きなテーマだと思うのですが、第2のワイドスクリーン・バロックでは追い詰められたひかりが金メダルを譲られる形で決着が付きます。舞台もサイコホラーから、最初の朗らかなおもしろオリンピックへと変化している。
陽→陰→陽、勝者→敗者(あるいは応援し、送り出すもの)へと変遷していく二人のレビューには、しかし裏表はないと思います。優しいまひるちゃんも、恐いまひるちゃんも、多分両方本当。
舞台少女が本気で演じる嘘は、自分の中にある嫉妬や憎悪や怒りを見つめて、認めて、うけめたからこそ真に迫った。そうなれるくらい、まひるちゃんは立派な演劇人になった。
僕個人の贔屓目ですが、4つのレビューの中で一番”卒業”してたなぁ、と思います。やっぱ好きだなぁ、まひるちゃん。

 

純那ちゃんと奈々のレビューは、永遠に挑戦者に惹かれた女の倦怠と切望が熱く滲む、凶暴なステージとなりました。
ループ構造が顕になったときの大物感を、虎の装いで更に強め、荒くれた魅力を暴れさせる奈々に、ガンガン追い詰められていく純那ちゃん。
オーディションでは勝ち星に恵まれなかった彼女が、弓を刃に持ち替えて作中最強の戦士に”勝つ”決着も、役割と逆転の一つなのだと思います。
今回のレビューで唯一、武器を持ち替えた彼女が、進路表に書いたのとは別の未来に進んでいくのは、なかなか面白かったですね。
口だけの”いつか”に溺れて腐るなら、潔く死んでくれ。
星見純那最強強火オタクとして、足で短刀乗った三方突き出してくる奈々を、押し返す切っ掛けは言葉でした。
借り物ではなく自分の言葉を引っ張り出して、戦士としての名乗りを上げる。
そのことが純那ちゃんに変化と逆転の切っ掛けを与え、気だるい強者を装っていた……確かに、何かに疏み荒んでいた奈々を切開していく。
かつて眩しすぎて時の檻に閉じ込めた憧れを、もう一度取り戻すことで奈々は、”闘いを動かすもの”という役割から脱却していく。
負けても負けても立ち上がる過去の純那ちゃんに捕らわれていた視界を、今まさに主役になろうとしている純那ちゃん本人の抗議で引き裂かれて、新たにとても眩しいものを見つめ直す。
そうしなければ、また時の檻に自分と世界を閉じ込めてしまう危うさは、多分大場奈々にずっと残り続けるのだと思います。
凄く幼く、永遠に楽しい時間を続けていたい腐敗性に囚われるからこそ、なんかいい感じにまとまった風味な三年生の空気を、切り裂いてその中身を確かめたかった。
そういう場所へ、皆と自分を解き放ちたかった。
彼女が虎を演じ虎になったのは、そんな気持ちがあったからかな、と思いました。
無邪気で優しい奈々も、荒れくれて凶暴な奈々も、やっぱ両方本当なのでしょう。

悪しざまに本気で罵るのも、心の底から好きだから。
虚実の境界がレビューを通じて揺らぎ続けるように、好悪の感情も簡単には線引できず、混ざり合い乱反射するからこその強い輝きを放ち続けます。
あくまで舞台のスタンダード、複数幕の豪華レビューで走り続ける真矢クロのワイドスクリーン・バロックも、悪魔役と演劇人役を幾度か入れ替えながら展開していきます。
ライバルであり、親友であり、そういう肩書に切り分けられる者分かりのいい感情と関係を超えた、しっとりと重たい炎を宿す二人。

空虚で完璧な舞台装置として自分を見つめる真矢を、不意打ちの逆転で追い込むクロちゃんは、遂にライバルの星を落とし、永遠に続く輪舞曲へと進んでいきます。
フランスからのオファーを受けて、故郷に帰ることでむしろ前進する。
真矢とのライバル関係、競い合い支え合ったレビューに満足して腐りかけていた停滞は、その選択ですでに、新たな場所へと飛び立っていた。
奈々と純那ちゃんが背中合わせに分かれていくことでレビューを終えたのに対し、真矢クロはもつれ合いながら落ちる炎として自分たちを定義し、離れてなお続くライバル関係を確認することで、戦いに幕を下ろします。
双葉がより近くにい続けるために、香子から離れる選択をするのと同じく、共に在ることは必ずしも、ベッタリと隣に張り付くことを意味はしない。
この逆転もまた、”卒業”のレビューを踊り続けるこの物語に、共通するモチーフではないでしょうか。

 

んで。
野菜になったり燃えたり忙しいキリンは、今回舞台装置や黒幕といったTV版の”役割”から更に進んで、舞台少女を待ち望む観客、作者、あるいは舞台それ自体のように、大慌てで走り回っていました。
元々メタ的な立ち位置を強く背負うキリンですが、今回は特に、作中展開される奇妙な青春暴走列車から離れた、”少女☆歌劇 レヴュースタァライト”という作品全体について、それを愛し求め、終わったはずの物語の続き、真実終わるための物語を生み出した観客席の存在を、画面に流入させていく。
その燃え尽きる献身こそが、最後の舞台を現出させる燃料であり、古川監督はじめスタッフが『”少女☆歌劇 レヴュースタァライト”ってなんなのか。あの世界に生きる少女たちに、僕らはどんな役割を背負わせ、それを越えた彼女たち自身の人生が何処にあり、そこに旅立たせるためにはどんなレビューをさせるべきか』と考え抜いた結果が、あの燃える舞台には宿ってる印象を受けます。
もちろん、アニメを見、芝居に足を運び、アプリを遊んだファン達もまた、舞台を待ち望みつつ駆け足で追いつき、今目の前に広がる熱量に燃え尽きさせられながら、その終わりに駆けつけるキリンなのでしょう。

彼(あるいは彼女)が、舞台少女の傷と炎に歓喜する悪辣な観客、残酷な舞台を仕込む黒幕という”役割”からはみ出せたのは、良いことだなと思います。
TV版放送時はさんざん『ヤロー!』と憤ってたアイツが、涙しつつも残酷劇を求める僕らの鏡であることはなんとなく判っていたし、猛烈に”終わり”の気配と気合を感じさせるこの作品で、私であり貴方でもあるあの動物が、スタァライトを愛する存在として悪以外の”役”を持てたのは、なんか凄い風通し良く感じたのです。

華恋は第4のレビューで、映画館に座る僕らに顔を向けながら、観客席の存在について語ります。
映写機の向こう側で固唾を飲んで、舞台少女たち最後のレビューを見守る僕らが、求められ背負わされた”役割”を演じきることで、変化と飛翔のドラマを燃やし尽くしてくれることを期待させて、暗闇の中ギラつかせる瞳。
それを、華恋は初めて認識する。
この時、作品と現実の境界線もまた転倒し、あやふやになり、演者が観客を見つめる逆転現象が発生します。
本来フィクションのキャラクターは、作品の外側を認識しないわけで、あの華恋の言葉はあくまで彼女が身を置く現実、その熱気と恐怖と恍惚に対して漏れた感想なのかもしれません。
果たして彼女は僕らを見たのか、別の誰かを見たのか。
その境界線は、間違いなく意図的に、巧妙に、的確に曖昧にぶらされています。

そんな風に、フィクションとリアルの境目すらズラすことで生まれる酩酊。
論理を超越したレビューの嵐に観客を巻き込み、再生する新たなるリアリティを共有することで生まれる独特のグルーヴ。
そこで、僕は舞台少女がフィクションの”役割”を誇り高く演じきり、一人間として学校を巣立っていく実感みたいなものを、強く得ました。

彼女たちは、間違いなく絵空事でしかないあの世界の中で必死に生きてきて、舞台を闘って様々に学び、強くなり、結論を出した。
それはけして嘘ではなく、でもどうしても本当になりきれなくて、香子がグジグジと愚痴たれて憎まれ役を担当し、奈々の仕掛けで血まみれの……最後のレビューが動き出す。
そこで描ききれなかったもの、燃やしきれなかったもの、描き燃やし切るべきものをやりきったからこそ、彼女たちは背負わされた”役”を、作品の舞台を離れて、自分の未来をへと進んでいける。

聖翔音楽学園を巣立っていった彼女たちが、再び”スタァライト”を演じることはあるのでしょうか?
あるかも知れないし、ないかも知れない。
演劇人としての人生は、エンドマークの先にもずっと続いていって、華恋が最後に一人で告げた言葉は、物語の最初にしっかり繋がっていきます。
それは再演であり、同じでありながら全く違う物語が不死鳥のように、炎の中から再生産され、また新しく始まっていく瞬間でした。

三年間のレールの上に、三度演じる停車駅として用意された、かけがえのない永遠の舞台。
それはもう、二度と演じられることなく皆が巣立っていく。
その別れの悲しみも、そこで得た全ての思いも何も嘘ではなく、彼女たちの物語がこうして一つの終末を迎えた後も、多分あの世界でレビューは続く。
そう思える映画に、あまりにバロックで不親切で、映像的腕力とドラマ的熱量に満ちたこの作品が仕上がってくれたのは、とても良いことだと思います。

作中幾度も口にされる”舞台”を、何に言い換えるか。
一個の固定された真実が何処かにあるという、固定化された認識を作品全体でぶっ壊しに行ってるこの映画ですから、当然答えはないでしょう。
でもあえて、僕がそこに答えを出すとしたら、多分それは”人生”なのだと思います。
誇り高く”役”を演じきり、そこを超えた可能性を羽ばたかせて役柄を、勝敗を逆転させ、何もかもが熱く燃え上がる炎から、幾度も己を再生産させていく。
そんな不断の未来を寿ぐ舞台として、とても力強く、面白いアニメでした。
凄く良かったです、ありがとう。

 

・6/10追記

徹底的なレビューのラッシュ、それと対照される(と、一般的には想定されるだろう)現実の省略という表現形式で、製作者は何を伝えたかったのか。
それを、僕個人の感想として記しておく。
事実、古川監督はじめスタッフがそう考え、この作品を作ったかは当然定かではないけども、この異様(BAROQUE)な作品から立ち上がる熱気と殺気を受けて、勝手に燃え上がった一つの反応を記載しておく場所として、ブログは良い置き場所であろう。

製作者は、この劇場版が自分たちが触れることの出来る最後の”スタァライト”であること、コンテンツとしてアプリなり、演劇なりで続いていくとしてもここが一つの”あがり”であることに、凄く自覚的であったと思う。 
終わるからには描ききらなければいけないし、語り得ぬものを語りきらなければいけない。
スタァライトを演じるために生まれた主人公、華恋の人間的な過去をどっしり掘り下げ、起源に立ち返ることで未来へ送り出していく物語運びには、主役を物語の檻から”卒業”させようとする強い意志が感じられる。
その上で、99組の少女たちの数は多く、語るべき感情と衝突は濃厚で重い。
現実とレビューを行ったり来たりするスタンダードな(TV版で選択されたような)物語を歩いていたら、取りこぼすものが多すぎるという判断が、この劇場版が選んだ表現形式にはあったように思う。

レビューは強烈だ。異様な想像力が怪物的にうねり、繋ぎ合わされ、本来あるべきものがなく、あるべきでないものが存在するデペイズマン的衝撃と快楽によって、見ている側(そして作中で演じる側)はある種神がかり的な精神状態に押し上げられる。
そこではあらゆるモノの境目がなくなり、逆転現象が連続する。愛と憎悪が裏表で、求めればこそ何もかもが遠ざかっていき、傷を引き裂けばこそそれが癒やされる空間が、そこには存在している。
一般的な……否・劇的な”現実”では矛盾と受け止められ、しかしそれが裏腹に支え合っている構造を発見/体験するまでの物語的歩みを、超音速でぶっ飛ばしても納得してしまう、言葉や頭では判っていなくても染み込んでしまう暴力性で、キャラクターの核心を描き、理解させること。
『分からないけど、分かる』という超認知の快楽を、延々フルスロットルでぶん回すことで、9人が卒業を前に抱えた葛藤とその超越、渦を巻く感情のドラマとその肌触りを、強制的に理解らせるために、レビューラッシュという形式が選ばれたように思う。

この強烈な体験を通じて、歌劇少女たちが何に悩み、何に苦しみ、それを越えて何を選び何を繋げたかは、強制的に観客に解らされてしまう。
それを言語化出来ないとしても、強烈な実在感をもって彼女たちが生きた青春、その終わりと始まりは観客の中に存在してしまう。
問答無用のドラマの実在感は、同時に色と形しかない非/超言語理性的な視聴体験を咀嚼し、自分なり納得していく手順を、観客に要求する。僕が今書いている文章も、その一環であろう。
”現実”において、舞台少女に何が起ったかは、ほのめかされつつも明示されない(これは、異様なモチーフとメタファーが複雑に絡み合い、何一つ明瞭な真実が示されないレビュー自体にも言える)
レビューに埋め込まれた様々なヒントを咀嚼するなかで、上部構造である現実に何があったか、そこで何を感じたかを再生産していく。影絵を見て、その奥にある手の形を読むような読解を必要とする。
それと同時に、もはや現実という上部構造と、仮想のレビューという下部構造の境目はないのだ、という越境的な認識論を、この映画の咀嚼体験は必然的に生み出すように思う。
咀嚼し、消化することなしに見終わることが出来るような優しい物語をこの映画は提供してくれないし、否応なく叩きつけられたものを解釈の歯で噛み砕き、理解の胃液で溶かす過程を要求してくる。
全てが象徴であり、しかし真実でもあって、ホログラフィックメモリの全容をその欠片から再生可能なように、部位と全体の境目がないような超越的(つまりは普遍的)体験。
ウソとホントが混ざり合い、愛と憎しみの際を越えて流動する、圧倒的なエモーションの炸裂。
それこそが、舞台少女がそこに/=ここにいる意味、この物語が描いたものだったのだと、二時間に渡る異様な体験、その形式自体が語っているように僕には思うのだ。

別れることこそ出会い直すことであり、終わることで再生が始まる。
”卒業”をテーマにし、”スタァライト”の確かな終わりとして描かれるこの映画がどうしても描かなければならない、輪廻の構造。
それは奈々がかつて再演し続けたような閉じた円環ではなく、始まりと終わりが繋がりつつも、別の場所へ上昇していく螺旋の形を持つ。
それが正しいと判っていても、だからこそ進路を最初に選択していても、そこには燃えきらない感情の残滓が残っている。そこを真実演じきらない限り、選び取ったレールは未来駅へとつかないから、もう一度、キリンが主導しないオーディション(だからキリンは不意を撃たれて、燃え盛るレビューを助けるために荒野を突っ走る。彼もまた、望んでレールに乗る一匹の電車である。走りきらないことには、次の駅にはつけない)を駆動させる。
そんな青春闘争のトリガー役を奈々が担っているのは、かつて……そして終わっていない今の物語の中でもそういう”役”であるから以上の意味合いが、鮮烈な色合いで滲んでいるように思う。

”役”の徹底と突破というモチーフを全キャラクター……唯一”現実”で、怯懦と友情のレビューを演じるB組の二人や、”鬼教師”にはありえない優しさで未来を選び取る教え子たちを見つめる先生も含め……徹底させているのも、”卒業”の一環かと思う。
スタァライト”という物語に最適化され、特定の属性と役割を背負わされたキャラクターが持つ、馥郁とした可能性。
停滞しているものこそが変化を求め、弱き者の中には真実の強さがあり、幼く身勝手なものが静かに待ち望む側に回る変化のなかで、舞台少女たちは”らしさ”を鮮烈に演じ切りながら、だからこそ新たな……TVシリーズでは描けなかった”らしくなさ”へと飛び込んで、自分自身を新たな場所へと再生産させていく。
舞台少女がどんな”スタァライト”を101回目に演じたかは描かれない。それが善きもので、関わったものが皆満足して飛び立てるほどにやりきった事実だけが、華恋の切り裂かれた胸板から溢れている。
そこに至るまでの身を捩るような衝突と炸裂が眩しく美しいと感じるから、別れてなお繋がる道が善いものだと信じるから、この作品の前駆たる総集編は”再生賛美曲”をテーマに選び取った感じもする。

 

終わってなお続いていく、少女たちの歩み。それぞれの在り方で舞台に身を置き、虚構と現実の境目がなくなるほどに情熱を込めて本気で人生を演じ続ける彼女たちが、学園という檻、あるいは殻を破ってなお、新しい舞台を確かに進んでいるという実感。
それを賛美し切るためには、終りと始まりが確かに繋がっているという感覚、因果がねじ曲がり常識を外れた強烈な認識変化が必要となる。
強烈な酩酊を呼び覚ますレビューラッシュは、スタァライトを”卒業”していく哀しみを作中の舞台少女と同じく、見つめる視聴者たちにも燃やしきって、再生産された新たな鋼を心に抱えて、劇場を出ていく体験のために、戦略的に選び取られたのだと思う。
この終わり方でしか、僕らは(コンテンツの中に数多ある、しかしただ唯一の僕らの)スタァライトから”卒業”出来ないのではないか。
そんな感慨も、見終わってしばらくするとジワジワと湧き上がってきて、それを生み出すべく制作陣が血みどろ、狂気と妄念を画面のあらゆる場所に焼き付けていた事実が、網膜に反射して眩しい。
それはレビューだけで終わらず、”現実”において三年生になった舞台少女たちが冒頭行う身体的所作の完璧さからも感じることが出来る。
あれだけフィジカルな”匂い”を宿した伝統芸能のアニメ化というのは、僕の経験してきた視聴でほぼなく、一見話の枕にも見えるその完成度こそが、彼女たちが”卒業”を迎えるのに相応しい器を整えていること……だからこそ、そこに燃え盛る魂の溶鉄が入っていない虚ろさを強調し、レビューラッシュの必然性を上げていると感じた。
形は整っているが、熱がどうしても足らない。足りきらない。
だからこそ、もう一度燃え尽き、新たに羽ばたく。
香子がくすぶって愚痴る思いは、舞台少女全員の(彼女らを見守りこの劇場版を求めた僕らの)代弁でもあろう。

作品を包む心地よい巣立ちの感覚は、レビューの当事者である舞台少女にこそ鮮烈であり、彼女たちは最初形だけ(しかし確かに真実の決意を込めて)選び取った進路を、レビューで沸騰した体温で鍛え直して再度、選び取る。
その決断が既定路線(レール)の焼き直しではなく、可変の可能性もあったなかで一つ一つ真実として選び直されたことは、一人得物と進路を変えた純那が証明しているだろう。
そんな風に、熱く激しい炎(レビュー)を通じて役を貫き、役を壊し、与えられた役こそがやはり私であったのだと再確認=再生産しながら、青春の一段階を飛び去って、新たな青春へと羽ばたいていく。

学園の”卒業”が、この映画の終わりが舞台少女(彼女たちを見守り、燃えるキリンたる私達)の終わりではなく、カメラが彼女たちを追わなくなったとしても舞台は続くこと。
与えられた役割を”卒業”してなお、僕らが見つめ合いした彼女たちの魂の地金に嘘はなく、その上で力強く変わりうる思春期の可能性(Possibility of Puberty)が、自分が空っぽだと築いた華恋に宿ったこと。
それを宿すためには、彼女を愛すればこそ離れ、惹かれればこそ一人になり、恐いから逃げ出したすごく複雑なひかりの旅路が……そんな彼女が果たすべき”役”に戻れるよう、己の心に潜む怪物を演じきったまひるの後押しが必要だったこと。
そんな風に、何もかもが真実であり、全てが混ざりあって未来に向かって駆け抜けていく青春の超特急を描ききるために、終わることのないレビューの乱打が必要であったのだと、僕は思った。
それは分かりにくく、不親切で、常識はずれの奇手であり、同時に非常に鮮烈で圧倒的で、とても普遍的な青春の物語の終わり(つまりは始まり)を視聴者に届ける最善手であったと思う。
普通の話だったら、多分こんなに圧倒されていないし、僕はずっと”スタァライト”に、そういう異質さを求め続けてきたのだと、二時間見続けて思わされた。
僕の中でこのアニメがどんなもので、どれだけ強烈に魂に突き刺さっていたかを、三年ぶりに”再生産”されたという意味でも、非常にスタァライト的な最後の挨拶であった思う。
そんな風に、終わって続いていく感覚とともに物語が閉じられることはやはり、非常に幸福なことだ。

 

学園を出ても、華恋たちの青春を追うカメラが動きを止めても、あの鮮烈で美しい世界で彼女たちは生き続ける。舞台に立ち続ける。演じ続ける。
いくつもの闘いが待ち、そのたびに迷い傷つき、また新しく答えを見つけて旅立っていく。
そんな描かれざる物語に、無限の期待と感謝を込めて想像力を広げられるのも、けして答えが出ないレビューという表現を、最後の筆として選んだ結果なのだと思う。
映画館の分厚い音響、二時間休まることのない物語、”映画を見る”という特別な体験とマインドセット
”劇場版”という表現のフレームも、レビューにすべてを預けた表現を決定的に下支えし、その劇的効果を最大化している。
この形式と内実、表現と実相の幸福極まる越境と混交こそが、”スタァライト”最大最後の魔法なのかなと思いつつ、長くなってしまった追記を終える。

いいアニメで、多分ずっと好きだろうなと思う。
そういう風に思えるアニメを見れて、やっぱりとてもありがたい。