イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』感想

交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション”シリーズのの完結編第三部、『EUREKA/交響詩篇エウレカセブン ハイエボリューション』を見てきました。
これからネタバレバリバリで感想書きますが、前二作に負けるとも劣らない怪作であり、自分たちが作ってきた”エウレカセブン”ってなんだったのか、嘘っぱちのお話を作るってどういうことなのか、異様な力みとビートとサンプリングの嵐で殴りつけに来る、奇っ怪な力作となっていました。
少しでも”エウレカ”が心の端っこに引っかかっている人、それが今を活きる祝福なり、『ったくオメーラよぉー……』って眇めで睨みつける対象になっている人は、見ておいたほうがいい作品だと思います。
面白かったですよ。

 

 

 

 

というわけで、ハイエボ3見てきました。
いやー……当日特攻組が奇妙に噛み砕けきれてない表情で『怪作だった……エウレカで、多分いいアニメだった……』と呟いてる姿を首捻りながら眺めて向かった映画館でしたが、いやはや全く怪作だわ、確かに。
一体何だったんだスーパー6、一体何だったんだ日本刀ターミネーター(すぐ死ぬ)、一体何だったんだエウレカアクシズ落とし、一体何だったんだ知らない平行世界からやってきた主人公たち。
孫コピーの世代であることを一切隠そうともせず、自作と自作を取ります様々なサブカルチャー、そこに隣接する現実を不器用にゴツゴツとサンプリングしまくり、オタクの引用満載トークがしてぇのか、散々続いて呪いになったプロジェクトを除霊したいのか、自分たちが生み出してしまったキャラクターの生き様を全うさせる舞台を仕上げてぇのか、その全部なのか。
見終わった今もイマイチ、どんな映画だったか掴みかねていますがしかし、なんか必死な映画でした。

相変わらず絶頂にスカし、肥大化した自意識とヒネた現状認識とダサさが突き抜けてかっこよいようでやっぱダサいスタイルは、異様な力みの中で健在……つうかロケットブースターで成層圏までぶっ飛んでるわけですが。
『多分大量の裏設定があるんだろうなぁ……』と、過剰な説明ゼリフにヤスリをかけて親切に飲ませる努力を完全放棄した、ツメツメの高血圧な展開にちょっとヒキつつ、しかしそんな風に過剰なものを異様に盛り込まざるを得ない、盤上この一手の奇妙な気合は、随所に溢れている。
ネタの引用にしてもその料理法にしても、あるいは時折すごく崩れる作画、あんまハマりきらない音楽と演出にしても、けしてスマートでスタイリッシュな作品ではない。
エウレカ”がそういう場所でいられた時代が終わり、あるいは自分たちでぶっ壊して残った残骸を、メタ視線で認識しながら三部作に織り込んでぶっ叩き、一つの物語に編む……あるいは編みきらずにはみ出すような。
そんな不格好で不思議な作品でしたが、タイトルとなった二人のエウレカが産み落とされちゃった世界でどう生きて、どう旅立っていこうとするか、その血潮にやれる限りの必死さで報いようとしている、青筋浮きだった本気を感じることの出来る映画だった。
それに触れられたなら、まぁ良いんじゃねぇかな、という感想にもなる。

 

この必死の手触りはやっぱり前作”ANEMONE”から引き継いだもので、大事なパパにしっかり育てられた風花ちゃんが親の仇の内側に入り、その涙を拭って面白くもねぇ現世で一緒に選ぶことを選んだ血まみれが、レントンを追う夢から醒めて酒浸りの筋肉女となったエウレカ、彼女がなり得なかった世界改革者としての”EUREKA”たるアイリスが、ワケの分からねぇ執念とエゴで世界を道連れに、自殺による自己証明にぶっ飛んでいくデューイを敵役に旅をし、戦い、死んだり生きたりしていく。
前作に感じていたボーイ・ミーツ・ガールからの脱却は今回も継続で、『レントンのお姫様』にしかなり得なかった過去を風花ちゃんに切開され、自閉した子宮から(デューイ達グリーンアースの人々を引き連れて)受肉したエウレカは、アイビスの手を引きおんぶして、何度も襲ってくる日本刀ターミネーターと闘い続ける。
エウレカセブン”の中核として世界に毒ガスを撒き散らし、沢山人を殺したエウレカは結構マトモな人々に包まれ、複雑で当たり前な政治力学の1ユニットとして傷だらけになりながら、10年色んな場所を駆け抜けた。
それは(アイビスを攫われた後、風花ちゃんが的確に叱り抱きしめ許し認めるように)エウレカ自身が必死こいて、レントンのいない世界、レントンを殺してしまってなお続く現実の中で、進んできた歩みの延長線上にある。
自身の名前をタイトルとする”ANEMONE”で、風花ちゃんは父の愛を再確認し、それを奪った仇すら自分と同じ泣き濡れる子供なのだと認め、ロクでもない現実に行き続ける気合と覚悟を固めた。
あの映画がいい映画で、風花ちゃんが凄く愛おしい人間だから、この超駆け足で詰め込みまくりな物語を、なんとか自分の胃に落とし込み、自分なりに咀嚼できている感じは強く受ける。
他でもない、あんなに辛いことがあって、あんなに頑張っていた石井・風花・アネモネが、今ここにいるエウレカを大した人間だと愛し、抱き合ってんだから、まぁいい人なのだろう。
そういう納得が、そこまで風花ちゃんの出番がない……けど、やっぱ二人が世界を変えてしまったあの時から紡いできた友情が作品の根っこにある、最後に顔出すボーイ・ミーツ・ガールよりなんか強くすら感じるこの映画の背骨として、僕の中では機能している。

でも傷だらけのエウレカが生きた感じがしない人間かと言うと、そんなことはない。
逃亡劇の途中、同じエウレカとしてアイリスと共にお風呂に入る時晒される、傷だらけの裸身。
ワケの分からねぇテロルに巻き込まれ、真っ当な倫理観と大人の責任をちゃんと背負う、他人なのに親より親らしいパパママから切り離され、アマゾネスと一緒に多世界移民問題渦巻くドイツを駆けていく中で、アイビスエウレカの傷に近づいていく。
それが生まれた物語は(この映画の他の色々が、不親切にもそうであるように)存在をほのめかされて語られないが、しかしそこには血の匂いが確かにある。
そういう書き方になるように、世界の命運を巡るロボット物語のヒロインであり、トロフィーであり、ボーイ・ミーツ・ガールの片割れだった物語を前作で終わらされた、もう少女ではないエウレカは描かれている。

少女じゃないなら、AOでそうであったように母なのか、というと好ましいことにそうではなく。
アイビスは月光号の女神であり、世界の命運を背負った異形の少女であったエウレカが得れなかった、新しく本当の”EUREKA”として、彼女の前に対置される。
アネモネにとって石井賢との日々がそうであったように、スカブから他人に発見されたアイビスは幸福な子供時代を過ごし、スカブを生み出しても毒ガスを撒き散らすことなく、制御困難でも希望に満ちた形で、世界の命運を左右する力を扱っていく。
それは”エウレカセブン”の夢から醒めた時、少女であることを手放し奪われた時にエウレカから簒奪されたもので、彼女はもう少年と隣り合って世界全てを変える鍵になれるような、特別なヒロインではない。
風花ちゃんが魂込めて絶叫するように、勝ち逃げ優勝ヒロインみてーなことの似合わない、グチャグチャにかき回された世界を駆け抜けるスーパーエージェントであり、そう産み落とされたことで失われた無邪気や、率直や、お城を夢見る純粋さをアイビスと共に進むことで、どこか取り返していく元少女だ。
アイビスとの関係には”母性”なるものの匂いが薄くて、パンケーキも巧く作れねぇ大人のなりそこないと、賢く強いけど当たり前に子供な世界の命運は、凸凹ぶつかり合いながらお互いを解っていく。
アイビスのパパとママは別の場所にちゃんといて、でもエウレカは傷だらけでカッコいい”おばさま”として、新時代を否応なく担う少女に人のあり方を見せる。
(ここで擬似家族オーラを出されていたら、自分的にはフカイ・アオが拳銃片手に『僕の運命を吸い尽くしてそこに立ってんのに、なに他人の子供と家族ごっこやってんだよ!』と、亡霊のように殺しに来ても、全くおかしくはなかった。
エウレカを憎悪したふりで、その実狂信し刃によって操を立てようとするデューイとかより、全然恐ろしい復讐者になっていたと思うので、そういう要素を丁寧に排除したのは良かったと思う)

アイリスとの旅路の中で、エウレカはむしろどんどんレントン的になり、自己嫌悪と未熟に悩みつつも果たすべきミッションのために全力で突き進み、高空からカットバックドロップターンを決める。
守られるべき少女のピンチに颯爽と現れ、不屈の闘志を見せる存在がもはやタフガイではありえないこと……酒と筋肉で鎧ったマッチョ・アマゾネスなあたり、16年前とは時代が変わった……と言いたいところだが、思い返せばあの時から”ボーイ・ミーツ・ガール”の魔法はほころびかけていて、他でもない”エウレカ”自身が極めて歪かな形でそれを繕ってしまった感じもある。
あんまロボにも乗らず、つうかロボVSロボやってた時間がマジで少ないこの怪作の殆どで、サラ・コナーよろしく因縁執着ターミネーターと闘い続けてきたエウレカは、火薬多めなハードアクションを生身で突破していく中で、ヒーローの存在証明を自分に引き寄せていく。
その歩みが、可愛そうなヒロインでもセカイを動かす装置でもなくなって、愛する人を亡くし夢も砕け、それでも惨めに生き続けなければいけない元少女に、血の通った息吹を与えていく。

そんな錬鉄の歩みのハンマー役になるのが、過去最高に好き勝手絶頂ぶっ込むデューイである。
部下の制止も振りちぎり、対象自ら回数制限ある無敵パワーをぶん回して、ポン刀片手に大暴れ。
この作品に漂う『色々奇っ怪で不格好なところもあるが、今それをやらねばいかんのだ!』という力みの七割くらいは、大暴れしてはすぐ死に、リスポーンしては部下がなんとかしてくれるトンチキクレイジー人間が背負っている。
『エンドウが一晩でやってくれました』と突っ込みたくなるくらい、謀略戦から情報収集、テロルの実行まで超絶執事系が辻褄合わせてくれる中、なーんとか現実的に多世界越境移民問題を解決しようとしてる両地球首脳陣を置き去りに、狂って必死な大暴れである。

作中ツッコまれている通り『”尊厳”とか言い出すやつにマトモな政治的意図があったためしはない』わけで、風花ちゃんやエウレカや、その強い影響を受けたアイビスやらが生きようとしたチグハグに上手く行かないクソみたいな世界に、どうしても順応できない当てこすりを、軌道エレベーターと星間移民船で地球に擦り付けんとする、傍迷惑なガキの痙攣である。
まぁTVシリーズからそんな感じだったし、こどもの庇護者を気取ってクソペド虐待者だったあの頃よりも、自分の身勝手な好き勝手絶頂っぷりをある程度自覚し、『子供は嫌いだ』と堂々告げるようになっただけ、捻くれすぎてネジレが取れた感じもある。
いやまぁ、はっちゃけ過ぎではあるが。
自分の背景にあるものを分かりやすい形で提示せず、長尺の独白と思い切り満載の突っ走りでだけ語るコイツが、アクションの中心にいることで生まれる分かりづらさと、異様な熱量がやっぱり、この映画の奇っ怪なエンジンなのだと思う。
『「仮装存在である己を世に刻むため、世界道連れに自殺する」って発想になる~~? 百歩譲ってデューイがそういう人間だったとして、あんだけの人間がこのキチった発想に協力して、バッタバッタと特攻自殺する~~?』つう疑念もあるが、実際そうなんだからしょうがねぇだろッ!
異様な圧縮率で進展していく融合した世界の技術と政治にも、こういうパワーで押し切る(一部押しきれてない)無骨な力勝負があり、それがある種、SF作品に必要な現実置き去りのスピード感、奇っ怪な非=現実感を生んでもいるのは、見てて奇妙に面白いところだ。

しつこく追いすがるデューイをぶっ倒す時に、エウレカが周辺被害になりふり構っていない所は結構好きで、彼女は”エウレカセブン”を出てからそうしたように、守るべきものの優先順位を付け、果たすべきミッションのために選ばなかったものを踏みつけにしながら、今回も走っている。
それは生きて贖罪を続けるためであるし、それ自体が生きることであったからだと思う。
そしてそんなハードな旅路から抜け落ちてしまった……あるいは”EUREKA”であることで最初から与えられていなかったものを、鏡合わせのもう一人のエウレカと分け合いながら、エウレカは自分がたどり着いてしまったここに何があるのか、何を掴んでいたいのかを実感していく。
それは絵空事として作られた実感を越えられなかったデューイの死に向かう意思と、接する中で研ぎ澄まされていく生への希求だろう。

とすれば、ノリで特攻して道開いていくホランドとかとはまた違って、風花ちゃんやアイリスと一緒にこの美しくもねぇ、終わった後にも未練がましく続いていく現実の中、タフに潔く生き残って生きそうなものだ。
しかしエウレカは物語の最後一度諦め打ち捨ててしまった世界を書き換える特権をもう一度、ニルヴァーシュの中で掴み直し、レントンと再開して満足気に消えていく。
そらー、風花ちゃんも泣く。
レントンと再開した時だけ少女に戻れるわけではなく、同じ部屋で暮らす酸いも甘いも、カッコいいもかっこ悪いも全部ひっくるめで抱きしめあった親友と向き合ってる時は、傷だらけの最強エージェントでなく少女であるのに、それだけではエウレカは満足できなかったわけだ。
同じエウレカであるアイビスはそこに、再び立ち現れたボーイ・ミーツ・ガールの気配を感じ取り、同志として憧れの”おばさま”が彼女主役の物語へ帰っていったことを寿ぐ。
それは彼女だけの”EUREKA”であり、新たなコーラリアンとして混ざり物の地球で生きていく覚悟を決めたアイビスの物語と、同じではない。
風花ちゃんにより、世界を毒ガスで満たして永遠に夢を見るヒロインであることを止めた(止めさせてもらった)エウレカは、傷つく生身でもって必死に、様々な矛盾が群れをなす世界を突っ走り、存在し得なかった子供時代を共に旅するもう一人のエウレカから受け取りながら、打ち捨ててしまった主役の特権、ボーイ・ミーツ・ガールの奇跡のかけらを掴んで、物語を終えていく。

それはまぁ、ブレている。
エウレカが殺してしまったレントンの思い出を抱え、正当な復讐の権化として世界すら越えてきたビームス夫妻を殺さず、死なず、なんとか通じ合って最終決戦を越えていったのに。
”ポケ虹”の世界から”エウレカセブン”の夢を越えて、存在するはずのない雪月花がある意味をデューイも理解してたのに。
軌道エレベーターは倒れ、『どー考えてもアクシズ落とししたいだけだろ……』と突っ込みたくもなる最終決戦に、お話が突入していく感じにも似ている。
しかしそれが、虚構に生み出された命を語り尽くし、燃やし尽くした先にある一つの答えならば、不格好でも不徹底でも、それはそこにある。
数多のメディア、数多のコラボの果てに一つのポップ神話となるにはあんまりに不器用だった全てのエウレカの行き着くところとして、虚構の中の偽物でしか無いと己を思いつめたデューイや、ハイエボ1でもって月光号そっちのけで編み上げた情が反転した殺意を抱えて、エウレカに今そこにいる意味を問うビームス夫妻を、いらがっぽい現実に魔女として生き延びたエウレカを置かざるを得なかった視線。
全ての”エウレカ”を内包する夢見る呪いの種明かしを第二部で終えてしまって、そこから出た後の女の……あるいは出来れない男の物語を、三部作の最後に持ってくるしかなかった切実。
そういうモノが、あのクライマックスには匂っている。

あるいは、”ボーイ・ミーツ・ガール”の主役であるためのカウンターバランスを失い、鋼鉄の魔女になるしかなかったお姫様が、お姫様に戻って終わるお話……と見るのは、”女の子”なるものをナメすぎた話だとは思う。
”ボーイ・ミーツ・ガール”の結末の途中でよりにもよって暴走したヒロインに殺され、ニルヴァーシュに封じられ人を沢山殺し、夢みる機械と一緒に冷凍刑に処され、最後の最後ギリギリで間に合ったレントンの無力と不在は、多分彼が少年だからじゃない。
レントンがそういう、”ボーイ・ミーツ・ガール”に主役になりきれなかった主役であることから物語が始まり、エウレカがその不在に沈み風花ちゃんに手を引かれ、少女ならざる魔女として傷だらけに己を鍛えて走り抜けた先に、この物語があるからだ。
ある意味”ボーイ・ミーツ・ガール”の呪いを解体しようとして、様々なメディア、様々な物語に分散する中自身が呪いになるしかなかった物語が、ようやく一切の呪いなき”ボーイ・ミーツ・ガール”に帰還した終わり方、とも言えるか。

どちらにしても、エウレカの死はアイビスの呪いにはならない。
彼女は”おばさま”が女の子のように、お城に戻ってきたお兄ちゃんと抱き合って、ずっと帰りたかった場所へと笑顔で綺麗に旅立っていく姿を見届ける。
それはあのバスタブで触れた傷のように、そこに生きる魂の証明が強く刻まれた、一つの物語の決着であった。
風花ちゃんはそんなエウレカも、お父さんもいない世界を生き延びていく。
それが”ANEMONE”の主役として親友よりひと足早く、自分の行き着くべき場所を見定めた彼女の、歩むべき物語だ。
そんな風に死ぬ人は死んで生きる人は生きる、当たり前の景色がENDの先に続いていく。

別に藤原さんだけが死んだわけじゃなくて、青野さんだって辻谷さんだって死んでしまって、それでも必死に物語の欠片を、語り切るべき虚構の残滓をかき集めて、この結末に辿りついたのだ。
それを今ここで問う意味を、あんまりにも庵野を殴りに行ってる決起声明とか、メタネタを行動理念にしてる割に全く説明しねぇ狂気のサイボーグとか、どうやってもなんかのコピーになるしか無い自分たちがそれでも、オリジナルに生み出してしまったビートに決着を付け報いるべく、なりふり構わず書き連ねる必死さとか。
そういうもんにまぜこぜ叩きつけて、塊のまま……っていうにはあまりに、エウレカらしいスカした作為がゴリゴリ目立つ形で生み出されたのが、この映画である。

端正でも親切でも、スマートでもスタイリッシュでもないだろう。
でも、『俺は自分たちが作った”エウレカ”が好きで、だから終わらせなきゃいけなかったんだ』という血潮は、生臭いまでにプンプンと、あらゆる瞬間に過剰な力みを伴って暴れている。
その青臭い熱量が僕の肌を焼いてくれて、なんだかとても嬉しかった。
それがあるなら、まぁ良いんじゃないかな。
そう思える映画であった。