イマワノキワ

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平家物語:第3話『鹿ヶ谷の陰謀』感想ツイートまとめ


追記 『平家物語の重盛とびわの関係は簡単に言うとどんな関係なんでしょうか?』というマシュマロを受けて、自分なりの答え。

ご質問ありがとうございます。
1 贖罪の相手/仇
2 同じ異形の瞳を宿す同志
3 血縁のない親子
4 決意を秘めた大人とそれを止め得ぬ子供
5 乱世に生きる導きを与える師弟
が混ざりあった、超多層的な関係だと思います。

これに加えて、”平家物語”を高速でドライヴさせる無常エンジン作中最大の犠牲者と、それを無力に観測することで視聴者に届ける主役=語り部という、メタ的に分割され混じり合う関係も重なってますね。

びわは僕らが前提として知りうる”決まりきった最終回”まで、絶対に生き延びる立場と宿命にある。
他方重盛はそういうプロテクトがなく、過酷な運命にあっけなく命を奪われる側に立ちます。
しかしびわがタッチし得ない大きな運命の流れに、平家最大の英傑として触れ得る当事者の立場にある。
この物語に関与しうるからこそ運命にもてあそばれる立場と、原典に存在し得ないオリジナルの視点だからこそ生存と無力を約束されているびわのポジションは、ある意味生者と亡霊のように相反します。

が、彼らは世界で唯一同じものを見れる間柄であり、これ以上無いほどの温もりでお互いを包み合う家族であり、同じ時間と同じ思いを必死に生きた同時代人でもある。
なんとはなしに結末は知ってる、分かった気になっている”平家物語”を今生きた物語として視聴者に届けるに辺り、結末が見えて触れ得ないびわを主役に据えた上で、遠い物語内部のキャラクターが血の通った命なのだとわからせるための、徳子と並ぶ最大のアンカーでもあるでしょう。

第1話の描き方から考えても、人があっさり死ぬ乱世にあって仁を知り、命の等しさに膝を曲げる重盛は現代的な感性が共感する”いい人”として描かれている。
それが儚く、平家一門存亡の際であっけなく散ってしまうことで、びわ≒視聴者にあの時代の厳しい空気を伝える立場でもあるかな、と思います。
作劇の力学から考えて、一番死んでほしくない人に死んでもらうのが一番刺さるわけで、重盛ダディを人物として描けていることは、既に定められている今後の展開を飲ませるオブラートとしても、また劇薬としても機能すると思います。

重盛のような優れた人もまた、志半ばに死んでしまう。
何もかもが儚く酷な世界を、びわは二人の父を奪われて生き延び、”実父と同じ琵琶法師になることで、重盛の生き様を語ることで、その物語を永遠にしていきます。
そういう意味では、作者とキャラクター、現実とフィクションという関係性もまた、そこに宿ってる気はしますね。