ダンス・ダンス・ダンスールを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
”男らしくない”と、かつてバレエを諦めた順平。
眼の前で炸裂した星を忘れようと、調子の良いほほえみの鎧は、五代都という少女…彼女が背負うバレエとの再会で壊れていく。
全てを捨ててでも、ダンサーになる。
その麗しく険しい運命が、今少年に舞い降りた。
そんな感じの春の本命が、MAPPAと堺監督の筆により堂々の滑り出しを果たした。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
ヘラヘラ笑いでかつて出会った夢を殺し、思春期をやり過ごそうとしていた少年に否応なく迫る、暴力的ともいえる運命の激浪。
バレエという美の精髄に、魅入られ振り回され、その身体で一体となる存在。
ダンサー。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
そうなるべく運命づけられた存在が、再びその鼓動を取り戻す所から物語は開始である。
とにもかくにもパの作画が良く、力の入ったダンスシーンが物語を駆動させるものを、視聴者によく伝える。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第1話から引用) pic.twitter.com/23JMC2r0CT
少年の瞳に星を生んだ男の跳躍は、別格の完成度と美しさを独自に持つと同時に、『バレエではない』と切り捨てられた少年のジャンプとの差異を、巧く作画しているように思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
鍛錬によって支えられた、動きの起こりを見事に隠した静かな飛翔。
重力を切り離し、自由に羽ばたく人体の可能性。
それを体現できるのがダンサー…特にクラシックバレエの踊り手だと、僕は勝手に感じている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
人間を地べたに引きずり下ろす現世の重力を引きちぎり、軽やかに飛びうる夢を劇場に、技術の体型それ自体に宿して、身体で作り、語り、伝えるために、細胞に正しい位置を染み込ませ、骨格に踊りを入れる。
そんな難行の果てに為し得る奇跡を、当然だと軽やかに踏み台にしてようやくなしうる、”起こり”のない飛翔。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
関節と筋肉が切れ目なく連動し、柔らかに舞う不可思議と、その躍動が伝えてくる人間のドラマ。
そういうモノが幼い潤平少年の心を打ち、開いた。
それが過酷な定めにより打ち砕かれた結果として、あのヘラヘラ笑いがある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
そして荒々しくも可能性を感じさせる、見事な跳躍がある。
テキトーな当たり前に埋もれ、身勝手に自分の可能性を蕩尽できる青春期を、軽やかに飛び越えていきそうな力強さを宿して、彼は540を舞う。
テキトーにやろうとした自分を引き戻し、諦めようとしている輝きに引き戻す少女。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
都の存在が、引力を持って潤平を彼の道に引き戻すけども、それは都を超えたもの…彼女がピアノで爪弾いたバレエの旋律が持つ、共鳴の力でもある。
ダンサーになる。
その宿命はヘラヘラで逃げようとしても、潤平を追う
潤平が瞳を焼いた輝き、自分を引き寄せる運命から逃げた…逃げざるを得なかったのは、父の不在が深く関わっている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
男らしいこと、男らしくないこと。
幼子だからこそ切実な檻から、我が子を解き放ってくれそうだった父の死。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第1話から引用) pic.twitter.com/5w6iiiJAzM
お父さんは最初、”バレエ”を自分の考える”らしさ”にそぐわないと、遠ざける立ち位置に居る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
しかし息子が出会った輝きと、それを体現できる熱には敏感で誠実であり、椅子に座って幼い純情を見下す位置から離れて、膝を曲げて我が子の瞳を真っ直ぐ見つめる。
この理解があれば、潤平は何を言われてもバレエに勤しみ、物語は別の形になっていたのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
しかし父は死に、潤平は”男らしく”家族を守るためにジークンドーを学ぶことになる。
”女のやること”と無邪気に振るわれるナイフから、自分を守るべく拳を構えることになる。
その小さな構えが優しくて切なくて、潤平がどんなに浅はかでアホでも、彼を見守ってしまうのだろうな、と思った。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
バレエを彼から遠ざけた暴力的な”男らしさ”の濫用と違い、彼は優しいからこそ愛した父の代理として、”男らしく”家族を守ろうとした。
それはとても高潔で、優しい誓いだ。
我が子の中で爆発する感性と衝動を見落とさなかった父がいれば、その拳を下げさせて『それは”男らしさ”じゃないよ』と寄り添ってくれたかもしれないが、父は死んだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
潤平は無邪気なナイフに満ちた世界で、自分と家族を守らねばならない。
だから拳を構える。ヘラヘラ笑う。
それで良いのだと思い込む
これを粉砕していくのがバレエとの再会であり、都との出会いである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
初恋と芸術は、同時に少年に襲いかかる。
スタジオパブロの美術は、バレエと出会う前の世界を平板に描く。
淡い色彩と、のっぺりした立体感…現実感の薄さ。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第1話から引用) pic.twitter.com/Xx7tygJCrM
そこに鮮烈に飛び込んでくる、少女のパンツ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
潤平の瞳が見惚れたのは、その奥にある”女”との出会いだけでなく、跳躍に込められたバレエ…その美と再開したからこそだ。
導かれて進んだ先では、バレエのない世界ののっぺりした色彩は消え、あまりに絵画的な冥闇がスタジオを制圧している。
バレエと都こそが、父の不在とヘラヘラ笑いに縛られた潤平の青春を駆動させる特別な起爆剤なのだと、良く伝えるメリハリである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
同時に潤平くんが脳髄まで思春期に浸った、エロ猿モンキーであることも良く分かる。
しょうがないよね…急にパンツだもんビックリするよね…。
このお話は潤平少年がバレエに出逢ってしまい、再開してしまい、色んなモノを獲得し引きちぎられながら、自分になっていく歩みを書くのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
それは思春期という普遍的な季節と個別に呼応しながら、その心魂を抉っていく。
バレエは潤平くんが恋と出会い、心身を育て、迷ったり進んだりする伴奏…
であると同時に、作品にどっかりと根を下ろす主旋律でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
そうでないと、こんなに力を入れて作画はしないわけでね。
柔らかに力みなく飛び上がるダイナミズム、ふわりと重力を引きちぎる時の陶酔。
潤平を酔わせるのは、都という存在…出逢ってしまった”女”だけではない。
野放図な跳躍を『バレエではない』と否定しつつも、千鶴の瞳はその可能性に疼く。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
小さな頭部、長い手足。
バレエダンサーになるために造形されたような天賦の身体は、しかし未だ磨かれざるダイヤだ。
そして闇の奥、バレエそれ自体のような指
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第1話から引用) pic.twitter.com/RFiollFGdu
『バレエではない』と言うのであれば『バレエである』ということを示さねばならない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
『男らしくない』というのであれば、『男らしいとはなにか』を問わなければいけない。
その両方に問いと答えを与える、鍛錬によって切削され、日常的な仕草までもが”バレエ”になってしまった青年。
都が追う男。
その存在を未だ知らぬまま、潤平は始まったレッスンに(思春期の少年らしく)反発し、しかし鏡の中正されていく己の姿勢に、陶酔していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
周囲の嘲りと父の不在により、遠ざけざるを得なかった星が、自分に確かに近づいている予感…もしくは身体性を伴った実感。
その眩暈は潤平を夢中にさせ、現を忘れさせていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
ヘラヘラ笑いで泳がなきゃいけない、家族を傷つけるかもしれない現実の引力を、バレエの陶酔は引きちぎってくれる。
潤平を、トバシてくれる。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第1話から引用) pic.twitter.com/cZ4Owt7jM5
父亡きあと自分を育んでくれた母は、優しくおおらかであるが、己に道を示してはくれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
普段聞かないタイプの大谷育江であったが、キャラクターが静かににじみ出て良かった。
膝を曲げて向き合ってくれる存在を失ったまま、ふわり浮かび上がった心と気持ちが、千鶴の荒々しい視線で縫い留められる
構えた”男らしさ”も、周囲の雑音も、ヘラヘラ笑いの鎧も、全部捨ててあの時視た星へと翔ぶべき存在なのだと、その言葉と瞳が、鮮烈に残酷に告げてくる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
そうして良いのだと、己を理解し助けてくれる。
エキセントリックな師匠は、潤平が失った父を継ぐ存在として、迷える少年の背中を強引に押す。
大人であり、バレエの頂きに上って降りた千鶴。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
彼女に見えてしまっている可能性と運命は、潤平当人には未だ見えない。
それは『バレエになる』ように身体を作り直し、その細胞まで染み渡らせ、陶酔の先にある覚醒と、それを掴めばこその新たな陶酔に溺れてみなければ、分からないものだ。
それに触れたからこそ幼い潤平は星を見て、諦めてヘラヘラと地面に己を縫い止めたのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
そこだけが、父のいない世界で自分と家族を”男らしく”守れる場所だからだ。
しかし今、潤平はあの時出逢った星と、それを導きに進みだしていいと断言してくれる存在と再開してしまった。
突然の死によって、バラバラに砕かれた父は千鶴だけでなく、潤平を鍛え導く数多の師として、彼に再訪するだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
その初対面であり再会でもある旅路の中で、彼の身体はダンサーとなり、憧れは『バレエ』の形を手に入れていく。
それは野放図な喜びを時に縛り、飛び立つ足場にもなるだろう。
規範と自由、その狭間にある己との複雑なパ・ドゥ・ドゥも、この物語が追うべき大きなテーマである…し、あらゆる思春期の子供は友達付き合いとセックスと同じくらい、そういうモノに悩むのだと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
バレエを描くこの物語は、そこへの導きとして一つの身体芸術を選んだ。
”らしさ”とはなにか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
それは自分を害し縛り付けるのか、より自分”らしく”あるための翼となってくれるのか。
男である、バレエである、村尾潤平である。
その事を、果てしない鍛錬と表現の先に探っていくお話は、力強く最初の一歩を踏み出した。
微かな反発と当惑を伴いつつ、踊ることの喜びへと潤平を導いていく女達に続くように、薄暗い闇からライバルが顔を出す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
次回、流鶯との邂逅をどう飛ばすか、大変楽しみである。
とても良いアニメであり、アニメ化かなと感じる第一話でした。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第1話から引用) pic.twitter.com/LjzuNui97F
追記 この場合のフィジカルは、強制的で客観的で不自由な物理としてのphysicalと、無限の可能性と巨大な失望を同時に秘めた唯一の存在としての身体……physical両方を、当然含む。
ダンスール追記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
OPは徹底した一人称での作り込みが印象的であるが、あの画作りはバレエとの再会、身体をバレエにしていく過程で獲得されていく自意識、そこから見えてくる自己表現の足場が何処にあるか、まず見せたいという意識から選び取られているのだろうか?
世界を見る私。世界の中にある私。
それは迷ったり間違えたり、傷つけたり何かを捕まえたりする唯一の主体であり、いとも簡単に揺らいでヘラヘラ笑う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
自分に見えないものでありながら、自分でしか無いものでもあり、一人称の視線は自分を包囲するもの、そこを駆け抜けていく自分を時折、何かに反射させ客観視する。
私でしかない私の輪郭を捕まえるための行為として、重心と関節と筋骨の有り様を意識しなければ成立しない”バレエ”を面白く見ている立場としては、その物語の出だしが過剰で美麗な”私”で満ちているのは、とても面白い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
パンパンに張り詰めて出口のない、俺との追いかけっこ。
それを成立させる”らしさ”なる、私の一部でありながら誰かの判断なしでは成立しないもの。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
潤平はあくまで一人称の狭苦しさに包囲されながら、それを飛び越える星を追って飛び、舞う。
それは単独のダンスではない。
自らの周囲にあるもの、過去と未来に置き去りにしたものと、呼応しながら描かれる、
私がかけがえなく、また逃げられない私であることで始めて成立する、バレエという身体表現。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年4月10日
それを追いかける物語が何処に足を突き刺して進んでいくのか、自覚的だからこその挑戦的な表現であったのかな、などと思う。
フィジカルを強く意識したお話はとても好きなので、今後にも期待したい。