ダンス・ダンス・ダンスールを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
洋舞祭当日。
気の入らないリハーサルが嘘のように、都の存在を間近に感じた潤平は本番に向けて滾っていた。
オディールを求める王子そのものとなって、甘やかに踊る彼の前に、舞い降りる黒き魔王。
二つの星が熱く燃える時、舞台に衝撃が走る!
そんな感じの潤平初ステージは大波乱、ダンスール第5話である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
とにかく潤平と流鶯のせめぎ合いが圧巻で、舞台に己の心魂全てを賭して舞う”ダンサー”という人種がどういう存在か、荒々しくも美しく叩きつけてくるようなエピソードとなった。
それは美しいだけで終わらず、時に暴力的ですらある。
”男らしさ”の枷から解き放たれ、眼の前を流れる星に素直に生きることしか出来なくなった潤平の、掟破りのステージ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
その熱量に触発され、形のない憎悪を舞いきった流鶯。
若き才能を止められなかった千鶴も含め、美しき暴走がどんなツケを払うかは次回として…やはりその熱は圧倒的であった。
そんな激発に至るまでの、穏やかで甘酸っぱい序奏。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
リハーサル時、潤平の足音はドタドタと重たく、気持ちも入りきっていない。
矛盾だらけの”つまんねー話”のアラが目に付き、化粧をされながらも文句タラタラである。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/kbQ1GXoAue
ここで千鶴さんがアドバイスしている”生物としての舞台”が、潤平本人主演でこれ以上ないほどに暴れまわる未来は、まだ先の話である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
キャラクターになりきり、積み上げた技術に熱を宿し、美しさを体現する。
”美”を作る難しさと面白さを語っている時に、”Make”をしているのが個人的にはとても面白い。
化粧をして顔を作る行為は、潤平が王子になっていく物質的な準備であり、心理的な支度でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
いまいちピンとこなかったものが段々間近に酔ってきて、これが最後の舞台なのだと、綾子さんの挨拶、幼い子供たちの姿から理解ってくる。
弛緩した日常が、特別な舞台へと変化していく。
序盤はその手触りがしっかり伝わってきて、結構好きだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
潤平は自分の感性が捕まえたことに素直な少年なので、つまらないものはつまらないと言い切ってしまう。
(そういう存在が、直感を押し殺してヘラヘラ周囲に合わせ、”男らしく”家族を守り続けた意味も、バレエに夢中になる程強く伝わるけど)
しかし一度きりの本番、そこに宿る人の感情を肌で受け取ると、表情が締まり世界が輝き出す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
何か特別なことが起こり、何かが終わっていく。
その潮流を感じとるセンスが敏感で、なおかつ実感によって火がつかないと燃え出さないのが、潤平という少年である。
この超実感主義は流鶯も同じで、グダグダ文句たれつつ舞台に立つまで…潤平の挑戦を突きつけられるまで、自分がどう舞うのか、どこまで曝け出されるかを、全然予感していない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
踊りながら弾む心が選び取る、たった一回の躍動。
その爆発を受けて曝け出される自分は、流鶯自身にも予想外だ。
何でも起こりうるし、何でも起きてしまう”ライブ”の面白さが、後に二人の少年を炸裂させる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
それは舞台に立った瞬間急に100%に沸騰するわけではなく、そこに続く準備の段階で…あるいはここにいたるまでの人生の中で、静かに温度を上げている。
様々な出会い、感情、喜びと悲しみ。
あるいは初恋。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
本物の王子のようにジェントルに肩を貸し、溢れる涙をこらえる都を先導する感触が、潤平の体温を上げていく。
その初々しい鼓動は、潤平の個人的体験であり、”王子”という普遍的キャラクターに血肉を宿していく。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/5bh46SARnT
『そーなってもしょーがないよね…』と、納得のヒロインとして都を可憐に描けているのは、このアニメのとても良いところだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
潤平がいい具合に勘違いするように、罪な言葉と表情を積み重ね、しかしその顔は背後に隠れて見えない。
見えないからこそ追いたくなり、心は暖かく弾む。
その心境は”王子”として舞台に立つ時、仮想のキャラクターが宿すべき熱のある嘘で、潤平だけの実感でもある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
王子はなぜオディットに恋をし、若くして死ぬ時何を思うのか
この物語はなぜ、その結末に向けて突き進むのか。
『つまんねー話』が初恋を刃にして、潤平の中で噛み砕かれ、消化されていく。
リハーサル時はバラバラだった潤平と”王子”は、都≒オディットへの慕情を潤滑油にして、境目なく溶け合っていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
その恋も弱さも無念も、死んでいられないという不屈も、作り物の誰かのものではもはやなく、潤平自身の感情として燃え盛る。
この見境の無さが、暴走して大変なことにもなる。
ともあれ本番直前、陶然とした瞳で潤平は都を見て、流鶯はその潤平を真っ直ぐ睨みつけている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
王子と魔王の視界はここでは、全く噛み合っていない。
…あんだけ献身的に助けてるのに、流鶯の視界に都が入らないあたり、残酷な話だよね。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/QE4mvEi7Pp
幕が上がり、王子と白鳥の出会いが描かれる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
見るか見ざるか迷っていた兵ちゃんも、否応なく潤平が今夢中になっているもの、自分が虐げた流鶯の本気を、”ライブ”で浴びることになる。
美しい明暗の中、美しい形で飛び、回る人形のフィギュール。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/GA8sCv1z14
何も知らない兵ちゃんはバレエとして完成された所作ではなく、潤平と流鶯が舞台から溢れさせる熱…そこに宿る一種の説得力にこそ、心動かされ目を見開く。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
それは未だ炸裂に至らず、運命の瞬間を待っている胎動だが、しかし確かに何かを予感させる。
あるいはその予兆を、もっとも熱く感じ取っているのは観客席ではなく、舞台に立つ演者なのかもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
見られること。演じること。
その魔力は潤平を捉え、千鶴さんの指示を頭から吹き飛ばす。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/EENwgasW7U
産道の如き狭いカーテンを超えて、潤平が荒ぶる鼓動とともに、美しく飛び出す自分の居場所。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
自分の足で踏んだ舞台は、圧倒的な高揚と必然性…『生きている』という実感に少年を逸らせ、焦らし、燃え上がらせる。
最終幕へと進みだした瞬間、潤平は真実生まれ直す。
ダンサー誕生の瞬間である。
その炸裂は夏姫にも届き、星を見せる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
届いてしまうし、見せてしまう。
伝統と格式に支えられた、かくあるべしという”バレエ”を骨の髄まで叩き込まれたプリンセスを揺るがす、生誕の眩さ。
真っ白な頭で、正しい姿勢も品格も抛った、情熱のステージが届いてしまう。
早鐘のように脈打つ心臓にせっつかれて、潤平の視界は舞台で演じる『つまんねー話』と溶け合う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
王子の慕情は潤平の思いであり、その無力も無念も、全て自分のものだ。
冷静な客観視などどこにもない、一心不乱の一体化。
融け合う熱量。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/0reV7W0IdX
影絵芝居で鮮烈に描かれる、魔王による王子殺害。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
定められた筋書きは、胸の中で湧き上がる潤平のオディットへの思いに跳ね飛ばされ、王子は歯をむき出しに死から立ち上がる。
それは『つまんねー話』への潤平なりのプロテストであり、彼の王子の無念を己の身体を借りて、燃やし切る新解釈である。
「白鳥の湖には、いろんな終わり方がある」
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
格式に則り定められた美をトレースするように思える”バレエ”も、数多の挑戦と変化を受け取って、生き物のように姿を変えてきた。
ではこの、バレエを学び始めたばかりの少年が全身で表現する『俺の王子、俺の”白鳥の湖”』は、身の程知らずの無謀な解釈か。
はたまた一つの命のほとばしりとして、価値を認めれるものなのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
そんな難しいことを、潤平は考えてもいない。
王子として村尾潤平として、その二つが入り混じった存在として、殺されたままではいられないと、ただそう実感しただけなのだ。
なら、立ち止まってはいられない。
父が死に、”男らしさ”の鎖で魂を縛ってきた時間が長い分、バレエと再会してからの潤平は我慢が効かない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
それが真実なのだと強く思い込めば、周りを気にせず突っ走ってしまう。
その暴走が人を引き付け、燃え盛る情熱に巻き込んで熱狂させてしまう所に、天分というものがある。
あるいは個人の中に閉じ込められているそんな思いをより自由に、より精密に形にするために、”バレエ”に定められた形があるのかもしれない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
そしてそれは、情熱に燃やされても潤平の中から消えない。
完璧ではないにしても、荒々しく炎に削られたとしても、舞の中に積み上げた鍛錬が顔を出す。
ここまでの練習と本番の大暴走が、変貌を遂げつつも切れてはいない所が、僕は好きだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
バレエをやる。
そう覚悟するまでのでこぼこ道とか、地道な基礎鍛錬とか、全てを振りちぎる非日常に見えて、そこで炸裂する熱量はやはり、潤平が歩んできた場所に足場を置いている。
狂熱する頭がそれを忘れたとしても、細胞は千鶴さんが染み込ませた”バレエ”を覚えていて、だから型破りなステージはあくまで”白鳥の湖”だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
殺し合いは抽象的な表現…美しき死として体現され、美しき青に、荒々しき赤によって演出される。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/bl3Ep19zAW
ライト…それが生み出す影を活かすことで、潤平と流鶯の身体が生み出す美しい流線型が、より強調されているのはとても良い演出だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
鍛えられた身体が生み出す、ただただ美しい形。
それが音楽に合わせ、キャラクターの感情に従って形を変え、力を込めて飛び立ち、美しく着地する。
美しいからだが、ただそこに在る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
そんなシンプルで原始的な美しさと、精妙に整えられた音楽と振り付けに、少年たちのリアルな感情が乗っかる。
ただ殺されるだけでは終われない、自分が選び取った初めての少女に誠実に在るために立ち上がる、王子の想い。
それを幾度も叩き潰す、魔王のドス黒い感情。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
おすまし顔で無視することしか出来なかった、侮蔑や強制。
湧き上がる怒りと反発…叫び。
ロットバルトも王子も、台詞は発しない。
バレエはそういう表現だからだ。
しかしその跳躍が、細胞の一つ一つが、舞台の外側に在る彼らの物語を雄弁に語る。
それは仮想と現実の壁を簡単に着崩して、嘘っぱちの『つまらねー話』に宿っていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
王子に死を納得させる、圧倒的な血と闇の色。
潤平の灼熱によって呼び覚まされ、流鶯の中から溢れ出す感情が、規格外のステージのフィナーレを燃え上がらせていく。
俺が魔王だ。俺が森流鶯だ。
そう全霊で告げるステージは、あの体育館の跳躍よりもさらに高く、熱い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
そういう流鶯のむき出しを引き出す本気が、潤平には在る。
死の筋書きを受け入れて、伏したまま次を待つ都ではなく。
ホント、ここは残酷。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/UDtAhK2Md0
潤平の才と熱に当てられ、汗だくにメイクを崩しながら踊る流鶯は恐ろしく、また美しい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
彼もまた闇の中に閉じ込められ、狭く暗い場所をくぐり抜けて自分の居場所へと今生まれ直した、生まれたばかりのダンサーなのだ。
殻を破った教え子を見る、千鶴さんの瞳が優しく、美しい。
筋書き破りの再挑戦が、この汗まみれのロットバルトを連れてきた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
ある意味淳平は、あの体育館での涙の返礼を成し遂げたわけだ。
流鶯も潤平も、卓越した感性故に踊り以外で人生を揺るがされず、己を生まれ直すことが出来ない人種だ。ダンサーなのだ。
ならば、送るものは踊り以外ないのだ。
涙でメイクが崩れるのを気にしていた都と、自分の全てを吐き出しグチャグチャのまま生まれ直した流鶯の対比は、やっぱエグいなと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
正しさを守れという指示も、定められた筋書きも、全てぶっ飛ばして蘇る。
そういう所に自分を投げ込める存在と、常識的に足踏みしてしまう存在。
才能…というより魂の在り方の違いが残酷な一線を引いていて、さてこの断絶が、今後何を生むのやら。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
潤平の陶酔は、ここに至る彼の抑圧と辛さを知る身としては『良かったね…本当に良かった』であるが、”バレエ”を知る身としてはどうなのか。
(画像は"ダンス・ダンス・ダンスール"第5話から引用) pic.twitter.com/1Y9nCBI7kz
まーた圧力の強いババァが出てきて、ここからの新章がどう踊るのか、大変楽しみである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
潤平が燃やし、流鶯が受け取って生まれたこの身勝手な熱狂が”バレエ”なのかという問いを…少年たちの眩い到達点を簡単には答えにしない慎重さを、この作品はしっかり宿している。
それは熱く、狂おしく、演じるものと見るものを震わせた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
己の全てを出し切り、身動きできないほどに燃やし尽くす。
しかしその炸裂だけが、”バレエ”に求められる美なのか。
人間とは情動と自由のみで成立する存在なのか。
規律と秩序こそが、生み出す美と自由があるのではないか。
ここら辺のカウンターが次回以降また押し寄せるのだろうが、今は二人のダンサーの眩き生誕を、暖かく寿ぎたい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
潤平と流鶯が、お互いに抱えた人生を自分自身のダンスでぶち壊し、再生できたこと。
お互いがいたからこそ新たな表現に踏み込み、より熱く、より楽しい場所に飛び込めたこと。
この後いろんな苦労もあるけど、でもここで応じと魔王が本気で踊れたことには、大きな意味がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
そう力強く告げてくる仕上がりとなって、大変良かったです。
なぜ野猿が王子で、美少年が魔王なのか。
千鶴さんが配役段階で見据えていたものが、しっかり証明されたのも良かった。
潤平は持ち前の没入能力で作品に飛び込みつつも、村尾潤平として受け取った恋とか、今までの歩みとか忘れず、社会と切れない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
むしろそうして育まれた己に嘘のない表現を、舞台という非日常だからこそ体現し、そこに皆を連れていける横幅の広さがある。
ヘラヘラ笑いの奥にあった、彼の人格の芯。
対して流鶯はどんどん狭く内側に籠もり、溜め込んだ怒りや反発を吐き出せないまま黙り込む。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
それが炸裂したマグマは強い力と普遍性を宿し、奔流のように人の心を揺れ動かす。
クールでナイーブな顔の奥に宿った、ドス黒い感情。
そういうものを千鶴さんは見抜いて、二人を配役したのだろう。
結果大変なことになったが、若きダンサー二人が殻を破って生まれ直したのは、教育者として大人として、やっぱ嬉しいことだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
何度もいうけど、このダンサー同士の共鳴から都がハブられてるのエグいなー、と思う。
潤平の初恋相手として”五代都”は刺さってても、オディットとしては、ねぇ…。
虚と実、愛と憎、心と体。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
全てが混ざり合うステージを体験し、体現した少年たちの物語は、この高みを越えてまだまだ続いていきます。
魔王と王子の物語は、ステージを変えてまだまだ続く。
アニメが綾子さんの複雑さをどう描いてくるか含め、次回も大変楽しみです。
追記 今回の舞台で生まれた野放図な変化が生み出す反発を、この作品はしっかり捉えているし、綾子さんのネットリ魔女じみた抗議の裏にある正当性とプライドにも、ちゃんと光を当てる。
ここら辺の価値論的バランス感覚が、僕は凄く好きなのだ。
追記
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
あらすじ追えば『つまんねー話』でしかないクラシックに、命を宿すのは演者の体温。
今回の話は少年たちがダンサーとして人間として殻を破り再誕するわけだが、それを通じてなぜ”バレエ”が今に生きる表現たりうるかも、巧く描かれていたと思う。
死して幾度も蘇るのは、人間だけではないのだ。
人間存在を肯定するための表現媒介として、選びぬかれ磨き抜かれたバレエという様式。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
それは古ぼけた古典の額に収まりつつ、人生を賭して学び挑む人間の熱によって、破壊と再生を繰り返す。
それが観念の領域に留まらず、凄く生身な現象なのだということを、潤平と流鶯のステージは見せた。
既にあるものに満足せず、自分だけに感じる鼓動をそこに叩きつけ、革めていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2022年5月7日
熱いうねりは同時に、美の極限を求めて積み上げられた歴史あって成り立つものでもあり、情熱を制御し切る冷静あってこそだ。
バレエが”ライブ”である以上、ホメオスタシスとトランジスタシスの終わらない衝突は続くのだ。