イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『シン・ウルトラマン』感想

空想科学特撮映画”シン・ウルトラマン”を見てきましたので、これから感想を書きます。
ネタバレしない範囲で言いますと、とても面白かったです。
自分はオタクの教養をかなり下回る程度のウルトラリテラシーしか無い観客でしたが、『ここ、クソオタクがクソオタクをくすぐってんだろうなー』って部分を多数感じつつ、内輪受けで終わらない大きなモノにしっかり挑み、ユーモアもペーソスもあるいい映画でした。
見終わった後、ウルトラマン禍特対がしみじみと好きになれる作品だったのは、いい出会いが出来た嬉しさが視聴後に残ってくれて、とても良いことだと感じました。
映画館で見るの、オススメです。

 

というわけで、シン・ウルトラマンを見てまいりました。
先述の通りうっすいうっすいウルトラ知識で、『庵野くんのウルトラ愛浴びるかァ~』くらいの意気込みで座席に座ったわけですが、ヘンテコなカメラワークと良いテンポの進行、何処かシュールで真面目な笑いと楽しい画作り、コンタクトSFとして……”他者”に対するお話としてじんわり染みるものがある、とても良い映画でした。
何しろ冒頭にタイトル出てるので比べていいと思うけど、”シン・ゴジラ”の総身に漲っていた(そしてあの映画を成功させた大きな要因だと思う)一種の悲壮感みたいのがそこまでなくて、異質生命と戦い、対話し、騙され、隣り合うことが日常に混ざってしまった日々を、なんとか生きていく人たちの息遣いが静かに聞こえてくるような映画でした。
シン・ゴジラ”のドラマツルギーを支えていた、実力はあるが首を斜めには触れない日本システムの爪弾きモノが集合し、総力を結集して何事かをなさんと危機に奮戦する”プロジェクトX”的な味わいは、”ウルトラQ”時代を一気に駆け抜ける冒頭のダイジェストで蹴っ飛ばされていきます。
お話が始まった段階で”禍特対”は結成されていて、法整備も行政縦割りも一応は整っていて、日本という大きな群れは一応、異常事態に対応するハラを決めている。
そういう状況で禍威獣は山野を砕き、生活感あるミニチュアに表現された位置人間の暮らしを、容赦なく踏みつけていく。
当たり前になってしまったけども受け入れたわけでも諦めたわけでもなく、どうにか抗いたいが人間の英知を超えている厄介事が、否応なく隣にあってしまう状況。
これを所与のものとして、物語はスタートしていきます。
禍特対はゆるキャラマスコットが存在している、巨大なお役所仕事に組み込まれた秘密でも何でも無い一組織として、日常的な微温を宿して困難な状況に立ち向かっていく。
そのヒロイズムはあんまり悲壮感がなく、ディザスタームービーの色合いが濃かった”シン・ゴジラ”とはまた違う、ヒト型相手故の対話可能性(あるいは対話困難性)に付き合っていく映画に、とても似合いだと思います。

あんまり凶悪な禍威獣に万策尽きたと思ったその時、神のごとく飛来した銀色の巨人は圧倒的なパワーで山野を砕き、子供を守ろうと我が身を呈した一人の人間の意志を衝撃波で吹き飛ばして、大きなものに勝つ。
この時のウルトラマンは銀一色の時間制限がない、無敵の存在として足下の存在を顧みません。
しかし神永新二の奇妙な自己犠牲に興味をそそられ、彼と一体の存在になって人間社会に混ざり、人を学び始める。
新二=ウルトラマンとなったあと、赤いラインが入り活動限界が付くのは、つまりウルトラマンが”血肉”を得た表現だと僕は感じました。
クライマックスで言葉にされる、人の宿命としての死と生の隣接から縁遠い存在だった超越的知性は、自己犠牲への興味に惹かれてエネルギーが切れる存在となり、死を得て人に近づく……近づこうとする。
シュナイダーだのレヴィ・ストロースだの読みつつ、辞書に書いてある”バディ”の定義を不格好に訪ねながら、文字に書き起こされ明瞭に分類できる、体験ではなく知性の領域からまず、人間に近づこうとしていきます。

ウルトラマンが人を装い、人でないまま人を知ろうとする不器用な誠実さは、あまり効率的でも明示的でもありません。
『なんでこいつは、その醜さ愚かさをたっぷり思い知らされながらも、自分を犠牲にしてまで人間を守ろうとするほど人間が好きになったのか?』という、観客当然の疑問にあんまり明示的な答えが出ない。
しかしそのわかりにくさこそが、曖昧であやふやな他者とどう向き合うのか、自分と重なる部分がない”分からない”異質さを己に引き受け、命と尊厳をかけて戦う理由になるのかを、静かに問い語らっている感じもあります。

わかりにくさはウルトラマンだけの属性ではなく、人品の説明なくいきなり作中にいて、いきなり死んでいきなりウルトラマンになる神永新二もまた、視聴者にはよく分からない存在です。
彼がどんな存在なのかは、警備部公安課の凄腕故の壁に弾き返されて、作中の人々も僕ら観客も、完全には紐解けない。
しかし一つ解るのは、彼は人智を超えた禍威獣災害にけして怯まず、子供たった一人を見捨てずに嵐の中に飛び出していく存在だ、ということです。
その背景が何も見えないとしても、新二が勇猛に命の現場に挑み、確かに一つの命を助けきった事実は揺るがない。
正体も能力も一切不明と、潔く報告書に記されるウルトラマンの行いとアイコンタクトを通じて、禍特対が解らぬなり異星の客を知り、好きになっていくのと同じように。
分からない他者をそれでも測り知るための一つの鍵として、”誠の心から出た行い”という、凄く前時代的でロマンティックな判断基準が、あんまり説明がないまま作中に置かれている。
僕はこれを拾って、ウルトラマンと人間、ウルトラマンと外星人が接触し対話し……ときにそれに失敗し、暴力というコミュニケーションを選んだりするお話に切り込んでいくことにしました。

きぐるみ使い回しネタを『生物兵器としての共通ブロック』という設定に昇華しつつ、物語は外星人とのコミュニケーションに移行していきます。
電子情報を自在に改竄したり、長澤まさみを巨女にしたり、人間の理解を超えた超テクノロジーを政治的取引の道具にしたり。
神の如き力を持つザラブとメフィラスですが、行動理念としては冷たいエゴと我欲が溢れていて、神様と言うには(あるいは神様だからこそ)非/超倫理的な行いをします。
彼らは地球を生体兵器牧場に変えたり、一部特権者と共犯で自滅への道を突き進ませたり、人間をどう扱い利を確保するか、自分が人間のどんなところが好きか、鮮明に定義しています。
それは命や願いといった、あやふやで個別で形のないものを圧倒的なパワーで蔑ろに出来る、クッキリした暴威に満ちている。

このデジタルな冷たさに抗うのに、ウルトラマン禍特対は例えばインクの光とか、3日感風呂入ってない体臭だとか、古臭くアナログなものを武器に選んでいく。
そういう仕分けきれないものにこそ”何か”があるのだと、ロマンティックに語りながら、情報化時代にふさわしくあっという間に正体がバレたり、ビンタされてなお仲間を信頼したり、職場は共有しないながら、奇妙に人間と銀色の巨人は想いを寄せ合っていきます。
自分の利になるから、地球と人間が好きだ。
外星人達のわかりやすい”好き”は凄く凶暴で、道具扱いされる側は溜まったもんじゃないけども、しかし異質で圧倒的な知力武力暴力の差がある異邦人相手には、そういう通じ合わない関係性こそが先に立つのかな、などという奇妙な納得もある。
人間間ですら(あるいは、人間相手だからこそ)同じように割り切った利害で尊厳を無視し、『喰う俺たちと食われるあいつら』と簡単に分断されてしまう、本当はわかりにくくて曖昧な他者。
それを利害を外において曖昧なまま、なんとなくで隣り合いなんとなくです気になる時大事なのは、生きているからこそ匂い立つ相手の香りなのかなぁ、などとも感じます。
あるいは活動限界を示す血潮の赤をその身に刻んだからこそ、ウルトラマンはひどく曖昧で人間的な”匂い”を嗅ぎ分け、利を貪る賢く冷たい神様にならない道を、個別に選んでいくのかもしれません。

異性、異国、異常。
人間と宇宙人でなくとも世界は”異”に満ちていて、それの断絶は人間が個体でありながら群れで生きようとする、群れでなければ生きられない社会的生物の宿命でしょう。
ザブラもメフィラスも断絶の向こう側に優越的に立ち続けて、都合よく人のカワはかぶりつつも、『人間ってなんなのか?』を考えることはしない。
ましてや死せる宿命を受け入れて、匂いを嗅ぐことはない。
それは面倒くさいし、利益にならないし、臭いし、その上嗅いだ所で別に相手のことがよく分かるでもない、不合理な行為だからです。
でもそこにこそ、人と人が”異”の宿命を抱えたまま、均質化せず隣あえる可能性があるのだと、やっぱりロマンティックに歌い上げてる話だなと、僕は感じます。

 

この暴力的異質性忌避は人間にも当然あって、日本政府は外星人に良いように踊らされ、あるいは超宇宙要塞と化したゼットン(生成シーケンスマージかっけぇ)を天に仰ぎながら、ウルトラマンの隣人たる禍特対を拘禁し、銃で脅す。
『あ! 俺アンタ知ってる!!』ってなった”政府の男”の恫喝が危機的決断に踏み込んでいれば、旧劇のネルフ対戦略自衛隊みたいな血みどろ大闘争が展開されて、最高に気まずいエンディングにもなり得たでしょう。
自分(が代表し、また延長し同化されてる”俺たち”≒”あいつらではない存在”)の利のために、他人の事情や思いを無視して実行力を突きつけ、望む結果(それが良い解決につながらないのは、神ならざる人間の愚かしき限界でしょうが)を確保しようとするのは、宇宙から来た残酷な神様の特権ではない。
しかしウルトラマンとの『対等な交渉』で”政府の男”は的確な判断を下し、ウルトラマンが信じ、禍特対が答えようとした手段で危機を乗り越える道へと、結果的に踏み出していきます。
なんとはなしにアイコンタクトしたり日常を共にしたり、ウルトラマンと信頼関係構築のチャンスが有った禍特対ではなく、怜悧な政治的判断を常に背負う”政府の男”とこういう対話が成り立つ所に、ロマンティシズムで終わらない権力ゲーム的リアリズムが、作品に宿る足場があるかな、と感じもします。
銃を構えてこちらを脅してくる相手とも、あるいは人類総家畜化の凶暴な夢を携えた神様とも、一応の会話をして、暴力的衝突を事前に回避したり、あるいはコンビナートでの大立ち回りの中で、全世界的闘争の火種を回収して宙に帰っていく解決を、なんとか掴むことも出来る。
ウルトラマンが隣人にしてバディにして仲間たる禍特対だけでなく、それと対立しうる立場の”政府の男”やメフィラスともコミュニケーションを成立させているのは、結構大事で面白い描画だと思いました。

『やっぱ一兆度火球って、存在してるだけで超ヤバ太陽系消滅案件だよね!』というセルフツッコミをこなしつつ、同じ光の星の裁定者によって持ち込まれた”終わりを呼ぶもの”ゼットン
圧倒的で理不尽な智慧の差を見せつけられて、『神様仏様ウルトラマン様に全部任せるしかねぇ! 俺たち人間には何も出来ねぇッ!』って、一端滝くんが絶望するのが好きです。
浅見さんに託されたウルトラマンの方程式を受け取る前、”貧者のモルヒネストロングゼロで不安を飲み込んで諦めようとしてる姿は、デカすぎて手が触れられない色んなものの影に飲み込まれて、盲目的に生きるしか無い今の若人のスケッチとして、結構いい精度だったと思います。
『なんもかんもクソすぎるんで、ストゼロ飲むくらいしかねーッ!』って人にほど、この映画に描かれた浪漫方程式を読み込んで、知恵と勇気を諦めず世界中と連帯して、未来を掴む奇跡を形にする当事者として頑張ってほしい。
そういう甘っちょろいメッセージが見え隠れするの、僕は凄く好きです。
ゼットンをぶっ飛ばす超力技の解決法を掴むのは、ウルトラマンではなく彼の期待を受け取り、ストゼロの代わりにOculusに酔ってちょっとダセー姿見せた滝くんと、全世界の知恵の総結集でした。
シン・ゴジラ”では血圧吹き上がりシーンだった『人類の知恵と総力を結集し、超次元的危機に立ち向かうッ!』って場面が、当事者が身を置く疑似現実ではなく、それを横目に見てる視線から滑稽に描かれるのも、『”シン・ゴジラ”を越えた先に作られる物語』っぽかったなぁ。

 

この映画、最終的なコミュニケーション相手はウルトラマンと故郷を同じくし、しかし赤い血肉は持っていないゾーフィになります。
彼はウルトラマン以外とは接触を持たず、遠い星星で決定された冷たい方程式に基づき、最強の生物兵器になりうる人類全てを太陽系ごと抹消する、慈悲なき神です。
そういう存在は直接人の訴えを聞いてはくれないので、彼と同じ星に生まれ同じ価値観を持ち、しかしそこから離れたウルトラマンこそが、人類の代弁者として、匂いを嗅ぎ血肉を感じた、曖昧であやふやな”好き”を分かってもらうメディアになる。

でもそれは、鮮明でわかりやすい言葉にはならない。
ウルトラマンはあれだけの事件をくぐり抜け、禍特対と心魂相照らし合いながらも、出した結論は『人間は分からない』です。
この不可知性は『でも、命をかけていいほどに好き』という確信と、不可分でしょう。
知らないからこそ知ろうとするし、どれだけ知りたくても完全にはわからない異質な他者を、他者のまま尊重し他者だからこそ共にあろうとする、穏やかで相手も自分もよく見た結論。
利のみを見て、自分の中にある”好き”だけで相手を図ろうとする傲慢と暴力性から距離を取るためには、『分からない』という根源的な断絶を有る意味諦め、しかし立ち止まることなく縮まらない距離を歩き続ける難しさが、常に付きまとう。
その正体が何もわからないまま、ただ一命を賭して一人を助けようとした神永新二を通じ/一体となって、ウルトラマンは分からないものを分かろうとし、分からないままで善いのだと、一つの答えを出した。
人に間近に触れ合うために宿した赤い生と死を、本来銀色の巨人には必要ではなかった血潮に殉じる道を選び取ったウルトラマンは、最後の決断の時に『知りたい』と思った神永新二と同じ、不合理で匂いのある決断を果たした。
その行いを図る時、『ウルトラマンは人間が分かった』と、『分からないことと、分かることは時に並び立ちうる』と、ロマンティックに言っても良いんじゃないかと、ちょっと感じた。
それはニ時間のドラマにうかされた甘っちょろい感想なんだけども、そういう感慨を胸に湧き上がらせるには十分に面白い映画であったし、宇宙の異邦人が如何に人に近づき、離れ、また近づいていく歩みに浸らせてくれる作品であったように思います。

己の死を飲み込み、神永新二を人間の土地へと戻した後、否応なく進化の階梯を進んでしまった人間と日本、禍特対の仲間がどうなるかは描かれない。
あるいは、別の新しい話である。
『トップの”オカエリナサイ”じゃん…』と、あのスパッとしたエンディングに思ってしまう程度には庵野のオタクなわけだけど、神様の方程式を解いてしまった人間にはまた新しい厄介が降り注ぐだろうし、さらなる英雄が誕生しそうでもある。
とまれ、ウルトラマンは書物から人間という概念を理性的に学ぼうとし、分かったり分からなかったりしあいながら、お互いに何かを託して宇宙を超え、一つの危機を超えた。
この冒険が終わったから、人間に必ず付きまとう分断の業が乗り越えられたわけではなく、また国家という巨大な群れ、それを構成する個人は残酷な神の言いように操られたり、少し賢明に立ち止まったりしながら、日々を生きて行くのだろう。
起こってしまったことは無かったことにはならないが、何もかもが消えたわけでもない。
思えば最初のダイジェストで示された物語の構造をまるまるなぞって、振り出しに戻りつつ同じではない”生きて帰りし物語”という類型を、結構しっかりたどる映画だったのかな、とも感じた。
映画が始まった時の自分と、見終えた時の自分が違うように……あるいは同じであるように、映画の中の世界も、ウルトラマンに触れた人々も、足踏みと一歩を繰り返していくのだと思う。
そこに宿るもがきと匂いに、シニカルな絶望と甘ったるいロマンがしっかり漂っているのは、僕の好みであった。

 

そんなわけで、とても楽しい映画でした。
怪獣プロレスに結構尺を取って、山間から放射能廃棄場、夜の都会にコンビナート、宇宙の超弾幕戦と、バリエーション豊かに楽しませてくれたこと。
外星人との謀略戦が、おどろおどろしい怪奇の匂いを宿して、映像としてなかなか面白かったこと。
『こいつはこういう飛び方をする存在』と、頑なにシュワッチポーズを崩さず超機動するシュールな面白さを延々積み重ね、最終的にはあのヘンテコポーズに思わず握りこぶし、奇妙な愛着と共感が湧き出したこと。
人間便利に使って超宇宙的ベネフィット獲得しようぜ系異質知性体の、平成代表選手であるキュウべぇに、円谷本家から強烈なウィンクがあったこと。
上に書いた個人的メインテーマ以外の部分でも、楽しいところが沢山あるいい映画でした。
早見あかりさん、失礼ながらすっかり女優だよなー』などと、”Z”が付く前の楽曲が好きでよく聞いてた人間としては思ったりもしました。

ウルトラマン55年の歴史をしっかり咀嚼し栄養にしてると、また別の見方もあるかなー、って感じなのですが、自分にとって馴染みが深い尺金を使っての感想となりました。
特撮……ていうか実写フィクションの分解酵素が薄い人間なんですが、絵作りがアニメっぽかった(多分、表現史的因果関係としてはさかしまで、”エヴァウルトラマンっぽい”んだろうけど)のもあって、結構スルスルと食べることが出来ました。
一般的に”人間ドラマ”とされる部分は、”シン・ゴジラ”と同じく家族と恋愛をバッサリ切って一見わかり難いんだけども、人間存在の面倒くささと愛おしさをどっしり、ゆっくり見つめて、好きだからこそ言葉にしない奥ゆかしさを思うと、凄くヒューマニズムに溢れたSFだなぁ、と感じました。
まぁSFなるものは、常に(人間中心主義、という意味合いから開放された、その言葉の真の意味での)ヒューマニズムであってほしいし、あるべきだと思っておる人間の感想ですが。

ともあれ、楽しかったです。
いい映画だと思ったので、気になってる方は是非映画館で。
面白いですよ!

 

書き忘れの追記:赤と銀のエロティシズム


追記:なんだかんだ、色々ガタガタ言ってる物語が好きなのだ。