イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プロジェクトセカイ カラフルステージ感想:カーテンコールに惜別を

 プロセカイベスト”カーテンコールに惜別を”を読む。
 長く続いてきた宣伝出張公演もラスト、日本トップレベルのショーキャストとの合同公演を通じて、神代類が見つけた答えとは……という感じのストーリー。
 出張公演それ自体、あるいはワンダショ全体を描くというよりは、類と同等の才能である玄武旭を鏡にして、彼がたどり着きたい高み、個人としての夢よりも胸に響くものを掘り下げていく物語だった。
 ”マーメイドに憧れて”の寧々、”まばゆい光のステージで”の司と同じように、虚構であるはずの出張演目、そこでの生身の人間と劇中の役柄が自分の現在を何より強く反射していく。
 ”二人のアンドロイド”は機械人間が環境の違いによってあり方を変え、互いの違いを交流させる中で己を見つけていく物語であり、怜悧で余裕ある人格を持っていた異質なロボット人間が、本当に大事にしたい仲間の価値に、もう一人の自分と言える旭と出会い、最高の環境に誘われ拒むことで気づく現実を反映している。

 ロボットのように冷静に自分の才能と孤独を分析し、理解し、熱のある感情を遠ざけて夢を実現しようと思っていた青年は、運命に導かれて天馬司とワンダーランドショウタイムに出逢ってしまい、そこに己の居場所を見出した。
 その大きさに気づいていなかった類は、今回現実的で先進的な夢への誘いを旭から受け取ることで揺すぶられ、理性的判断をかなぐり捨ててでも選びたい願いが自分の中にあることを思い知らされる。
 本来旭の誘いこそが類が立ってるべきステージで、演出意図を即座に汲んで当意即妙に演じ、それ以上のアンサーを常時出してくる優秀さは、才故に孤立してきた類が常に求めてきた、心地よいハイレベルだ。
 旭がもう一人の類であり、対等の才と熱量をもって演劇に挑んでいる事を示すのに、『翻訳者ごとのクセを論じ、当然自分は原文で読んでる』ていう書き方をしたの、納得感があってよかった。いるんよそういう人たち……。
 旭は賢いだけでなく演劇に向ける情熱も類と釣り合っていて、紛争地帯で驚異にさらされた人生を演劇で救われた体験は、キレイすぎる夢に現実に形にしていく確かな手応えを宿し、もっと上手く、もっと良い仕事を望む理由(つまり、類を引き抜こうとする理由)には血が通っている。
 そういうもう一人の自分の誘いを蹴って、ワンダショに居場所を求めるのは、玄武旭より先に天馬司に出逢ってしまったという運命の皮肉が、最大の理由であろう。
 類と旭、鏡合わせだからこそ切ないな、と思った。
 ここは劇中劇で描かれた機械仕掛けの双子の運命と、静かにシンクロする部分だろう。


 仕事として本気で演じるやり方を探る中で、プライベートの自分がどうなりたいのか、そのためにはどんな道を進むべきか見えてくる。
 こういう描き方は他ユニットとはちょっと違った筆先で、シブフェスのステージにに唯一志願ではなく運営から依頼されて上がり、今回の出張公演終了も本業に押し寄せるニーズを捌くためだ。
 仕事としての、芸能表現集団としてのワンダショの特異性、先進性は、演目を通じて観客に夢を与え続けるミッションと常に呼応している。
 本気で嘘を作り上げ続けることは、銭勘定や人気、否定し得ない実力の不足……シビアな現実と常に絡み合う。
 だからこそ最高のショーキャスト、演劇人であり続けるためにはバカみたいな子供の夢を自分の中で活かし続け、経年劣化する鼓動に抗って、パッションのまま動く必要も出てくる。
 冷えた”現実的”感覚だけでは、フェニランは最高の職場、最高のステージには成り得ないのだ。
 分厚い理性の奥にあった自分の譲れぬ答えを見つけた類も、今回そういう場所にたどり着き、しみじみとその複雑な味わいを噛みしめることになる。

 ワンダショは全ユニット最速で”終わり”を見据えてもいて、青春を賭けたこの舞台がいつか終わり、バラバラな……バラバラだからこそ尊い自分たちの夢が進みだした時何が起こるかを、結構冷静に見据えている。
 演劇人としてのキャリアメイクを、”仕事”としてワンダショする中で否応なく考える必要があるからこそ、青春が永遠なんかじゃない現実と、それでも……だからこそ唯一絶対の価値が宿る真実両方を抱きとめて、”今”ワンダショに居続ける。
 そういう選択を全員がして、色んな出会いと学びがあった宣伝公演は終わっていく。
 ……て言いたいところだが、えむちゃんは専用公演を用意されないまま第3章終わった感じがあるし、鳳の末子である彼女の居場所は何がどうなってもフェニランなので、他メンバーが見据えてる”巣立ち”は彼女には、別の形で訪れるかもしれない。
 あの子幼く見えて地頭も人間関係の視力も良いし、演じる職業であることにプライドも執着もあるしで、けして天使なんかじゃない所が好きだったりするが、今後そういうギラついてザラついた部分が顔出してくんのかな~と思ったりもする。

 

 悩める類くんに手を差し伸べる人は多数いたが、やっぱり寧々ちゃんとセカイがいい仕事をしていて、プロセカの基本構造を再確認するような足取りでお話が進行した。
 微笑の仮面から漏れる憂いを感じ取るのは幼なじみの仕事で、そういう機微に心を配れるくらい、寧々ちゃんも成功体験を通じ余裕が出てきたかな……って印象。
 悩みのど真ん中に踏み込むというより、自力で道を見つけ答えを掴むまで見守る姿勢を伝え、(自分にそうしてくれたように)戻るべき居場所があるありがたみをじんわり伝える感じだったのも、余裕と信頼を感じた。
 ハイレベルな共演者になんとか食らいついて、自分と芝居を一段階上に持っていこうとする貪欲さ含め、今の寧々ちゃんとワンダショが見えるエピソードだったと思う。

 セカイでは一人飛ぼうとして堕ちる鳥のぬいぐるみが、才故に孤立しそれが発揮される場所を求めている類と、重ねて描かれた。
 一人でも高く飛びたいと願う気持ちと、愛する仲間と一緒にいたい願い。
 その両方が価値あるもので、簡単に一つを選ぶ必要なんてないことを、八重歯も幼いダショミクさんはまっすぐに伝えてくる。
 それは類くんがいつの間にか押し殺していた幼さと出会い直し、わがままに今自分がしたいことを、理性が”するべき”と告げる答えより優先する道を開いていく。
 セカイの住人は自分が気づいていない願いや可能性の結晶であり、そこに退避し対話し支えてもらう行為は、客観視された自己との対話でもあるのだろう。
 そういうセカイの内省的側面が、今回のダショミクさんには良く出ていたと思う。

 真っ直ぐで気ままな感情主義が自分の中にまだあることを、むしろそれこそが物分かりの良い賢さより強いことを、類はミクさんと話すまで気づかない。
 『自分はこういう存在だ』という思い込みをぶち壊してくれるのは他者だけだが、同時にそこに反射しているのは自分以外の何物でもなく、そういう自他が混ざり合って新たに”わたし”が生まれる不可思議を、セカイとその住人は巧妙に可視化する。
 ここら辺の道具立ては非常に正統なジュブナイル・ファンタジーの系譜を踏んでいて、このお話に惹かれた理由を思い出しもした。
 ワンダショは扱うテーマと道具立てが、特に童話っぽいので思い出しやすいね。

 

 というわけで、出張公演最後の演目は、神代類に新たな、懐かしくもある自分を思い出させ、そんな自分が何をしたいか、思いのまま真っ直ぐ進む決断を果たさせた。
 そこに惜別の苦さが宿るのが、彼がもはや無邪気な少年ではなく、しかしすべてを冷静に諦めた老人でもない現実を、上手く示していると思う。
 色んな場所に赴き、出会い、学んできた出張公演は、結構いいタイミングで終わったと思う。
 これ以上続いていると惰性が強くなって、己を見つめ直し人生を教える刺激的な学びの鋭さが、薄れても来てただろう。
 同時にエピソードごとに変化する演目と状況は、新鮮な切り口でキャラクターの課題を掘り下げ、成長を与えても来た。
 フェニランという”ホーム”に戻って進行する新章の中で、そういう実りある新しさを生み出しながら、物語を紡げるのか。
 期待は膨らむ。次回も楽しみだ。