イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

映画『すずめの戸締まり』感想

 新海誠最新作、映画”すずめの戸締まり”を見てきましたので、ネタバレモリモリで感想を書きます。
 ネタバレのない範囲で感想を言うと、大変良かったです。
 作家・新海誠の世界認識が物語に深く食い込みつつ、名声を揺るがぬものに高めた諸作品の引力に引きずられることなく、自身の成熟、環境の変化をまっすぐに見据えた上で今書ける、書きたい、書くべきお話を率直に綴っている感じがありました。
 圧倒的な美術と撮影に溺れる体験は今まで培った期待を存分に満たし、しかしそれで終わらない物語的な強さを画面に宿して、鈴芽たちが南から北まで日本を旅するお話を下支えしてくれています。
 非常に重たいものとがっぷり四つに組む物語ですが、顔を伏せて思い悩むというより弾むように転がる人生の不思議さ、僕らが生きている場所の過去と現状とこれからに向き合った、後ろ向きだからこそ前向きなお話になっていたと思います。
 音響も迫力がありながら包み込まれるようにお話に引っ張り込まれる自然さがあり、映画館で見てよかったな、と思いました。
 大変面白く、また優れた物語でしたので、是非にオススメです。

 

 

 

 というわけで新開監督最新作、一体どうなることかと身構えて飛び込み、むせ返るような迫力と意気込み、圧倒的に優美な調性に飲み込まれて『いい映画だったな……いい映画だった……』と思いながら、映画館を出ました。
 体験としては”天気の子”の時とおんなじ塩梅の肌触りで、でもあの時から時間が確かに過ぎて、見えているものも書きたいものも確かに変わっている自分に対して、凄く率直にお話を編んだな、という感覚がありました。
 共通する芯はありつつ転がり移り変わっていくのは、作家性のとても健全かつ豊かなあり方だと思うので、第一印象が『同じだけど違っていた』なのはすごくいいことかな、と思いました。

 こっから感想を書いていくわけですが、なにしろ劇場版特典”新海誠本”があんまりにも分厚く”正解”を叩きつけており、このお話についてなにか語るのは初手から相当大変だよね……と、他人事のように思ってしまった。
 当人の口から理性的に編まれた精密な意図、巨大なプロジェクトをキックスタートさせた燃え上がる意欲、不定形ながらそれあってこそ作品に生命が宿る意気、全てが明晰に描かれていて、『答えは全部この本の中だよっ!』と叫びたくもなる。
 なので、この文章読むより早く劇場に駆け込んで、新海誠サイドによる最強の新海誠評”新海誠本”を見てください。

 これで終わりにしても良いんだけど、監督がどういう気持であの映画を作ったかと、僕がそれを受け取って何を見つけたかは別の話だし、後者は僕にしか書き残しておけないので、こっから蛇足をやる。
 あんまりにも”新海誠本”が正解過ぎたので『マコトが素っ裸でアタシに曝け出してんのよ全部を~~~!!』って気持ちになってしまい、自分なり抱きしめ返さないと礼を失するという感覚もある。
 設定資料集だのインタビュー集だのコミカライズだのに逃げず、初手で『企画書前文』を叩きつけてくる最短距離のパンチで殴られて、ビビらないオタクはいないと思う。
 ”内臓”じゃんアニメの……。

 

 さて監督自身が率直に語っているように、このお話は老いてしまった日本の棺桶に釘を打ち、殯を終えて新たに進み出すまでのお話である。
 戸締まりはカミから預かった産土を『お返し申す』ために行われ、それが絶望の中それでもまばゆく希望が輝く人生に向けて、『いってきます』を言うための儀式でもあった。
 行って、帰ってくる。
 過去二作でも顕著だった冥府下り、異界巡りのモチーフは暗喩の領域から堂々と身を乗り出して、地鎮を司るカミとの関係を修復し、個人的な死のトラウマを乗り越えていも行く鈴芽の旅を、色濃く縁取っている。
 未来に向けて転がっていく中で縁が切れていた人と神、あるいは土地との関係性を、地脈という古いオカルトを新たなイマジネーションで描きなおした”ミミズ”を追う旅路……あるいは捧げ物と対話によってカミのふくよかな形を取り戻し、人の愛を喪って口を閉ざし、危機に際して並び合うことで再びカミに戻るダイジンとの、奇妙な和解の旅。
 鈴芽が暖かいながらどこかしこりを残した家族との日常から旅立ち、イケメン過ぎる三本足の机と共に、傷だらけの日本にまだ残る美しい景色と、確かな人情を確かめながら己の根源へ進み、また日常へと戻ってくる旅。
 天・地・人、様々な領域に視線が延びている作品だが、そこに混乱はなく色んなレイヤーの物語が、旅と対話(その必然的失敗たるディスコミュニケーションと、それゆえに繋がれる希望)という要素によって丁寧に束ねられて、確かなまとまりを得ていた。

 

 鈴芽は運命の人と出会い、それを追いかけて境目(海と山をつなぐ坂道、立入禁止の札、廃墟の水辺との境目)を越えて幽世に踏み込み、常人は見ることも叶わないが天地の命運を左右する不可思議な旅路へと、グッと引き込まれていく。
 旅が物語の本道なので、鈴芽と草太が関係を育むフェイズにはあまり時間が取られておらず、彼らの関係は電撃のような一目惚れとして、インパクト強く始まる。
 おまけに三本足の異形に変えられてしまうのだから、主人公が惚れ込み物語を走る理由となるヒロイン役が魅力的でなければ、お話は牽引力を失い迷走してしまっていただろう。
 しかし松村北斗の声がとにかく良くて、僕らが草太に出会う一言目は耳にするっと入り込んで無条件。『あっ、イケメンッ……』と思わされてしまった。
 これを補うように、草太は超常の責務に身を置きつつとても紳士的で、鈴芽を第一に考えつつ真っすぐ人道を進んでくれる、好青年としての振る舞いを崩さない。
 神戸の観覧車で、あるいは東京上空で、ダイジンを追い詰め”閉じ師”の責務を果たすチャンスがあったのに、イケメン過ぎる椅子は鈴芽の危機に優先的に身体を投げ出し、運命に巻き込まれてしまった少女……それを大事に思う自分の気持ちを、巨大過ぎる宿命となんとか折り合いをつけるように、ハードな戦いに挑む。
 渾身の作画力がダイジンとの愉快な追いかけっこ、あるいは可愛らしい椅子の立ち居振る舞いにしっかり生かされていて、動く絵の力強さが『椅子がヒロイン』というメチャクチャを成立させていたのは、アニメとしての底力だろうか。
 兎にも角にも、草太がいい作品である。ありがたい。
 そらー縁が紡がれる私室での治療シーン、ひっそりツルゲーネフ”はつ恋”がカメラに切り取られるよな……と納得してしまった。
 ああいうあざといクスグリをやられてしまうと、年経た文学青年としては圧縮率の高い進行を『”はつ恋”か……じゃあしょうがねぇな……』と、飲み込まざるをえない。
ズルいよマコトは……。

 (オカルトオタクとしては、鈴芽をかばって腕を負傷した人間としての草太が、震災によって全き状態が失われてしまった椅子と傷つき失えばこそのシンクロを果たし、鈴芽が閉ざしていた過去に自分がつながっていく足場≒鈴芽が一目惚れした客人に深煎りしていく足場を生み出しているところとか、超常の必然性を静かに話運びに滲ませていて、大変良かった。
 誰かを愛すればこそ生まれた傷が響き合うことで、草太と鈴芽の心は重なり、旅路はお互いの過去と思い、責務と未来を絡み合わせながら、遠くまで伸びていく。
 そして、ちゃんと戻ってくる。
 高千穂に近しい場所から大和の北端まで、長い距離を旅していく旅路を、三本足の烏……あるいは一本足の岐の神に導かれてのカミの道のりと重ねるのであれば、それが過剰(あるいは欠落)している意味合いは更に強いだろう。
 過去二作ではあくまで後景にあった民俗学的・国学的モチーフが力強く全面に出てきて、”地脈ハンター岩戸鈴芽”とも言うべき現代オカルト浪漫としても噛みごたえのある話になっているのは、個人的興味と強くシンクロして楽しめた。)

 

 そんなジェントル極まるイケ机を旅の相棒にして、鈴芽の旅は始まっていく。
 母と故郷を喪失した記憶を封じることで、異郷で10年以上生き延びてきた彼女は日常に埋没することを許されず、現代的価値観ではヤバい奇人でしかない”閉じ師”に惹かれ、当たり前に学校へ行って過ごす日常から逸脱してしまう。
 新海誠の美術力が極限的に発揮された美しい廃墟で、幾重にも境目を越えて運命的に要石を物言わぬカミの冷たい定め(その冷たさは、寒風吹きすさぶ鈴芽の原風景そのものだ)から解き放ち、戸を越えて常世を見る目、多くの人を押しつぶす気まぐれで圧倒的な力にふれる可能性を開いていく。
 霊的インフラエンジニアともいえる”閉じ師”の人しれぬ尽力(それは後に、人としての死を意味する人柱への変化も含む)を、一目惚れの引力に惹かれて見落とせなかった鈴芽。
 大概の人が見て見ぬふりをする偉大なるシャドウワーク(に、カミとの繋がりを喪った社会ではなるしかないモノ)に踏み込み、余人には存在すら感知できない”ミミズ”を封じて沢山の人を助ける旅。
その只中で、心から好きになった人を椅子型の牢獄(これに閉じ込められるのは草太だけでなく、忘却防衛によって過去のトラウマを克服できない鈴芽自身も同じである)から解き放つ物語が、否応なく始まっていく。
 恋にしてもオカルトにしてもダンドリを踏んでいなく唐突ではあるけども、両方とも”そういうもんであろう”という個人的な納得もあって、ここのスピード感は結構素直に飲み込めた。
 幼い鈴芽の全てを奪った地揺らしと同じように、彼女が過去も未来も取り戻すための旅立ちもまた、人間の都合などお構いなしに唐突に、スピーディに襲い来る。
 そんな作品全体のムードが、出だしから元気だ……とも言えるか。

 鈴芽は様々な軽犯罪(当たり前のルールで立ち止まってなどいられない、新海流パンクス精神の発露)を重ねながら、愛媛に神戸、東京に北陸と日本の様々な景色を追いかけ、色んな人と触れ合いながら歩みを進めていく。
 その過程で走る机と奇妙な猫が、SNSを通じてどう拡散され厄介事の種、あるいは追跡の手がかりとして機能しているかが結構丁寧に描かれていて、現代怪異譚としてのディテールの良さも魅力であろう。
 三本足の机をイケメンに戻す旅は、ミミズが沢山の人を(もう一度)殺さないように封じる旅であり、鈴芽が不安と不満を乗り越えて自分を取り戻し、環さんと真実家族になるまでの旅路でもある。
 霊的災害を引き起こすタタリ神、人智を超えた価値基準を持ち鈴芽との神遊びを求める気まぐれな猫神と思えたダイジン。
 その神意=真意を図り難いカミと、旅を通じて対話し、産土を鎮護するあるべき役割へと回帰させる旅でもある。
 色んなヒトやモノ、カミやツチに対する思い込みや忘却を実地で正し、あるべき真実をしっかり見据えて関係を紡ぎ直す旅路は、時に心躍るアクションを交え、あるいは様々な色合いの美しき情景に踊って、こちらを飽きさせることなく転がっていく。

 猫と間違えて供え物を差し出し、窓辺という境界を超えて巫女に選ばれてしまった鈴芽は、想い人に人としての死≒英雄としての誉れを与えるダイジンの残酷に、『二度と話しかけないで』と呪いをかけてしまう。
 これによりダイジンは要石から抜かれた(祭地である温泉郷が寂れ忘れされれて、ヒトとの繋がりを失って零落した)ヨボヨボな姿に戻る……よりなお悪く、人語を語りヒトと通じ合う手段を失ってしまう。
 それは鈴芽がそう望んだからだ。
 これを取り戻すきっかけが人間的でポジティブな相互理解ではなく、環さんが心の奥底に溜め込んでいた暗い想念を吐き出させ、ぎこちなく維持してきた家族性を一旦荒野に返す、あらくれた場面なのは面白かった。
 オンボロオープンカーの天井が、ハンドルミスからの事故をきっかけに修理される(その代わりドアはもげて、でもなんとか補修はできる)ように、人間の価値観だと表に出すべきではないアクシデントこそが、何かを前に勧めていく契機になることは、思いの外大事なのだろう。

 『気まぐれこそ本質』とおそらく正しく草太が理解し、受容するダイジンの行動理念(鈴芽がどうしても受け入れられず、一度拒絶した後東北の扉で和解するもの)は、そんな奇瑞を形にもしている。
 旧く長く受け継がれてきたカミやツチとの間柄が寂れ、『”閉じ師”じゃ食っていけない』現代において、古き慣習を内面化していない(どころか、個人的な記憶すら封印している)鈴芽がカミと向かい合う術を知らないのは当然だ。
 しかしそれは再び取り戻して、(”天気の子”で世界と個人の天秤を後者に大きく傾け、東京水没を選ぶしかなかったのとは変わって)多くの他人と大事なたった一人、両方を守り切る道を可能にする。
 残酷で身勝手に転がる大きなルールに語りかけ、人の身の矮小で切実な生命の願いを届ける祝詞を、今にどう蘇らせ届けるのか。
 鈴芽の戸締まりは、そういう旅でもある。

 

 草太机と進む地鎮の旅は、見知らぬ旅先で人情に触れる旅でもある。
 千果ちゃんもルミさんも、事情も語らず超オカルトなイカれ旅に挑むヘンテコ高校生 with 椅子を遠ざけず、飯だの寝床だの風呂だの心配だの、マジあったけぇものを手渡し、優しく抱きしめてすらくれる。
 面白いもので、こういう地元民との対話と協力が成り立った時は犠牲なく”戸締まり”が成功しており、都会らしいスピード感で他者との関係を築く暇がなかった東京においては、大惨事を避けるために草太を一度犠牲にするしかなかった。
 このお話の中で、人知を超えた天災をどうにか制御し、惨事を未然に防ぐには人の和を築くことが大事な鍵で、超越的なことはとても日常的なことを大事に、丁寧に進めていかないと、果たすべきを果たせない。

 同時に上手く繋がれなかった関係性をやり直せるのも人間の大事な可能性で、最初はツンツン薄情なことしか言わないように思えた芹澤くんや、病身に厳しいことしか言わないように思えた羊朗おじいちゃんとも、衝突を経て対話を果たし、かけがえない協力を得ていくことになる。
 この衝突と対話が一番色濃く炸裂しているのが、環さんとの関係再生なのは、この映画のとても好きなところだ。

 孫が人柱に化けたのを誉れと受け止める、羊朗翁の気高い冷たさ。
 その奥には鈴芽の幼い激情……それを向けられるに値する”男”に育った孫への情愛が確かにあって、『ヒトは常世には、一つどころからしか入れない』という重大な秘奥を告げ、鈴芽を故郷へと導くことにもなる。
 人知を超えた宿命に分け入る資格のない直人と、鈴芽を遠ざけようとしている時はベットがフラットで遠く、彼女と彼女の想い人たる孫の運命に寄り添おうとする。
 その時、ベットと一緒に視線が通じ合うアイラインの制御は静かながら精妙な演出で、大変好きだ。
 時間、海、県境、距離、相互理解。
 色んな境目を色んな手段で越えていくこのお話、断絶と同じくらいそれを超える対話をどう書くか、精妙に心を配って描いていて、それが作品全体に漂う妙に前向きで明るい気配を下支えしているのかもしれない。

 

 芹澤くんもオカルティックな真実知ったことかと”2万円”叩きつけて、言うだけ言って背中を向ける……のかと思いきや。
 傷だらけの人間的敗北(霊的勝利)に満足することなく、草太を取り戻す戦いに制服着込んで進もうとする鈴芽の前に『ダチ心配するのに理由いるかよ!』と吠えて、伊達や酔狂で声帯が神木隆之介じゃねぇところを見せてくれる。
 闇深いヤバ親子(義理)のメチャクチャな旅路に文句一つ……くらいは当然垂れ流しつつも、オンボロカーに懐メロ載せて一緒に付き合い、鈴芽と彼女の運命が戻るべき場所へと突き進んでいくかけがえない助けを、しっかり果たしてくれる。
 『なんだ……コイツ良いやつじゃん……』と、強張った第一印象をほぐして芹澤くんをい理解っていく過程は、観客がキャラクターと対話し、断絶を乗り越えて握手するダイナミズムが強く宿っていて、一番この映画らしいキャラかな、とも思った。

 鈴芽と物語の心臓部である被災地・東北に進む旅は、冷たい都会で離れかけていた人の縁を身近に引き寄せ、あるいは切れかけたカミとの縁を巫女とつなぐ歩みでもある。
 そこには色んな懐メロが流れて、作品全体に漂う『昔は良かった……』というノスタルジーを強化している……とは、僕は思わない。
 ”新海誠本”で当人が語っているように、これは老いたる日本が打ち捨ててしまったものがアラガミとならないよう弔う歩みであると同時に、しっかり戸締まりしたからこそ『いってきます』出来るお話として、あくまで目線は未来に向いている。

 全ての時間が同時併存するオカルティックな常世を舞台に、火と水が荒れ狂い極めてシリアスに、リアルに描れる”あの時”
 それは揺るがない眼差しで過去を貫通しなければ、色んなモノが打ち捨てられ老いてしまったこの国の現状から、それでもなお『未来は明るく輝き、幸せな約束に満ちているのだ』という嘘っぱちを堂々告げることが難しいと、作り手が考えたからだと思う。
 だから七時間超の厄介な旅路を彩る音楽は、その終端で取り戻すべきものを取り戻して新たに進み出す時、RADWINPSと陣内一真と十明が生み出した、この瞬間まさに新しく生まれていく詩に引き継がれて、映画の幕が下りていくのだと思う。
 思い出は未来の中にしかなく、明日に続いていく道を取り戻すためには始まりの場所に、懐かしく悼ましくFF帰っていく必要があるのだ。

 神がかりにどす黒い本音をぶちまけ、それ故環さんとの家族関係を真実再構築できた鈴芽は、その歌に背中を押されて、旅路を辿って自分の人生へと進んでいく。
 歩んできた道のりも、傷ついて封じたものも、分かりあえず吹き荒れた嵐も、何も無駄ではなく何も取りこぼさない結末にたどり着いて、鈴芽の物語はあそこから始まっていくのだ。
 そのための大切な滑走路として、思い出の歌を旅時に添えて大事に聞かせてくれる演出も、その導き手となる芹澤くんも、僕はとても好きだ。

 

 そんな旅で貰ったバッグや服、帽子を草太と一緒に東京上空で奪われ、ヒソヒソ噂される異質な傷姿となった鈴芽(血まみれの足先からシャワーに流れる緋色は、露骨にヴァージニティの喪失をイメージさせて、罪深くもエロい。”天気の子”で何かと組みしだかれのしかかられていた帆高といい、セクシャルでエロティックな芳香を無力なる純粋性の痛ましき喪失として切り取る筆は、椅子になってJKの尻だの足だののしかかられる、ファンサービスな変態性よりディープに危うく、新海誠の譲れぬ核を語っているようにも思うが……完全に余談だなコレ)は、草太を取り戻すべく故郷に向かう決意を固めて、自分自身のものでしかない制服と、想い人の大きすぎる靴を借りて先に進んでいく。
 そこはカミとの和解、母親の喪失、自分自身との再会が待っている運命の地であり、そういう物語と自身の根源に潜る時頼れるのは、借り受けた装束ではないのかもしれない。
 同時に色んな人に色んなものを借り受けて、優しくされたからこそ東京までたどり着き、百万の生命を救う責務を果たせた……ともいえるだろう。

 世界か、個人か。
 ”天気の子”でも問われた問題に、四歳でしかない無力故に一度負けている鈴芽は、どれだけ身を切られるように辛くとも東京は殺せない。
 そうして一度正しい決断を果たした上で、全く個人的で正しくない、しかしその戦いに挑まなければ最早自分が自分ではいられないような戦いに、リベンジを挑むことになる。
 ここで一回人としての視点では大間違いで、しかしカミの視点、過去の敗北を取り戻し百万の命を救う”正しい”選択肢を果たしておいたことが、後に故郷へと進んで自分と想い人を取り戻す戦いにおいて、結構大事な足がかりになっていた感じもある。

 

 真っ黒なクレヨンで塗りつぶした辛すぎる記憶の向こう側、美しい常世の思い出を掘り返すことで、鈴芽は行くべき場所(それは見失っていた、戻るべき場所でもある)へと進み、正しくないが心底望む未来を自分の手で掴むべく、戦いに挑む。
 そこで自分を人柱とする結末を選べるのは、理不尽に降りかかる”死”を諦観とともに噛み締め、生きたいと望むちっぽけで当たり前の人間の鼓動を、黒い記憶の中に置き去りにしているからだ。
 三本足に欠けた鈴芽の椅子を、凍りついた場所から引き抜き草太に戻していく時、重たい責務に殉じようとした草太が確かに感じていた恐怖と後悔も、鈴芽の中に再生され、帰還していく。
 それを母の思い出とともに取り戻し、見失ってしまった自分を再び取り戻す必至の足掻きが、気まぐれなカミが地鎮の責務を離れ(まるで人間のように身勝手に)遊ぼうとする危機を、正しい結末へと導いても行く。

 ダイジンが真なる姿と力、再びヒトと繋がりうる発話器官……あるいは世の正しさを背負って深く暗い場所へと戻っていく宿命を取り戻せるのは、岩戸鈴芽という四歳にして魂の大事な部分をもぎ取られ、色んな不自由に記憶や家族関係を閉じ込められながらも、必死に生き延びてきたヒトの熱量が、氷を溶かすからだ。
 それは故郷に戻ってきたから急に蘇ったのではなく、環さんと暮らす当たり前の中で確かに、かなり必死な緊張感をもってケアされていたものだ。
 母との記憶が薄れる中それでも継承された『誰かを助けたい』という暖かさは、廃墟の中カミでいられなくなかった小さな猫に、旅する自由を与えもした。
 この温もりに嘘がつけないから鈴芽は九州で草太の傷に包帯を巻き、東京上空で百万の生命を救ったのだ。
 お母さんとはぐれてしまっても、二度と会えなくなっても、あの小さな家で育んでくれたものが確かに生きていたから、環さんが故郷から遠く離れた”ウチ”でぎこちなくも大事に守ってくれたから。
 この物語は収まるべきところへの道を切り開き、世に正しく己に嘘をつくこともない良き結末への道を、力強く切り開くことが出来る。

 生きていたいと思う多くの想念が、火に焼かれ水に飲まれて消えたその現場で鈴芽は、死して人柱となった草太をカミの力を借りて取り戻す奇跡を起こす。
 産土に宿った大きな力と、その中で育まれ死んでいくちっぽけな人間の仲立ちとして、どんな儀式を取り扱い言葉を紡ぐべきか良く学んでいる青年は、一度は諦めかけつつも自分を慕う(そして、自分も慕う)少女の温もりに、一人間でしかない己の切なる願いを思い返し、請願に込める。
 それは岩戸椿芽を筆頭に、当たり前に明日が来て生きていられると当然信じていた数多の死者が、常世へ旅立つその瞬間まで抱きしめていた、とても大事な思いだろう。

 何もなくなってしまった廃墟に確かに響く、人の営みの声。
 これを聞き届けて蘇るものは、人類普遍の価値であると同時に、生命を諦めることで襲いかかった理不尽を忘却して飲み込んできた少女と、人知れず果たすべき重たい責務に一人間としての幸福(例えば、教員になるとかただただ生きるとか)を諦めてきた青年が、長い旅を経て散々迷い、時にぶつかってようやくたどり着いた、個人的な答えでもある。
 そういうふうに、大きいものと小さいものが繋がってお話が終わっていく感覚は、壮大な力強さで心を揺さぶってきて、クライマックスに相応しかった。

 

 鈴芽は旅の途中、幼年期を封じられた自分の素性や、人智を超えたオカルティックな事情を『上手く言葉にできない』と幾度も告げる。
 それでも抱きしめてくれる人たちと旅路で出会って、あるいは一番身近で、母を失い寒さに震える自分を抱きしめてくれた人がいたことを思い出して、鈴芽は彼女の唯一の常世へとたどり着く。
 そこには期待してた死せる母はいなくて、かつて置き去りにした自分自身と時をこえて巡り合うことになる。
 それが良かった。
 泣きじゃくる自分を救うのは冥界から帰り来た母でも、恋に落ちた素敵な青年でもなく、記憶を封じてしまうほどの傷を生き延びて十数年、日常を重ねてきた鈴芽自身だ。
 そこに、今を生きる鈴芽自身の尊厳とプライド……それを大事にする語り口が、まばゆく輝く

 かつて顔のわからない、お母さんに似た誰かに手渡してもらった三本足の机を導きにして進んできた旅路の果てに、鈴芽は不安に泣きじゃくる自分に対し、言葉にし難いものを堂々と言葉にして、未来は眩い約束に満ちていると語る。
 そう語れるようになるためには、運命と出会って初恋に生き合い、思わぬ人々の温もりに抱きとめられ様々なものを知り、荒んでしまったカミとの関係を一度は強く拒絶しながら繋ぎ直し、暗く封じていた己の故地へと勇気を持って進み出し、生きたいと願った自分の声、更地に満ちたかつての声を聴いて、大事なものをたくさん取り戻す必要があった。
 ここまでの長い旅の、全部が必要だったのだ。

 四歳の鈴芽の幼気な必死さは良く作画され、見ながらズビズビ泣いてしまった。
 幼いながら必死に訴えかけ、誰かに伝わるよう少ない語彙から必死に言葉を選んでお母さんともう一度会おうとする態度には、お家も家族もなくなってしまった心細さに負けず、必死に戦おうとする強さと、だからこその痛ましさが強く滲む。
 その幼子をずっと心に抱えたまま、遠くの街で生きてきた鈴芽自身が、ここまでの旅路すべてを背負ってかつての自分を救い、思い出に、滅びに、終わりゆく日本に鍵をかけて、自分が何者であり何を求めるかを明確に掴み取って、『行ってきます』するお話。
 そういう物語の総体をしっかり感じ取れる終わり方だったのが、見終わっての不思議な充実感と、新たな道が拓けていく力強さを生み出しているのかもしれない。

 

 ”天気の子”においては世界の命運を背負う大きな力は、暴力的で残酷な都会に飲み込まれ無化され、陽菜が世界を救うために消えていく運命……それをひっくり返すために東京を水に沈めた帆高の罪は、二人以外誰にも共有されることなく結末となってしまう。
 そんなお話を経た上での今回、東京での決断でそのさかしまとなる正しさを達成した……と思いきや、さらなるベストエンドを目指して故地へと進み、わからないなりにわからないものを抱きしめてくれる優しさと強さを、自分と家族の中に新たに取り戻すことで、公的な正しさも私的な真実も両方掴み取る、欲張りな結末へとお話は突き進んでいく。
 それは前作で描いた(あるいは、それを描かざるを得なかった)地点を超えてより広く、より切実なものを作品に焼き付けようとする気持ちが生み出した、行きて帰りし物語だ。
 帆高と陽菜は世界を水に沈めてしまったオカルティックな罪を誰にも知られず、裁かれることもなく二人だけで共有して、変質しきった故郷へ戻ってくるしかなかった。
 鈴芽と草太はしっかりと別れて旅立ち、でもその境目で優しく抱き合って約束を交わし、新たな詩を背負いながら一度旅立った場所へ、たくさんの実りを蘇らせて戻ってこれた。
 ”閉じ師”という、綿々と受け継がれ血脈と地縁のなかで余人に知られることなく、しかし確かな誉れを宿してオカルティックに世界を守ってきた物語的装置を用意できたのが、現代の街には預けるところがない不可思議を抱えて水に沈むのではなく、街に帰っていく結末を支えている感じもある。

 どちらもお話に真摯に向き合ったからこそ導かれた一つの結末であり、物語が生まれた”今”にしか描きえぬものだ。
 だから、どちらが真実だ……という話でもないだろう。
 その上で日本の日陰に覆い隠されながらも確かに存在し、覆すすべをなかなか見つけられない孤独と貧困に目を向けて紡がれた結末から、それを自分なり描ききった事実を踏まえて新たに作られるお話が、昔と違う場所へとたどり着けたのは良いことだと、僕は思った。
 そういう場所に自分とお話を……それが響いて確かに小さく変わっていく日本の行く末を持っていけるよう、色んな場所に工夫をこらし、楽しくも切なく、明るくも後ろ向きで、懐かしくも前向きなお話を作り上げたこと。
 これはとても立派で、なかなか出来ることじゃないだろう。

 それと同じくらい、現実の大災害に深く傷つけられた少女が、日本古来のオカルティックな真実と出会い、不思議な初恋を抱えて旅する中で自分と世界を取り戻していくお話に、沸き立つような生きた息吹を宿して描けたことも、大変いいことだと思う。
 なにより岩戸鈴芽青春のお話として、この恋ありアクションあり異能ありの青春ロードムービーは、楽しく綺麗で嘘がなかった。
 そんなふうにたどり着くところを見届けたいキャラクターを生み出し、その歩みに色んな人達の生き様(あるいは死して、終わってなお響くその声)を混ぜ合わせながらしっかり刻みつけた新海誠と、彼が見初めた日本の”今”。
 それが生き生き眩しいから……あるいは確かにそこに在る暗い陰りから目を背けず、飲み込まれず顔を上げたから、こっから続いていくものが確かにある。
 そう感じて映画を見終われたことは、とても豊かで、ありがたいことだと思いました。

 面白いアニメで、素敵な映画でした。
 ありがとうございました!