イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

『劇場版アイドリッシュセブン LIVE 4bit BEYOND THE PERiOD DAY1』感想

 ”アイドリッシュセブン”の映画館ライブが上映され、見てきたので感想を書きます。
 ネタバレにならないように思ったことを書くと、とても面白かったです。
 90分みっちりと隙なく”アイドル”している彼らを見ること、彼らが作中世界で作り出す劇的空間を映画館で共有することは、TVアニメーションとは大きく違った体験でありながら、そこでは描かれなかった彼らの表情を、ファンを引き付け時に狂わせるその引力を、追体験できる時間でした。
 そう思える迫力や演出、ステージを作り上げていく意識が滲む映像も堪能でき、たっぷりの歌と踊りも味わえ、なかなか贅沢で特別な90分でした。
 見るのであればスクリーンのサイズと音響の強さからして、体験として映画館で見るのがオススメです!

 

 

 というわけでストーリー抜きで95分、アイナナちゃん達に溺れる劇場版であった。
 TVシリーズではネットネトの感情に揉まれドロドロの因縁に取り込まれ、何かと辛い立場に追い込まれているアイドルたちが、まさに美しい偶像として着飾り、ほほえみ、歌い踊る時間だけを堪能するのは、ちょっとした浮遊感のある不思議な時間だった。
 私人としての彼らを長く見ている僕が、公人としてファンが望み彼らが願う勝負の時間にどれだけ本気で挑んでいるか、ある種の授業参観のような感慨があったのは、自分としても意外だ。
 こんなに凄く、色んな人を巻き込んで熱狂を生み出すビジネスを、ずっと笑いながら幸せそうに作り上げていく仕事。
 その手触りを強い迫力と実在感に後押しされて、たっぷりと感じることが出来た。

 今回のステージはTVアニメーションでしかアイナナを追っていない僕にとっては、ある種のタイムマシーンのように機能もした。
 ファンに感謝しつつ、溶鋼のようにアツくてヤバい自分たちを最大限表現する演じきるŹOOĻくんは、客舐め腐った嘘っぱちのステージしか出来ない、周りに敵しかいないと思いこんでいる彼らの現状しか知らない身からすると、途中経過をかっ飛ばして生まれた”結論”である。
 『ネタバレだ!』と怒るわけではなく、ようやっと人間らしい可愛げも見えてきたライバルユニットがどういう場所に生きつけるのか、その行く先をオフィシャルに示してもらった感じがあって、不思議と嬉しい。
 ドラマパートを全カットしたこの劇場版、演者たちがどんな物語を経てこのステージに立っているかは映画館の外の文脈に依拠しているわけで、しかしその経緯がわからないからと言って困るわけでもなかった。
 彼らはたくさんの経験と準備をしてこのステージに立ち、観客に最高の旅を過ごさせるために望まれる虚像を演じ、愛を呼吸し必死に踊り歌う中で、想定以上の自分を掴み取って形にしていく。
 その身体性の強い、たった一瞬だからこそのライブな力強さは、Orangeが気合を入れて仕上げた3Dモデルによるダンス……それ以上にライブが行われる空間の総合的演出によって、しっかり形作られていた。

 

 プロジェクション・マッピングを駆使した大掛かりな舞台装置、精密なタイミング制御によって、モノそれ自体がないのに可変的に駆動する、95分の夢の方舟。
 3Dで描かれた舞台装置はとても精妙で力強く、作中世界のフィクションの中でも、それを作り上げるアニメ制作のリアルの只中でも、多くの人の苦労が注ぎ込まれたのだろうと想像することが出来る。
 ペンライトの星海が鮮やかに瞬くよう計算された、劇的な空間とそこを埋める時間はプロがたくさん計算し、苦労し、協力して生み出したものであり、アイドルたち’(と、時折バックダンサー)が踊る足場以上の広さが、あるように思えた。
 そういうとても広大で大変な場所を生み出す力が、ステージに上っている16人にあるのだと感じられて、広大な劇的空間それ自体にしっかりした存在感があり、面白い旅を形にしてくれるありがたさが宿っていたのは、自分的に結構面白い劇場の表現だった。
 HAWKの妄執を一つの中心核として、劇的時空が持っている魔法の強さを幾度も語っているアイナナが、こういう形でその実像を、明示的なドラマがないからこそ、素の感情を伝えるむき出しの表情や言葉を配しているからこそ強く伝えにくるのは、その引力で人生狂ったり、ネジ曲がった後真っすぐになったりする人たちばかり書いている話として、結構大事な補助線だったようにも感じた。
 これはモノのマテリアルな感覚がそのまま伝わる3Dアニメーションだからこそ生まれた手触りなのかも……とも感じて、ライブ全体を大きく伝えつつ、小さな身動ぎや微笑みを時折抜いてくる切り抜き方も合わせて、作風にマッチした表現を選べていたと思う。

 大掛かりな舞台装置を据付入れ替えるのではなく、駆動式の大階段を大きなプロジェクト・モニタとすることで変幻自在、多種多様な舞台を作り上げていく今回の試みが、なんらか現実世界のライブ演出に期限を持つものなのか、それともこのアニメ独特の工夫であるのか、世間と知識が狭い僕には何ともいえないのだけれども。
 何もないからこそ何にでもなれる、迫真の薄っぺらさはアイナナが描き追い求めてきた”アイドル”の質感に通じるものがあって、それは僕がTVシリーズのアイナナを……この劇場版とは違ってドラマがあり、傷つく人間としての血肉を宿した彼らの物語を見てきたからこそ生まれた感想だ。
 こういう形でTV版と劇場版が呼応するのを、制作者が狙っていたか否かも解らない(というか、僕は明らかにコンテンツが狙っているターゲット・ラインから外れた消費者で、この体験はあまり多数に適応できないだろう)けど、作品を俯瞰で操作する制作者達が選んだ表現が、作品の内側で今生きている彼らを表現する上で、多層的で豊かな必然と感じられたことは、かなり良かったんじゃないかと思う。

 あの白い空間は海になり星になり、宇宙を旅し岸辺を歩く様々な体験を、アイドルたちの身体に与えていく。
 そういうパフォーマンスを目の当たりにする映画の中のファンたちは、(僕らと違って)アイナナちゃん達がどういう地獄に日々揉まれ、どういう傷から血を流してここにたどり着いているか、そのプライベートを知り得ない。
 知り得ないからこそとても無邪気に、純粋に観客席を埋めて、顔のない匿名普遍の存在として祝祭に一体感を感じ取り、自分が世界のかけらの一つなのだと、ここに来て生きる意味を得るのだと、思えもするだろう。
 そんな幸福で無責任な一体感を与えるべく、アイドルたちは自分たちの魂を削りながら、誰かが求める虚像にひどく脆い実像を交えて、あるべく自分たちの顔を作る。

 僕はその大嘘をとても尊いことだと思っていたので、今回95分延々、そういう白々しさが大掛かりに、必死に創られていく現場を感じることが出来て、とても良かった。
 アイドル16人みんな頑張っていたし、16人よりもっと多くの人を裏方に巻き込み、観客席に惹きつけて、人生を頑張らせる手助けを必死にやっていた。
 それが舞台から観客席への一方的なアイ・ラブ・ユーではなく、相互侵犯的であり相補的でもあるのだと解っているから、彼らは幾度も旅へ連れて行く自分と、旅に連れて行かれる自分に言及するのだろう。
 暗闇に輝くサイリウムを一つの演出装置として、一体感の発露として計算に織り込んで生まれる盛り上がりも、ここは全てが一体になる幸福な夢なのだと、上手く捏造していた。
 全ては芝居で嘘でしかなくて、だからこそ本当の何かを追いかけ必死に、軽やかに走っていく。
 アイドルたちが生身の汗を切り取られないのが、それを客に見せないことをプライドにしてるだろう彼らの仕事を尊重している手触りで、結構好きである。

 

 Orangeは何を作るにしても大掛かりで大げさというか、芝居がかった非・身体性がボーンに染み付いたアニメを生み出す制作集団だと思う。
 その大袈裟が、アイドルが一切のプライベート抜きで95分、己を演じ続けるライブという舞台立てと噛み合い、独自の表現力にたどり着いてもいた。
 ステージ上アイドルたちは、各ユニットごと、各個人ごとのキャラクターを細やかに意識しながら、『らしい』手の伸ばし方、語りかけ方を徹底して維持する。
 何も考えず自然と振る舞われたものはそこにはなく、全てが数多の練習とリハーサルを経て、タイミングと劇的効果を鑑みて、思考と鍛錬を積み重ねて選ばれた、必然の捏造品だ。
 そういう嘘っぱちが見ているものの心に刺さるよう、アイドルたちは自分たちの身体をどう使うかしっかり考え、稽古し、ライブの魔法に化学反応させて、計算以上の喜びに火を入れていく。
 体が体としてそこにあることを、大きく縁取らないと身体が実在しないアニメという表現を選んだからこそ、クッキリと刻印されていく彼らの実在……あるいは現在。
 それを砂かぶりで吸い込めたのは、とても良かった。

 大袈裟で精妙な動きを選び取るのは、自分の体を使い切って伝えたい思いがステージに、そこに立つ自分にあるからだ。
 幾度も言葉にされる感謝と愛、それが伝わるように祈り踊る仕草の奥に、強く燃えている炎。
 それはこの舞台を降りて(あるいはアニメ時間軸より先なので、そこに追いつく)展開する、苦難と業にまみれた私人の顔から生まれ……それが溢れ出さないように、精妙に制御・演出されてもいく。
 傷だらけの本当からしか、他人を動かしうる嘘っぱちは生まれ得ないのだと知っている彼らが、演じるIDOLiSH7という、TRIGGERという、Re:valeという、ŹOOĻという嘘。
 それがどういう身のこなしから、歌い上げる表情から、ステージを歩む一歩一歩から、衣装の裾を翻すタイミングから生まれてくるのか。
 その一個一個にどっぷり浸れたのは、ライブ映画という形式の特徴かと思う。

 

 彼らがそこにいて、確かに今がある。
 そんな嘘を本気で形にするための努力が、メインステージの華やかな踊りから、その端っこにある小さな投影映像から、滲むようなお話でした。
 仮想存在を現実にブートしていく真顔の芝居は、例えば”RabbiTube”でも感じるところで、そうやって自分たちが作り出した嘘にシレッと実在の息吹を加えていく力みが、コンテンツの強さであり魅力なのかな……と思ったりもする。
 この映画は普段のど濃厚人生ドラマから切り離された、偶像として浮遊し魅了する彼らの、フィクショナルだからこそ真実味を帯びる”今”を見事に削り出して、手渡してくれた。
 楽曲の強さ、バリエーションの豊富さも大きな魅力だけども、個人的には作品全体に満ちて、その生身の手応えだけが作品全部を覆わないよう必死に制御され、それでも漏れてきてしまう『本気』みたいなものが、心地よく肌を震わせてくれた。

 そこに結像するものがしょせん絵空事だと、次元の狭間を越境しながら認識し、それでも夢中になる。
 作中のファンが観客席で飲み込まれているうねりと、同じものを三次元の僕らも感じていて、共有しているという、ワクワクするような可能性を、上映終わった後の静かに涙を拭っていた前の席の人を見て、勝手ながら感じたりもした。
 そういうパワーが、僕が好きなアイナナというお話、そこで生きて涙して強がるアイドル立ちには、確かにあるんだなぁと思えた。

 移り気な世間にたいそう傷つく、私的な心身を見せつけられ続け、ファン一人ひとりが顔のないまま選んだ悪意こそが、人間の生身で神様を演じようとしてる人たちを殺していくのだと教える、残酷で濃厚な物語。
 そこから一瞬離れて、眩すぎる光が生み出す優しい暗がりの中顔を亡くし、ただただアイドルを愛する熱狂の中で一つの塊になる感覚に溺れても良いのだと、優しい夢を見せてくれる話でもあった。
 普段の重たさ暗さだと、どーしても我が身を鑑みて背筋を伸ばしてしまうわけで、『楽しんで!』と全ての瞬間が語りかけてくるステージ映画は、そういう枷をぶっ飛ばしただの無責任な一観客に、見ているものを引きずり込んでくれる優しさがあった。
 洒落にならない展開に思わず真顔になり、色々言葉をこねくり回すロゴス的な時間がほとんどなくて、延々表現で殴られ感情を加速させるパトスの時空がみっしり満ちていたのは、今まで見てきたアイナナとは別の角度から、彼らの魔法と強がりを見せてくれた感じがあって、とても良かった。
 こういう忘我融和の心地よさがあるから、人はアイドルに狂い、アイナナに狂っていく。
 その狂熱が生み出す新たな波と奇跡は……どうなんだろうな、四期で見れんのかな。  見てぇなぁ……。
 ともあれ今回劇場ではシャットダウンされてきた、ネトネト難しいプライベートの物語あってこそのこの特別感でもあると思うので、このステージを受け取った後TVシリーズで彼らに、彼らの物語に再開した時僕が何を思うか、そこも楽しみである。
 そう思える映画を、舞台を作り上げてくれたことに、心からの感謝を。
 面白かったです、ありがとう!!

 

 

追記 なんか書くタイミングを見失ったので
 個人的な萌語りを最後にやっておくと、環が王子様めいた清潔感と魅力で意外な顔を見せてくれたのと、ナギの足がいっとう長かった所と、七瀬陸の喉が特別性だと二曲目イントロで思ったのと、他の連中が砕けた感じを自分から絞り出して観客との一体感を作ろうとする中、一人正しくスカし続ける一織のこしゃまっくれた感じが良かったです。
 各ユニットごと芸歴や芸風に応じた違いがMCや楽曲から感じられて、個性のあるステージだったので色々美味しいところがありました。
 他ユニットが(特にTRIGGER)計算と鍛錬で作り上げた世界観を崩さず、観客との幸福を繊細に編み上げようと『素』を隠す(あるいは、力んだ上で制御して素顔を作る)中、スラーっと肩の力が抜けた塩梅で踊りきってるRe:valeは、やっぱ貫禄ありました。
 やや装飾過剰な装いで、しかし持ち前のチャーミングとセクシーでそのゴージャスを踊り切る百ちゃんは、普段の生身よりもっと大きく見えてサービス精神満点で、彼が生きてる世界の空気を吸えた感じ。
 とにかく存在としての情報量が多くて、それがあんま予想していない立ち位置や距離感で意外なメンバーと絡んだりするので、文脈に自信ありネキ達は死ぬほど深読みが捗るんじゃないかなー、などと思った。
 俺は陸と一織が視線交わす所に、高度な暗号が飛び交ってる感じで良かったな。
 アイツラ絶対付き合ってるよ……。