イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

鬼滅の刃 刀鍛冶の里編:第8話『無一郎の無』感想

 窮境に豁然、目覚める記憶!
 復活の時透無一郎、スーパー河西健吾タイムな鬼滅アニメ三期第8話である。
 無表情に鬼詰めぶっ込んでくる、めっちゃイヤなガキとしてお目見えした無一郎くんのオリジンが開陳され、名にし負う”無”本来の意味が炸裂するエピソードである。
 しっとりとした筆致で無常を綴る過去編と、その思い出に背中を押された殺陣の爆発力。
 溢れる作画力をどう活かすか、緩急を効かせた演出が大変良く効いて、見どころ満載のエピソードとなった。

 

 

 

画像は”鬼滅の刃 刀鍛冶の里編”第8話より引用

 まずなによりとにっっかく、回想パートの絵が良すぎた。
 杣人住まう深山の四季はあまりにも美しく、優しさ故に両親が一度に死に絶える悲劇、その後ギクシャクと重苦しい兄弟の摩擦、突如到来した酸鼻……人間が生きる世界の苦しみを、何もかも飲み込んでしまいそうな景色に満ちている。
 悩み苦しむ人間を置き去りにするように移り変わる山の景色が、愛ゆえに間違え、優しさゆえに傷ついていく人間の愛しい愚かさをより際立たせるようで、時透無一郎がどこからやってきたのか僕らに示す、大変強力な演出となっていた。

 色彩、撮影、美術。
 絵をつなぎ合わせて命を宿す、アニメの真骨頂が常時画面に満ち溢れていて、悲惨過ぎる過去を思わず陶然と見つめてしまった。
 ごめんね無一郎くん……文句はUFOに言ってね……。

 この美しい世界で、無一郎少年は悲惨の極みを歩き続ける。
 母の死病は家族を養うための無理が、父の転落はその母を救わんとする優しさが、仇となって幼子から父母を奪っていく。
 たった一人残された兄は大好きだった両親の優しさをなじり、こんな悲劇の中でも自分にできることがあるのだと、剣士の誘いに抱いた希望を踏みにじってくる。
 グラデ入ったツインテツインテではない)で萌えキャラアピールぶっこんでくる、今とは大違いのぽわぽわベイビーちゃんが受け止めるには、あまりにも苦しい重荷である。

 

 しかし無一郎が記憶を封じたのはその辛さゆえではなく、それでもなお父母を敬い兄を愛し……それすら鬼畜に奪われた愛の反転こそが、何もかも忘れる以外生きられない所に、少年を追い込んだ。
 毒に侵され諦めに殺されかけた時、霞柱本来の実力を呼び覚ましたのもまた、かつて父にかけられた言葉であり、母を愛した思い出であり、末期に握った兄の手のひらであった。
 余裕なく悪意をぶつけ、両親を奪った危機から弟を荒々しく遠ざけることでしか優しさを表現できなかった有一郎が、特別な存在だと羨む弟。
 彼の強さはどんな苦境でも優しさを忘れぬ”余裕”にこそあり、それが誰に育まれたものか思い出すことで、戦う力が絞り出されていく。

 何もかもなくしたはずの無一郎が、舌鋒鋭い現実主義者という、本来の自分とは真逆の在り方を選んだのは、そうとしか生きれなかった兄への敬慕、無惨に断ち切られた命を生き様で継いでいく祈りが、微かに燃えたからだと思う。
 その火種を生粋の”余裕”を持つ炭治郎が豊かに灯し、誰かのために命をなげうつ”無駄”こそが、人間に与えられた”無限”なのだという、兄の遺言を体現できる自分を取り戻させる。
 戦える自分、そのための武器を手渡してくれる誰かに感謝できる自分を取り戻し戦うことは、途中で断ち切られた家族の生き様を無駄に終わらせるのではなく、誰よりも優しく誰よりも強い存在として生ききることで、時透の末裔としてその真髄を継いでいく覚悟へと繋がっていく。
 霞柱が颯爽と敵に立ち向かうことは、非常なる運命に散っていった人たちを死の岸から呼び覚まし、今一度命を吹き込む戦いなのだ。

 自分が何を望んでいたのか。
 誰に生き抜く力を託され、闘うことで何を守り取り戻していくのか。
 その起源を思い出すことが戦う力に変わっていくのは、例えば玄弥とかでも同じだけども、物理的に記憶をぶっ飛ばし、最悪なファーストコンタクトでその合理的冷たさを強調してきた無一郎は、特に良く刺さる展開だと思う。
 白紙の記憶に思い出が蘇り、仮初めの自分が既に失われた最愛の影であったと思い出すことで、霞柱は真の自分に、真の強さに目覚めていく。
 心のあり方、それを育む関係性が、残酷な暴力に叩き潰されてなお人間の根源にあるのだと描く上で、無一郎というキャラクターは際立って魅力的だ。
 バキバキに極まった作画力でもって、ここら辺の思い出パワーの力をしっかり裏打ちしたの、大変良かったです。

 

 

 

 

 

画像は”鬼滅の刃 刀鍛冶の里編”第8話より引用

 静謐で残酷な過去回想に対比する形で、玉壺さんの悪逆をせき止める今は速く、激しく、英雄的だ。
 ここの緩急がバッチリ決まりつつ、家族以外にも己の張り詰めた哀しみを理解し、闘うための武器を作り上げてくれていた鉄井戸さんを思い出す場面では、やはり極めて美しい錦繍が静かに世界を彩ってる所が最高に良い。
 記憶を保持できない無一郎自身が語れない過去の痛みが、彼の刃にはしっかり宿っていて、本物の鍛冶は物言わぬ刃からこそ思いを受け取る。
 この構図は、玉壺さんがつまんねー横槍ぶっ込んでも全然揺れない、鋼鐵塚さんの研師三昧に通じる部分でもあって、刀鍛冶の里編は”職人”がテーマなんだなぁ、と感じるところだ。

 自分がどこから来たのか、何をするべきかを取り戻し一意専心に鋭い剣を振るう無一郎も、雑念を跳ね除けた剣の境涯という意味では”職人”であって、対して玉壺さんはフラッフラ目先を変え殴る相手を変え、集中できない己を正当化していく。
 アーティストであることをアイデンティティにして、他人をぶっ殺してでもそこにしがみつく鬼と、真っ直ぐ魂の命じるままに生きていたら、その歩みが芸術の鋭さを帯びていく人間。
 ここにも残酷な対比があって、しかしそれが鋭くなりすぎない可愛げがあるのが、玉壺さんのズルい所である。

 

 為すべきことに一意専心できる特別な存在を、羨み妬むその在り方はどこか有一郎の不器用にも通じるのだが、兄は不意の鬼の襲来に体を張って、ぼやーっとして優しい弟を救った。
 あの即応は『世の中悪いことばっかりだ……オヤジおふくろはさておき、弟だけは奪わさねぇぞ!』と気を貼っていた結果だと思うし、あまね様に水ぶっかけて兄弟仲最悪になったのも、過剰な防衛意識ゆえだしなぁ……。
 あまね様に無一郎くんがフラフラ~なってんの、ママンが死んで二人きりあまりに寂しい思いを、美しき白樺権現(この発想になるのが、木と向き合う杣人の子だなって感じだけど)に寄せていた感じがあって、微笑ましくも哀しい。

 有一郎は名前に反して、”余裕”というものを持つことが出来ぬまま弟を愛し、妬み、守ってきた。
 ただただそのためだけに生きる必死さが、不器用な棘となり愛を傷つけもしたが、一心不乱の切実さは確かに、己の命を代償に愛する人を守る強さへと繋がっていた。
 翻って、妬むことにすら全集中できないクソカスワナビー殺人鬼に、一体何が成し遂げられるのか。
 鮫皮巻の数打ちと、霞柱専用に打ち上げられた日輪刀の差が分からず油断する所に、”職人”としての目利きも出来てない玉壺さんのポンコツっぷりが色濃く……こういう所が憎みきれないんだよな。
 闘争は加熱し、鬼と人の本性を暴いていく。

 

 水よりも細かく軽い霞の名前そのままに、超高速戦闘を己のものとしている無一郎くんの生き様がしっかり作画されていて、バトルシーン大変良かった。
 記憶を取り戻す前の無一郎、幼く優しく危うい過去無一郎、不器用に尖った有一郎。
 河西健吾の演じ分けを堪能できる回でもあったけど、そのどれとも違い、全てを無駄にしない融合完成体として、瞳にハイライトを取り戻した時透無一郎を新たに削り出していたのも、大変印象的だった。

 鉄槌が地金を鍛え、砥石が閃刃を研ぎ澄ますように、かつて暖かく与えられたもの、厳しく己を苛んだものが今、眼前にある戦いに繋がっている。
 痣を発言させた霧柱が強く見えるのは、三界の炎と優しさの水が、鬼滅の刃と彼を鍛え上げたから……そうなった自分を、真っ直ぐに受け止める”余裕”を取り戻せたからだ。
 刀鍛冶の里の戦いは、いよいよ佳境に。
 次回も楽しみですね。