イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 水星の魔女:第20話『望みの果て』感想

 遠いどこかの戦争が、火の粉を飛ばして僕らが燃える。
 逃げては奪われ、進んでは失い、積み上がる死体の先で星が瞬いている。
 魔女とは呪いをばらまくものであり、悪魔に最も呪われたものである。
 さよならハッピーガンダム学園、水星の魔女第20話である。

 ミオリネが地上で夢敗れる裏で、スレッタを蚊帳の外に色んなモノが解き放たれ、許したり許せなかったりしながら沢山人が死んだ。
 企業宮廷が幾度も繰り返してきた権力移譲の儀式はほぼ崩壊し、踏みにじられてきた者たちの怒りは行き場なく、誰かを燃やしていく。
 無辜の死人すら世論を願いどおり動かす道具にされて、歪な搾取の構造は暴力的に解体されていく。
 個人としても謀略の首謀者としてもわりかし最悪の結末に流れ着きつつ、大望だけは果たしに行くシャディクの優秀さが悲しくて、してくもねーのにサリウスの『愚かな息子だ……』に共感してしまった。
 間違いまくった愚か者だけが踊る楽園は、いい塩梅に炙られて炸裂寸前……というか、ずっと前から燃え上がっていて、だからレノアも死んでいくのだろう。
 望みが果てようが、現実は続く。
 さて残り数話、一体どこに行き着くのか。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第20話より引用

 ミオリネ夢の地球行きは炎の結末に行き着いたが、現地調査でしか出てこない情報をグエルが拾い集め、シャディクの狙いを看過した意味は大きい。
 喉元に刃を突きつけるより早く、御大将がのこのこMSに乗っかって出てきた……ように見えて、シャディクの大目的はあくまでベネリット資産の解体と地上への譲渡、宇宙が地上の富と権利を一方的に吸い上げる体制の破壊であって、それは議会連合にサリウスを送って、その介入によりグループの非道を明るみに出す(あるいは偏向された報道でイメージを作る)ことで達成に近づく。
 グエルへのネトついた感情ももちろんあろうが、シャディクなりに詰み寸前のゲームをどうにか”勝つ”ために王将である自分を前に出し、時間を作るためのあがきであろう。

 グエルのシャディクへの感情が家と家族に強く結びついた、私怨の色合いが濃いのに対し、シャディクは(彼がテロルへ突き動かされている動機と同じく)公的な視線と私的な感情が複雑に絡み合った、なんともめんどくさい理由で”決闘”に挑んでいるように思う。
 『オメーが付いていながら……』という恨み節に垣間見える、生粋の企業王子へのコンプレックス。
 地上の地獄から他人を蹴落として這い上がってきた自分が、どうしても掴めないものを生まれつき持っているからこそ、何もかもを解決できる綺麗な魔法を貴種に求めて、相手も人間のガキなんだからんなもん当然持っていなくて、裏切られたと奥歯を噛む。
 ここで『俺たち未熟だし、みんなで頑張ろっか……』という㈱ガンダム主義に乗っかれないのは、アーシアンスペーシアンの間にある深い溝を揺り籠とし、そこから這い上がるために既に手を汚している(汚す以外に生存法がなかった)業だろうか。
 『だからってテロはね~だろ!』ってのは至極真っ当な意見だが、暴力的支配に経済も政治も全部まくりこまれ、ひっくり返しようがない重たい蓋をスペーシアンだってだけで押し付けられている立場から、見えた解決法はテロだけだったのかもしれない。
 ……そういう男が企業体制丸呑みする形で、現状追認して”王子様”になるルートがミオリネ賭けた決闘の先に開けていたかと思うと、捻じくれた恋心が重すぎてキモいね♡(褒め言葉)。

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第20話より引用

 このどん詰まり感はレノアにも共通で、長いこと用済み監禁部屋に閉じ込められていた三人はそれぞれ、閉ざされた場所から暴力的に飛び出していく。
 塞がれた場所から開放された爽やかさは全く無く、少年兵が選べる道は武器を握って他人を殺すばかりで、企業サイドの殺しの道具である五号も、スケッチブックの奥にある心に触れてなお、その手を届かせることは出来ない。
 いうわんや、企業の用意した救済プログラムに乗っかって、地上と宇宙の架け橋たらんというキレイな夢だけを抱えていたニカにおいてや、である。
 プロスペラが地上に撒いた炎はメディアを通じてあの密室にまで届いてしまって、ノレアの根源を火を付ける。
 死にたくない、幸せでいたいという普遍の願いをちゃんと抱えつつ、それでも生きるためには戦って殺す以外ない……教えられていない”地球の魔女”という檻から、レノアは結局出ていけない。
 彼女最後の戦いが”学園”で起きるのは、子どもと教育、それを支える経済環境があまりにも残酷に滲む構図で、架空のロボットドンパチにいい具合の(つまり最悪の)生っぽさを足している。

 『地球寮に戻る』という選択肢があるミカは、いきなり開いた裂け目の前で一瞬立ちすくみながらも、人を殺さずにすむ道に進んでいく。
 しかし所属するペイルはすげー簡単に自分たちを切り捨てると良く知っていて、優秀なガンド装置としてスコア上げることも忌避する五号に帰る場所はなく、進むべき場所は出来てしまった。
 たった一つの命を抱え、逃げて逃げて生き延びる道だけを選んできた生き様は、不思議で歪な共同生活の中でノレアに伝わっていて、この土壇場で彼の背中を刺す。

 逃げて生き延びて、何が掴めるというのか。
 死んでほしくも殺してほしくもない相手が、自分にすら捨て鉢だった顔も名前もない男がようやく掴んだ星が、スルリと強化人士の手のひらから抜け落ちていくのは、進んで闘う以外許されてこなかった悲惨な子供が、その性根をギャーギャー暴れつつも良く見ていたからだ。
 軽薄な御曹司の影武者として、顔面切り崩して貼り付けられた御面相が、守れるか殺されるかの土壇場で牙を剥いた……とも言えるか。
 人間が人間と向き合う真っ直ぐさを残したまま、企業の道具であり続けるとどういう結末になるかは、ジュージュー焼かれた四号の末路が良く語っている。
 逃げて生きる結末を選んだなら、必然的に五号の差し伸べた手をレノアは跳ね除けてしまうし、作られた/選び取った軽薄の奥にある熱血人間っぷりを信じ切るには、出会い方も共に過ごした場所も最悪過ぎた。
 こういう納得が生まれてくるのは、作劇のスキマ時間にオモシロ殺伐漫才させてきた成果だなー、と思ったりもする。

 学園、温室、コックピット、コロニー、牢獄。
 閉じた場所で育まれる特別な関係と感情を、いろんな形で積み上げてきたこのお話は今回、その封鎖が暴力的に暴かれ、鋼鉄の子宮から怪物が解き放たれる様子を幾度も描く。
 ノレアが選び、シャディクに誘導され利用され、あるいは彼がぶっ壊したい世界の歪さに選ばされた、極めて暴力的な自己主張。
 それは穏当に扉を開けて、祝福されながら世界に出産されるわけではなく、他人を爆煙で、自分をガンドの呪いで焼き殺しながら突き進む、何の実りも幸せもないどん詰まりだ。
 果てに続くしかない扉を前に五号の伸ばした手は跳ね除けられ、彼自身『それしかないし、そんなもんだよね』と諦観し受容していた暴力が、多分生まれて初めて見つけた、自分の命より大事な女の子を、当たり前に飲み込んでいく。
 逃げること、暴力の装置であること。
 生まれてこの方生きる価値なしと、ペイルに突きつけられそれを内面化してきた少年が選び取った/選ばされた生き方は、ノレアを媒介とすることで初めて彼にその残酷さと無力を、切実に教えてくる。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第20話より引用

 一方我らが主人公は学園のモブ其の一として、かつていがみ合ったモブ其の二と燃え盛る学びやを必死に逃げ惑い、他人を背負って明日を探す。
 ペトラとの語らいは唐突であるけども、様々なドラマが叙情性豊かに展開されたミオリネの温室すらサクッと踏み潰され、学園というアジールが完全に崩壊していく今回、その残骸から進み出すしか無い次回以降、結構大事な手なんだろうなと思う。
 エアリアルという主人公機に乗らず、ホルダーの白服もまとわず、普通に授業に出て普通にテロの被害者になっていくミオリネは、ど田舎から持ち込んだ”やりたいことノート”には書かれなかった最後のピースを……暴力の被害者となって必死に生き延びる、人間当たり前の恐怖と不屈をここで体験していく。
 嫌味な書き割りに思えた人たちにもそれぞれの夢があって、それを可能にするこの学舎は極めて歪な搾取構造の産物で、幸運にも吸い上げられた被差別者と選ばれなかった少年兵の間にも溝があって、ガキがガキをぶん殴って殺す理不尽が、血みどろに赤い。

 学園がぶっ壊れていく様、子どもらが死んでいく様子に僕は胸をいためるけども、それは地上で渦巻いていた地獄をレノアが鏡写しに持ち込んだ結果であり、戦争商品を広報するショーケースとして決闘制度を見せびらかしていたここは、シャディクやレノアがぶっ壊したかった構造の、ある種の結節点でもあるのだろう。
 それでもここにはフツーのガキがいて、無邪気に差別構造を内面化してアーシアンをいびって、親のカネやら奨学金やらで綺麗な寝床と旨い飯をかっ食らって、明日を夢見て笑ったり殴り合ったり、みんな生きてた。
 壊されるべき理由と、それが理不尽な八つ当たりでしかない現状と、色々入り混じってお話を比較的小さなスケールに閉じ込めてきた学び舎が、派手にぶっ壊れていく。
 それがスペクタクルを消費できる愉快な活劇ではなく、赤い血が流れる生活の一部……今まで学園を舞台に描かれ積み上げられてきたものの延長なのだと、しっかり視聴者にもスレッタにも理解らせるように話が作られていくのは、僕は結構好きだ。
 そのための反射板が、ペトラ最後の仕事なのかもしれない。
 ……母に捨てられ運命に放り出され、なーんにもねぇスレッタにギリギリ残った”恋する学生”ってパーツが、ラウダとのデータを明日にゆめみるペトラと共通なのがまぁ、えげつない語り口よね。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第20話より引用

 シャディクとグエル、五号とノレアが向き合いながら演じる『解る・許す(それが不可能である)』というテーマは、地球寮とジェターク寮も共有することになる……主役抜きで。
 どの面下げて戻ってきたミカを、セセリア大先生のドSセラピーで覚醒を果たしたマルタンは受け入れ、この惨劇を生き延びお互いを語らう時間のために、皆を前に進めていく。
 生粋の”暴”をその血に宿しつつも、怒りの対象であるミカ自身に学んだ落ち着きをマルタンに思い出させられる形で、チュチュもまた許すための第一歩を掴むために、デミ新型に乗り込んでいく。
 学園の外の宇宙空間で、ボーボー燃える学び舎の中で、解かろうとして歩み寄れなかったり、構造的無理解を捻じくれた思いが貫通してたり、希望の果てに待っているどん詰まりが重くのしかかる中で、地球寮は素朴で血の通った……彼らが共に暮らしている動物たちのような手応えで、断絶を越えてお互いをわかりあう、許しあう一歩目に進んでいく。

 それが地上を闊歩している事実を、自分の世界の問題だと理解しねぇからアーシアンいじめにも勤しめた、むき出しの暴力。
 ノレアが持ち込んだ爆炎はいけすかねぇ金持ちの徒弟が、それでも泣きじゃくりながら守りたい大事なものをガンガン燃やすので、フェルシーも八重歯煌めかせてMSに乗る。
 ジェターク兄弟がシャディクとの戦いに進み出して、学生が何かに護られ縛られて育つ場所/時代から抜け出してしまったもぬけの殻を、ジェタークという家を皆で守る姿は、壊れゆく場所に何が宿っていたか、最後に僕らに見せてくれてる感じがする。
 ムカつくライバルチームとして決闘で戦い、金持ちスペーシアンも当然普通に生きて死にかける事実を知り、こうして隣り合って戦っている風景は、別に『差別を乗り越えた』訳では無い。
 ここで芽生えた個人的な友愛が世界の全部じゃないから、シャディクもノレアも人殺しマシーンに乗ってどん詰まりに突っ走っていて、恵まれた社会の上層に銀の匙咥えて生まれてきた立場だからこそ。
 学園の生徒はこの残骸から、そこに宿ったかすかな温もりから、歪さ極まる社会構造を切り替えて、悲しさが少しでも減る未来を掴む必要と責務がある。
 その正しく空疎な綺麗事がどんだけ無力かってことも、MSという暴力拡張装置に乗っからず、一人間として理不尽のど真ん中に立ち生き延びるスレッタと、それに食われるペトラを通じて描かれるんだけどさ……。

 

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第20話より引用

 装甲越しに情念ぶつけまくり、ビーム輝くフラッシュバックにヤツの影! っていう、いかにもガンダム的な局面をガンド技術も使わねー男二人が、ビシバシ演じる学園の外。
 不可視化されてた地球の惨状を、そのままスペーシアンに移植するような報復から離れた所で、企業代表の名札ぶら下げた二人が闘う理由にもまた、私的な感情は混ざっている。
 しかしそういう小さな(そして大事で凶暴な)ものに突き動かされて動けばいい物語は、グエルからもシャディクからももう遠くなってしまっていて、二人の”決闘”は取り返しのつくゲームではなく、社会がどうあるべきかという大きな価値観を比べ合う公戦の趣を帯びている。
 ここでシャディクを確保できるか否かが、地上で発火している紛争を収め、それを生み出した歪な構造を暴力に依らず是正できるかの、大きな分水嶺となる”大人の領域”に、宇宙で闘う二人はもう進んでいってしまっているのだ。

 シャディクは末期の叫びのごとく自分を突き動かすものを吠え、自分自身血みどろの地獄を歩いて戻ってきたグエルは、それに正しく怒りを燃やす。
 仇への憎悪を滲ませながら罵る言葉は『逆賊』で、つまり彼を育み包囲している企業宮廷が地球の上に足を乗っけて支配してる現状を、グエルくんは早々簡単に書き換えられない現実も、またそこに反射している。
 怪物化した企業体が、先祖返りした王族として『逆賊』を平らげ、生来の支配階級として搾取に勤しむ構造は、揺るがずここにある。
 その上でシャディクが変えたかったもの、そのために奪い返すしかないと思い詰めたもの、奪う以外に道はないと地上の荒廃と企業のアカデミーが教えたものがどんな臭気を放つのか、実地で学んでも来た。(親父をぶっ殺すことで、同等の所まで一回堕ちた……とも言える)
 その上で奪わないやり方を選ぶタフな力強さは、第1話で負け犬の烙印としてあまりに印象的だったMSだるま落としの窮地からなお逆転の一撃を決めさせ、逆にミカエリスの四肢をもぎ取る。

 シャディクの同志も包囲制圧されて、ぶっ殺しあって終わりで済まない、高度に政治的で経済的で暴力的なプリンスの蜂起は決着していく。
 シャディクが数多無辜の血を流して選んだ、憎悪に突き動かされたテロルとは真逆の、理不尽を正しい力で制圧していくという選択肢。
 これをグエルが選べたのは、クソ最悪な父権信奉者だった所から地獄めぐりを経て自分を掴み取った彼個人の資質か、それを支え歪めた生粋の企業貴族という出自か。
 シャディクの捻じれきった信頼感と、それに体重を預けられない隔意のいくつかは間違いなく、生まれと育ちの不透明な関係性に捻れて宿っていて、勝者と敗者、秩序の体現とテロリストを隔てる壁は、そこまで分厚くないと感じる。

 これをグエルくんも理解したから、憎悪と不寛容を彼個人の中パンパンに張り詰めさせつつ、殺すという安易な決着を選ばなかった(選ばないことが出来た)のだろう。
 間違えばっかのスタートラインから”真の主人公”にまで上り詰め、闇の中に微かに瞬く光を体現しているグエルと、真っ直ぐ進めば何もかも手に入れられる可能性を自分で引きちぎって血まみれの決着に行き付いたシャディクは、鏡合わせの双子のようだ。
 そらー、ネトついた感情も分厚いわなぁ……シャディクからのドデカイ矢印ほどには、グエルから感情伸び切ってない不均衡含めてなッ!

 

 しっかしシャディクが自分の未来も他人の命も全部のっけで抗議したかった、この世界に満ちてる構造的搾取は”正しさ”なるものの根源を侵してもいて、何を以てシャディクの罪を捌きうるのか、根拠の提示は難しいんだろうなと思ったりもする。
 グループの企業内法廷で裁くにしても私権の延長でしかないし、公権の集合体っぽい議会連合こそこの大惨事の共犯だしで、”正しさ”の持っていきどころが何処にもない所から話が始まってるの、正しくサイバーパンクだねって感じ。
 地上が巨大な利権牧場と化し、それを睥睨する宇宙では経済とイエの論理が何にも優越して、謀略殺人当たり前の倫理的荒廃が権威を侵食している。
 『元々人間社会、そんなもんだよ』という声もあろうが、そういう現状を追認したくないから法だの権力だの、色んな装置を換気しながら使って、人類史は続いてきたわけで。
 キレイな題目を貼っつけつつ、結局虚無主義的な実利追求だけが駆動原理になってしまっているサイバーパンク世界において、シャディクの過ちを過ちとして断じる正しさを、何を担保に描くのかは、なかなかの難題だ。
 つーかサリオス、仙人みてーな面で養子の愚行を噛み締めとるけども、その半分くらいはお前と、お前が先端に立って推進した暴力的高度資本主義の産物だからなッ!

  結局人が生きていること、より善く生きようとしていることに素朴に帰還はするんだろうけども、それがあんまりに難しいからこうもなっているわけで、色んな希望の最果てが描かれたこの後、スレッタとミオリネ主演でなんらか、答えは出して欲しい。
 公的側面を強く宿す議会連合が”公”たりえないのは、ガンド技術の扱いとか”フォリドの夜明け”との繋がりとか、今回沢山血が流れた策謀への関わり方とか、イヤってほど示されてるからなぁ……公的領域が私化されていくので、企業論理だけを正解として実利を加速させ続ける選択肢はヤバいんだよな、やっぱ。
 それを際立たせるために、今回あえてスレッタを蚊帳の外に置いたんだろうしね。

 

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第20話より引用

 そして戦火のど真ん中では、わかり合いかけて銃を下ろしたテロリストが、ようやく進んで勝ち取りたかった望みが、逃げて生き延びてきた男の眼前で消える。
 『ナメるな……俺の声帯は花江夏樹だぞッ!!!』と、多分自分すら気づいてなかったアツい本性むき出しに必死に迫ってなお届かないのは、自分ひとりの命だけを護らんとペイルから逃げガンドの呪いから逃げてきた生き方が、ノレアという他者からは救いに思えなかったからだ。
 逃げて逃げてただ生きてる。
 そんな在り方を飲み込めなかった(し、それすら選択肢に差し出されなかった)少年兵にとって、押し付けられた現状だけが真実で、それを否定する恵まれた学園は嘘っぱちで、暴力的に虚偽を暴く権利が自分にはあると、思わなければ生きていけなかった。

 ノレアとソフィーがただ生きることで自足する動物になりきれず、人間でありたかったからこそ凶暴なテロリストであったのはあまりに悲しいし、そこに手を伸ばそうとした五号がその動物的生存優先主義を投げ捨てたからこそ、この結末なのもやりきれない。
 誰もが幸せに正しく、善き人間でありたいと願いながらも、世界はそれを許してくれない。
 人間と世界が対峙し、対話し、時に対立しながら転がってきた歴史で幾度も繰り返されて、解決を見ない苦の根源が、その残忍で公平な牙をむき出しに二人の少年兵へと、かぶりついてくる展開だ。

 ”進めば二つ”の邪悪な側面を全身で浴びたのがスレッタだとしたら、”逃げれば一つ”の呪いを引きちぎって、誰かを助けれる王子様になろうとした瞬間撃ち抜かれたのが、五号の物語と言えるのかもしれない。
 ノレアが巻き起こした大虐殺は激情に駆られたの気の迷いでも、環境が引き起こした悲劇でも、魔女が選び取った結果でも、世界を律する悪魔に呪われた果てでもある。
 彼女のスケッチブックにグジャグジャな汚濁も、美しい夢も一緒に刻まれていたのと、それは何処か似ている気がする。
 そういう複雑な嵐の中から正しさへと、人間を引っ張り上げるにはむき出しの自分を届けるしかなく、五号はそういうかなり難しい試みに踏み出して、ギリギリ掴みそこねる。

 

 この喪失が、ノレアにとってのソフィーのそれと何処か重なるのが、僕にはやはり悲しい。
 手を伸ばして届かず置いてけぼりにされて、戦って死んだ/殺したあの子と同じような、暴走する憎悪の化身になって終わる。
 それだけが望みになってしまった魔女が、スケッチブックに残した夢を見てしまったものとして、五号は自分が製造された意味を投げ捨てて、軽薄な企業御曹司のペルソナを引っ剥がして、彼女と同じく行きたいと心の底で願う自分を差し出した。

 だがその本気は遅すぎたし、企業工作員が仮面の奥に秘めてる本質があらわになった時、どういう処分が待っているかは四号で既に描かれている。
 生きるために本当の自分からも逃げてきた生き様が、重なってるから五号はノレアに惹かれノレアもまた、彼の手を取りかけたのだろう。
 でもお互いの過ちと罪が、死を引き寄せて決定的な何かを終わらせる。
 取り残された祈りが呪いに変わっていくことは、ノレア自身の物語、あるいはプロスペラがこれから語る呪文がその意味を、痛ましく浮き彫りにしていく部分だろう。

 人間を戦争の機械にすると、デリングが魔女狩りを決めたガンド兵器。
 本来戦えない、戦ってはいけないはずの子どもを戦争のパーツに変えて機能させる技術に、頼らずとも戦える選ばれた決闘者達。
 シャディクとグエルが死んで終わる”間違った”結末にたどり着かず、分かりあえないことを分かりあって未だ生きているのに対し、分かり合いかけた瞬間に全てが終わっていく、自分の命と魂を燃やさないと戦いすら許されない子どもたちの末路は、ひどく理不尽な無常を作品内部にこだまさせていく。
 多大な犠牲を出したテロの実行犯、今なお被害を拡大させている根源である以上暴力的対処は妥当であって、しかし同じ状況で”殺さず制する”を選べた/選ばれたグエルとの差異は何処にあるかを、問いかけたくもなる。
 生き残るものと死に別れるものの境目は見た目ほど分厚くなく、正しさは過ちの背中を常にかみ続けて、祈りは呪いに変わっていく。
 この凶悪な渦の中で、流れを変えようとあがいた結果がこの始末なんだから、全くもって救いがたい。

 

 

 

画像は”機動戦士ガンダム 水星の魔女”第20話より引用

 そんな傷つけ生き延びようとするものの無常と裏腹の、虐げられ殺されていく者たちの非情に、スレッタは傷だらけの手を伸ばしていく。
 それはプロスペラとエアリアルに愛され護られ、呪われ縛られていた時間が終わって、閉じた場所から外に出た/出されたからこそ解かる現実だ。
 ペトラを始めとして、瓦礫に押し潰された学生たちは悲惨で痛ましいが、彼らの殆どが顧みることもなく透明な搾取構造の上で踏みつけにしていた、ノレアたち地球の子供らにとってはこれこそが当たり前だと思い返すと、不可視化されているものを暴き立て痛みを平均化するというシャディクの試みは、最悪の形で的確に結実してんだなぁ……。
 『アイツラも気晴らしスナック感覚で差別ぶん回すクソだったし、死んで当たり前だよな!』とは当然思わない(ように、ここまでの学園生活を積んでいる)けども、この暴露がぶち崩した場所に善いものが確かにあって、それはぶっ壊した側が大事にしたいものと同じはず/べきで、でもそうならなかったからこういう景色が広がっている。
 そういう実感を前に、スレッタは涙ぐみつつ手を差し出す。

 チュチュの愛機が戦いを終えて、人命救助の重機として使われている所が僕は好きだし、その鋼鉄の手を見てるとどうしても、五号とノレアが伸ばして届かなかったものを思い出す。
 機械と機械、機械と人間の手が複雑な意味合いで交錯するのは、凄くサイボーグ的な作品(だと思いながら見てきた)らしい演出で凄く好きだ。
 衝撃の一期最終回、人間を赤い滴りに変えたスレッタの無邪気な暴力は、立場を変えて再び彼女の前に立ち現れた。
 今生身の小さな手で触れる瓦礫には、あの時感じられなかった血の暖かさと重さが、呪いのように染み込んでいる。
 あの時ミオリネが受けた衝撃を、損なわれた意味と価値を今更ながら思い知って、もう遅すぎるのだろうか?
 暗闇の中微かに瞬く光に導かれて、命を救う㈱ガンダムの本文に勤しむ、小さく素朴な実地主義は果たして、強大過ぎる理不尽な構造を転覆しうるのか?

 スレッタの決意に促され、地球寮が進んでいく道が多分正しいんだけども、目の前の悪夢こそが現実だと噛み締めて、だからこそひっくり返したくて暴力をテコに使った連中が、見据えて間違えた大きな望みもまた、ただの過ちではなかったんだろう。
 巨大な構造を変革するべく動いたシャディクが、アーシアンとの同胞意識を一切切り捨てて地球の少年兵を便利に使い潰していたのが、地球寮の小さく手応えのある結束と面白い対比だ。
 目標を見定め戦略を立て、優先順位を命につけられるクールな経営感覚は彼がアカデミーの卒業生だからこそ培われたもので、学生の中で最も”企業的”だった彼がその構造自体をひっくり返す贄として、学園それ自体を差し出すのはなんとも……なんともである。
 決闘のショーケースとして、企業宮廷の前庭として、何かと注目を浴びてる学園でこそテロの宣伝行為が高いと、ノレアを解き放つ意味を理解しつつ動いたあたり、彼の学園生活はひどく捻じくれた、痛みに満ちたものだったのだろう。
 その苦しみが、ぶっ殺されたガキどもの血と涙を正当化するわけでもないけど。

 

 

 というわけでさよなら学園、二度目の花火が上がったよ……という回でした。
 プラントクエタでひと足お先、学園の外に広がってる”現実”なるものの手触りを思い知っていた地球寮の面々に、何度浴びても慣れない洗礼がぶっかけられるエピソードといえます。
 間違って、許せなくて、それでも目の前にあってしまうモノを前に、手を取ったり許したり、何も出来なかったり死に別れたり。
 色々ありすぎる物語、残り話数で収まるのか。
 次回も大変楽しみです。