イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

スキップとローファー:第10話『バタバタ ポロポロ』感想

 文化祭が迫る中、少年は失われた季節の幻影を、誰かに重ねて眇めている。
 スキローアニメ、クライマックスに向けて静かに滑走路を敷く第10話である。
 美津未ちゃんが天然由来の牽引力で運んできた物語の、ずっと真ん中に立たなかった青年がようやく、内面を吐露しながらお話の中核に座る/自分の中核を晒すエピソードとなった。

 謎めいた存在だからこそ心地よい幻想を貼り付け、恋に恋することが可能な異性というミステリを、爽やかな手触りで話のメインエンジンに据えてきたこのお話にとって、志摩くん視点のお話を掘り下げていくことは、ある意味覚悟のいることだと思う。
 彼がどんな影を持ち、過去に縛られ未来に怯えているかを描くことは、ほのかな憧れにのぼせ上がりつつその内実を見れていない、主人公の死角を暴くことにも繋がる。
 美津未ちゃんが志摩くんの全部を見れていないこと、彼女が無謬の天使ではないことが、志摩くん中心で忙しい文化祭準備を描く中で際立っても来るのだが、しかしそれは岩倉美津が高校一年生等身大の現在地に、正しく帰還する道のりでもある。
 初めての都会に浮かれ、キャパシティを超えた仕事を請け負い、拾いきれなかったタスクが生み出した不和に、グスグスメソメソ涙する。

 前半眩く描かれた、こわばりや間違いすらも圧倒的にチャーミングで、出会う人全てをより善く正しい方向に導いていける……ある意味白々しくフィクショナルな主人公に、人間の垢の匂いをつける。
 そのパートナーとして、彼女が恋するリア充イケメンの暗がりと眩さも、丁寧に地面に足をつけていく。
 誰もが転び、あるいは怯えながら足踏みするその場所で、それでも前に進んでいく人たちの話として、このお話は(望みうるなら”一旦”)終わっていくようだ。
 それは凄く幸せな、自分たちがどんな物語を編んでいるかをクレバーに見据え、感情豊かに描き切る筆致だと思う。

 

 

 

 

画像は”スキップとローファー”第10話から引用

 毎度のことながらこのお話のトーンコントロールは精妙かつ美麗で、前半はミュシャめいた華やかさで描かれている劇中劇の紹介は、仕事抱えすぎてパンクした美津未ちゃんが教室に駆け込んでくるカットから一気にリアルな味わいに冷え、庭師と乙女を描く筆致は印象派に似た点描に切り替わっていく。
 崩し顔が微笑ましいコミカルな空気が、誰にでも優しい……ように見え、そうなるように自分を制御している志摩くんからすれば、あまりにナイーブに過ぎる湿り気に浸されて、少し危うく重たい温度を帯びていく。
 それは志摩くんが美津未ちゃんを通して見たいもの、取り戻したいものの手触りと、それを通り過ぎて彼を包囲しているもの……子供時代と現在に、時を越え立場を超えて共鳴していく。

 汚れも痛みも知らない幼子のまま、あの楽園のような能登に抱かれて育った美津未ちゃんに、志摩くんは都会の喧騒で傷つけられてしまった過去を見出している。
 自分が間違えてしまったからこそ、それを無垢なまま抱えているように思える女の子には守り切って欲しい、朗らかで優しい……全部がコメディで終わっていくような優しい世界。
 それは美津未ちゃんを思う優しさのようでいて、彼女が大人になっていく様子を見ることで自分が傷つきたくない、自己防衛のエゴイズムが影を伸ばしている。

 『大人になるな』は酷く残酷な命令で、故郷の過疎を救うべくかなり明瞭な(そして夢見がちな)未来図を描いてる美津未ちゃんにとって、『現時点にとどまれ』という志摩くんの願いは、『お前の夢を諦めろ』とほぼイコールだ。
 無垢であること許される弱く優しい存在であり続けて欲しいという願いは、美津未ちゃんが独自に厳しさを当たり前に孕んだ世界に向き合うことを許さず、自分が求めて叶えられなかった夢の檻の中で、彼女を窒息させていく危うさを持つ。
 人間一人が抱えられる荷物に限界があり、それを超えれば摩擦も生まれる、子どもには厳しい普通の世界。
 子役として、都会の少年として美津未ちゃんより早くそこに足を浸し、こっぴどく魂を傷つけられた青年にとって、世界がそういう形なのは当然であって、賢しく優しさで壁を作って、彼自身はそこで生き延びていく術を学んでいる。
 でもそうやってカサブタまみれな自分と、同じ場所にこの眩しい少女が落ちてきて欲しくはないのだ。
 そうなってしまえば、救われるものは何もなくなってしまうから。

 

 

画像は”スキップとローファー”第10話から引用

 志摩くんは自身の秘めたる救済願望と傷、危ういエゴイズムのヤバさに自覚がないので、そこを見守り柔らかく指摘するのは福永くんの仕事になる。
 子役としての過去を共有し、梨々華ちゃんと違って共犯の鎖でお互いを縛ってもいない彼は凄くニュートラルでナチュラルな立場から、親友が何を考えて今を生きているのか見据え、聞き出し、ポジティブな評価を下す。
 彼がいてくれるからギリギリ、幼年期がメチャクチャになったせいで人格の足腰が十分発育しておらず、他人とがっぷり四つ相撲取るのを微笑んで避けてる青年が、本格的な転落に陥らずにすんでいる感じもある。
 そのありがたさを自覚できる客観性も志摩くんにはなくて、福永くんのありがたみや成熟を蕩尽しながら、美津未ちゃんの無垢と眩しさに引き寄せられてる現状を、ここでだけ無防備に晒している。

 聞き分けのいい、みんなに好かれるキャラクター。
 子役時代を嫌悪しつつ、”役”でしか教室に居場所がない(ことを、悟られないことで居場所を作っている)ところは、治りきらないまま膿んだ傷跡を見るようでちょっと痛ましい。
 美津未ちゃんが好きになり、向井くんが気にかけてくれてる志摩聡介のイマージュが、そういう仮面の内側にどの程度浸透しているものかは、外野から断言するのは避けた方がいいナイーブな領域であるけども。
 人当たりのいい外面の奥で、志摩くんは結構エグいことを考え、感受し、致命打を受けないよう立ち回っているという事実が、今回かなり決定的に暴かれていく。

 田舎育ちの純朴お上りさんが、浮かれて気づかない足元の危うさ。
 影の中美津未ちゃんを追う視線は、それに躓いて転んだかつての自分を重ねてみている。
 母を喜ばせるために、子役という”仕事”を楽しんでいる演技を続けて、結局壮絶に破綻した場所から進み出れていないから、彼はある種の同志として美津未ちゃんを眩しく、見つめているのかもしれない。
 美津未ちゃんが小さく躓く青春の蹉跌は、大都会東京という非日常に浮かれているから生まれるもので、そここそが故郷の志摩くんはもうその刺激にも、トゲトゲした痛みにも慣れている……ふりをしなきゃ生きられないってのは、『田舎少女と都会の少年のロマンス』っていう構図を、二人の人格的・社会的差異に覆い焼きした面白い構図だ。

 

 

 

画像は”スキップとローファー”第10話から引用

 志摩くんが美津未ちゃんに見ている眩しさが、その実失われた過去への自己投影である状況を、今まで少なめだった彼のモノローグをたっぷり溢れさせながらカメラは切り取る。
 声をかけジュースをおごり、戯けたダンスの手をひく世話焼きはその実、自分も家族も他人も救ってくれないまま挫滅してしまった幼年期に、今更ながら手を差し伸べる代償行為の匂いを宿す。
 それは(志摩くんの望むままに)幼く純粋な美津未ちゃんには感得できない、都会的で複雑な人生の臭気だ。

 そんな危ういエゴイズムの伸延は、しかし確かに誰かに優しくする手助けでもあって、美津未ちゃんはその善き側面だけをすくい取って、コミカルな笑顔を取り戻していく。
 かつて志摩くんと母が喰われ、戻ってこれていない冷たくシリアスな描線は、ポジティブ少女のタフな地力と、そこに身勝手な救いを見出してるイケメンとの共犯でもって、上手く跳ね除けられていく。
 志摩くんに手を引かれながらも、彼が今いる場所より高い場所へと進み出してしまうそのスキップを、このお話は精妙に切り取る。
 そうやって志摩くんが立ちすくんでいる場所、ここにいることが成熟であり成長なのだと思いこんでしまっている場所を、スルリと軽やかに飛び越えていく彼女だけの歩みが、志摩くんに教えるものがある。

 

 美津未ちゃんは、美津未ちゃんだ。
 その修辞を補足するならば、彼が光の中涙を拭って立ち上がる少女を見て気づいたのは、『自分は、自分だ』という認識なのだろう。
 尊敬すべき友達は自分の過去を拭い去るための道具でも、エられなかった救いの代用品でもなく、他の何者でもない岩倉美津未であって、だから勝手に傷ついて勝手に立ち上がっていく。
 その独立は悲しいものでも寂しいものでもなくて、自分で自分の人生を歩める尊厳があり、覚悟と力強さを宿したその歩みが確かに、自分を導いてくれたことを……昔より楽しそうに生きている今の自分を、思い出させる。

 身勝手な共感と優しさを投げかけつつも、独立した存在として目の前の人間を見れること。
 その断絶に怯えつつも、切り離されて一人で立っている自分が自分の痛みを引き受けて、自分の道を進んでいくこと。
 それを”大人”の条件だとするのなら、志摩くんは子役(幼い存在でありながら、”大人”の役を演じることを強要されれもする職業)時代の影からようやく抜け出して、演じることが好きかもしれない自分、影の中で光を見つめ求めている今を、受け取れる立場にようやく一歩、踏み出した。

 無自覚なままそうさせてくれた美津未ちゃんは、いつでも志摩くんの先を行く。
 都会に……というか人間が生きている場所には当たり前に満ちている限界と摩擦に傷ついて、ワンワン泣きじゃくる子どもなのだと、救う高みに自分を置いて二人の関係を、岩倉美津未という人間を定義しようとした、押しつけをスルリとすり抜けて。
 その無敵な軽やかさが、結構人間的な匂いがする強がりに支えられていたのだと、見ていられず手を差し伸べて、志摩くんも実感したのだろう。
 その手応えは救済の天使がただの人間だった失望よりも、もっと強く目の前の光を見つめられる敬愛を、少年に与えていく。
 そんな眩しさを、晴れない影の中からずっと見つめている自分と今を、志摩聡介は結構危うい岸っぷちから取り戻していく。

 

 

 

画像は”スキップとローファー”第10話から引用

 あまりに高校生力高いプチ誕生ケーキで祝われる時、”キャラ”の鎧で生存領域を確保していた今までの志摩壮介は、少し崩れているのだろうか。
 いよいよ文化祭本番が近づく中で、志摩くんはジャージのまま光の中に進み出していく。
 そこは美津未ちゃんの場所であり、かつて幼い自分が包まれていた眩さと、同じものに満ちている。
 演じる自分、演じることが好きかもしれない自分を取り戻していってもいいのだと、心の何処かで感じたから、もしかして引き受けた”役”。
 それに向き合う日々が、失われた純白を誰かに重ねるでも、誰かから奪うでもなく、もう一度自分の手でつかみ取り、足で進むものだと思えたのなら……僕は嬉しい。
 俺ァ傷ついて大人になったふりして自分守ってるガキが、もう一度ガキになっても大丈夫だと思えるようになるほど、ありがてぇコトねぇと思ってるからさ……。
 そう思える手助けを無自覚に、自然に手渡してる美津未ちゃん……やっぱそいつぁ功徳だよ。

 母との拗れた関係が、志摩くんの子役時代が全然終わっていない描写からも伝わってくるが、その張本人が手にしたチラシはどんな爆弾となって、青春の舞台に投げつけられるのか。
 その緊張感でクライマックスを盛り上げる意味でも、今回志摩壮介の臓腑を切開して、そこに満ちてるエゴイズムと覚悟、決意と優しさと身勝手を掘り下げていく必要もあったのだろう。
 優れた作品のフィナーレを飾る主役として、『志摩聡介なら待ってましただ』と見ている側が思える好感と存在感を、丁寧に丁寧に編んできたことがこの話運びを、しっかり下支えしている。

 無邪気で無防備な、かつての自分によく似た彼女は、転んで立ち上がる強さを眩しく示して、また遠くに進み出していった。
 同じ場所に立つのなら、志摩聡介は光をくぐり抜けて過去に立ち戻り、自分だけの今を掴み、震えながら未来に足を踏み出す必要がある。
 さて、運命の幕が上がる。
 次回も大変楽しみです。