イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ヴィンランド・サガ SEASON2:第22話『叛逆の帝王』感想

 かくして勇者は証を打ち立て、王の御前に進み出す。
 燃え尽きた復讐者が父の言葉を己の喉から発し、真の戦士としての生き様を問われるヴィンサガアニメ二期、第22話である。
 奴隷編開始から……否、父を殺され復習に取り憑かれてからトルフィンに宿っていた血の匂いと濃い影が、百発殴打でベリッと剥げて、荒々しくも雄々しい戦士の顔が戻ってきた感慨がある。
 力を示さねば人は理想を認めないが、そのやり方は必ずしも剣を握るばかりではない。
 血みどろの戦地で示すにはあまりにヌルい理想論を、傷だらけでなお立つその姿で証明してなお、問いかけは終わらない。
 人間の業を体現する悪鬼にすら楽土を与えんと欲すれば、己のみが血の河をかき分け屍の山を乗り越え、遥か彼方へ率いることが出来る。
 剣の頂を目指すクヌートの強い決意に、戦士でも奴隷でももはやない男は何を返すことが出来るのか。
 土と向き合い進んできたセカンドシーズン、総決算の時は近い。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第22話より引用

 激しい殴打は錬鉄の槌のように、トルフィンを戦士に戻していく。
 かつてエイナルを救うために”客人”に殺されようとした時とは、似て非なる状況と心意気。
 誰かを助けるために己の肉体を差し出しつつも、心にはやけっぱちの虚無ではなく、その行いで何かを証明しなければならない使命感が満ちている。
 それが何なのか、トルフィン自体も未だ言葉に出来ないからこそ、徹底的にフィジカルな……”ヴァイキング”的なコミュニケーションに踏み出したのだと思う。

 力と名誉を全ての判断基準にするヴァイキングが、他者の生き様を嗤う嘲笑を引っ込め、トルフィンの立ち姿を真っ直ぐに見つめるのは、殴られてなお死なない強さが、トルフィンにあるからだ。
 平和や愛は、暴力を一番手っ取り早い交渉手段として選べる現実においては無力な観念でしかなく、頭で分かっていても……あるいはハナから分かろうとしなくて(ここで僕は、第一期でキリスト坊主が斧投げの的にされてたシーンを思い出した)、あってもなくても別にどうでもいい。
 そんなモノは拳で殴り倒し、攫って犯して死体を野ざらしにしておけば良いものだからだ。
 そうではない、と示し世界や他人を変えるのであれば、彼らの流儀とはまた違った強さを、力を示す必要がある。
 殴られなお死なないトルフィンの戦いは、ヴァイキングのそれとはまた違った戦であり、非暴力的示威行為として強力で適切なメッセージ性を、戦士たちに持っている。
 農民の悲鳴が宿し得ない、共通言語としての説得力があるわけだ。

 それは戦士だけに届くわけではなく、笑われる強さの先にある強さを、戦士になりきれなかったオルマルにも示す。
 不屈。
 文字で表せばたった二文字で、しかしその”たった”に手が届かなかったから農場が血まみれになった今、トルフィンのように生きる難しさは、オルマルの総身を貫いている。
 この感涙がバカ息子今後の人生をどう導いていくか、彼と地続きの世界をどう変えていくかが、敵を討ち果たすのではなく誰にも負けない形で”無敵”を実現しようとしている、トルフィンの値打ちを決めても行くのだろう。
 困難に負けない力は、他人の心を動かす力になりうることを、戦士たちの垣根を開いて眩しく輝く夕日が示してもいる。
 世界を嘲笑い他人を殺す怪物が、トルフィンの叫び以来ニヤついていない姿が、戦士のアイデンティティを否定するその言を黙って聴いている立ち方が、復讐と殺戮に明け暮れ、奴隷として虚無に流れ着いた青年が今、何を持っているかを良く語っている。
 感動こそが、今トルフィンが使える最も強い武器だ。

 

 

 

画像は”ヴィンランド・サガ SEASON2”第22話より引用

 感化は王にこそ必要な力だ。
 重ねた罪と亡霊の囁きに震えつつ、北海最強の皇帝として背筋を伸ばし続けるクヌートは、数多の戦士の崇敬を集めて、それを束ねて覇道の穂先としている。
 殺し、奪い、犯し、嘲笑う。
 この世の業を煮詰めたような戦士たちにこそ救いが必要なのだと、自身を世界最強の”ヴァイキング”は堂々吠える。
 その不遜と裂帛を、土とともに生き抜いてきた農夫は理解し得ず、憤怒の相で反論を叩きつける。
 ここにエイナルが立っていることは、クヌートの覇道が犠牲にするものの声なき声を、王に届けるためには絶対必要だったろう。
 それは真の戦士の子として生まれ、復讐に刃を曇らせて奴隷に流れ着き、今何者でもない己としてクヌートの前に立っているトルフィンでは、言えない言葉だったろうから。

 少年時代を殺戮に費やしたトルフィンは、ヴァイキングであることが身に染みて解っていると思う。
 エイナルにとっては飲み込めねぇ強者の寝言であっても、クヌートが目指す救済に一分の理があることを、同じ海の果てを目指す男として理解できてしまう。
 この対面が夕日の海辺で行われるのは、もちろん高名なる”クヌートと潮”の逸話を描くためのセッティングだろうけども、二人が選ぶ道のりは違えど共に人倫の荒海に漕ぎ出していく航海者であると、教えてくれて好きだ。

 

 あまりに残酷に、人が人の形を保っては生きていけない過酷な地上。
 神は己たちに手を差し伸べないまま、高く遠い場所でただ見下ろしすだけとクヌートは断じ、ならば地上の神として新たな楽園を作る……というわけではない。
 彼は天の摂理、海の潮騒を止められぬただの人間として地上に立ち、それでもなお人を超えた夢を地上に生み出すべく、ヴァイキングを束ね、御し、理想へと突き進もうとしている。
 罪人すらも拒まれぬ、真の往生楽土を目指すその歩みが、弱者に流させた血でぬかるむ泥濘であること、クヌートが目指す楽園が最も救わなければならないはずの存在に閉ざされている矛盾は、エイナルの指摘する通りである。
 それでも観念に溺れるより現実を選ぶことを、あの雪原の中クヌートは決意し、人間が背負うには重すぎる理想によろめきつつも、拳を固め強さを示し、王の王たるべき資質で、誰かを踏みつけにし続ける。

 史書には敬虔なるキリスト者として描かれているクヌートが、神の摂理に反逆する堕天使の如きかんばせで描かれ、その従順を示す”潮”のエピソードが傲慢にして壮大な叛逆の叙事詩となるのは、歴史伝奇の醍醐味でもあろう。
 天にいまし”父”は苦しむ我らに何もせず、相争い不幸だけを拡大していく世界に取り残した。
 エイナルの憤怒の意味を知りつつ、許しを請わない生き様は、ラグナル、スヴェン、アシェラッドと、”父”になりうる存在を軒並み悲惨に奪われた/奪った宿命への、復讐戦と言えるのかもしれない。
 そういう見方からすると、今まさにトルフィンが抜け出そうとしている場所へ、クヌートは北海帝国全土を率いて飛び込む状況なのかもね。

 王者の悲憤を農夫は認めず、犠牲の慨嘆を戦士は顧みない。
 お互いの立場、見えている世界の違いが生み出した断絶を、乗り越えるのはただただ暴力のみ。
 クヌートは既に活き方を選んでいる。
 ここで剣を抜かない道に引き下がれるのなら、亡霊に呪われてはいないし王冠も被ってはいないのだ。

 

 エイナルは一個人としての狭さ、強さに己の存在を預け、クヌートは遥か広大な王としての身体、領土と領民に責任を持ち理想を叶える覇者の視界で活きている。
 農夫の実在的身体が許す、無力な個人の世界と、王の観念的身体が強要する広大で希薄な、社会的身体……それが見据えている世界。(ここには、もはやクヌート個人の幸せも苦悩もない。王冠を背負うものは、もはや人間であってはいけないのだ)
 交わらないこの二つの世界の間に、戦士であり奴隷でもあるトルフィンは立っている。
 バラバラな道のりがそれでも繋がりうる希望を、唯一叫びうる立場にある。
 さて、波乱万丈の人生を歩んできた男は今ここに、何を示すのか。
 次回も大変楽しみである。