沈みゆく太陽に手を伸ばしても、たった一人じゃあなたを影から引き戻せない。
前座というにはあまりに熱すぎる、一人の青年の意地と再起を描いた後、黒川あかねの内面へと深く潜り、有馬かなへの強すぎる感情を描く、【推しの子】アニメ第18話である。
話としてはクライマックスへの前奏、あかね一人ではかなちゃんの抱える闇を払うことがどうしても出来ない現状を描く回なのだが、象徴のリフレインを的確に使い、過去と現在、役柄と演者、光と影の間に捉えられた少女たちの横顔が、とても鮮烈に描かれていた。
かなちゃんが堕ちていった道を逆向きに駆け上がるように、「若き天才」の制帽をほしいままにするあかねちゃんの原点が、一体どこにあるのか。
最初は救うべき哀れな被害者として、次は底しれぬ演技の怪物として描かれ、役者として人間としての地金が見えにくかった黒川あかねの、根源へと迫るエピソードである。
兎にも角にもあかねの有馬かな強火っぷりが凄まじく、かつて自分が魂を焼かれた鮮烈な才能を、ライバルとしてぶち当たることで蘇らせようともがき、しがみつき、ぶつかり……そして自己卑下の暗い闇から引っ張り上げられない無力感が、良く描かれていた。
どれだけ強い思いを抱いていても、一度天から引きずり降ろされた痛みに縛られてるかなちゃんはあかねの方を向いてはくれず、希望の欠片は熱演のせめぎあいに確かに見えても、身を投げ新しい自分を取り戻す決定打には為り得ない。
片思いよりも強く重く暗いが報われない切なさをしっかり燃やした上で、かつてあかねを救ったもう一つの星……星野アクアの助力が差し出された所で、エピソードは終わる。
思い詰めた独り相撲が届かないとしても、共に今は影に消えかけている有馬かなの光に焼かれた同士であり、自分を救ってくれた大きな星であるアクアと共に挑めば、何かが変わるかも知れない。
変えうる特別さを主人公の証として、これまでも理不尽に挑み夢を形にしてきたアクアの、物語における存在意義を最後に鮮烈にして次回へ嫁いでいく演出は、とてもパワフルかつ意図が明瞭で良かった。
五反田監督にさんざんシゴかれた、演技修行の成果をようやく描いてくれるという期待感も含めて、焼かれ焦がれなお届かない黒川あかねの切なさが、頑なな殻に閉じこもる有馬かなの面倒くささに届き報われるのか、上質なハラハラを上手く生み出してくれた。
あかねの強すぎる感情、絡み合った因縁を深く掘っていくことで、もはや孤高の天才ではない彼女の現在地、何かを変えうる絆を生み出している主役の眩しさを、燃え盛るクライマックスに写し取る。
極上の黒川あかね→有馬かな回としても、2.5次元舞台編決着への序奏としても、とても優れた回でした。
無骨な体当たり、弱者ゆえの一点突破に必死になっていた(が故に、こちらの目を焼くほどに熱かった)メルトくんの奮戦に比べ、職業として役者をやっている連中は、板の上に載っている役柄と、それを演じる自分自身を乖離させつつ融合させる技術が、極めて高い。
そんな役者の技術レベルの差を示すように、今回は役柄と重なりつつも距離がある、生身の役者たちの感慨や視線が、前回よりも濃い目に切り取られていく。
有馬かながどれだけ器用で、舞台全体を見据えて上手く回せる役者なのか。
黒川あかねにどれだけ存在感があって、舞台全体の中心に立って掌握していまえる役者なのか。
華やかな表舞台と影の濃い舞台裏、客を熱狂に引き込む嘘とやや醒めた視線の素顔を交錯させ、対照させながら、このエピソードの中心に立つ二人の顔が削り出されていく。
幻想と個人史、仕事と私情、過去と現在、栄光と挫折。
様々な明暗が入り交じる複雑な旅路を、色鮮やかに描けるのはそれらを見事に描ききる演出の冴えと、前回観客にとってこの舞台がどう”体験”されるのか、やや引いたカメラでどっしり描いて、内面や記憶に深く潜っていく足場を作っておいた手際ゆえだろう。
二人の若きライバルたちは、同じように舞台の上の役柄とその裏にある生身を重ね合わせ、発せられるオーラをモニタ越し、楽屋の闇に睨みつける。
しかしその在り方は同じではなく、かなちゃん演じるツルギは己のエゴを消し去り、有用な舞台装置になりきって色を消す。
使う側からすれば便利極まりない、全体をよく見て自分の有用性を他人を引き立てることに見出す、自分を信じなられないからこ生まれた、モノトーンの最適解。
それは傲慢の代償として地べたに投げ捨てられ、それでも演技にしがみついた有馬かなが選んだ、卑屈で崇高な生存戦略だ。
それが、黒川あかねには気に食わない。
顔を見せるだけで場を支配し、圧倒的な存在感で舞台全体を支配してしまえる、自信に満ちた芝居。
そんな在り方が、彼女を気に食わなく思うライバルの残光ゆえに生まれていることを、このエピソードは凄まじいこさと熱さでえぐり取っていく。
有馬かなと出逢ってしまったがゆえに焼き付いた、太陽のごとく輝く圧倒的なエゴは、怪物的な存在感を捏造することで嘘を本当にする、舞台という戦場においては極めて強烈な武器だ。
役柄を丸裸にする解析能力と、ストイックな鍛錬でもってそういう演劇兵器をモノにし、誰よりも濃い色合いで輝く少女を、静かに照らす付きにこそ、太陽は焦がれている。
なぜなら、そんな自分はかつてまばゆく輝いていた、有馬かなという太陽の模造でしかないからだ。
他のすべてを影の中に飲み込んでしまうほど、鮮烈な光の中に立つ特別な存在を、有馬かなは低いところから見上げて、握った刃に力を込める。
高みに立っているのはあの女で、挫折を味わい世間から認められず、引き立て役を極めることでしか生き残れない自分の居場所は、この奈落の底。
そう思い詰めつつ、持ち前の負けん気とチャーミングな性格な悪さで、卑屈にならず天に噛みつこうとする気概を持ち続けている所が、かなちゃんの良いところだと思う。
自信に満ち溢れ、演技の”正解”を押し付けてくる(と反抗しないと、卑屈さに押しつぶされてしまう)太陽に、震える手を隠しながら強気に噛みつくことで、かなちゃんは自分の背筋をギリギリ伸ばしている。
その強がりが、彼女を役者にとどめている。
でもそんな弱者の抗いを、黒川あかねは認めない。
正確にはなにもかも覆い隠す強い光の奥から、けして逃さぬようしっかりと見つめ睨みつけて、その上で健気な強がりなんて嘘っぱちだと、引き立て役の月がもう一度眩しく輝く恒星になることを、心の底から望んでいる。
呪っている、と言ってもいいだろう。
昇る日か、沈む陽か。
スチル一枚では判別つかない、あまりにも美しい湖の景色に瞳を焼かれて、引っ込み思案な少女は役者を志した。
圧倒的な再起と存在感を超ドヤ顔で押し付け、天上天下唯我独尊、その言葉の本意を見事に履き違えた傲慢を、憧れに変換しうるほどのまばゆい光。
”スター”が発する特別な眩さを、かつての有馬かなはたしかに発していた。
その頂に手を伸ばす行為が危うい背伸びであり、つかもうと思ったものは大人の事情で”売り切れ”にさせられてしまう暗い陰りと、黒川あかねはあこがれの人にようやく出会える運命の日、残酷に衝突する。
背伸びと”売り切れ”は極めて切れ味の良い冴えた演出であるが、これが単独で機能しているわけではなく後にリフレインされ、また作品全体のテーマへと接続されている所が、優れた回だと思わされる。
あかねからかなちゃんへの無邪気な憧れを剥奪し、真似っ子帽子を現実の泥に汚した、大人の事情との衝突。
彼女の幼年期を終わらせた暗い影は、その当人であるかなちゃんにこそ先んじてぶち当たり、純粋に演技だけを求めあれ、自分だけを見てもらえると信じていた幼さを、微塵に砕いた。
十分に子どもでいられない子役の定め、致命的な背伸びを強要され、周りが求めるままに必死にあがいた挙げ句、不安定で高い場所から叩き堕ちる未来を、予見するような危うい暗さ。
それは世界からかなちゃんへ、かなちゃんからあかねへ、疫病のごとく感染して、少女たちを強制的に大人へと変えていく。
憧れのかなちゃんに逢えるのだと、ワクワク旨を高鳴らせていた瞬間の眩しさが、黒川あかねの原点となったあのまばゆい光と同じ、茜と紫の入り混じった複雑な色をしている所が、カラースクリプトを個別の役職として置いているアニメの真骨頂、という感じがする。
その複雑で淡く、純粋な色合いはあかねの太陽自体によって跳ね除けられ、高く眩しく輝いているはずの星は、暗い扉の向こう側へと連れ去られていってしまう。
その複雑な力学を、わからないなりに卓越した知性で見て取って、自分の憧れを砕いたかなちゃんの身勝手の奥にある、夕日色の闇を視界に入れているのが、黒川あかねの怪物性だろう。
取り返しがつかないほどに傷ついてしまった自分よりも、子どもにはわからない大きな流れに押し流されて、遠くて暗い場所へ離れていってしまう理由に、まず目が行く。
後に役者・黒川あかねの大きな武器となる卓越した解析能力は、この爆心地で既にその萌芽を見せているのだ。
同じく未来を暗示するように、押しも押されぬ大スターであるはずのかなちゃんはこの衝突において常に影にたち、あかねが幼く純粋な光を背負って眩い。
光は必ず影を生み、過去は未来の予感を内包していると、越境と混濁を主題とする作品の基本線にしっかり則って、鮮烈な演出が展開されていく。
賢しらに悪しざまに、訳知り顔で”大人の事情”を語るかなちゃんは、勿論小さな身の丈の通りその当事者ではなく、しかしゼニと名声を巻き込む大きな渦に引っ張られて、その真中へと引きずり込まれている。
本当にやりたいこと、望んだ真実の自分。
公明正大な実力勝負、真っ直ぐで熱い思いが何にも邪魔されず形になる幼い夢が、けして叶わぬどす黒い影に、抗っても勝てない無力を思い知らされて、かなちゃんは既に没落を予告する影に囚われている。
それは自分の外側にあるものに踊らされ、飽きられ踏みにじられていく体外的な未来であると同時に、そういう扱いを自分そのものだと諦め引き受け、自己卑下と無力感に食われていく内面的地獄めぐりでもある。
太陽に焦がれるだけのファンでしかなかったあかねは、そんな失楽に手を差し伸べることも、隣に並ぶこともできない。
同じだけの栄光、同じだけの傷、同じだけの成熟、同じだけの純情。
太陽と釣り合うだけの質量を持たぬまま、あかねの眼の前で彼女の光は影に飲み込まれて、その残滓だけが高い看板の中、嘘っぱちの笑顔を輝かせている。
それは幻滅の果てにある暗い現実であると同時に、大きな流通価値を持つ金色の光でもあって、その明暗の間に立っている自分を、あかねは羨望の終わりに思い知らされた。
彼女もまた、もう子どもではいられない傷を押し付けられ、もがき苦しみ、立ち上がって譲れに何かにしがみつく。
その惨めな血だらけだけが、少女たちを対等な横並びへと連れて行って……しかし、真実重なり合うことはあまりに難しい。
あのときは”売り切れ”に届かなかった背伸びを、あかねは心理学への妄執で補って、大人の領分へと手を伸ばし、届かせていく。
なぜ太陽が堕ちたのか。
どうしても解らなかったから解ろうとして、学問の怜悧な刃で心を切り裂き、晒して並べて解ろうとする。
一見健気なその歩み寄りは、観察対象と観察する自分に無自覚の勾配を生み出し、上に立って腑分けする側と、腑分けされる弱者という関係を自動的に生成していく。
自分を惹きつける光の中に、焼かれることをいとわず飛び込む衝動よりも、その周囲を知見で全て埋め尽くして理解しようとする理性が、黒川あかねのスタイルだった。
それは暗く危うい客観の影へと、彼女を引っ張り込む引力を持っている。
あかねは暗い影からようやく這い出して、温かな光に身を埋め安らぎを見出す有馬かなの”今”を、けして認めない。
自分を焼いた圧倒的なエゴの光を、それに憧れ模造して放てる様になった自分の”今”と、同じ形で並び立ってほしいという、解体する理性とは程遠い、どす黒い切望。
そこには冷たく暗い私欲よりも、自分の外側に自分自身を規定する重たすぎる何かを見つけてしまったがゆえの、偶像崇拝者の純情がある。
それは生きた人間として耐え難くうずくまり、軟弱な救いを求めてしまう弱さを信仰対象に認めない、ユダの狂熱である。
(この、活きた実像よりも自分を揺り動かした虚像に呪われ、自分が見つけたアイドルの”本当”を追い求めて地獄へ突き進んでいる足取りは、あかねちゃんの”彼氏”と全く同じで、似たものカップルだなぁと思ったりする。
あかねちゃんがかなちゃんに向ける思いを、今回鮮烈に解体し深く踏み込んでいくことは、作品の背骨となる星野兄妹がアイに向ける慕情と妄執に重ねて、理解を深める補助線にもなっているわけだ。
”アイドル”が職業ではなく生き様であるのなら、その眩しさに照らされ呪われ、狂わされる人たちの在り方もまた様々であるはずで、アイではない誰かを闇の中の太陽として、狂おしく求める思いが描かれることで、作品を貫通する大きな柱への理解も深まっていく)
あかねちゃんは自分が、有馬かな救済物語に遅れてきた部外者であることが、淋しく許せないのかなと思う。
こんだけ有馬かなに狂ってんだから、己の太陽を救うべきは自分であるべきだ。
そこで唯一絶対の救済者を譲れない、控えめに見えて猛烈なエゴあってこそ、彼女は役者として大成しうる素質を有する。
B小町の三番目として、ブーブー文句垂れるのも可愛げと抱きしめてくれる優しい仲間と、一緒に進む再生の歩み。
誰かを引き立てる月影として、表に立たず身の丈をわきまえて……でもそんな大人びた物わかりを押しのけて、自分だけを【推しの子】と思わせる独善の引力を、レーザービームのようにステージから放ちたいとすら思える、探求と発見と実現の自分探し。
かなちゃんはここまでの物語で、結構十分に救われている。
でもそれは、黒川あかねの望む救済じゃない。
もっとエゴイスティックに、もっと圧倒的に。
かつて自分を殴りつけ人生歪めたような、爆弾みたいな衝撃をその体から思い切り絞り出して、天才子役有馬かなを”再生”してほしい。
そのための火種を、かつて燃え盛る熱を受け取った自分こそが手渡して、一緒の温度で、一緒の身勝手で、とろけるように競演したい。
かなちゃんの顔全然見てねー思い入れは、しかしあまりにも強くあまりにも純情で、有馬かなのことばっかり考えて燃え盛っている。
極めて手前勝手なのに、ありえないほど献身的で、驕ったように見える舞台上の君臨も全部、復活なった太陽に焼き尽くされるための事前準備。
そして生まれた灰の中から、真実望ましい自分を掴み取れる予感にも突き動かされて、黒川あかねは有馬かなに負けたがっている。
勝ちたい、負けたくない。
尖った角出してゴリゴリぶつかっているように見えて、その実望んでいるのは真実有馬かならしい有馬かなであり、それは狂信者の妄想と一蹴できない真実を、確かに捉えている。
分からないから分かろうとした、影の中に山積みにした心理学の知識と、稽古場に滲んた汗だけが見抜ける、かなちゃんすら諦めようとしている、自分の中の太陽。
それが未だ死んでいないからこそ、かなちゃんはアクアの働きかけに魂を揺すぶられ、やる気なかったはずのアイドル稼業に精を出し、たった一人の視線を独占したいと、諦めきった死人の顔を投げ捨てて、結構図太く身勝手になった。
そういう光が確かにあるなら、嘘っぱちのかなちゃんを投げ捨てて、自分の隣で燃えてほしい。
エゴイスト極まる純情で、黒川あかねはどす黒く眩しい。
好きだ……。
かつて”大人の事情”など何も知らず、無邪気に純粋に才能を輝かせていた有馬かなが、世界の中心ではなっていた光。
それに憧れ追いかけて、有馬かな自身が投げ捨てた圧倒的なエゴイズムを模倣し体得する形で、黒川あかねは世界中の視線を己に集める。
その引力は眼の前の相手を闇から引き出す力を確かに持っていて、かなちゃんは大人びた諦観を一瞬投げ捨てて、眩しい場所で何も考えず遊んで良いかなと、子どもに還ることを考慮にいれる。
そしてあかねが見てくれない、忘れようとしても忘れられない、屈辱と痛みに満ちた自分の歩み……その果てで泣いている小さな女の子を見て止める。
その涙を聞いてあげれるのは、結局私だけだから。
もう使えねーと殴りつけられ、用済みだと投げ捨てられ、自業自得と思い知り、それでもなんとか芝居にしがみつくべく、他人に便利な自我亡き舞台装置を生き様と選び取って、影の中に生きていく道に進んだ。
そこにはたしかに惨めさと痛みがあって、でも歩みを止められなかった意地と執着があって、決断の尊さがある。
あかねが学術書をメスにして解体する、俯瞰の冷たい真理にはそういう血の滲みが、理屈で腑分けしきれない感情と人生の色合いが、どうしても宿りきらない。
賢すぎて人の気持に寄り添いきれない優等生と、彼女が差し出す光に飛び込めない劣等生の、重なり合わないにらみ合い。
どんだけ焦がれても黒川あかねは有馬かなではなく、有馬かなは黒川あかねには成れない。
驕り高ぶった上から目線の天才様、あるいは自分を押し殺して光を消す嘘つきと、お互いを否定する根源がお互いに繋がって、でもお互いの歩みはお互いのものでしかなく、積み上がった”自分らしさ”が相手の側に寄る足取りを、どうにも重たく邪魔していく。
かなちゃんは自分の奥底にある暗い影を忘れられないし、あかねちゃんは自分を焼いた光を消せない。
一瞬だけ自分に並び立とうとしたかなちゃんを、暗い場所へと引っ張っていく偽物の太陽が、実は自分の才能の反射でもあることに、あかねちゃんは気づいていない。
聡明に過ぎる頭脳はそれを理解しているのかも知れないけど、有馬かなという太陽への信仰はあまりにも彼女の中で絶対で、その残照を譲らないからこそ、黒川あかねは黒川あかねでいられる。
己を譲らぬ傲慢は役者としての彼女の天分であるし、未だ老成を知らぬ滾る若者だからこそ、生まれる熱でもあろう。
そしてそれを幼い日、引っ込み思案な女の子に手渡したのは、陰り遠ざかりつつある彼女の太陽なのだ。
抜き身の芝居で光の中へ戻すには、黒川あかねの在り方は有馬かなの譲れぬ”今”に、あまりにも噛み合わなさ過ぎる。
そんな事実を思い知らされ、傲慢の奥に隠した純情が届かない切なさに、役柄と生身の己を重ねて涙する、若き天才の舞台裏。
有馬かな自身が太陽になりうる、傲慢で魅力的な”アイドル”の自分を信じられないどん詰まりを、動かすためには一人では足らない。
なら同じように”有馬かな”に幼き日、脳みそ焼かれちゃった狂信者が力を貸して、勝つことで負け負けることで勝つような、何もかもが入り交じる瞬間を形にしていけばいいじゃねーかよー! と、星野アクア主役の面目躍如、爆イケタイミングで颯爽登場である。
オメーやっぱよー……アイ以外は何にもいりませんみてーな顔で擦り切れた復讐者やるの、絶対無理だって。
あかねちゃんとかなちゃんを共に捉える、月光にいた青い影。
これを打ち払う太陽のオレンジに、アクアの歩み寄りで火が入る演出が次回へのヒキとしてまこと見事であるけども、この反転は諦めかけていたあかねちゃんの気持ちを、もう一度燃え上がらせる再起の炎でもある。
かなちゃんを暗い場所へと引きずり込んでいく、”大人の都合”の勝手な引力。
自分らしさと身につけた、身勝手に燃え盛るエゴに満ちた芝居の眩さ。
色んな意味がある太陽の色が、かなちゃんを捉えた青い月光には勝てないのだと思いかけた時、「アイツのメンカラーは、ウルトラオレンジ一択だから」と、しれっと告げてくる有馬かな超絶強火勢が、堂々身を乗り出してくる。
ここで太陽モチーフと、”アイドル”である有馬かなの”今”がシンクロしてくるのがすごく好きなんだが、「これが私らしさ、今までの私の必然」と、泣きじゃくる自分に寄り添う道を選びかけてるかなちゃんが、唯一絶対の自分ではないと抗議してくるのは、彼女の引力に魂を焼かれた他人である。
他でもないアクア自身が、母を救えずどん底な自己評価で己を苛み、しかし持ち前の優しさと行動力でもって色んな人に繋がり、手渡し、暗く理不尽な世界を変えてきたから、色んな人に愛されている。
その客観的な事実を、揺るがない現実として自分に引き寄せて、愛されるに足りる自分を自分自身が認めてあげるための足掻きで、この物語は満ちている。
似た者同士のお互い様が、色んなところで共鳴してるから面白いんだな。
それを可視化するための演出を、メチャクチャ気合い入れて駆動させてくれているアニメは大変偉いと思う。
この自己愛の足元を整えるためには、そこにセメント流し込む時代たる子ども時代に、十分子どもであることが必要だと思うんだけども。
アクアは転生者、かなちゃんは天才子役として、大人びた遠さを背負って”子ども”やってきて、それぞれ眼の前で母親が惨殺されたり、世間に良いように使い潰されたり、その間隙を埋めるより広げる体験を、たっぷり背負ってきた。
そこに新しい可能性へ優しく送り出して、心配し抱きしめてもくれる満ち足りた両親の元、存分に”子ども”して自己肯定感爆裂なあかねちゃんがどんだけ踏み込めるかを、舞台”東京ブレイド”のクライマックスは削り出していくことになる。
ここら辺の見捨てられた子どもとしての共鳴って、どんだけかなちゃんに外側から憧れてもあかねちゃんには得れないもので、それを”彼氏”が背負ってくれるから、月の裏側まで燃え盛る炎が届くかも……って状況である。
リア充気取った偽物恋愛より、もうちょい深い部分でアクアとあかねは繋がり得て、その共通項として重度のかなキチが機能してる状況でもあって、「人生捻じ曲げるほどの重たい感情って、複数あり得るんだなぁ……」って感じだ。
まぁ依存対象を一つに絞ると、それに裏切らられたと思いこんだり太陽が消え去ったりした時、癒着し依存してた自分の魂も引っ張られて潰れてしまうので、自分を支える愛とエゴは可能な限り、複数持ってたほうが良いんだろうけど。
そういうたった一つしかない支えをぶっ潰されたと、思い込み思い込まされた相手に、アイはぶっ刺されて死んじゃったわけだしなー。
二人だからこそ踏み込める場所へと、肩を並べ戦友のように挑めるアクアとあかねちゃんは、親世代が上手く出来なかった生き様を、変わって取り戻し再生させる任務を、かなちゃん救済ミッションと一緒に背負っているのだろう。
それは自分の人格と人生を歪ませた、鮮烈な出会いと裏切りの痛みに改めて向き合い、あるべき自分を取り戻していく、極めて個人的な救済の旅でもある。
呪いのように湧き上がる”大好き”と取っ組み合って、純情な身勝手を押し付け押し付けられる中で、救うべきあなたと救われるべきわたしは、境目を越えて混じり合っていく。
そういう役者が秘めた人生絵巻こそが、嘘っぱちの舞台に本物の熱を生み出し、燃え盛る光で誰かの心を焼いていく。
かつて誰かから受け取って、自分の中で燃やし続けていた太陽が、新しい誰かを照らしうる未来は、確かに深い影の中、消えることなく燃えているのだ。
舞台と客席、演者と役柄、過去と現在、呪いと祈り。
境界線が溶け合うカタルシスを加速させながら、長かった2.5次元舞台編もフィナーレが近い。
次回も、とても楽しみだ。