イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

デリコズ・ナースリー:第8話『ジュラスはかく語りき』感想ツイートまとめ

 復讐鬼は己を語らず、ただその輪郭を誰かがなぞる。
 これまで秩序維持に奔走する貴族の視点ばかりで綴られてきた物語が、それを破壊せんとするテロリスト側の語りをすくい上げ始める、デリコズ・ナースリー第8話である。

 決戦を前にした小休止というか、クソボケ反社会組織が第三のナーサリーに化け、すンゴイ内ゲバの気配を漂わせながら一瞬の夢に微睡む…みたいな回。
 他人の気楽さで子どもら自由に遊ばせている様子は、これまでのナーサリーより弾むように明るくて、それが脅迫と惨殺を生業とする鬼畜共の住処だというのが、大変いい感じにグロテスクだった。

 一寸の虫にも五分の魂、テロリストにも悲しい事情。
 TRUPMという絶対存在に、人間らしく生きる基盤を簡単にぶっ壊されてしまう欠陥存在どもが、それでもなんとか自分たちが生きている証を世界に刻み込もうとして、大間違いの方向へ突っ走っていくのは社会の最上層も最下層もおんなじだなぁ…という感じだった。

 

 ジュラスを襲った悲劇は、無辜の人民を道具に使って既存秩序をひっくり返す言い訳にはならない。
 繭期に呪われた永遠のクソガキどもも、神様に最悪のプレゼントを捧げようとする狂信者たちも、その行いは正当化されない。
 一週間後にぶっ殺すガキと、仲良く託児所やってる狂いっぷりはなかなかにおぞましく…しかしそれは、ダリの作ったナーサリーと何が違うのか。

 弱く、脆く、だからこそ適切に守り育まなければいけないはずの存在を、犯罪捜査の最前線に置いて案の定、殺しをなんとも思わないクズどもに身柄を掻っ攫われる。
 愛ゆえの愚行…と綺麗に飾るには、シンプルにバカすぎる行いを棚に上げて、ツラの良い捜査員たちは細い手がかりをのんびり手繰って、ジュラスの過去を探る。
 作中数少ない良識と常識を体現する、ケイト・ロルカ氏のお墨付きも得て行われるその調査には、吸血種社会が抱え込んでる根源的な矛盾と危うさを、都合よく棚上げし続ける。
 これ言ったらダイナシなのかもしんねーけど、自由意志の根源が他者依存な吸血種、”人間らしい”社会作る基盤がねーよおそらく。

 

 それでも真だの善だの美だの、人間らしい何かを追い求めるだけの価値が自分たちにはあるのだと、当たり前に信じてもがいた結果、貴族は秩序を維持するべく子ども達の危機を棚上げし、テロリストは穴蔵で託児所を営む。
 「狂ってんなー…」てのが正直な感想だが、その狂気と腐敗こそが吸血種の基本だというのなら、外野から持ち出した正気は余計な判断基準でしかない。
 根っこの部分が狂ってる話が、狂ってるなりに全速力で走りきって行き着く先を見たい…というのが、残り4話となった現状での、自分のスタンスになりつつある。
 揺るがず真っ直ぐな間尺をあてがって、良し悪しを判断する物語では、そもそもないのだろう。

 ジュラス本人は語らず、冷たいプロファイルとテロリストの伝聞によって綴られるその過去は、愛ゆえの狂気に彩られて、多分ダリ・デリコの歩みとあんま差がない。
 まージュラスは自分の復讐のために死体を積極的に積み上げ、ダリちゃんは平民の遺骸を看過出来てしまうだけ…という違いはあるが、喪われた愛の証を立てるべく舞台に立っているのは、二人共通なのだろう。
 かたや生まれたときから支配者階層に選ばれた選民、かたやスラムでネズミの血を啜る被差別階級。
 テロリストと探偵の所業に、しかしそこまで明瞭な差はないかなぁ…とも感じた。
 鏡合わせの歪な影が、秩序と混沌の両極に立って喉笛狙い合ってる現状も、中々皮肉ね。

 

 ようやくメスが入ったダンピールの暮らしも相当に悲惨であるが、楽しい託児所の風景に重ねて描かれた貴族社会の軋みもまた、相当にヤバい。
 ナーサリーの子ども達を大人の都合の犠牲にする危うさと、生きるか死ぬかなダンピールのガキの現状を、並べて比べるべきでもないのだろうけど、世界に愛されなかった子どもがなんとか自分の居場所を見つけ、理不尽に神様にぶっ壊された結果として、今のジュラスもある。
 そういう存在が、本懐を遂げるための道具としてガキの血搾り取ろうとしてる状況も、永遠の繭期を求めて人殺しを重ねてるキキちゃんの横顔も、悲しくて綺麗で、直視できないほどグロテスクだった。
 無邪気な子どもを鏡にして、適切に子どもでいられなかった二人のテロリストの顔が良く見える回だ。

 差別的な社会構造が、良くわかんねー真祖の気まぐれでなんもかんもメチャクチャにされる種族特性が、彼らを愛されるべき”正しい子ども”にはしてくれなかった。
 そのツケを子どもの血で贖い、あるいは例外的に守ろうとする行動は、ダリが愛の証のためにナーサリーを生み出したのと同じく、誰かを思う優しさよりも、抱えた虚無をエゴで満たす身勝手に繋がっているように思う。
 そういう風にしか生きられない動物どもの顔は、見てられないほど醜悪で、だからこそ僕らの鏡として適切だ。

 

 このどん詰まりの鏡合わせを抜けて、永遠と信じられる何かを微かでも、この物語は描きうるのか。
 幼年期の無垢な輝きも、神様の絶対性も結構早い段階で蹴り飛ばされているこの物語、すがるべき”真”はなかなか見つからない。
 もしかしたらそんなモノどこにもなくて、それを探そうと自分を棚上げし他人を踏みつけにする愚かしい運動それ自体が、奇妙に必死な尊さを生む…という構図なのかもしれない。
 その麗しい醜悪に、子どもらが飲み込まれ巻き込まれてしまっているのはなんとも悲惨だが、ここまで来たなら例外的に天使を守るより、エゴイスティックでグロテスクな現実の歯車に、一人くらい噛み潰したほうが嘘がないかなぁ、と思う。

 ホントにねー…無邪気な子どもらに喪われた/喪われつつある/失いたくない己を重ねて、想定できる終端点ですら絶望が咲き乱れるようなどん詰まりを、楽しいフリで駆け抜けているキキちゃんの有り様が、とっても悲惨で良かった。
 あの悍ましさは多分、生得的差別から絶対逃れられない吸血種社会ではかなりありふれたもので、今は特権的に無邪気(に見える)な子ども達も、また別の角度から、お貴族様のレースで覆われた地獄に貫かれ、歪んでいくのだろう。
 神たるTRUPM含めて、誰も下向きの引力に抗えない終わった世界で、それでも永遠たりうる美しいものを求めればこそ、死体が積み上がっていく。

 

 この悲惨が名もなき端役と、その悲劇を取り上げ語ってもらえるネームドたちとの間で、どういう差があるのかを、ここ最近は考えている。
 テロリズムに走るしかない可哀想な事情を抱えたゴミと、その惨苦を物語化されない有象無象の間を、かなり明瞭に別けている狭さは(もしかしたら作中描かれる何よりも)貴族的だけど、その偏狭を作品に許す足場が、一体どこにあるのか。
 悲惨でおぞましく、だからこそ面白い個別のドラマを抱えているのなら、傲慢に共感を閉じて誰かを犠牲にしても許されるほど、それは美しいのか。
 極めてヴァンパイア的な耽美主義に開き直るのとも、また違う匂いを僕は感じていて、しかしその輪郭はまだ見えない。
 ここら辺は残り話数を最後まで見るか、山のように広がる長大なサーガに補足を求めるか、あるいはそうしてもなお答えが出ない問いかけなのかもしれない。

 一つ感じたのは、不完全な神様をぶっ殺して己の物語に納得できる終わりを描こうとするジュラスのほうが、種の狂った前程を飲み干して”人間らしい”社会を維持しようとするヴラドの連中より、自分的には納得が強いな、ということだ。
 家族への情愛も、貴族の誇りも、人間らしい何かを造り守ろうとする吸血種の営みそれ自体が、崩壊を約束された砂上にしか思えないなら、間違ってる自分たちごと根源から終わらせようとするのは、理にかなったエゴだと思う。

 ここら辺、TRUPMくんがどんだけ不安定なクソザコ神様か解りきらないので、暫定的な共感でしかないんだけども。
 ここまでの物語で華やかなレースに糊塗されてきた、お貴族様の御大層な選良っぷりが、足場を持たない道化芝居でしかないという僕の感覚が、果たして正当…あるいは妥当なものか。
 そこは今後の物語を見届けて、自分なりの答えを出したいところだ。
 「主役サイドのほうがイカれてんな…」と思いながら見る物語には、独自の収まりの悪さと心地よい疼痛があって、結構嫌いじゃない。
 いつか「俺達全員狂ってるよ」と、作品自体が大声で告げてくれたら、中々気持ちよくこの感覚も収まりどころをみつけるのだろう。

 

 あるいはこのズレ方は、舞台全体を俯瞰で見れる(そう見ることしか出来ない)非・吸血種の僕が、種族と社会制度の限界に縛られた作中人物の一人称に寄り添えていないがゆえの不協和なのかもしれない。
 傍から見てりゃどんだけ狂っていようが、当事者にとっては唯一選べた自分なりの道で、しかしそれは自分で選んだものではない。
 今回ジュラスの過去がそう描かれるように、誰が勝手に引いた輪郭線に縁取られ、その内実を勝手に推察されながら、いつかそれが真実だと形作られてしまうモノで、人生という物語は満たされていく。
 そのどうしようもなさを一個一個、愛しく撫で擦る手がかりを、今更ながら僕は欲しいている…のだろうか?

 なまじっか社会の存亡を賭けたデカい活劇が転がる分、陰鬱で出口のないキャラクターの内的葛藤を個別に掘り下げて、それぞれの地獄が折り重なって生まれる群像劇のタペストリを、味わう暇があんま無い感じはする。
 「正気のおつもりで存分に狂ってる…狂うしか無いように種族レベルで設計されてる人たちの、狂いっぷりをもう半歩見れれば、彼らに近づけるかも」と感じているから、自分たちの反社会的狂気にまぁまぁ自覚的なテロリストたちの方に、心地よい開き直りを見つけているのか。
 どっちにしても、「貴族と神様が一番イッテんな!!」と、作中の誰かにちゃんと吠えて欲しい気持ちは強い。
 いやだってそーだろ、上層ほどダメだろこの世界!!

 

 

 

画像は”デリコズ・ナースリー”第8話より引用

 テロリスト側…というより社会に君臨する恵まれきった少数者以外からの視点が、ほぼ初めて掘り下げられる今回。
 人の命をなんとも思わないテロリストたちは子ども達を幸せに遊ばせてくれる”いい人”で、仮面の奥には傷ついた肉があるのだと、極めてグロテスクに描かれていく。
 この醜悪は大変いい感じで、人でなしすら仮面を外す中、ジュラスをそういう存在にしてしまったTRUMPだけが顔の見えない、行動原理も幸福の形も解らない御簾の奥の存在として、延々隔離され続けるのは大変良かった。
 よくもまぁ、こんな人形災害神様扱い出来てるな…。

 あるいは是正のチャンスすらなく、薄紙のように脆い不完全を種族と社会の基盤にせざるを得ないからこそ、貴族社会もその下層も大概に狂ってんのかも知れないけども。
 こんだけのイカれ災害を撒き散らす存在に、死をプレゼントしてれば喜べると思える基盤が、ペンデュラムのどこにあるかは一度聞きたい。
 「テメーらがいらない贈り物してるから、村もああなったんじゃねぇの?」とか思ったが、そうするとジュラスは自分の仇に力を貸して、復讐を果たそうとしている形になんのか…。
 スゲー可愛そうだけど、でもそれってテロる口実にはもちろんなんねーわな。

 

 TRUMPくんが本当は何をしたいのか、何を求めているのかハッキリ聞けたなら、吸血種社会の歪さもちったぁ是正されるんだろうけど、それが出来ないからなんもかんも壊れている。
 「完全に不可知で不在なる神と、不完全なまま実在する神…どっちがマシなんだろうなぁ」などと思いつつ、誰に噛まれなくても神様のイニシアチブの奴隷な連中が、必死に”人間”であろうとしてる足掻きは切ない。
 それさえあれば”人間”でいられる、自己決定権がもとより保証されていないの、マジで最悪なんだよな…。
 万能でも全知でもない神の奴隷であることを強要されている世界は、そらー前近代的にもなるわなぁ…という納得もあった。

 そういう出口のない牢獄の中で、キキちゃんは必死に楽しいふりをして、愛が自分の中で溢れる芝居を続ける。
 永遠の繭期、終わらない夢。
 第三のナーサリーで遊ぶ子ども達を見つめる彼女の顔は、けして描かれることがない。
 口先で告げている、絶望に満ちた現状追認を真実どう思っているのか…あるいは彼女自身の認識を飛び越えて、真実どういうものであるのかを、彼女も僕らも認識はできない。
 ジュラスの過去を観客席から見つめる特権は与えられていても、狂ってる自分が一体どういう顔をしているのか、他者という鏡に照らしてじっくり確認するチャンスはない。
 そうしてしまえば、狂い続けることも出来なくなるだろうし。

 

 殺すために攫ってきた子どもに情を寄せ、仲間との対立も厭わないキキちゃんの狂った正気が、我を忘れた衝動と同じくらい、俯瞰的に悲観的に自分の物語を見下ろす正気と同居しているのだと解って、ここの描き方は大変良かった。
 ピエロも舞台裏では仮面を外し、嗤ってない素顔を時に晒す。
 テロリストにも人間としての物語があり、感情があり、だからこそ歪すぎる世界の在り方に耐えかねて、他人をぶっ殺してでも自分らしく踊ろうとした。
 他人の命を踏みつけにするその在り方が、自分の物語自身と衝突している事実を見つめれば、テロリストはもう踊れない。
 正気になってる余裕など、狂人にはないのだ。

 ここら辺の切羽詰まり加減が、社会的弱者としての余裕の無さと共鳴して、嘘なく暴かれていたのは良かった。
 お貴族様達はどんなピンチになろうが、その絹の衣を脱ぎ捨て立場のない一人間としての顔を、あんま見せてくれないからなぁ…。
 あるいはそれを脱げない事こそが、選良に架せられた呪いってやつなのかも知れないが、正直階級と慣習の鎖くらいは、ぶっちぎって己を吠えて欲しい気持ちもある。
 その鎖で無辜な子ども達を縛り、絞め殺そうとしてるのだからなおさらだ。
 まーその鎖から自由だからって、テロリストが子どもを活かすわけでもないってのが、中々困ったもんなんですがね…。

 

 攫ってきた人質に感化され、冷徹な反社会存在である自分を切り崩されてしまうリマ症候群が、ペンデュラムを壊す病根になっていくのか。
 今までさんざんぶっ殺してきた被害者と、健気で可愛い子ども達の間にどんな違いがあるのか、キキちゃんに聞いてみたい気持ちもあるが、”無い”ってことは彼女が一番良く解っているのだろう。
 しかしその真実に素直に生きていれば、繭期だのイニシアチブだの差別だの運命だの、抗いがたいなにかに己を押しつぶされるだけならば、都合よく見て見ぬふりをして、愚かさで武装して踊る方を選ぶ。
 その醜悪なエゴイズムは、率直で中々に良いなと思った。

 そういう人間らしく嘘のない震えが、穴蔵の中のナーサリーを悍ましい優しさで満たす隣で、探偵たちは被疑者の過去を探る。
 ジュラスと同じ理不尽に身を焼かれつつ、世界を殺す方向に己を進めなかった少年の証言は、物語をどこへ持っていくのか。
 子どもと責任の物語として見始めたこのアニメを、正気と狂気のお話として見つめている自分の今を感じつつ、次回新たな決戦を待つ。

 

 …子どもらがイカれた情勢に関係なく、無邪気で楽しそうであるほどに、作品世界の多層的なイカれっぷりが可視化されるの、”ナーサリー”を舞台にした理由が解ってきて、最悪にいい感じだ。
 ドブ色のキャンバスにこそ、白は映えるね。