静かに釣り糸を垂れて、日々夢中に魚を追って、君を待つ。
目をつぶって暗い影から逃げるのではなく、光に向けて瞳を開けて。
貴明不在の生活の中、極めて静かに物語の成果を主人公が証明する、ネガポジアングラー第11話である。
大変良かった。
前回の衝突を受けての浮き上がり回、デカいイベントなしに釣って働いて病院行って、極めて地味なのは非常にこのアニメらしかった。
それこそ「職場の連中全員集合、血を滾らせて逃げた貴明を追う!」みたいな、分かり易い上げ潮でクライマックスを作っても良かったはずだが、エブリマートの日常はいつもの温度感で進み、ハナちゃんが少し前に出て、常広の手を取った。
真摯に眼の前の魚を追う、そのために全霊を賭す真剣さを間近に浴びて、常宏はモジャモジャ自分の中に救っていた迷いを取り除き、釣り竿置いて貴明を追おうとする。
ここで「釣りやってる場合だよ。そこにしか、貴明の居場所は無いんだから」と、ハナちゃんから導きの糸が垂れてくるのがこのアニメだなぁ、と思った。
あくまで余暇であり、趣味であり、人生の大部分を熱心に真剣に傾けるほどに面白いモノである”釣り”。
結果としてそこから人生を学び、目を瞑って闇を走るしかなかった成人サイズの赤ん坊が、自分のことをちゃんと出来る足場を作ってくれるとしても、たかが”釣り”でしかないもの。
だからこそ重たすぎる人生の荷物を、過剰に相手に叩きつけない距離感でもって、なんでもない風を装って向き合える場所に、常宏はようやく誰の力も借りずに立つ。
コミュニケーションの成立を釣果の前提とする作品の鉄則に従い、貴明を待つ常宏は見事にボウズ食らうわけだが、しかし釣れない時間も「また”釣り”の楽しみである」と書いてきた作品にふさわしく、釣れない事実に真摯に向き合う時間にこそ、彼の成長を僕らは感じる。
なぜ釣れないのか。
シンプルな課題をクリアするべく、常宏はメモを取り試行錯誤を繰り返し、シコシコ釣り糸を地面に垂らす。
出来ないことがいつか出来るようになるのだと、微かな光を確かに信じる。
そこにはTVで喧伝されるビッグフィッシングへの浮ついた憧れも、ピカピカなお道具で自分を飾り立てる虚飾もない。
ルアー一個買うにも大悩み、一個新しいことを試しては上手く行かず、その失敗も地道に確かめて自分に出来ることを増やしていく、地道で当たり前の歩みがあった。
それはハナちゃんや貴明や…出会った他の釣り人達みんなが、自分なりの人生の苦みと楽しみを噛み締め、あるいは隠しながら進んでいる道であり、貴明に自分の人生をおんぶにだっこしてもらって進んできた常宏も、彼が一旦離れていったことで、そこに立つことが出来た。
しかしそれは、今回急に可能になったわけではない。
眼の前を塞ぐ不安から逃げて逃げて逃げまくり、瞑目の混迷にとらわれてどん詰まり、暗い水に身を投げるしかもう道がない所まで追い詰められた所で、チャラい天使に釣り上げられて始まり直した、クズ人間の物語。
借金の管理も出来ねぇ、他人とまともに触れ合えねぇ。
思い込みで何もかも評価して上滑り、空回りばかりで大事なものが噛み合わねぇ。
そういう最悪の出来損ないに、お節介な手を伸ばして屋根を与え、職場を与え、”釣り”という趣味に引っ張り込んで、ブーブー文句ばっか言ってた陰キャくんを立派な釣りキチにした、一人の男がいてくれた。
貴明がいたから、常宏は今回、彼のいない場所に一人で立てる。
貴明が自分の居場所へと戻ってくるまで、(ハナちゃんの爽やかな優しさに助けられつつも)常宏がじっくりと釣果を待てたこと自体が、弟を失った痛みから逃げた貴明が、その実何と向き合っていたのかを語っている。
善人ぶった優しさの裏には、喪失の痛みをなかったことにする弱さが確かにあって、常宏に向けられた光は影を隠し続けてきた。
でもその明暗同居が、貴明が確かに、暗い闇にしか居場所がなかった男の目を開けさせ、不安に苛まれ逃げ続けるより楽しいことを教え、一緒に笑い一緒に釣り一緒に食って、心が育つまで隣りにいてくれた事を、なかったことにするわけじゃない。
この混ざり合うネガポジこそが、自分の物語の色なのだと納得できたから、常宏は「ごめん」ではなく「ありがとう」をいうために、もう一度貴明に会いたいと思った。
それは世の中に負債を抱え、それを払いきれないマイナスの自画像ではなく、自分の中から…貴明と共にあった時間から湧き出てくる光を、アイツの前に手渡したいと、それで貴明との人生をもう一度釣り上げたいと思えるポジティブが、常広を照らしてるからだ。
「ごめん」じゃなくて「ありがとう」を告げたほうが、本当に伝えたいことを伝えられる自分を、チャラい陽キャと後ろ向きな陰キャが一緒に生きた時間が、教えてくれたからだ。
そういう事に気づき、シフトを引き受け釣りに勤しみ病院に行く、普通の人間が当たり前にやっている…けど、常宏にはどうしても向き合いきれなかった人生の重荷を当たり前にこなす様子を描いて、今回のエピソードは終わる。
その地道で丁寧な筆致が、最後まで冴えに冴えていた美術と音楽にしっかり支えられて、このアニメの良いところをじっくり教え直してくれた。
貴明を待ちながら日々を過ごす常宏の描写それ自体が、アタリを待つ時間、釣れない時間自体すらも楽しむ”釣り”の善さをもう一度なぞっていて、この作品が”釣り”を通して何を書いていたか、最後に再確認できるのは素晴らしい。
第9話で示唆されていた、人間同士の繋がりを暗喩するラインは、今回そこまで派手に繋がらない。
エブリマートの連中は二人の複雑なぶつかり合いの奥、常宏を侵す死のシリアスさに真っ向から踏み込んでくることなく、相変わらずトボケてトンチキな手触りで職場を共にする。
その静かな触れ合い方が、当たり前に明るく当たり前に苦しい人生の物語に、”釣り”という趣味を通して切り込んでいったこの作品らしい触感で、とても良かった。
真正面からビカビカアツい光を手渡すのではなく、暮れていく日差しが生み出す魔法のような時間に照らされて、静かに確かに、大事なものを手渡し合う。
そういう距離感も、良いじゃないの。
ここでハナちゃんに、貴明を失った主人公を支える仕事を絞ったってのは、まぁそういうメッセージが込められているのだろうと、僕は受け取った。
そのベタつかないけど確かに繋がってる距離感は、「結局自分自身の物語を釣り上げる主役は自分でしかなく、しかし孤独に何のコミュニケーションも、無明の奥側を探る想像力もなしでその”釣り”が出来るほど、人間強くない」という、明暗入り混じった視線を結実させる。
ネガとポジが混ざり合い、白明と暗夜の間を行き来する、時間の波に揺られる旅路。
そこに奇妙な縁で結びついて、隣り合った人たちがいたからこそ、常宏は貴明をベストポジションで待ち受け、針を引っ掛ける。
それがどう釣り上がるか…焦らずラインを巻き上げタモを出し、もしかしたら誰かの力を借りて、しっかり自分の大事なものを自分の手の中に引き上げられるかどうかは、次回最終回に刻まれるだろう。
それを書けたのならば、何もかもが不安で、世界とも自分とも上手く繋がれない暗さに支配されていた青年が、”釣り”との出会い、”釣り”が生み出してくれた出会いでどう変わり、何を生み出せたかは描けるはずだ。
そして自分の人生を変えてしまうほどのビッグフィッシュを、今度は自分が釣り上げるだけのたくましさを、常宏が既に得ていることは、今回どっしり書いた。
間違いなく、次回は大団円のハッピーエンドだ。
そしてそこにたどり着くためには、しっかり迷いしっかり逃げなければいけない。
微かに朝日が差し込む車中泊、思い出に魘されて思わず掴んだリールは、あの時弟の手に握られていたそれと同じだ。
失ってしまったもの、逃げてしまったもの。
掻き消えたはずの残光は確かに貴明を掴んで話さず、思い出には実物の手応えが残って痛い。
そういう場所にこの男は囚われ、呪われ、逃げ、何事もなかったかのように微笑みながら、暗い淵に沈みかけた男の人生を釣り上げていた。
貴明の影の色、そこに差し込む光の色が、ここで描かれるのはやっぱ良い。
目覚めた後、逃げ出した先貴明が身を置いている場所が、前回回想に描かれた弟と一緒の場所によく似た色合いなのが、怖いし素敵だなと思う。
そこは彼岸であり、思い出さないように封じ込めてきた思い出の色合いであり、現実の痛みを遠ざけた優しくぼやけた風景だ。
活きているからには食べなきゃいけない連中の、身の養いになる魚を釣り上げる戦いが行われる、解像度の高い風景とは少し違う場所へ、貴明は逃げ込んだ。
でもそれは、弟の死を覆い隠して生きてきた貴明がようやく、思い出の中に踏み込めたからこそ立ち戻れた場所であり、常宏の身勝手で必死な糾弾が、突き破った壁の向こう側でもある。
この景色の中、弟が消えても残るリールの手触りを、まだ生きてる自分の指で確かめながら、貴明は気持ちの整理をつけていったのだと思う。
逃げて逃げて逃げて、真っ暗闇に身を置いているように見えて、確かに一筋光が差し込むネガポジの中、自分の痛みを棚上げして正しさでぶん殴ってきた臆病者は、もう一度自分の居場所へ立ち戻るための力を、逃走先で掴み直した。
そのためにはこのぼやけた景色の中、思い出を釣り上げる時間が必要だったのだろうと、読み解けるアバンで凄く良かった。
こっからカメラは貴明を離れ常宏の日々を追うわけだが、その裏で何が起こっていたか色々想像できる材料を、手渡してくれるのはありがたい。
貴明不在のエブリマートで、常宏はまーたプリプリブリブリ、身勝手に起こり苦笑いで誤魔化す。
それでも昔よりちょっと他人の目を見て、自分の気持ちを少しは外に出しながら話している様子に、1クールこのクソカス脆弱人間に付き合ってきた僕の心もほころぶわけだが、この煮えきらない態度に最適の距離感で突っ込んでいけるのが、ハナちゃん師匠の頼もしさよ!
「アタシらがマジな話するなら、やっぱ”釣り”っしょ」とばかり、魂のこもったフォームで魚に向き合い、一心不乱に向き合うその姿勢が、常宏の目を開かせ心に飛び込む。
すっかり”釣り”が好きになったからこそ…あるいはぶつくさ文句ばっか言ってグダグダ距離を取っていた時でも、常宏は真摯に釣りに向き合う人の姿勢から、自然漏れ出す輝きを無視できなかった。
言葉では通じないもの、なかなか言葉になってくれないものを、ビシーっと狙ったポイントに投げ落とすことが出来るのも、”釣り”というコミュニケーションの強みである。
自分自身、余人に語らぬ事情を背負いつつ、ハナちゃんはたかがバイト仲間、釣り友達が何から逃げて何を考えていたのか、慎重に糸を垂れる。
語らずとも何となく分かるもの、水の下でのたくっているものを、自然探ってしまう釣り人のサガが感じ取った、ハナちゃんなりの貴明の魚影。
それを隣り合って手渡す中で、常宏はここまで自分が歩んできた道を、その隣にずっといてくれた友達の顔を思い出して、リールを強く握る。
この”手”が、アバンで描かれた貴明の”手”と重なるように感じられるのが、喧嘩別れしたダチが近いうち必ず、”釣り”に惹かれてもう一度出逢うのだという感覚を強めてくれて、とても良かった。
常宏と貴明の関係性は、ドタバタ生っぽい生活感の中に、凄くロマンティックな色合いと暗喩を巧く混ぜ合わせ、程よくロマンティックな空気を漂わせてここまで描けていたのが、作品を貫通する縦軸にもなってて好きだ。
逃げっぱなしのカス野郎と、嘘ばっかの軽薄天使。
そこにこそ漂うロマンもあるのだ。
かつて常宏は釣り終わりの車窓に、街と自分を反射させる時間が好きだと告げた。
釣れたり釣れなかったりの悲喜こもごもをクーラーボックスに詰め、気だるいラジオの音に包まれながら、関係性の乱反射の中、なんとなく自分の形を確かめる。
今回ハナちゃんが用意してくれたこの語らいは、釣りの真っ最中なんだけどもそういう気配があって、常宏はここまでの物語を良く思い出し、自分たちのスタートがどうであったか…底で告げるべきだった原点が何処にあるかに立ち戻る。
立ち戻ればこそ新たに進み出すことが出来るからこそ、話の終わりに大きな飛行機雲が、流星のように夕暮れの空を切り裂いて美しいのだろう。
逃げて落ちて助けられた自分の物語が、どこから始まったのか。
何を取りこぼし、何が育って、何を手渡したいのかを、ハナちゃんとの対話は常宏に思い出させて、その炎に背骨を炙られて、釣りやってる場合じゃねぇ!
でもこのアニメは、”釣り”のアニメだ。
だから卓越した釣り人であるハナちゃんは、多分自分に重ねながら貴明の居場所が釣り場にしかないことを、だから釣りやっていればもう一度会えることを、常宏に教える。
喧嘩してでも守りたいと思えるような、自分の居場所。
それをコンビニ離れた自分の家に見つけられなかったけど、まだなお生きてる女の子の内側に、常宏は土足で上がらない。
その距離感が好きだ。
もうちょい分かりやすいドラマならば、常宏なり貴明なりがハナちゃんと恋仲になったり家庭問題を”解決”したりって展開もあったんだろうけど、店長と息子の課題を”解決”なんぞしなかったのと同じ手触りで、ハナちゃんとの距離感は微細な優しさと痛みに踏みとどまる。
それを煮えきらない描線と受け取る人もいるんだろうけど、”釣り”が救いうるもののリアリティを常時真面目に考え、出来うる限りのラインで描き続けたこの作品にとって、ここでハナちゃんが示した心の震えが、ちょうどいいのだと僕は思った。
心の輪郭が微かに触れ合って、確かに何かを受け渡し合う間合い。
それが確かにあって、もう少し踏み込むこともある。
そうなりゃ意地の正面衝突、譲れぬものを暴きあって、傷口を広げて耐えきれず逃げ出し、だからこそしっかり向き合えるものと出逢うことだってある。
貴明と常宏がじっくり時間を書けて切開し、繋ぎ直すものを、ハナちゃんは二人に預けず、しかしそんな友情の破壊と再生を成し遂げる決定的な助けを、今ここで果たしている。
自分の物語に二人を踏み込ませないハナちゃんがいなけりゃ、二人の話はここまで面白くなってねぇのだ。
そういうキャラクターの使い方、人間の描き方だって、物語にはある。
そう作品全部で示したの、洒脱で結構好きなんだよな。
かくして大事なものを見定めた常宏は、極めて地道に運命がやってくる瞬間を待ち続ける。
貴明が消えて開いたシフトを自分に引き受け、地味な勉強と実践をシコシコ繰り返し、美しい軌道で釣れそうな場所へルアーを投げ込み、”釣り”が笑えるくらい楽しいことを、一人でも思い出していく。
それは孤独に見えて、貴明に支えられてる時よりも強く彼を感じる時間なのかなと、僕は思う。
貴明が色々やってくれたからこそ、出来るようになったこと、楽しめるようになった趣味、見えるようになった世界と未来。
それを、静かに積み重ねる日々の中感じる。
ここら辺ちょっと修道士的というか、日々の中に祈りがあり祈りこそが生活であるような、穏やかな聖性のある描写になっていて良かった。
目を閉じ暗い場所を逃げ惑っていた時、迫りくる死と向き合えずガタガタ震えた時、常広には”救い”がなかった。
その全部を貴明が手渡してくれて、その意味も知らずすがって釣り上げられて、常宏は世知辛い地上でも息ができる、目を開けていられる自分を育てた。
そしてその貴明がいなくなった今、彼の不在を埋めるように常宏は自分の”生活”を引き受け、欠けてしまった大事な物の代わりを背負い、一歩ずつ人生を前に進めている。
それ自体が”救い”になっているから、このシーンは見てて心地よく感じる。
貴明を釣り上げるまでの雌伏であり、それ自体が満ち足りた小さな挑戦でもある時間は、奇妙な出会いも連れて来る。
ミキシン声の伝説のアングラーがくれたヒント、今までの”釣り”で見つけた知見がだんだんと組み合わさって、常宏が自分を一番不安にさせるものと向き合い、一番大事にしたいものと向き合う準備を整えていく描写は、穏やかでありながら心を揺さぶる。
やっぱ1クール分の地道な積み重ねがあればこそ、この派手さのないクライマックスこそがこのアニメのまとめに相応しいんだと、確かに思えるからなぁ…。
エブリマートに設えられた”お茶の間”で、下らねー日々を積み重ねながら、常宏は自分のシリアスに仲間を踏み込ませない。
しかしそこには確かに彼なりのラインが繋がっていて、勝手に他人の姿に怯え、自分を傷つけるヤバい奴なんだと評価していた頃とは、違う間合いが確かにある。
思い込みに突き動かされたこずえちゃんのアプローチに、当惑しつつも押し流されることなく、自分の行くべき場所へ進もうとする常宏。
彼を囲むエブリマートの面々が、どういう距離感と呼吸でいつも通り、自分の”死”に向き合うハラを固めた臆病者に向き合っているのか、ここで書いてくれたのは嬉しかった。
この偽物だけど本物な”お茶の間”に漂う、微細な距離感の繋がりに支えられればこそ、ここを戻ってこれる場所だと信じればこそ、常宏は医師から自分の現状を聴く時、とても現実的な顔が出来た。
迫りくる恐怖にパニックになって、目を閉じて逃げるのではなく、ガッチリ目を開けて釣り上げるべき獲物の姿をちゃんと見れたのは、ハナちゃん筆頭に奇妙な仲間たちが、家族とも同僚とも趣味仲間とも違い、そのどれでも在るような曖昧な距離感で、確かにラインを繋げてくれていたからだろう。
そして一番太い糸が誰に繋がっていて、自分を引き上げてくれたのかを、常宏はもう知っている。
それを手繰り寄せて、今度は自分が釣る番だと。
雨上がり、南風。
色んな人が教えてくれて、自分が学び取ったコツを総動員して、常宏は風に吹かれながら必死に目を開けて、行くべき場所へと進み出す。
夜と昼が混ざりあって、紫色に溶け出す場所。
いつか確かに出会って、離れてしまったけどもう一度立ち返るべき場所。
そこに男たちが進み出す時、未来の方へと風が吹いているのが俺は好きだ。
波、時の移ろい、風…そこに宿ってしまう、形にならない感情。
”流れるもの”の描写が詩的で強いことで、人生という物語を描くに足りる筆致を確保してきたアニメである。
橋桁が分厚く真ん中に居座り、遂に出会い直した男たちを切り裂くように見えるレイアウトは、同時にそれを乗り越えてもう一度、臆病者達がお互いに向き合う契機を予感もさせる。
明日がどっちに行くのか分からないけど、多分ここから深まる夜はとても綺麗なのだろうと期待し、信頼し、希望できる今の感覚は、ここまでこのアニメが沢山の夜と朝を、それらが入り交じる瞬間の美しさを切り取ってきた確かさが、支えてくれるものだ。
昼から夕方へ、そして夜から朝へ。
明るい場所から暗い場所へと常に時は流れ続けて、ずーっと真っ暗病に閉ざされているばかりでもない。
そういう結論は、既に作中の情景に刻み込まれている。
なら目を閉じて逃げ続け、ようやく目を開けて自分の隣りにあった光の意味を、貴明が不在だからこそ掴み取れた男と。
常に光の中から手を伸ばしているように見えて、何よりも大きな影と痛みを抱え、逃げ続けていたけど自分唯一の居場所へと戻ってきた男が、出会った後に二人は”釣り”をするのだろう。
静かに水面を見つめ、その奥に待ち構える獲物の気持ちを想像しながら、人生と自分たちに大事なことを、穏やかに賑やかにに語り合い、ラインを繋げていくのだろう。
だってこのアニメは、ずっとそういう話をしてきたから。
終わりもまた、”ネガポジアングラー”らしく終わってくれるだろう。
最終話を前に、こういう気持ちになれることは、とてもしあわせだと思います。
次回も楽しみです。