イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アイカツ!:第151話『ステージの光』感想

完成形にはまだ早い、現在進行形の少女たちが一年の総決算としてステージに上る、アイカツ三年目実質の最終回でした。
あまりにも完成された主人公、星宮いちごの後継として走ってきたあかりちゃんが、一体何を目指し何処まで辿り着いたのか、それを見せる回だったと思います。
勝負論に飛び込みつつもそこから離れた結論にたどり着きつつ、努力と才能といういちご世代とは別の答えを目指した三年目が、良く総括されていたのではないでしょうか。
同時に、どうあがいても星宮いちごとの対比でしか己のスケールを語ることを許されない、二代目主人公の宿命も強く感じるお話でした。

今回のお話を見ていてまず感じたのは『懐かしいな』という郷愁でした。
タイヤを引き、崖に登り、とにかく走り続ける姿。
星宮いちごが未だ夢(神崎美月の背中)を追いかけ続けていた一年目、二年目には見慣れた風景に、あかりちゃん達は勝負を前にして飛び込んでいました。
これを懐かしいと感じることこそが、あかりジェネレーションがいちご世代とは意図的に別の物語を背負っていた証明だとも、僕は感じました。

体をいじめ、努力を積み重ねる姿を表に出すことで、成功する必然性(悪い言い方をすれば言い訳)を手に入れていく今回のお話は、いちご世代に特徴的なお話です。
彼女たちは時々レールを外れかかるけど、基本的に自分が何者であるかを迷わない。
今の自分が何処にいて、何をしたいかを強く意識しながら、理想の自分に必要な努力の貯金をまっすぐに積み上げていった結果、アイドルの天井に手が届くところまで自分を高めました。
迷うことのない天才の物語がいちご世代の特徴であり、足踏みや無駄とは縁が遠い、効率の良いサクセス・ストーリーだと言えます。


対して、あかりジェネレーションの子どもたちは皆迷い続けてここまで来ました。
自分が何者であるのか、自分の強みとは何なのか、自分は何をしたいのか。
登場エピソードからして、彼女たちは何も見つけていないし、何処にもたどり着いていない。
いちごちゃんが当然のものとして握りしめていた自分をまず見つけるところから、あかりジェネレーションは物語を開始しなければいけなかったわけです。

前に進むべき自分を手に入れるより早く、努力のアリバイを積み重ねても勝利の必然性は生まれない。
だから、三年目のアイカツはわかりやすい勝ち負けのドラマをかなり巧妙に避けています。
エピソードの殆どは、様々な状況の中で自分らしさとは何なのか考え、迷い、トモダチや大人たちの助力を受けて小さな発見を手に入れるお話です。
一年目・二年目はあれだけ強調されていた勝敗の物語は、実はゲーム連動イベントの時くらいしか発生しておらず、重視されているのは個人。
自意識を持った個人としてだけではなく、アイドルという職業を通じて社会の中に居場所を見つける個人としても、あかりジェネレーションは迷い続けます。
あかりちゃんがお天気レポーター、スミレちゃんが歌手兼モデル、ひなきちゃんがKAYOKOのミューズという『お仕事』を作中で見つけていったのは、迷うお話だった三年目らしい展開だったと言えます。

凡人を主人公に設定し、いちごジェネレーションが好評だった大きな原動力となった努力と根性のアイドルスポ根路線から離れてまで選んだ迷い路。
これがパッと見の破壊力やキャッチーな魅力にやや欠けているのは、否定しきれないところだと思います。
しかしあかりちゃん達を自分すら見つけていない凡人として描いたことは、ただ星宮いちごとは違う主人公だったという差異化以上に、意味の有ることだったと思います。
自分に自身のない中で一歩一歩、恐怖に怯えながら進み手に入れる成功。
自分一人では抜け出せない隘路を、肩を貸して歩いてくれる友人やファン、大人たちのありがたさ。
天才星宮いちごの物語(が圧倒的に素晴らしかったという事実を受け入れてなお)では救いきれなかった、細やかな分解能で人生を切り取る視線が、あかりジェネレーションの展開してきた物語にはあったと思います。

体をいじめ抜き努力を積み重ね、サクセスに真っ直ぐ進む物語は価値がある。
でもだからといって、その対極でウロウロと道に迷い、天才には歩めな一歩一歩の物語に迷い続けるのも、けして悪くはないだろう。
商業の都合に常に振り回され、物語の運行に様々な制約を持つ女児向けアニメーションというメディアの中で、このように長期的な視野を持って対照的なシリーズテーマを演奏し続けてきたのは、アイカツのとても優れた部分だと、僕は思います。
いちご世代のお話とあかりジェネレーションの物語は全然違うけど、だからこそ両方アイカツで、両方ラブリーで、両方魅力的だと、この三年間の歩みは言ってきました。
いろんなアイドルのあり方があって、いろんな歩き方があって、それは全部価値が有ることで、それをすべて受け入れられるほどにアイカツは広くて大きいわけです。
(このことは一位を取った後、蘭ちゃんが適切に総括していましたね)

 

その上で、今回のエピソードが有ります。
二年目ラストと劇場版で美月を追い抜き、名実ともにアイドルのトップになった星宮いちご
彼女をリーダーとするソレイユが下賜した今回のユニットカップは、あかりジェネレーションが避けてきた(というか、そこに到達することが難しかった)シンプルで明快な勝負の世界です。
わざわざ自分を見つけるのではなく、まっすぐに目標に向かって走り続ける星宮いちご的な舞台。

そこに上がるためにルミナスは星宮いちご的努力を積み重ねるのですが、先輩たちのように上手く行かない。
これは経験不足の表現というよりも、彼女たちの存在律、何を重要視し何に時間を使ってきたかという物語的なあり方の差異が影響しています。
人格的な影を皆背負ったあかりジェネレーションは、走り始めるより前に、走る主体である自分を見つけないといけなかった。
その分の遅れを考えれば、トランポリンが上手く行かないのも、コンダラを引くのに苦労するのも、むしろ当然のことです。
あのスポ根アイテムたちは、別のルールで動く別の世界のアイテムであり、そこにルミナスは正面から飛び込んでいったのですから。

今回のお話の殆どは、とても懐かしい特訓風景で過ぎていきます。
最終的に高く、非人間的に高く飛び上がったあかりちゃんたちはユニットアピールを完成させ、勝負の世界でも神崎美月を下して二位を取る。
星宮いちご的世界にもあかりジェネレーションは対応できるし、結果も残せるという展開です。

その上で、あかりちゃん達は勝敗自体に価値を置かない。
敗北の後、苦しかった(そう、あかりちゃん達は特訓が苦しかったと明言できるわけです。そこもまた、基本的に陽性だったいちご世代とは異なるポイントでしょう)特訓の舞台を見つめながら、瞳をうるませてあかりちゃんはこう言います。
「全部素敵だった。だから大丈夫、この先ももっと楽しんで、もっと夢をかなえられる」と。
『今度はソレイユに勝とう』ではないわけです。

この言葉にこそ、星宮いちごとは違う生まれ方をし、違う問題点を抱え、違う歩み方をしてきたあかりちゃん達の物語の結晶があると、僕は思います。
勝負の曲としては少し落ち着きすぎた『リルビーリルウィン♪』を、わざわざこの舞台で選んだ理由。
『きっと大丈夫! 理想の自分には やっぱりね、まだ遠い合格点ギリギリの ちょっぴり背伸びなリボン』という歌詞の通り、一年の時間を使ってもなお完璧なアイドルには遠いあかりジェネレーションの今が、今回のラストカットには活写されていました。
星宮いちごとは比べ物にならないほどのノロノロ歩きだけど、あかりちゃんは一年(先行登場も含めれば一年半)かけてようやくここまで、一歩一歩積み重ねてやってきた。
その高さをスタッフが正確に見積もっていると、僕は感じたわけです。
そういう積み重ねを大事にしているのは、第97話での挫折経験を仲間に還元するシーンをちゃんと入れているところからも、感じることが出来ます。


その上で、長く続いたユニットカップの価値、アイカツという作品の中での勝敗の意味は減じられていないし、むしろ強まっている。
今回の敗北は一年目ラスト、第50話『思い出は未来のなかに』で展開された、いちごVS美月のステージの陰画だと言えます。
主人公が敗北する形で終わった一年目も実は、勝敗それ自体が価値化されていたわけではない。
立ち向かう姿勢、明確な目標が存在することで引き出される人格があればこそ、アイカツの中で勝敗は意味を成す。
アイドルの輝きを増さないのであれば、アイカツのステージに勝負を付ける理由はないわけです。

勝敗という表面ではなく、ステージという内容でもなく、それを生み出すアイドル個人の人格に注目した勝負論は、いちご世代のアイカツが手に入れた立派な成果です。
今回ルミナスがソレイユの土俵に上がる形でスポ根的努力を積み重ね、星宮いちご的世界に入門したことは、だからとても意味がある。
実際に体験し、汗を流し、苦しんで頑張って勝負して負けて悔しくて、ようやく辿り着く場所があると学べたことは、過去の遺産を継承し価値を高める大事な行為です。
それは、対照的な2つの世代でも(もしくは、だからこそ)受け渡しされ、大事に守られていかなければいけない価値でしょう。
「全部素敵だった。だから大丈夫」とあかりちゃんが言えたのは、星宮いちご的な特訓、一年目・二年目のアイカツが培ってきたスムーズで素直な成功物語を体験し、自分のものにしたからこそでしょう。

あかりジェネレーションらしい小さな歩みで、星宮いちごの世界を一歩ずつ踏破した今回の展開は、どうあがいても完璧すぎる前主人公の影から逃れられない、大空あかり決死のあがきだったということも出来る。
いちごちゃんが代表する迷わず真っ直ぐ進み続ける物語は、とても素直で魅力的で、わかりやすくてキャッチー。
でもそれは、もうやってしまった物語なのだから、二人目の主人公であるあかりちゃんが再演する事はできない。
そうしてしまえば、せっかく積み上げた物語的な価値、アイドルの輝きをくすませることにもなりかねない。
二番煎じを避けてあえて努力と根性をあまり描かなかったあかりジェネレーションが、三年目の総括をするというこのタイミングで特訓をしたことの意味は、僕は凄く大きいと思います。

ついでに勝負自体に言及しておくと、ソレイユという新しいアイカツの天井、追いかけるべき目標を設定しなおした一位-二位の順位付けもさることながら、トライスターを三位に下げたポジション取りが良かった。
『あかりちゃん程度』にすら美月さんは負けたわけで、これでようやく勝ったり負けたりが普通に存在する、人間的な地平にたどり着くことが出来るようになったのだと思います。
絶対無敗の超人アイドルという歪な高みから完全に神崎美月が降りる(もしくは人間的な喜びを真っ当に体験できる)所まで三年かかりました。
人格も痛みもある人間が、一つのシステムに成ってしまう歪みはこれだけかけないと是正できないのかという気持ちもあるし、一フアンとしてようやく美月さんがやりたいように、やりたいことが出来る状況が生まれたのだと安心する気持ちもあります。
勝敗それ自体ではなく、勝ち負けにまつわる物語と説得力が大事になるという意味で、アイカツの勝負論はすごくプロレス的だと思います。


未だ終わらないあかりジェネレーションの物語が今何処にあって、かつてあった物語にどう対応するのか。
一年間をまとめ上げるこの問に、完璧すぎる主人公だった星宮いちごの影を踏むことしか許されなかった女の子が、あえて星宮いちご的な勝負への立ち向かい方を踏襲することで、今の位置を定位するという手法で答えるエピソードとなりました。
立派な最終回だったと思います。

『合格点ギリギリの ちょっぴり背伸びな』アイドルたちの物語は、作品内、作品外、色んなモノに振り回されながら未だ続く。
凡人たちが迷い路を経て何処にたどり着くのかは、未だ語られざる『わたしのストーリー』になります。
僕の大好きなあかりちゃん達が、いちご世代がみんな辿り着いたような立派なゴールに到達できるように祈りながら、僕は四年目のアイカツを見ます。
とても楽しみです。