イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

うる星やつら:第45話『ボーイ ミーツ ガール ねじれたハートで』感想ツイートまとめ

 うる星やつら 第45話を見る。

 終わらない祝祭を終わらせるためのファイナルエピソードも、遂に第3幕。
 作中最大の暴力装置であるカルラが極めてややこしく状況をかき回し、盛大な爆発と大騒ぎの果てに心はすれ違い、ウッカリ地球が後10日で滅ぶ激ヤバ状況が到来し、まさにクライマックス!
 …なんだが、あんま『最後まとめるために急にシリアス』という感じはなく、ここまで”うる星”を貫いてきたトボケたしょーもなさが滅びゆく地球(ほし)に元気な、のんびり日常絵巻である。
 素直になれない男と女、合わせて四人がギャーギャーワーワー意地の張り合い、その果てに地球が巻き添えにされて、しかし誰も真顔にならない。

 

 ド派手な爆発や凶器の炸裂はあっても、取り返しのつかない致命傷をけして追うことがない、あらゆるモノが巻き戻り…つまりは先に進んでいかない世界。
 ヒネた見方では”元気な冥府”みたいな場所が、実はもともと死んでいた自分たちと直面して、それでもなおあるがままノンキに永遠を泳いでいても良いのだと再確認するための、最後の物語…とも言えるかもしれない。
 思えば誰か一人が真顔になって、この優しい永遠から抜け出せばそこから何かが壊れていってしまう状況の中で、物語は濃い目に味付けされたキャラ性の範疇からキャラクターを出さず、しかし小さく、それを投棄する可能性を許しても来た。

 冒頭、ごくごく普通に自分を特別と選んでくれた青年と喫茶店でデートしてるしのぶは、ラムとあたるを取り合う三角関係のライバルではそもそもなかったその在り方に、ふさわしい場所へと自分を押し出している。
 しのぶがやるべき仕事をカルラが担当した結果、こんだけドタバタ大騒ぎとなり、子ども達の意地と惑星の命運が天秤にかけられる、”15年早いセカイ系”みたいな状況も生まれてくる。
 (と気軽に使ったが、このバズワードに”ボーイ・ミーツ・ガール”が含まれるかは結構微細な問題で、思いつき以上の重さを言説に持たせたいなら、もうちょいしっかり腰を据えて色々調べなきゃいかんなぁ…とは思う。使うが)

 

 

 

 

画像は”うる星やつら”第45話より引用

 いつもの意地の張り合いが致命的なすれ違いを生み、解ってくれよの試し行動が冷戦レベルまでエスカレートした結果、あたるの甘っちょろい目算もラムの狂った意地も落とし所を見失い、地球の長い午後が始まる。
 そのヤバさを真顔で訴えるアナウンサーは、一人だけマジな道化扱いで戯画化され、セカイは今日も平和だ。
 全てを覆い尽くす巨大キノコに覆われた友引町の景色は、その深刻さを誰も飲み干さないまま終わっていくセカイの長閑な滅びを見事に描き出して、とても美しい。
 やっぱこういう”絵”を要所要所で挟んでくれたから、俺は43話楽しく見れた部分があるなー、令和うる星。

 あたるにしてもラムにしてもルパにしてもカルラにしても、関わった連中全員こんなエスカレーションは望んで…どころか考えてもいなくて、しかし素直になれない意地の張り合いは地球全土を巻き込んで、洒落にならないはずのシャレを胞子といっしょにバラ撒いていく。
 そういう状況にならなきゃ、思いと地球と日常が同列に天秤が乗っからなきゃ、あたるもラムも自分たちの気持ちと関係に真っ直ぐ、向き合うことが出来ない。
 それくらい”うる星”という稀代の傑作が生み出した作中結界は縛りがキツくて、らしくないマジを主役たちから引っ張り出す起爆剤として、鏡写しの暴力カップルも舞台に上がることになる。

 

 あたる達は『ツッパった結果世界が終わりそうです。ごめんなさい』などという、殊勝な態度は当然取らない。
 そういう当たり前で面白くもない賢さを、全部ふっとばしても成立していたのが”うる星”であるし、ふっとばすために宇宙人でも幽霊でも妖怪でも出して、常識のタガをぶっ壊しまくってきたからこそ、成立する最終章でもある。
 そこにおいて大事なのはブレーキ一切なしで暴れるガキっぽさであり、世界全部を人質に取られようが、強要されたなら『好きだ』とは言えない、ねじれた純粋さなのだろう。
 ドカバキ超暴力でツッコミ入れつつ、しかし作品世界はあたるとラムのその意地っ張りを、優しく見守り許す。

 こうしろああしろとうるさく押し付けてくる、世界のルールを全部ぶっ飛ばして、何でもあり楽しさ最優先、野放図で自由で純情に暴れまくれる世界を、誰が牽引してきたのか。
 それを作品自体が解っているからこそ、”うる星”はあたるとラムの”本当”が一体どこにあるのか、徹底して”うる星”らしくやりきれる最後のチャンスを、彼らに手渡す。
 世界が滅ぶの、運命がどうの、なんぼのもんじゃい。
 ウチらは己の思うままにわがまま、最後の最後まで終わらない祝祭を駆け抜ける。
 今見ると結構ヤバい、ガキどもの意地の張り合いはしかし、そういう熱量と爽やかさを宿して、妙に楽しい。
 思う存分、やりきってくれ。

 

 その気持が本当であるならば、言葉なんて飾りを取っ払って必ず通じる虚仮の一念幻想に、あたるもラムも甘えている。
 自分の思いを言葉に…あるいは行動に移して相手に届けなければ、何も分り合えないまますれ違っていく大人の当たり前を、見ないまま生まれていたヌルく幸せな共同生活は、惑星規模の危機に押し流されていく。
 異星人から退魔師まで、全員集合でワーワー鍋をかっ食らう(そして世界が滅び始める)食卓に、ラムはいないのだ。
 そうして当たり前が剥奪されて初めて、本当に大事なものが見えてくる…というには、あたるの意地も分厚い。
 そういう複雑で純情で厄介な少年が、たしかにこのお話の主人公だったのだ。

 真実自分がどんな人間なのか、ずーっと分からないまま上っ面のプレイボーイを演じている(とある並行世界では、それが人生全てになってしまってすらいる)諸星あたる
 そんな彼がずっと許されなかった、最後だからこそのシリアスな自分探しは、しかし責任の重たさや決断の辛さ、何かを選び何かを捨てる大人の当たり前を置き去りに、”うる星”らしい速度で自由にかっ飛んでいく。
 そういう、最後の最後まで”うる星”らしくいることで、最後の最後に”うる星”らしくない本音を描き切ろうとするあがきが、僕はやっぱり好きだ。
 そういうことなので、地球にはガキの意地に付き合ってもらう。

 あたるが真心の証としてずっと持っていた、ラムを空を飛び電撃を放つ…迫りくる危機から自分を守れる強い存在へと”戻す”角は、手渡すより早くニョッキリ怒りのあまり新たに生えて、電撃小町のピンチを救う。
 ラムをダーリンに救われるだけの悲劇のお姫様にしない、密かな愛情が見えて好き場面なんだが、激闘の末花嫁を取り戻し、彼女を元に戻して”あげる”決着を、”うる星”は拒んだ…ってことなんだと思う。
 (逆に言うとルパに押し付けられた”角隠し”を、ラムはあたるへの憤怒を力に変えて跳ね除けたわけで、カルラとの関係と思いが描かれる前から、たどり着くべき決着は既に定まってる……とも言える。)

 

 奪われた強さを分け与えて”あげる”、少年から少女への権力の勾配を元気に跳ね除けて、状況はさらにこじれにこじれ、意地の張り合いは世界を巻き込む。
 果たして狂って楽しい世界の真ん中に立つ主人公たちは、たった一つ全てを解決する魔法の言葉を言えるのか言えないのか、言わないままに思いを伝えるのか。
 もう行くところまで行くしかないクライマックス、次回も楽しみ!

わんだふるぷりきゅあ!:第20話『二人ならこわくない』感想

 羽化の時を迎えても、広げた翼で新たな空へ。
 変身したとてまだまだ続く猫屋敷サーガ、ユキの孤立主義に切り込むわんぷり第20話である。

 

 今回のエピソードを見て、人に交わるのが上手くなく、社会的な自分を上手く想像できずに怖がってしまうのは、ユキもまゆちゃんも同じなんだな、と感じた。
 ユキは気高く強がりなので、怖かったり震えていたりする自分をめったに他人に見せない(だから『あの時寒かった、寂しかったの』と第17話で言葉にしたのは、非常に特別なことだと思う)キャラクターだ。
 今回も自分がどんな気持ちなのか、明確に言葉にして素直に伝えることはない。

 しかしだからこそ、変わっていく自分に戸惑い今まで通りの孤高を貫こうとして、まゆに『仕方なく』付き従う形でニコガーデンに連れて行かれる体験は、変化を促す大きな刺激に満ちていた。
 まゆだけがいれば良い、他の連中はどうでもいい。
 自分に言い聞かせる呪文のようにユキは家族第一主義の価値観を繰り返すが、しかし言葉にならぬ思い出の中で、自分の拳が何を傷つけたのかをしっかり覚えていて、無言の内に考え込んでいる。
 キラリンコジカが切実に語る、ガルガルとなって憎悪と無明に突き動かされている時の苦しさにも、しっかり耳を傾け、寒さに震えまゆに庇護された自分の過去を共鳴させている。

 

 まゆを求め守ろうとする思いが表に立って、なかなか見えにくくなっているけども、やはり猫屋敷ユキはかなり優しい人であり、その優しさをユキとの狭く強い絆以外に銅使ったら良いのか、なかなか答えが見えない人なのだと思う。
 イエネコとして二人きりの部屋に閉じこもり生きていける時代が、幸福にして健全に前回リリアンの覚醒をもって開かれて、ユキはニコガーデンや学校に赴き、”妹”以外の声を聞くようになる。
 孤高で強い存在(だから、何かと危ういまゆを守れる”姉”)という自己認識の奥に、まゆはもっと優しくなっていきたい自分を確かに見ていて、しかし見知らぬ自分はなかなか恐ろしいものであり、時にどうでもいいと遠ざけてもしまう。

 この未知への怯えは、物語が始まった時の猫屋敷まゆと極めて良く似ていて、未だ臆病な部分を残しつつも、他ならぬユキがいてくれればこそ共に飛び込める、新たな変化の苗床でもある。
 まゆちゃんのなりたい自分への一歩は、いろはちゃんやすみれさんや様々な人との出会いや支えに助けられ、おずおずと時間をかけて進みだされた。
 そんな彼女が超常の力で優しい糸を紡ぎ、キツネビームを跳ね返す盾にも出来るプリキュアへと、ニャミーとともに”変身”することにどういう意味があるのか。
 初の猫キュアWアクションを描く今回は、そこにニャミーを守るために強くなれるリリアンだけでなく、実はリリアンに守られるだけの弱さや不安や不器用を抱えたニャミーをも、照らしていたように思った。

 

 サブタイトルにある『二人ならこわくない』は、”姉”たるユキに守られ強くなったまゆちゃんからの言葉に一見思えるけども、実はツンと澄ました態度の奥で自分の行いに悩み、(まゆのように)強く優しく他人と触れ合うにはどうしたら良いか悩んでいる、ユキ自身の思いではないのか。
 イエネコを代表して人と交わるユキの、気高い孤高をキャラクターの美質として切り崩さないために、早々簡単に内心を言葉にしないミステリアスな描かれ方を、このお話は選んでいる。
 だからなかなか見えにくいのだけども、しかし確かにユキがプリキュアとなることで否応なく広がった社会からの刺激に、それに反応して湧き上がる見知らぬ仁愛に、戸惑っている様子は作中既に、しっかり描かれている気がするのだ。

 次回の学園回で、学校という社会の中でまゆちゃんがどういう難しさを抱え、アニマルタウンまで一人震えながら流れ着いたかが描かれるようだけども、そういう上手くやれなさ、不器用な傷つきやすさは、実は猫屋敷姉妹共通なのだと思う。
 ここでこむぎのとびきり無邪気で幼い、だからこそ明瞭に人間の真実を射抜く言葉が迷いを払ってくれている描写が、心地よく響きもする。
 あの子は自分の中にある『大好き』が、触れ合う全ての存在に共通していることを疑わない。
 それは裏切られたことのない幼子の、とても愚かで無防備な世界への信頼かもしれないが、しかしその信をなくしてしまったら、僕らはどこにも進めなくなってしまうだろう。
 自分には好きな人が沢山いて、その人達も自分と他の人を好きで、世界は素敵な(Wonderful)愛に満ちているという、期待と希望に満ちた事実。
 これをこむぎから注入されることで、何かと心配性で不器用な猫屋敷姉妹は自分があるべき場所を見つけ直し、世界が『こわくない』場所だと思い直すことも出来るのだ。
 そういう無邪気で大事な仕事を、こむぎに任せてもらえているのが、彼女がとても好きな自分としては嬉しい。

 

 今回のエピソードは孤高主義なユキをプリキュアという集団に、それが是とする受容と慈愛の価値観になじませ、四人で活動していく下地を整える回だ。
 ある意味今後の段取りをスムーズにするための基礎工事みたいな話なんだが、そんな中でも『孤高』というユキの(現段階の)個性を尊重し、あくまで自発的な参入として『仕方ないわね』という形を作ったうえで集団への一歩を踏み出したのは、僕には良かった。
 守られ慰められてばかりに思えたまゆちゃんが、ユキなりの難しさを誰よりもしっかり理解し、それを尊重して欲しいと友達にちゃんと言えていたのも、二人の絆と彼女なりの変化を感じた。
 物語が始まる前のまゆちゃんだったら、自分が感じていることを言葉にして伝えるのはかなり難しかったと思うし、今でも犬飼姉妹以外のメンバーには言い出しづらい気はする。
 しかしそれでも、愛するユキのために今自分がいうべきことを、まゆちゃんはちゃんと見つけて言葉にしたのだ。
 それはとても立派な、わんぷりがゆったり丁寧に人間が”変身”していくことを描くアニメだからこそ照らせた、猫屋敷まゆの一歩なんだと思う。

 ユキが今後、色んな人に優しく出来る/優しくしたい見知らぬ自分とどう向き合い、プリキュアやっていくかは解らない。
 しかしそういう変化を、変身する前と変わらずじっくり描こうとする姿勢は、今回ユキに内心を語らせすぎず、彼女なりのプライドを守った描写から感じることが出来た。
 リリアン変身までのサーガを力強く、非日常のきらびやかさで描いた前回までに比べると、物語全体のペースが落ち着き、ユキとまゆ……そして彼女たちと触れ合ういろんな存在が生きてる日常を、改めてゆっくりと描き直す筆も鮮明だ。
 やっぱわんぷりは、隣り合う人たちが心を触れ合わせながら親しく生きていく時間の切り取り方が、鮮烈かつ独特でいい。

 

 僕はプリキュアにおける日常と非日常の書き分け、あるいは交流と相互変化に興味が強い視聴者だ。
 穏やかにゆっくり積み重なる日々のある幸福を丁寧に描けばこそ、それを脅かす存在に立ち向かう戦いが際立つ対比/融和は、わんぷりはバトルを排除した筆致を活かして、かなり独特ながら鮮明な色合いで描いているように思う。
 帰るべき日常、保つべき自分を持っているのに、流し込まれた憎悪でそれを奪われてしまう被害者/患者として描き続けているのは、救済者/治療者のヒロイズムを際立たせる意味でも重要だし、現実にあふれかえる憎悪扇動への密やかなワクチンでもあるのかなと、思ったりもする。
 そういう視線で今回の合体浄化技お目見えを見ると、まゆちゃんが掴み取った誰かに手を伸ばす強さに導かれる形で、ユキが誰かに日常を取り戻させてあげる優しさを形に出来たのが、とても良かった。

 あの雪の中、自分を包みこんでくれた温もりが世界で一番特別なのだともう解っているユキは、今までの自分を強制的に見失わされるガルガル化の辛さが、かなり身にしみて解るんだと思う。
 積み重なる幸せの意味を、それが奪われる怖さを。
 本当は解っていたのに、それに手を差し伸べるのではなく殴りつけてしまった体験を、ユキは今あらためて噛み締めて、今後どうしていくべきかを考えている。
 そこに彼女を支え、彼女に支えられて新しい自分を掴みかけているまゆちゃんがいてくれることの意味が、とても眩しい回だった。
 こうして姉も妹もお互い様、支え合い教え合ってどんどん善くなっていくのだと公平に描いてくれるのは、凄く嬉しい。
 いろはちゃんが一方的に”答え”を教えているように思える犬飼姉妹も、かーなりこむぎに助けられ教えられている部分多いからな……。

 

 というわけで、ニャミーとリリアンの”今”を鮮烈に描き、なりたい自分への一歩を手助けする思いの結晶として新アイテムが形になる、合体浄化技お披露目回でした。
 キツネが高い知能を活かしてヒトを騙し、”化ける”動物として社会に認知されてきた生物史を、うまーくキツネガルガルに反射させて面白く描いていたの、このアニメらしいクレバーさだったな。
 弱った様子を見せて隙を作り反撃に転じるのは、突拍子もない行動で相手を油断させて狩りをする”チャーミング”っぽかったしね。
 でもビームは出さないと思うよッ!

 ユキが集団行動の条件として差し出した条件は、人間としての通学。
 制服ユキ様の輝くお姿を堪能したい側とすれば願ったり叶ったりだが、やっぱこれは学校という社会に上手く馴染めなかった”妹”を心配してのこと……っぽいんだよなぁ。
 僕は猫屋敷まゆというキャラクターを通じて、モニタの外側の戦いを必死に生き残っている子ども達に共感できる、身近な怖さや弱さ、強さや変化を描く筆が、とても好きだ。
 次回ツンツン心配性な”姉”の華麗なる転校を描く中で、どんなエールが飛び出してくるのか。
 とても楽しみです!

となりの妖怪さん:第11話感想

 となりの妖怪さん 第11話を見る。

 前回衝撃を込めて、異能世界の家族絵巻を描いた筆が結末にたどり着くより早く、小学五年生の大人びた世界認識が描かれ、当たり前に日々を重ねていくはずだったそんな場所に、大きすぎるヒビが入る終幕開始である。
 あまりにも切ないむーちゃん家の今後が、虚無に食われ記憶を失い妖怪として新生したお父さんと深く関わっている以上、次元の歪みが具現化する大災害が、そこに深く切り込んでいくのは間違いない。
 のんびり田舎の妖怪ライフをだらりと描くように見えて、異能が当たり前に存在する世界の多彩な厳しさに切り込んできたお話が、最後に次元破断という”災害”に踏み込むのは、まぁ納得。

 

 次元破断の前フリとしても機能していた、たくみくんの自由研究。
 ぶちおくんと二人、地域の歴史を掘り下げつつ真実に近づいていくありふれた幸せが、ふとした一言で爾来踏み抜いて気まずい空気になるのも、まぁこのアニメの名物ではある。
 妖怪と隣り合うこの世界、座っているだけで幸せが舞い込んでくる”優しい世界”では全然ないので、だからこそ行政もキッチリ異能を前提にしたシステムとして駆動しているし、人と人の触れ合い方もそういう厳しさを踏まえた上で、自分たちなりやれること、やるべきことを探って頑張る感じではある。
 今回の衝突と和解も、そんな人々を着実に前へ進めるための大事な一歩…で終わらないのも、また作品の味だ。

 もっと興味本位で浮っついたものになるかと思いきや、たくみくんの調査と編集はかなり本腰入っていて、それが映像制作に携わって生きていく少年の夢がどんな温度か、良く教えてもくれた。
 むーちゃんを見てても、『子どもって外側から勝手に思い込んでるより、全然強いし賢いなぁ…』と新たに思わされるこのお話、地道な調査で世界の在り方を学んでいくたくみくんの書き方が、変わらず誠実で良かった。
 そして生真面目に本腰入れてるからこそ、人間の柔らかな部分と直結しているのが”夢”というものであり、色々ありつつも結構順風満帆に、妖怪人生を進んでいるぶちおくんへの反発が、たくみくんからも溢れてくる。

 

 好きなんだけど、大事なんだけど、だからこそ踏み込まれると痛みが走る領域ってのが人間にはあって、親しいからこそそこに踏み入る瞬間を、人は避けえない。
 だから思わぬ一言からメチャクチャ気まずくなった二人の歩みも、色んな人と妖怪が触れ合って生きてる物語に嘘がないからこそ、描かれるのだろう。
 それが間違いでも悲しいことでもないからこそ、りょうくんやワーゲンさんがたくみくんの悩みには寄り添ってくれて、ちょっとガクついたぶちおくんとの繋がりが戻り直すよう、手を貸してもくれる。
 不都合なペシミズムをリアリティと勘違いして、何かと酷いことばかり起きる”現実的”な話とは、少し違う語り口がやはり良い。

 親友の夢を嗤わず、新たな友の人生を真っ直ぐ見つめられるりょうくんの人間力が、マジ凄い事になっていたが。
 小五だろうがああいう生き方出来る人はそういう人だろうし、そういうヤツがたくみくんの間近に居てくれるのも、幸運の一言では片付けられないのだろう。
 ぶちおくんなりの賢明な努力が、未来を拓いていると正しく見据え、たくみくんに伝えてくれたりょうくんとの縁は、時折屈折しつつも極めて真摯に、自分の物語を切り開いてきたたくみくんの人格が、引き寄せたものだ。
 そういうモノが自覚しない内に、持ち主を助ける話運びは、色々ヤバいことも起こる世界の中で何を支えに生きていくべきか、大災害の前にちゃんと描いてた。

 

 その大災害の前景となる、尊い犠牲を以て未来を守った歴史。
 太善坊若かりし500年前、自爆覚悟の超天狗タツマキでもって隕石を砕いた先人の決意が、今回の大災害にも必要とされるのか。
 山里の守護者として、時に自分を殺し頑張ってきたジローの総決算にも関わってきそうなネタで、なかなかに興味深い。
 怪異が当たり前に存在するこの世界、こっちだと”伝承”になりそうなものが確固たる”歴史”なのは、この作品らしい味わいでメチャクチャ良かったな…。
 あんまドヤ顔しないけど、異世界の日常を細やかに構築している所は、沢山あるこのお話の好きポイントの一つだ。

 

 んで終幕を飾るに相応しく、大カタルシスがウワッと襲いかかってきたわけだが。
 一人間の小さな課題を幾重にも折り重ね、妖怪と人間が隣り合う人生絵巻を編んできたこの物語が、相当にデカいヤバさの上に乗っかっている様子は、百合さんの異世界転落とか、むーちゃんのお父さんの顛末とかで、既に示されていた。
 だからまー、『来るべきものが来たなぁ…』って感じと『マジすかッ!?』という驚きが入り混じって、なんとも独特な面白さがあった。
 過去にも戦争だの地震だの、人間の幸せを不条理にぶっ壊す色々が起きて、それでも乗り越えて生きている様子も、何度か書かれていたしね。

 遠い”歴史”でしかないものが、当たり前に続いていくはずだった生活の中にはみ出してきた時、今を生きる人間はどう戦うのか。
 次元災害の只中、それを描くことがアニメの終幕になっていくのは、自分的にはかなり納得がいく。
 大変だけど学びがある研修を終えたり、友達の助けを借りて気まずい衝突を乗り越えたり、色んなことが当たり前に起きて大変で、その全部が眩しい日々。
 それが当たり前でも永遠でもない事実を見据え、それでもなお尊いのだと色んな角度から描いてきた物語を決算するうえで、この”災害”は極めて適切だと思う。
 まーそういう事も起こり得るリアリティで、話は進んできたよホント。

 

 起こってはいけない惨劇が、不意に降り掛かって大事な日常を壊しに来る事態は、別にモニタの中の絵空事ではない。
 我々の物語だってそういう、理不尽で強烈な一撃に揺さぶられて時に壊れ、時に守られて続いていくモノだと思う。
 そういう現実との連続性を、悲喜こもごもな妖怪人生絵巻をしっかり描く中作り上げてきたお話が、”災害”に何を奪われ、何を守り、何を学び取って進んでいくのか。
 しっかりと1クールの答えを出してくれそうな状況になってきて、なかなかに興味深い。
 …っていう気持ちと、懸命に小さな幸せを守って生きているあの世界の人たちが、誰も傷つかねーでくれよッ!って気持ちが両方あるーッ!

 ぶちおくんとたくみくんが共に進む人生の、小さな凸凹をしっかり描き、なんか良い所にたどり着けたホッコリをいつも通りの良い手触りで描いてくれたからこそ、それを一気にぶっ壊しかねない”災害”の怖さも、より際立った。
 そういう試練も当たり前の顔で、望んでもないのに降り注いでくるのが人生の普通というもので、そこに必死に抗って、傷つきながら生き延びていくのもまた、険しくも尊い普通の人生…なのだろう。
 そういう誰もが知ってるお題目を、骨身に染みる物語として語りきれる力を、このアニメは確かに持っていると思う。
 最終局面、何を見届けられるのか。
 とてもとても、楽しみです。

烏は主を選ばない:第11話『忠臣』感想ツイートまとめ

 烏は主を選ばない 第11話を見る。

 正気を保つのも尋常ではままならない、朝廷というこの世の獄。
 金烏としてそこで戦い抜く力を得るために、雪哉の家柄と血筋と実力を求めた若宮の冷徹を、飲み干せるほど大人ではない青年が、忠義の二つの顔を見つめて道を選ぶ回である。
 使いでのある道具なら上等と、君臣の間にある深い溝を当たり前の前提として飲み干せてしまう路近。
 血筋が野望を阻む現実に、忠義の皮をかぶせて噛み砕こうとした敦房。
 他人を道具として扱う組織的エゴイズムに支えられた世界で、己個人の幸せを軋ませながらどう生きるのかを選ぶしかない人々の、とりあえずの出発点。
 重苦しくて、良い話だった。

 

 雪哉がボンクラを演じて守りたかった幸せは、極めて小規模かつ家庭的で…つまりは幼い。
 血の繋がりはなくとも真心でもって、兄も弟も分け隔てなく愛してくれた母の思いを、雪哉は何よりも大事にしている。
 このマザーコンプレックスが、大紫の御前を差配者として南家が権勢を握り、長束を頂点に己が権勢を勝ち取る夢を見た敦房と共鳴しているのは、なかなかグロテスクな構図である。
 誰もが温かき母の胸に守られていた時代を夢見、しかし人間としてのシンプルな幸福では満足できぬまま、権力の鎧と悪意の鎖で身を縛り、不自由になっていく。
 権勢と我欲の奴隷である己を、この世で一番幸福だと思い込む。

 路近が連れ出し直面させた敦房を鏡として、忠義のエゴイスティックな顔を見せつけられた雪哉はそこに、自分を包む大きくおぞましいものを拒絶する幼さを、否応なく見つける。
 世慣れて大人びた仕草を取っていても、人が人のまま、己が己のまま、子どもが子どものまま愛される浄土をこの世に未だ夢見ていて、だからそうではない現実を強く拒絶する自分の未熟を、雪哉は今回の陰謀撃の始末に見つけていく。
 それが世の中のあらゆる人を…憎むべき”敵”にもあることを、少しは心に留めれたから、春まで判断保留で世を学び、己と主の越し方をじっくり考える決断に至ったのだと思う。

 若宮は個人としての感情や感傷を表に出さず、金烏という権力装置に相応しい冷淡を己に課している感じがあるので、彼自身がどの程度、幼い甘さを残して自分と世界を見ているのか、なかなか判別がつかない。
 これは多分意図された解りにくさで、敦房が己の野心を主の本意とすり替え、『貴方のため』という呪いでもって身勝手を正当化していた様子と、グロテスクな対応を為す。

 

 他人のことは、結局分からない。
 この分断を前提に置いた上で、それでもどうにか繋がりお互いを尊重できる重心点を探すことが、人が生きていくこと…その延長線上としての政治にあるとする、現実的理想主義。
 多分それが、エゴに肥満した敦房病の処方箋だ。

 路近はこの処方箋をしっかり体現している男で、南家に睨みを効かせる捨て石としての己、主の願いを叶えるための汚れ役の立場を、むしろ理想と力強く受け入れている。
 真実の意味では解り逢えないお互いの本意を、全部解ってもらえる甘っちょろい願いを早々に投げ捨てて、殺したり殺されたりの無惨な現実の中で、どう自分が納得できる越し方を全うできるのか、自分で選び自分で引き受ける。
 そこに真の自分を理解してもらおうという、相互理解への幼い願いは匂わない。
 解られないからこそ、解り合えたような気になれる奇跡の一瞬を抱きかかえて、血みどろの修羅場こそが居場所と己を投げ込む。
 そして路近は、それを忠義と誇らない。

 

 敦房の悍ましく、だからこそ人間の本質を深く抉っている部分は、別に長束に解ってもらおうとも、解ろうともしていない所だ。
 雪哉の幼く鋭い感性が喝破するように、彼が口走る野望は悪い夢でしかないのだが、時に悪夢が現実の別名となる世の中の不可思議を、雪哉は未だその身に浴びていない。
 相互理解が可能であろうが不可能だろうが、勝手に押し付け捻くれた願いこそが誰かにとっての真実であり、それに従って策謀がうずまき屍体が積み上がって、現実の輪郭を縁取っていく。
 重要なのは銭と血に塗れた事実であり、それを通して形成されていく現実であって、人間存在の真実などはどうでもいいことなのだ。

 この構造の怖いところは、他人と自分の中にある断絶のみならず、現実の行為者としての自分と、それを駆動させる自分の中の自分も、また容易にバラバラになりうる、ということだ。
 『自分のことは、自分が一番わかっている』などという、無邪気な自我最優先主義を極めて現実的なこのお話は、当然採用しない。
 人間の存在は家や朝廷といった社会装置、己の真意を汲んでくれない他者、心が思うまま伝わらない人の不自由に阻まれて、簡単にその在り方を見えなくする。
 私を見つめる私すらも、どんな存在であるのかはその外側の影響を受けて簡単に揺らぎ、誰かが求める己…己が求める誰かが、真実に取って代わっていく。

 

 ここら辺は仄かな恋心を殺され、婚礼の人形という自己像を破綻させた白珠と、卑しき暗殺者という、押し付けられた役割を投げ捨て飛び立った浜木綿の在り方が、面白いサンプルになっている。
 真実の自分を見つめる贅沢を許されず、イエが求める美しい花嫁であることを求められ続けた白珠が、本来なりたかった自分。
 それを誰かに理解されたり、社会の軛を引きちぎってそこへと飛び立つ、禁断的自己達成の物語をこの擬中世な世界が、殺してでも許さないことは、華やかな姫君の物語の破綻によって既に示された。
 あるがままの私をあるがまま、世界に認めさせ生き残ることが、極めて難しい山内という結界。

 そこにおいて、己が果たすべき責務として”金烏”という地位を求め、正しく行おうとする若宮の決意には、彼個人の情動があまり匂わない。
 生来そういうモノを他人に伝えにくい人物なのか、”真の金烏”と選ばれた個体はそういう特性を帯びるのか。
 どちらにしても、若宮は一人間として雪哉を求める甘っちょろい答えを、簡単には突き出さない(もしくは、突き出せない)
 ここで『お前が欲しい。心から』と甘く囁やけたのなら、人誑しの才能にも長けた現実的支配者に収まっていくわけだが、若宮は必要な嘘を必要なタイミングで突き出す方便には、あまり長けていない様子だ。
 今後も苦労しそーな誠実っぷりだなぁ…。

 

 それは毒もまた方便と、真実でも現実のみを見て、イエと己に都合よく事実を作っていく、四家の権力中枢とは真逆の在り方を、己に任じた結果なんだと思う。
 人間が人間と隣り合って生きていく、社会の一番高い場所に金烏として立つのであれば、守るべき一線がある。
 そう考えるから若宮は、幼い雪哉が求める温もりを簡単には手渡さず、ただただ自分たちの間に冷厳として存在する事実のみを、言葉にくるんで突き出していく。
 極めて誠実で実直な態度であるが、敵もたくさん作る生き方であり、今後為政者として必要な妥協を覚えていくのか、理想を抱いて溺死するのか、なかなかハラハラする。

 若宮が真実偉人であるのなら、己の内に秘めた高邁な理想で俗人を教化し、欲とエゴに曇った瞳を開けて真実に目覚めさせることも、また可能であろう。
 古来聖人君子というのはそういう教化を成し遂げてきたし、逆算的にそれを為せることこそが君子の証と、定められても来た。
 しかし敦房の蒙昧を見るだに、山内を満たす禽獣の盲目はなかなかに深く、金烏の真意を周りの連中が真実解るには、大変な苦労が理想だ。
 なにしろ側近候補の雪哉ですら、こうしてぶつかりすれ違うのだから、権益を異とし理想も違う有象無象を説き伏せ、権勢を差し出し、あるいは武力で黙らせる政治劇の果てに、若宮の分かりにくい理想を解ってもらうのは難儀だ。

 

 垂氷郷の幸せな家族関係だけが世界の全部だった、雪哉の幼年期が終わり、より広く残酷な社会へと巣立っていくこのエピソード。
 その先に待ってる(だろう)物語は、アニメの尺では当然語りきれない。
 垂氷を出て朝廷のハラワタを覗き込んで、それで雪哉の旅が終わるわけでもなく、悪臭匂い立つ臓物を切り払ってたどり着いた場所で、また世界は新たな顔で開けていくのだろう。
 それが幸福で安全な自己探求の旅で終わらず、極めて現実的な衝突と終わりを伴いかねない危うさは、なんとか乗り切った若宮暗殺騒動の顛末からも、なんとなく感じ取れる。
 ハッピーエンドが用意されていない、シビアなリアリティの手触りが、このお話にはある。

 それが若宮や雪哉の人生と、お互いを分かりあったと思いこんでは裏切られ、掴んだはずの真実が浅薄極まりない現実に突き刺される場面を、見届けたい気持ちも結構ある。
 ホントアニメの範囲は壮大なサーガの序章であり、山内という舞台がどんだけ腐って人間的なのかを、実例を伴って教える地獄のチュートリアルなんだろうなぁ…と思う。
 ここら辺、重厚長大な原作をアニメに押し込める難しさではあって、特に小説媒介だと良くあるなぁ…と、自分的なアニオタあるあるで噛みしめる次第である。
 しかしまぁ、アニメになることで出逢えた事実もまた尊いわけで、悪いことばっかじゃないわいな、当然だが…。

 

 

 

 さてはて話が少しずれたが、作品が捉えている世界の深甚がどう画面に反映されているか、少し絵解きをする。
 アニメは視覚芸術で(も)あり、語られざる画面構成にこそ様々なメタファーが盛り込まれ、読み解きの面白さもそこにあるだろう。
 今回は極めて視覚的にそこら辺が示唆されていたように感じたので、自分なりの解釈を開陳しておく。

 

 

 

画像は”烏は主を選ばない”第11話より引用

 自分を家柄の道具にする、若宮のエゴイズムを雪哉が糾弾する時、若宮は池にかかった橋の上、雪哉はその先にある地面に足をおいている。
 橋は岸と岸の間にかかり、人の身では沈むばかりの危険な水の上にかかる、危うい境界である。
 敦房という鏡を通して、忠義のエゴイスティックな本質(あるいは一つの事実)を目にする前、雪哉は橋に踏み出して若宮の近くに寄ること、彼が見ている危うい波紋を共に見ることが出来ない。

 雪哉が足を置いている、あるがままの自分をあるがまま受け止めてもらえる幼い場所。
 生まれついて”真の金烏”という装置であることを求められ、血縁とすら表立って情を繋げられない若宮にとって、それは橋向こうの遠い場所だ。
 そこに身を置いてみたいのか、一個人としての甘っちょろい真実をぶちまけてみたいのか。
 思いを顕にすれば、それは自分を殺す弱さを晒す立場に彼はずっと居続けて、水面を見つめ続けている。

 私情を顕にしない/出来ない遠い境界の果てに若宮を感じつつ、雪哉もまたそこに近寄ることはない。
 主君は君臣の抱える人間としての情を知らず、配下は主が背負った権力の重荷と危うさを知ろうとしない。
 この分断に、既に橋を渡って幼い我を捨てた路近がひょいと近づき、雪哉を攫っていく。
 彼は人間を道具にすることでしか理想を果たせない橋の上の景色も、己を理解されぬまま道具にされて苦しむ地上の景色も、両方を見ている。
 見た上で、長束の隣で橋からの景色を見届ける腹を固めている。
 そういう人間にしか、主と臣の、大人と子ども、理想と現実のの橋渡しは難しいのだろう。

 

 

 

 

画像は”烏は主を選ばない”第11話より引用

 主君殺しの大罪人である敦房は、縛にかけられつつも獄に閉じ込められず、格子のないフラットな状況で雪哉と顔を合わせる。
 そこに、若宮とのあいだにあった境界はない。
 罪人のほうが高貴な主よりも、今の雪哉の方が親しいのだ。
 そこで顕にされる、忠義に飾られたエゴイズム…境界を超えて勝手に解ったことになり、自分の願いと他人の願いを取り違える危うさは、雪哉の歪んだ鏡だ。
 自分の中にもこんな、悪夢から滑り出した醜悪な怪物がいることを(おそらく無自覚に)理解したからこそ、雪哉はおののき、戸を叩いて大人の助けを求める。
 その感触を飲み下すには、まだまだ時間もかかるだろう。

 

 敦房は雪哉を前に、何もかも解っていたとうそぶく。
 解った上で、主も理解していない本当の願いを叶える本当の忠義を、境目を越えて差し出したのだと。
 しかし彼は、本当に解っていたのだろうか?

 長束の真意を(たとえば路近のように)真実理解していたのなら、もっと別のアプローチがあったはずで、しかし若宮暗殺という道に踏み出したのは、触れれず動かず変えられない他人の気持ちよりも、家柄の檻を憎み我欲に燃える己の心のほうが、全く与し易い夢だったからではないか。
 真実境界を越えて、たどり着きえない誰かの真実に近づく難行を、己に課してこその忠義という、峻厳な理念で己を律し、生き続ける苦行。

 そこに身を投じるよりも、誰よりも主を解っていて、主にも解ってもらえるという越境の夢に浸ったほうが、全くもって楽である。
 根本的に越えられない溝を、諦めず橋をかけつづけるという、けして報われぬ人間としての尽力。
 これに耐えきれず、思いが報われて欲しいと狂う様子はどこか恋にも似ていて、なるほど女の子サイドが婚礼儀式を大きなテーマとするわけだ…と思った。
 地位、認識、権力、夢。
 根本的に分かり合えぬまま、人間と社会を形成する様々な壁に阻まれてなお、それでも分り合いと願い分かろうと務める、永遠に続くシジフォスの苦行。
 これを飲み干す度量が、果たして大人びた風で己を守る子烏にあるのか?

 

 

 

 

画像は”烏は主を選ばない”第11話より引用

 敦房との対面後、若宮は高い場所と低い場所を繋ぐ階段を、雪哉と共に降りていく。
 境界を越えていく行為が二人の距離を縮め、雪哉は若宮が身を置く橋の上ではなく、自分がかつて身を置いた岸辺に若宮を引き寄せる形で、共に波紋に満ちた池を見つめる。
 首切りの刃のように危うく、数多の狂気が当然闊歩する朝廷の闇に、若宮は生まれた時から身を置いていた。
 この視界を共有する時、長束も澄尾も縁を乗り越えて同じ庭には立たず、境界線の向こう側には主従二人きりの空間が広がっている。
 そこが極めて精神的・社会的な舞台であることは、冴えたレイアウトを通じて鮮明だろう。

 もし物語が万全な結末を期するのであれば、雪哉は若宮が最初身を置いていた橋の上に追いつき、俗世と理想、若さと老練、夢と現実の境目で揺れる危うい場所を、身近に共有しているだろう。
 しかし描写は、若宮が雪哉の側による形で積み上げられ、若宮の真意は雪哉にも僕らにも、誠実に明かされない。
 解らないものは解らないし、越えられないものは越えられないのだ。
 その上で近くに行って、相手が見ている景色を見ようとする努力は出来る。
 あるいは悍ましく目を背けたくなる己の鏡の前に放り投げられて、”忠”なるものの本質(の欠片)を見せつけられたショックで、見えてた世界が移り変わることもあろう。

 『それでいいし、そういうことしか出来ないだろう』という納得はあるし、あくまで現実的であって真実的ではないこの擬似越境が、誠実にこの主従の未来に未だ残響する危うさを、切り取っているようにも思えた。
 どーもアニメは1クールできっちり収まる満足感をしっかり醸造しつつ、境目をどうやっても越えきれない無常の危うさを雪哉と若宮に残している感じがあって、その手つきが誠実で好きだ。
 どこまで行っても判断保留、唯一絶対の真実などにはたどり着きえない、永劫の迷い人達の歩み。
 それを描くのならば、確かに華やかな救いは遥か彼方、極めて微かにしか見えやしないのだろう。

 

 

 

 

画像は”烏は主を選ばない”第11話より引用

 つまりは王子が花嫁を選ぶ、世に最も華やかな物語もまた、一般的な形では終わり得ない…ということでもあって。
 あっという間に過ぎ去る一年(紅葉と雪に覆われる桜花宮の鳥瞰でそれを表現する演出、マジ良かった)の黙考を経て、若宮の隣を己の居場所と定めたから、雪哉も側近の立場で、堂々の御成を告げる。
 墨染めの衣は烏の本文、豪奢な飾りを脱ぎ捨てた僧形にもにた、あるがままの真実の担い手である。
 ここにおいてもまた、若宮派極めて危うい境界の上に立つ。
 いつ落ちるとも知らぬ手すりの上、横に並び立つもののない孤独な場所。
 それは権勢の危うさ、我欲の醜悪を知るからこそ、金烏の玉座と見定めた足場だ。
 (ここに並び立たないまでも近い高みに己を引き上げている真穂の薄と、何も解らぬ乙女の顔で地べたに座ったままのあせびの対比が、彼女らの未来と真相を既に暗示している感じもあって、そういう意味でも良いカットだ)

 朝廷はたやすく人の正気を奪う迷妄の渦であり、その頂点たる金烏の玉座もまた、半歩ずれれば地獄へさかしま、極めて危うい不安定。
 若宮がこの認識をもって権力闘争を泳ぎ、花嫁選びの儀礼に向き合っていることも解る表現で、凄く良かった。
 姫君たちが甘く夢見た、絶対権力者が己を選んでくれる幸せを、多分これから若宮はぶち壊す。
 男の子たちの物語が並走して描かれていなかったら、物語の内側に描かれたものをぶち壊す無作法な越境とキレてただろうけども、既に禁裏の外側にどんな地獄が広がっているかは、山盛り描かれている。
 否。
 その地獄は、桜花宮の華やかな風の中にこそ確かに、悍ましく抱卵されていたのだ。

 さぁ、化物が孵化し、羽化し、稚鳴きの声を上げる時が来る。
 あるいは怪物は既に素知らぬ顔で、華やかな衣をまとって毒を撒き散らしていたのだと、見た目には美しい事実の奥の真実を、えぐり出す瞬間が。
 数多積み重なった嘘と裏切りと死体の奥に、一体誰が居たのか…真実と虚偽の境界線に立つ王が暴くだろう。
 ずっとその時を待って、毒入りの砂糖菓子を食ってきた。
 せいぜいド派手に、残酷に夢を終わらせて欲しい。

 

 雪哉が衝撃的ながらも誠実に、敦房という鏡でもって己の幼年期を終わらせられたのとは、多分毛色の違う破綻が、次回描かれるのだと思う。
 その対比を描くために、二軸の物語を並走してきたんじゃないかという読み…あるいは期待が、このアニメの語り口が好きな自分にはある。
 それを確かめ見届ける意味でも、次回も大変に楽しみだ。

ガールズバンドクライ:第11話『世界のまん中 』感想ツイートまとめ

 駆け抜ける、世界のど真ん中まで。
 ガールズバンドクライ 第11話を見る。

 メインボーカルが家族との和解を果たすという、デカいイベントを乗り越えて挑むフェス。
 バンドとしてのまとまりが生まれ、幸運の追い風にも助けられ、ここまでの歩みを一つの助走として、終幕を前に高く高く飛び上がる回だった。
 やや短めのA&Bパートから、準備まで含めてどっしり描き切るステージで”トゲナシトゲアリ”の現在地を焼き付ける構成となった。
 世界に爪痕残すだけの完成度を手に入れた今の彼女たちを…あるいは彼女たちの今を、ドキュメンタリー&MVっぽく切り取る作り方が、不思議な達成感と納得を連れてきて大変良かった。

 

 この総決算感はもちろん、ラストに据えられた”空白とカタルシス”の圧倒的パワーによる所が大きい。
 その上であえて大きな波風を立てず、ここに立つまでの歩みと絆を改めて確認するように、運命のステージに立つまでを描く筆致が、そういう感覚を造ってくれたように感じた。
 自分たちなりの音楽を突きつけてきたダイダスさん含め、これまでのお話で出逢った人たち皆が仁菜の歌を聞き、パフォーマンスを見届け、熱狂の渦が広がっていく。
 それはそれぞれ個別の傷と理由を抱えて、ロックをやるしかない自分と向き合ったメンバーの物語がたどり着くべき、必然としての飛躍だ。

 前回仁菜が述べていたように、それが飛翔なのか落下なのかは解らない。
 兎にも角にも高く飛び立った後の物語がどこに行き着くかは、残りの二話を使い切って描くだろうし、ここでフィナーレとせず更に何かを描くために、今回高く飛ばせたのだろうし。
 バンド全体の空気感、笑顔の奥に隠した湿り気、フェスに挑む緊張と高揚。
 それらが一体となった混合気が、アンプで増幅されて爆発する瞬間の光。
 ここまでさんざん藻掻きぶつかってバンドになってきた”トゲナシトゲアリ”の音楽がどういうモノか、今回のエピソードがしっかり教えてくれた。

 自分が立っている場所こそが世界の真ん中だと、確信できる全霊のステージ。

 尖った凸凹を噛み合わせ、お互いの思いを吐き出しぶつけ合ってたどり着いた、視線が通い背中を支えられる、私達だけの居場所。
 それを描いてなお終わりじゃない物語は、一体どこへ進んでいくのか。
 二話残してこの大団円感、どう膨らまし転がしていくのか…。
 新世代の深夜アニメレトリックを見届けたい気持ちも強くなり、大変いいエピソードだった。
 ここで二話残してるの、ホント凄いよなぁ…。
 何やるんだろう、とてもワクワクする。

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 今回のエピソードは、視線を交わす描写がかなり多い。
 それはここまでの11話で積み重ねた信頼と関係性こそが、バンドとしての”トゲナシトゲアリ”にまとまりを与え、世界に見つけられるだけの爆発的パフォーマンスを成し遂げる土台になっているのだと、言外に告げているように思う。
 目配せに込められているものを読み解くには、過去描かれたものを参照する必要があり、演出の暗号を溶きほぐしていく作業は、『ああ、ああいうこともあったな』とこれまでの物語を僕らが思い返す、自発的な呼び水にもなっていく。

 楽曲の方向性がまとまらず、メンバーがリーダーを見る視線。
 あるいはその視線を受けて、桃香さんが一瞬微笑む時。
 仲間の影から外れて自分一人で、新しいバイトに駆け出す仁菜を皆が見つめる時。
 視線には仲間を裏切ったと音楽諦めかけてたあの時や、そんな屈折を全部吹き飛ばす歌に出会えたその時や、その歌い手が自分の怒りの使い方を知らない臆病な狂犬だった時代や、そういう面倒くさい連中がバチバチぶつかって、バンドになっていった過去が反射している。

 ここら辺のメロウな感情を宿して、今回はライティングの演出が飛び抜けて良い。
 夕焼け、夜闇、あるいはステージの万色。
 様々な感情を切り取りながら、光と闇は複雑な交錯でもって、率直な感情を語る。
 水ぶっかけやら解散危機やらビンタやら軽トラやら、本当に色々あった挙げ句、今のバンドはコミュニケーションが良く取れている。
 自分たちがどうなっていくべきなのか、言葉で明瞭に伝えるのをためらっていないし、言葉にならない視線や姿勢で思いを伝える交流も、かなりスムーズに機能している。
 同じ場所を向いて同じ未来を見て、同じ音を目指して…バラバラな個人のままでいれる。
 それは変わっていくダイダスでいられなかった桃香さんを筆頭に、社会との違和感を抱えるメンバー全員が心の奥底、求めていた繋がりの形なのだろう。
 そして目指すべき場所にたどり着いたのなら、ロックンローラーは無敵だ。

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 そこに未だ飛び出せていないすばるの視線は、勝手に故郷に置き去りにした荷物を回収し、背負ったからこそ身軽になった仁菜の背中に…それに追いついていない自分に向く。
 ここですばるの嘘の精算を、他人にぶつけることなく舞台裏で一気に行うのが、大荒れに荒れているようでいて精妙に作中の空気をコントロールしてきた、このアニメらしい走り方だなと思う。
 井芹仁菜という規格外の暴れん坊を主役に据え、際立つクセを魅力として視聴者に突き刺すためには、どうしたら良いのか。
 相当に考え抜いて話を編んでいる作品だと、ずっと思いながら見ている。

 第4話で祖母への愛着ゆえの”保留”を正解としたすばる物語は、今回一気に前に進む。
 しかしそれはあくまですばる個人の決意として描かれ、例えば前回仁菜の帰省が周りを引っ掻き回したのとは、同じ波風では描かれない。
 それは主役と脇役の必然的差別…というわけでもなく、見ている側には仁菜の勇気と変化を受け取ってすばるが自然と、同じく前に進んで並ぶために未来を選んだのだと、受け止められる書き方になっている。
 尺を取りすぎない物わかりの良さというよりも、常時真ん中に立ち続けるバランサーが、彼女らしく突破口を開いたのだと思えるような、一つの決心。

 フェス本番に向かって駆け抜けていく、やることの多い筋立ての中で、『ここを乗り越えておかないと真実一つのバンドになって、世界の真ん中には立てない』というポイントを爆破しにいく手際は、大変良かった。
 あるがままの自分をさらけ出すロックの理想を、形にしたはずの衣装に相応しいだけの安和すばるが、そこにいるのか。
 夕焼けの中の繋がりが暖かく眩しかったからこそ、闇の中の孤高な問いかけは鋭い切れ味で、彼女の問題意識を切開する。
 こういう内面を情景に転写する画作りが上手いことで、圧縮された展開に必要な情報量が確保できているのは、このアニメの大きな強みだと思う。

 

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 蒼い自己洞察はメンバー全員に伸びていて、Aパートラストで皆が、ロックをやる理由を闇の中に独白する。
 これがパートの〆にあることで、これまでの総決算を刻み込む『ドキュメンタリー・オブ・トゲナシトゲアリ』感はより強くなるわけだが。
 1+1+1でそれぞれ孤独に、自分の足で立ち瞳で夜を見つめる三人に対して、beni-shouga組のニコイチな密接感が、独自の湿り気を帯びて心地よく重たい。
 同じ屋根の下、心の一番柔らかい部分を預け合いながら生き延びているルパと智ちゃんの距離感を、決戦前夜に改めて刻む筆だ。

 ルパはいつも微笑みの鎧で本音を覆い、だからこそバンド最年長の古強者として人間関係を安定させてくれる頼もしさを、キャラクターに刻んでいる。
 それは心が見えきらない遠さと裏腹なのだが、両親を失って一人きりの哀切と、だからこそロックンロールを燃える灯火として必要とする切実が、時折漏れる。
 そういうモンを、付き合い長いし自分が一番ヤバいとき魂を支えてもらってもいる智ちゃんは、受け止められる特別なポジションに立っている。
 ルパが本音にうるむ瞳を見せるのは、二人きり夜の底に立っている自宅しかないし、その特別さが微笑む修羅としての、彼女の強さを支えてもいるのだろう。

 ここでルパの無敵感を引っ剥がし、智ちゃんだけに預ける震えを書いたのも、すばるの決意と同じく『やっとかないと嘘になる』描写なんだと思う。
 バンドがバンドで居るために、複雑怪奇な人間の地層をコンパクトに抉り出し、並べ直し、全てが飛び立つ瞬間の準備をする。
 すばるを第4話で描かれた優しい嘘つきから、ルパを第9話で見せた優しい保護者の顔から、引っ張り出さなきゃ動かさない運命を、ちゃんと動かすために、描くべきを描く。
 ここに手数を使いすぎず、必要なだけのエモーションを込めてさっぱりやり切るスピード感が、多分この作品の疾走感を支えているのだろう。

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 晴れの舞台はバンドのメンバーだけでなく、彼女たちと出会い触れ合い道を示してくれた、様々な人のためにもある。
 第1話で運命が動き出すのを助けてくれた、キョーコさんの再登場を筆頭に、バンド外の人達総出で勝負の瞬間を見届ける横幅があるのも、今回の良いところだ。
 俺は仁菜とミネさんの、メチャクチャ気の合う末っ子とお姉ちゃん感が大好きなので、今回も仲良くて大変良かった。
 色んな人がいてくれたから、今ここに立っている。
 そういう感慨が、バンドの外と中に呼応し共鳴しながら、広がりまとまっていく準備時間。

 美しい黄金色の光に満ちた楽屋テントの外で、桃香さんは仁菜とすばるの対話を…嘘つきが自分を変えてくれた親友に追いつくために、自分の本当を一人解き放った事実を聞く。
 そういう本当のことを聞ける場所から逃げ出して、ロックンロールを諦めようとした過去の自分を、桃香さんは今多分見ていて、だからこそ遠い場所まで連れてきてくれた仲間への思いと、真っ直ぐ向き合ってもいる。
 それは逃げて迷って弄んで、縋って張り飛ばされて泣きじゃくって、あんまりにも色々あったからこそたどり着けた、自分だけの高い場所だ。
 テントの中のすばると仁菜も、そこにはいないルパと智ちゃんも、皆でたどり着いた場所だ。

 

 世界に殺されないために立てた中指を、ズラして掲げた小指は、未来を約束するための絆にもなる。
 俺はやっぱこのファックサインの作り直しが好きで、とてもこのアニメらしい詩情だなと思う。
 トゲだして荒れ狂うのは他人が押し付けてくる正しさに、飲み込まれないためのアンカーであって、それは誰かと繋がることで初めて機能する。
 何もかも拒絶する攻撃性を抱えたまま、どうすれば愛しさを抱きしめ抱きしめ返せるのか。
 ワーワーガーガー喧々諤々、色々やってきたからこそ今、仁菜とすばるは小指を繋ぐ。
 あんだけ周りが見れる…見れてしまう子が、一人で考え決めて進みだしたという事実含めて、すばるが嘘つきにサヨナラする描写は好きだ。
 そうやって、『コレでいいや』と思い流されてきた場所から飛び出し、新しい自分になる動因はどこにあるのか。
 どう考えても井芹仁菜という規格外のロックンロール・モンスターと出逢ってしまったことであり、この話の主人公が持っている引力の強さを、一番身近に証明しているのがすばるなのかな、と思う。
 そんな仁菜がトゲ出しまくりの暴走状態で死ななかったのは、もちろんすばるちゃんが色々お世話してくれればこそで、お互い様な二人はだから、ここで改めて運命を約束する。

 それを、二人と出会ったからこそ諦めの良い大人気を投げ捨てて、何かを吠えるしかない自分に向き合い直した桃香さんが聞く。
 儀式が完遂されるのを見届けてから、声を掛ける。
 良い。
 めちゃくちゃ良い場面だ。

 

 

 

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 さて土台を整えて未来へ飛び立つための最後のニトロとして、ライバルへの燃え盛る思いはとても大事で、桃香さんがどうしても飲めなかった偶像色の生存戦略を己のものとしたダイダスさんの晴れ姿が、仁菜の喧嘩魂に火を入れる。
 仲間内で視線が通う信頼の描写が分厚かったからこそ、青すぎる屋上にすれ違う視線が、後悔を秘めて蒼く熱い。

 バンドとして、ロックンローラーとして一皮むけた達成を描く今回は物語のフィナーレではなく、まだ描くべき余白を残している以上、ヒナと仁菜の関係は今後大事になるんだろうな…と思っているのだが。
 ずいぶん落ち着いた前向きさを示しているのに、ここでだけバリバリにトゲ出す特別さがどこから来てどこへ行くか…なかなか大事な描写だと思う。
 屋上に倒れ伏した仁菜と、立ち上がって進み出すヒナの視線はあの時も今も、交わることはない。
 ないはずなのだが、ねじれの位置を維持したままお互いに突き進み、プロとしての姿勢が試されるこの舞台でもう一度、ようやく正面からぶつかることになる。

 かつて桃香さんが、自分の”逃げ”を仁菜に呑ませるオブラートとして利用しようとした、ダイダスのステージ。
 その目論見が見事に頓挫し、その時約束した再戦へとたどり着いた今。
 胸に深く突き刺さった心残りを、故郷に戻ってハローとグッバイとサンキューを告げたことで引き抜いて、色んなモノを真っ直ぐ見れるようになった今。
 ようやく、あの時すれ違っていた視線が正面から衝突するタイミングがやってくる。
 捻れに捻れた挙句の果て、ろういう剥き出しな場所に流れ着くことが出来るのも、このアニメが濃く煮出す、ロックンロールの良いところかなぁと思う。
 捻くれ者によく効く、人間関係ブースターとしてのロック…か。

 

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 ヒナを新ボーカルとするダイダスさんが、纏った衣は変われども燃え盛るロック魂は揺るがずと、新曲でしっかり告げてくれたのは大変良かった。
 ダイダスさんが選んだ道は桃香さんが選べなかった道であり、彼女をリーダーとする”トゲナシトゲアリ”が進めない、タフでチャーミングなもう一つの正解だと僕は思っている。
 その媚びた衣装も媚びない音楽も、何も間違いじゃない。
 そう真正面から見つめれる場所まで、桃香さんもビンタ炸裂やら軽トラでの号泣帰路やら経て、ようやくたどり着けた。

 桃香さんと同等以上の痛みと決意を込めて、このステージに立ってるダイダスさんを、勝つことでその過ちを正すべき”敵”でも、同じ思いで同じ場所を見つめる”仲間”でもなく、違う道を選んだが志が響き合う”ライバル”として書いてるこのアニメの筆が、俺は好きで。
 そういう存在なりの音楽がどういう響きを持つのか、今回力を入れたステージ表現でしっかり描いてくれたのは、とても嬉しかった。
 ここでヒナだけが不協和音のように、トゲまみれの殺意で睨みつけられてもいるのだが、ただ世界を憎む以外の生存方法をバンド活動と帰郷に学んだ今の仁菜は、かつての親友がベロと小指から出すチャーミングなサインを、受け取る余裕がある。

 ヒナとの関係は未だ未解決な和音として物語に埋め込まれていて、残りの話数で弾き切ることでフィナーレとする要素なのか、はたまたまだまだ続いていく物語の起爆剤として残すのか、なかなか気になる所である。
 思い込みと頑なな警戒で、今感じているものの真逆が真実だったと気づいていく旅を、主役を変えて幾重にも描いてきた物語なので、今回のチャーミングな熱唱を入口として、ヒナの見え方が(僕らにも、また仁菜からも)変わってくるのは、全然ある話だと思う。
 というか今回メッチャ可愛かったので、仁菜が屋上に置き去りにした青い季節を取り戻す中、もう一度その顔を見る場面はぜってぇ見たい。

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 正直、残り1/3を残して『脚本 花田十輝』のテロップが滑り込んできた時、かなりビビった。
 非常にじっくり時間を使って、ステージに上るまでの高揚と緊張、本番を前にしたからこそ顕になっていく思い、ライトに照らされうわ言のように吐き出される思いを、積み上げその時へと至る。
 そのために必要なもの、必要だったものを丁寧に並べ積み上げていくエピソードが、最後に描く舞台がどうなるのか。
 Liveな期待感が、作中の描写とシンクロしながら高まっていく特別な感覚。
 それが、しっかりと演出されていたと思う。

 これまでの全てがここに来るために必要で、ここから生まれる全てがそこに繋がっている。
 過去から未来へと一直線に流れていく、当たり前な時の流れを立ち止まって改めて観察してみて、思い出は未来の中にしかなく、決意は明日の方しか瞬かない、時の不可思議を改めて感じる。
 そういう人間が生きることの真実へと、確かに飛び込める特別な爆発力がロックンロールにはあって、それは衝動をただ突き立てるだけでは形にならない。
 互いに笑い合い、嘘なくぶつかり合える最高の仲間と、自分たちだけの特別なサインを刻むこと。
 誰もいない空白に未来の鼓動を感じ、風に吹かれている自分の今を、素直に受け取ること。

 

 ここまでの物語があったればこそ成立する、井芹仁菜の”今”がどんな手触りで流れているかを、準備からどっしりステージ全部を描く選択が見事に射抜いていて、とても良かった。
 音響を確認するやり取り一つ、ステージの外側にいる観客のレスポンス一つ。
 粒だったリアリティを積み上げることで、仁菜たちがいる場所の空気と、その高みへと進んでいくために必要だった11話全部を、一塊に飲み干すことが出来る。
 それはこのアニメを好きになって、ちゃんと見てきたから受け取れる豊かな報酬で、そういうモンを手渡してくれるお話と付き合ってきて、良かったなぁと思える回だった。
 …最終回じゃないのコレで!?

 舞台袖では桃香さんの言葉に涙ぐんでいた仁菜が、観客を前にしてだんだん熱に浮かされた視線を、金色の情景に投げかけていくのが好きだ。
 ここではない何処かを、神がかりの巫女のように見つめながら呟く、自分が今ここで歌う意味。
 それは鳴り響く音楽がダサければツバ吹きかけられる、ロックンローラーの所信表明であり、証を立てれるのはたった一つ、Liveで生まれる歌だけだ。
 震えるほど公平な一回こっきりの審判へ、仁菜は尋常じゃない精神状態で飛び込んでいって、己の全部を…つまり井芹仁菜を構成してくれている誰かと一緒に、ステージへ立つ。
 そういう心持ちで、ロックンロールに飛び込める輩はなかなかいない。

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 仁菜がロックンロールをどう受け止め飲み干しているか、アーティストとして、人間としてのステージが毎回、演奏表現に反射して多彩な所が、このアニメの良いところだと思う。
 ただ初期衝動を吠えた第1話、世界に広がっていける可能性を投射した第3話、5人になって完成したバンドの姿をありのまま見せる第7話。
 プロとしての登竜門となり、バンドとしての完成度を見せる今回は、MV仕立ての過剰な演出がバッチリハマる、きらびやかで分厚いステージだ。
 数多の色彩と己の背骨たる過去が錯綜しながら、今世界の全部に立ち向かう少女を照らす。

 尋常じゃないトランス状態でステージに入った仁菜は、その熱量を暴走させることなく堂々と乗りこなし、矮躯に似合わぬカリスマ性で背筋を伸ばして、見事にパフォーマンスをやってのける。
 マイクを抱えて自分を守り、内面に深く入り込むようなこれまでの歌唱とは少し違う、見られている自分を(おそらく無意識に)的確に演出するような、スターの佇まい。
 それを支えているのは、仲間と瞳を交わす中で手に入れた愛と信頼であり、故郷でしっかり告げた”いってきます”であり、傷ついて暴れて吠えた今までの全部…なのだろう。

 

 ここに至るまでの全てが、間違いじゃなかったと証明する。
 その心持ちを改めて、自分の真芯だと見つめ直せたからこそ、仁菜の背中は真っ直ぐと伸び、侠客めいた気風がその立ち姿にも宿る。
 すばるとの楽屋での対話シーンでも鮮明だったが、宗男にキッチリ育てられた歴史は居住まいにしっかり出て、仁菜はメチャクチャ背筋がピンと伸びる。
 父の心を知らぬままでは呪いでしかなかったその習性が、今は世に恥じるもの何もなしと胸を張り、眼の前の有象無象の脳髄をロックでぶっ飛ばす力強さに変換されている感じがある。
 目覚めたのか、思い出したのか。
 仁菜は自分を守るために。トゲを世界に吐き出す以外の吠え方を、このステージで体現しつつある。

 それは井芹仁菜の怒りと愛に満ちた個人的な吠え声であると同時に、それぞれ個別の傷と思いを抱えて”バンド”である仲間の歌だ。
 ステージを飛び出し、心を射抜かれた連中をまばゆい光に集めながら、それは様々な人に届く。
 アンコールまでやりきってバンドTに身を包んだダイダスさんたちが、”ももかん”の魂がかつての宣告通りボーボー燃え盛っている様子を見届けれて、本当に良かったなと思う。
 ダイダスさんはあの雨の中の約束を破らなかったし、桃香さんも扉越しの強がりを嘘にしなかった。
 それを、お互いが言葉にするよりも強く激しく、魂の奥底で解っている。
 解らせる力を、弾き続ける在り方は持っているのだ。

 

 

画像は”ガールズバンドクライ”第11話より引用

 吠え声は広がり、遠くへ届く。
 こんだけのステージをやりきられてしまえば、己の存在証明をそこに賭けて、見届けてもらおうとシャカリキになった戦いに、文句はないだろう。
 すばるが嘘つきな自分と決別するべく、祖母に投げかけた戦いに勝ったことを、短いカットでしっかり示す圧縮力、誠見事だ。
 あと娘ともども枷から解き放たれた宗男が、明かりのついた部屋で”いってらっしゃい”の続きを見届けているのが、やっぱ良い。
 歌う個人を超えバンドとなり、それも越えて沢山の人と繋がっていく歌は、プロとしての未来を切り開く爆心地でもある。

 伸るか反るかのキャリアメイク、一発勝負のロックンロール成り上がり物語を、お話の盛り上がりの土台としてしっかり使ってきたお話でもあるので、ここで完璧な回答を最高の形で描ききったのは、展開を飲み干す上でもありがたい。
 神がかりな仁菜の歌唱が、場末のステージに規格外の引力を呼び込み、熱狂が広がり人が集まる様子を、ステージングに重ねてしっかり描いてきたのが効いている。
 そういう結果が必然と思えるような、会心のステージを終えて物語は、開幕に約束された勝利へとたどり着く。
 それは自分が自分でいるための闘争を傷だらけ、走り抜けて行き着いた場所。
 あの放送室の暗がりから、求めたどり着いた光の真ん中だ。

 ただ自分らしくやり切ることが、魂の代弁者を求め続けている観客の求める姿そのものであるような、生粋のロックンローラー
 キレること、ぶつかることでしか自分を表現できなかった赤ちゃん人間が、他人に届きともすれば金になるパフォーマンスへと、手を伸ばした証明となるステージでもあった。
 『ここまで駆け抜けてしまうと、もうやることないんじゃないの…』という感じもしないではないが、しかしこのアニメは残り二話を残している。
 僕が想像もしない奇跡を描き切るには、十分な時間だろう。

 

 至った高みから更に伸びる道を、翔び堕ちて何処へと。
 とんでもないものを見届けられそうで、とても楽しみだ。