感想書くか悩んでいたが、二話でいくつか引っかかりが見つかったので書いていくことにする。
そして色々あって、ダラダラ続けてきたアニメ感想日記に変化が欲しい……あるいは必要と感じているのもあって、ココでは思ったことにブレーキをかけず書いていこうと思う。
普段とちょっと違った味になるかもしれないが、もし舌に合わなければ申し訳ない。
というわけで全体的な印象から始めたいが、「エヴァとlainとシャフトがした~い!」という、生で表現の現場に叩きつけるにはあんまりにも生過ぎる衝動が無様にぶっ放されまくっていて、凄く当惑した。
扱っている題材の狙ったショッキングとか、表層だけなぞったアバンギャルドの滑った刺さり加減とは全く別の意味で「こんなコトして良いんだ……」と思った。
アマチュアの青臭い衝動と微笑んで受け止めるには、コンテンツのスケールはデカくなりすぎ、公共の電波でTVに乗っかっちゃう状況はお仕事すぎ、これがエッヂだった時代から時間は立ちすぎ、作品の心臓は老いて鼓動が弱い。
悪趣味病みかわエンタメに関しては自分の観測方面だとマンガが強くて、”ねずみの初恋””ドカ食い大好き! もちづきさん””みいちゃんと山田さん”あたりを筆頭に、エッジの効いた現役がバリバリ現在進行系で、ヤバいことヤんないと書けないモノを書いていると思う。
そこからちょい毒を薄めて(薄まってるフリを作って)ポップに消費されつつ、タフにデカい流れを作っている横綱としては”ちいかわ”があって(劇場版は本当に期待している)、今や一大アイコンである。
作品の権利を巡る内ゲバ大乱闘もあって、そういううねりに乗っかりきれていないイメージのあったニディガのアニメは、やっぱどっかポップであることと踊りきれていない危うさに満ち、作家の内面をお商売の都合と公共創作の厳しさで研磨して尖らせるシャープさに欠けていて、凄く甘えて見えた。
”ニディガ”として押し出されるものの流通前線に、ゲーム”NEEDY GIRL OVERDOSE”の創作最前線に立ってた人たちがどんだけ関われているのか、適切かつ客観的な報道が何処にもない(そういうのを出す義理もない)ので、さっぱり分からんけども。
いちおうは「原案・シナリオ・監修 nyalra」とクレジットされている彼が、長々ファンとアンチに包囲されつつ続けている自意識の身悶えを全体的にぶっ放したくて、あの時死ぬほど憧れたなにかの影響を受け、リスペクトし、そこに並び越えていくのだと吠えたい各種表現を模倣し続けているのは、二話見て何となく判る。
判るんだけども食ったものの咀嚼が全く足りてなくて、かなり原液そのままで垂れ流しているので、「んじゃあエヴァなりlainなりTEXHNOLYZEなり見ればいいじゃん。プロ創作者としての、お前独自の嘔吐はどこにあんだよ」という感想にはなってしまう。
(多分こういう感想を抱いている時点でターゲットではなく、そういう表現の連鎖に今初めて出会う、ニディガにちゃんと殴られる人に向けてパなしてる矢だとは思うのだが、TVという発射台に乗せてしまった以上、刺さらない人たちにも結果的にパなす形にはなってしまったのだ)
もうちょい捻って尖った形でパなしていたら、それはこのアニメ独特の表現として独自の意味をもったのだろうけど、「僕の好きなもの」と「俺の話を聞け」だけを創作技術と創意工夫のオブラートに包まずぶっ放されると、やっぱ大変食べにくい。
延々続く独り言……のように見えて、その実めちゃくちゃ聴衆の顔色をキョロキョロ覗き込んでいる一方通行のダイアログは、言いたいことと自分なりの結論が透けすぎていて、聞くものを物語の中あまり迷わせてはくれない。
僕は物語に浸る時は、キモい迷路とか思わぬ足踏みとか気に食わない脱線とか、色んなところを作中人物(その後ろにいる語り手)と一緒にウロウロして、そうして見つけたその物語だけの景色が繋ぎ合わさり、独自の風景を作り出す瞬間が好きだ。
そういう逍遥をあんま許してくれてる感じがなく、表現にしても内実にしても押しが強くて押し付けがましい感じがあった。
あるいはそのエゴとパワーが猛烈な毒気となり個性となり、一大ムーブメントを動かす一つの現象ともなり得たのかもしれないが、メディアが変化し時が流れる中で、初期衝動の突き刺し方もまた当然変わっていく。
間違いなく”ニディガ以降”である作品外のうねり含めて、そういう変遷をたっぷり吸い込んだ上で新たな己を新たな媒体でぶっ放すための、世の中の創作者全てが脳みそぶっ飛ぶほどに思い悩み続けている大勝負に、あんま挑めていない感じがあった。(これはシンプルなアニメーションとしてのクオリティ含む。絵と演出があんま磨かれていない)
そういうグチグチを越えてなんか書こうと思ったのは、二話で出てきたパープル・ロリポップが超わかりやすいツンチョロで可愛かったのと、ED曲”れびてーしょん”が面白かったからだ。
「もしかしたら、なんか凄いものが見れるかも!」という期待感がなんだかんだ確かにあって、第1話に漂うスカしっぷりに正直ガックリ来ていたわけだが、オモシロ三人組から見上げた超てんちゃんの浮遊感を二話で感じた後だと、EDに「れびてーしょん」と付けたのは慧眼だなぁ、とつくづく思った。
飛翔とは違って自在に加速できるわけでもなく、落下とは違って破滅が約束されているわけでもなく。
浮遊とは、ひどく心地よい猶予期間の常態化だ。
フワフワ地面から浮かび上がって現実から離れて、インターネットという聖域(だったはずのもの)で何者でもなく何者かである誰かに化けれる夢を、どぎつい色したツインテな超てんちゃんは非実在的に体現し、その奥にはピにファックされ便所に行く生身の黒髪あめちゃんがいて、Levitationは面白くもない現実……そこにある惨めな私たちに常時接続されている。
承認欲求と収益化をあくどく”リアルに”突き出しているように見える配信者群像劇も、そこで扱われているのはあくまで「今! リアルを睨みつけていますよ!」というポーズを取った優しい夢であり、ファンタジーを成立させるだけの鋭さに欠けたなまくらではあっても、確かに自分たちだけの切実さを抱えた(抱えていた?)、一つの実感の投影ではあると思う。
何者でもなく浮遊し、だからこそ現実とは違って何者かであれる特別な空間にも、面白くもねー現実の手あかがベタベタ伸びてきて、カネと女と酩酊が夢の国を覆い尽くす。
そこでもなお夢を見たい連中があめちゃんを浮遊する天使に押し上げ、しかし生身の人間でしかないあめちゃんにその上昇気流は厳しすぎ、翔ぶも堕ちるも出来ない宙ぶらりんのまま、非実在美少女のホログラムはクソみてーな願望のアイコン頑張ってくれている。
このフワフワした視線には、かつて確かにあった楽園(lainが先鞭を付けたと思われつつ、作中既にぶっ飛ばしてる幻想)へのノスタルジーがあり、”れびてーしょん”の歌詞はこれからこのTVシリーズが描く……かもしれないものを、かなり的確にエグッてる気がした。
何者でもなく浮かんでいられる時間が既に終わりかけ、あるいは自分が見ないようにしているフツーの人たちの世界では勝手に終わらせられ、夢の国が面白くもねー現実へと改ざんされている中、「まだ浮いていたい」と呟く歌は、インターネットノスタルジーの断末魔のようだ。
「KOTOKO起用した”INTERNET OVERDOSE”自体が、ネットおじさんの断末魔以外の何者でもねーだろ!」と思わなくもないが、そういう意味では原点回帰的というか、ポップで悪趣味な外装の奥にドクドクにじみ続けている作品(作者)の根本を、多分作者自身よりストレートに切り取っている感じがある。
ここら辺の的確な身軽さは、あくまで楽曲一つ背負う関与の薄さと、キタニタツヤという触媒の独自性が効いてる気はする。
自身歴戦のインターネット戦士から音楽産業最前線で消費し消費される立場へ、タフに泳いできたキタニタツヤが、EDを任された作品を解釈し、例えば自分自身の”クラブ・アンリアリティ”なんかと反響させながら削り出した形は、本編より全然エッジで素直だと感じた。
ED曲に炙り出されているノスタルジーと被害者意識が作品のコアにあるとして、1クール使ってアニメを描く以上、作品は視聴者をどうにか描くべき場所へと引っ張っていき、語るべきを語る必要がある……はずだ。
そこら辺の責務を投げ捨ててしまえる自由もまた物語にはあって、クソを食わされた視聴者の怨嗟で今日もネットは満ちるわけだが、それはそれとして可能な限り、「まー見てよかったな!」とは思いたい。
積み上がる秒数に相応しいだけの変化なり成長なり深化なりが、一応は連続性をもって綴られる映像を通じて感じられたほうが、自分としてもいい気分でアニメを見られる。
そこで足場になるのがキャラの可愛げというやつで、パープル・ロルポップの胸焼けしそうな人工甘味料風味は、たいへん良かった。
過酷な配信者稼業に適応し、ツンツン尖った外装と皮肉な態度で自分を守っている彼女は、インターネットエンジェルに救われてしまった彼女の信者として、配信業の微かな光を体現する。
そこで救われてしまった実感が嘘ではないからこそ、どこでもない場所にインターネットエンジェルが浮遊するだけの揚力(と資金)がスパチャ現場に発生し、あめちゃんは華やかな嘘をまとって無敵を演じ続けられる。
これが翔ぶか堕ちるかは判らんけども、超てんちゃんのフワッとした卓越性が何処から生まれているのか、作中のキャラに重ねてスケッチできたのは、悪くなかったと思った。
パープル・ロリポップの薄っぺらいイカニモ感(他のカラマーゾフも同等)は、他の作品ならどーなの? とはなろうが、狙ったにしろ偶然にしろ悲壮な皮相さが間違いなく作品の根っこにあるこのお話においては、良い噛み合い方だと思う。
生っぽい実在感と本物と見まごうばかりの魅力的な嘘が混ざり合って初めて生まれる、仮想現実を越えた生っぽさを求めつつ、何処にもたどり着けない薄っぺらさ。
それは惨めにぶっ倒されるべき悪役として、マジ唐突に現れたヤバ女と、整った2次元顔をご用意された主役さんたちが大して差がないことを既に告げている。
それは虚実の狭間を描く題材がどーとか、テーマ性に応じたキャラ造形がこーとかいう話ではなく、すげーシンプルに薄っぺらくなるしかない作りを絵としてもキャラとしても話の運びとしても、このアニメが突き出してしまっている結果としてある。
そしてそのキッチュなチープさが、パープル・ロリポップの造形と立ち位置に妙に噛み合い、嘘なく作品を体現してる”いいキャラ”として、なんかやれそうな期待感を宿してくれていた。
対等な敵対者気取っていてその実、超てんちゃんに恋するポーザーから出れてないその無様さに嘘をつかず、しっかりイベントとエピソードを手渡して削り出せていったら、結構面白い歴史が彼女とアニメに刻まれていく気がしている。
……まぁそういうフツーの足取りをキャラに進ませない捻くれは、もう既にプンプン臭っているので、途中でグシャグシャになる可能性も大だが。
コピーのコピーのコピーでしか己と己の世界を埋め尽くせない苦悩なんてものは、それこそエヴァがもりもり垂れ流して苦悩し、30周年記念興行で一応の自分なりのケリを付けたネタだ。
その手垢のついたペラさに新たに挑み直し、今改めて語り直す価値のある何かを綴るのであれば、やっぱり自分たち独自の語り口と切り口は必要になる、
ゲーム”NEEDY GIRL OVERDOSE”がある程度以上のインパクトで着弾してしまった現実の中で、わざわざアニメ”NEEDY GIRL OVERDOSE”をぶっ放す難しさを自覚しているからこそ、アニメオリジナルキャラクターが多数いるんだとは思う。
超てんちゃんがアイコン化し、ファンとアンチからの祝福と呪いによって実態なく浮遊してしまっている(その裏に、ファックされ便所に行く生身のあめちゃんがいる)状況は一応睨めていると感じるし、「その二面性は作者の苦悩の投影ってやつカナ!? これからも俺達はテメーの「辛い辛い苦しい苦しい」を、オトモダチでもねーのに聞かされるのカナ!?」と、視聴者に余裕でナメられるほど自意識が溢れてもいるだろう。
そういう極めて個人的な寝言が、フィクションとして世の中にぶっ放されてしまっている以上、上滑りする妄言ではなく心の扉をこじ開けるメッセージになることを、否応なく望まれている。
インディーから大資本へ、自身そういうメッセージ性で少なくない人間をぶん殴れたからこそ滑り出して、だからこそアニメになってしまったこのお話はやっぱり、不格好でペラいポーザーを越えて自分の腸をもう一度、口から吐き出し叩きつける必要があるんだと思う。
大リメイクアニメ時代な昨今、それでもなおぶっ刺さるお話はそういう血反吐まみれの向き合い方を原作と時代に対してやっぱやってるし、リリースより四年、一般人が想像もつかない毀誉褒貶と商業の地獄を越えてきた作品は、否応なくそういう”リメイク”をアニメ化にあたり果たす必要があるのではないか。
EDで見事に削り出された浮遊するノスタルジーを越えて、アニメにまでなってしまった自分たちをアニメとして綴る……浮遊以上の飛翔/墜落をやり切らなければいけないのではないか。
そんなことを感じながら、二話まで見た。
そういう自作と自意識への取っ組み合いをやり切るには、場外乱闘騒ぎから漏れ聞こえる制作環境の恵まれなさと、実際お出しされた作品のアリモノ感は、「ちょっと難しそうですね!」と告げているが。
しかしその出来なさ、無様さ……を開き直れないカッコつけたさが、スカした借り物の外装からジワジワ滲んじゃっている八方破れは、正直そんなに嫌いじゃない。
俺は変な匂いがしたほうが、”深夜アニメ”って感じがして好きだ。
もともと素っ裸の露悪を演じることでインターネット有名人に成り上がった人たちのコンテンツなので、真実素っ裸になりきるのもなかなか難しいと思うし、だからこそかつて好きで自分を救ってくれた衣装を借りてアニメ頑張ってるんだとも思うが。
もっと適切に裸になって、効率良く他人の脳みそをぶん殴るレトリックを積み上げて、ワクワク面白い物語の中にどうしても吐き出さなきゃ死んじゃうことをねじ込んでほしいな、と感じる。
いやまぁ、仕事として物語を紡ぐ上で、それが一番難しいんだとは思うけどさ。
配信者題材のアニメも山盛り玉石混交あって、”夜のクラゲは泳げない”に”真夜中ぱんチ”に、直近で”超! かぐや姫”まであるなかで、現実の方も四年前とは全く様相を変えている。
イエローペーパー路線は新鮮な悪趣味でインパクトを狙える限りに、ネタとメタの足が早すぎてメディアを変える時に色々苦労するわけだが、ゲームが見据えていたインターネット地獄の視界は、ぶっちゃけもはや時代遅れだ。
オールドスクールだからこそ描けるものも確かにあるが、そうなりきれるほど成熟もしていないくせに、アニメが見据えている視線は凄く後ろ向きで自己満足に閉じていて、あらためて時代と寝るには心音が眠たすぎる。
そういう鈍さを今更振りちぎって突破すると期待するには、お出しされたものの爆発力が足りなすぎ自己愛の殺し方と再生力がヌルい感じはある。
これはそうそう越えられない、ぼんやりとして残酷な壁なのだろう。
それでもどっか、物語が確かに綴られ放送されてしまう化学反応の中で、異様な何かがドカンと暴れてくれねーかなと、この段階では思っている。
今後この感想がどうなるか、さっぱり解んないけども。
可能な限り、見て続けていきたいと思う。
俺はこの感想では、「次回も楽しみ!」とは言わないようにする。
そうしない自分ってのを、試してみたほうが良いのかなとちょっと思ったのだ。

















































