イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

NEEDY GIRL OVERDOSE:第1話と第2話の感想

 感想書くか悩んでいたが、二話でいくつか引っかかりが見つかったので書いていくことにする。
 そして色々あって、ダラダラ続けてきたアニメ感想日記に変化が欲しい……あるいは必要と感じているのもあって、ココでは思ったことにブレーキをかけず書いていこうと思う。
 普段とちょっと違った味になるかもしれないが、もし舌に合わなければ申し訳ない。

 

 というわけで全体的な印象から始めたいが、「エヴァとlainとシャフトがした~い!」という、生で表現の現場に叩きつけるにはあんまりにも生過ぎる衝動が無様にぶっ放されまくっていて、凄く当惑した。
 扱っている題材の狙ったショッキングとか、表層だけなぞったアバンギャルドの滑った刺さり加減とは全く別の意味で「こんなコトして良いんだ……」と思った。
 アマチュアの青臭い衝動と微笑んで受け止めるには、コンテンツのスケールはデカくなりすぎ、公共の電波でTVに乗っかっちゃう状況はお仕事すぎ、これがエッヂだった時代から時間は立ちすぎ、作品の心臓は老いて鼓動が弱い。

 悪趣味病みかわエンタメに関しては自分の観測方面だとマンガが強くて、”ねずみの初恋””ドカ食い大好き! もちづきさん””みいちゃんと山田さん”あたりを筆頭に、エッジの効いた現役がバリバリ現在進行系で、ヤバいことヤんないと書けないモノを書いていると思う。
 そこからちょい毒を薄めて(薄まってるフリを作って)ポップに消費されつつ、タフにデカい流れを作っている横綱としては”ちいかわ”があって(劇場版は本当に期待している)、今や一大アイコンである。
 作品の権利を巡る内ゲバ大乱闘もあって、そういううねりに乗っかりきれていないイメージのあったニディガのアニメは、やっぱどっかポップであることと踊りきれていない危うさに満ち、作家の内面をお商売の都合と公共創作の厳しさで研磨して尖らせるシャープさに欠けていて、凄く甘えて見えた。

 

 ”ニディガ”として押し出されるものの流通前線に、ゲーム”NEEDY GIRL OVERDOSE”の創作最前線に立ってた人たちがどんだけ関われているのか、適切かつ客観的な報道が何処にもない(そういうのを出す義理もない)ので、さっぱり分からんけども。
 いちおうは「原案・シナリオ・監修 nyalra」とクレジットされている彼が、長々ファンとアンチに包囲されつつ続けている自意識の身悶えを全体的にぶっ放したくて、あの時死ぬほど憧れたなにかの影響を受け、リスペクトし、そこに並び越えていくのだと吠えたい各種表現を模倣し続けているのは、二話見て何となく判る。

 判るんだけども食ったものの咀嚼が全く足りてなくて、かなり原液そのままで垂れ流しているので、「んじゃあエヴァなりlainなりTEXHNOLYZEなり見ればいいじゃん。プロ創作者としての、お前独自の嘔吐はどこにあんだよ」という感想にはなってしまう。
 (多分こういう感想を抱いている時点でターゲットではなく、そういう表現の連鎖に今初めて出会う、ニディガにちゃんと殴られる人に向けてパなしてる矢だとは思うのだが、TVという発射台に乗せてしまった以上、刺さらない人たちにも結果的にパなす形にはなってしまったのだ)

 

 もうちょい捻って尖った形でパなしていたら、それはこのアニメ独特の表現として独自の意味をもったのだろうけど、「僕の好きなもの」と「俺の話を聞け」だけを創作技術と創意工夫のオブラートに包まずぶっ放されると、やっぱ大変食べにくい。
 延々続く独り言……のように見えて、その実めちゃくちゃ聴衆の顔色をキョロキョロ覗き込んでいる一方通行のダイアログは、言いたいことと自分なりの結論が透けすぎていて、聞くものを物語の中あまり迷わせてはくれない。
 僕は物語に浸る時は、キモい迷路とか思わぬ足踏みとか気に食わない脱線とか、色んなところを作中人物(その後ろにいる語り手)と一緒にウロウロして、そうして見つけたその物語だけの景色が繋ぎ合わさり、独自の風景を作り出す瞬間が好きだ。
 そういう逍遥をあんま許してくれてる感じがなく、表現にしても内実にしても押しが強くて押し付けがましい感じがあった。

 あるいはそのエゴとパワーが猛烈な毒気となり個性となり、一大ムーブメントを動かす一つの現象ともなり得たのかもしれないが、メディアが変化し時が流れる中で、初期衝動の突き刺し方もまた当然変わっていく。
 間違いなく”ニディガ以降”である作品外のうねり含めて、そういう変遷をたっぷり吸い込んだ上で新たな己を新たな媒体でぶっ放すための、世の中の創作者全てが脳みそぶっ飛ぶほどに思い悩み続けている大勝負に、あんま挑めていない感じがあった。(これはシンプルなアニメーションとしてのクオリティ含む。絵と演出があんま磨かれていない)

 

 

 

 

 

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 そういうグチグチを越えてなんか書こうと思ったのは、二話で出てきたパープル・ロリポップが超わかりやすいツンチョロで可愛かったのと、ED曲”れびてーしょん”が面白かったからだ。
 「もしかしたら、なんか凄いものが見れるかも!」という期待感がなんだかんだ確かにあって、第1話に漂うスカしっぷりに正直ガックリ来ていたわけだが、オモシロ三人組から見上げた超てんちゃんの浮遊感を二話で感じた後だと、EDに「れびてーしょん」と付けたのは慧眼だなぁ、とつくづく思った。

 飛翔とは違って自在に加速できるわけでもなく、落下とは違って破滅が約束されているわけでもなく。
 浮遊とは、ひどく心地よい猶予期間の常態化だ。
 フワフワ地面から浮かび上がって現実から離れて、インターネットという聖域(だったはずのもの)で何者でもなく何者かである誰かに化けれる夢を、どぎつい色したツインテな超てんちゃんは非実在的に体現し、その奥にはピにファックされ便所に行く生身の黒髪あめちゃんがいて、Levitationは面白くもない現実……そこにある惨めな私たちに常時接続されている。

 

 承認欲求と収益化をあくどく”リアルに”突き出しているように見える配信者群像劇も、そこで扱われているのはあくまで「今! リアルを睨みつけていますよ!」というポーズを取った優しい夢であり、ファンタジーを成立させるだけの鋭さに欠けたなまくらではあっても、確かに自分たちだけの切実さを抱えた(抱えていた?)、一つの実感の投影ではあると思う。
 何者でもなく浮遊し、だからこそ現実とは違って何者かであれる特別な空間にも、面白くもねー現実の手あかがベタベタ伸びてきて、カネと女と酩酊が夢の国を覆い尽くす。
 そこでもなお夢を見たい連中があめちゃんを浮遊する天使に押し上げ、しかし生身の人間でしかないあめちゃんにその上昇気流は厳しすぎ、翔ぶも堕ちるも出来ない宙ぶらりんのまま、非実在美少女のホログラムはクソみてーな願望のアイコン頑張ってくれている。

 

 このフワフワした視線には、かつて確かにあった楽園(lainが先鞭を付けたと思われつつ、作中既にぶっ飛ばしてる幻想)へのノスタルジーがあり、”れびてーしょん”の歌詞はこれからこのTVシリーズが描く……かもしれないものを、かなり的確にエグッてる気がした。
 何者でもなく浮かんでいられる時間が既に終わりかけ、あるいは自分が見ないようにしているフツーの人たちの世界では勝手に終わらせられ、夢の国が面白くもねー現実へと改ざんされている中、「まだ浮いていたい」と呟く歌は、インターネットノスタルジーの断末魔のようだ。
 「KOTOKO起用した”INTERNET OVERDOSE”自体が、ネットおじさんの断末魔以外の何者でもねーだろ!」と思わなくもないが、そういう意味では原点回帰的というか、ポップで悪趣味な外装の奥にドクドクにじみ続けている作品(作者)の根本を、多分作者自身よりストレートに切り取っている感じがある。

 ここら辺の的確な身軽さは、あくまで楽曲一つ背負う関与の薄さと、キタニタツヤという触媒の独自性が効いてる気はする。
 自身歴戦のインターネット戦士から音楽産業最前線で消費し消費される立場へ、タフに泳いできたキタニタツヤが、EDを任された作品を解釈し、例えば自分自身の”クラブ・アンリアリティ”なんかと反響させながら削り出した形は、本編より全然エッジで素直だと感じた。

 

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 ED曲に炙り出されているノスタルジーと被害者意識が作品のコアにあるとして、1クール使ってアニメを描く以上、作品は視聴者をどうにか描くべき場所へと引っ張っていき、語るべきを語る必要がある……はずだ。
 そこら辺の責務を投げ捨ててしまえる自由もまた物語にはあって、クソを食わされた視聴者の怨嗟で今日もネットは満ちるわけだが、それはそれとして可能な限り、「まー見てよかったな!」とは思いたい。
 積み上がる秒数に相応しいだけの変化なり成長なり深化なりが、一応は連続性をもって綴られる映像を通じて感じられたほうが、自分としてもいい気分でアニメを見られる。

 そこで足場になるのがキャラの可愛げというやつで、パープル・ロルポップの胸焼けしそうな人工甘味料風味は、たいへん良かった。
 過酷な配信者稼業に適応し、ツンツン尖った外装と皮肉な態度で自分を守っている彼女は、インターネットエンジェルに救われてしまった彼女の信者として、配信業の微かな光を体現する。
 そこで救われてしまった実感が嘘ではないからこそ、どこでもない場所にインターネットエンジェルが浮遊するだけの揚力(と資金)がスパチャ現場に発生し、あめちゃんは華やかな嘘をまとって無敵を演じ続けられる。
 これが翔ぶか堕ちるかは判らんけども、超てんちゃんのフワッとした卓越性が何処から生まれているのか、作中のキャラに重ねてスケッチできたのは、悪くなかったと思った。

 

 パープル・ロリポップの薄っぺらいイカニモ感(他のカラマーゾフも同等)は、他の作品ならどーなの? とはなろうが、狙ったにしろ偶然にしろ悲壮な皮相さが間違いなく作品の根っこにあるこのお話においては、良い噛み合い方だと思う。
 生っぽい実在感と本物と見まごうばかりの魅力的な嘘が混ざり合って初めて生まれる、仮想現実を越えた生っぽさを求めつつ、何処にもたどり着けない薄っぺらさ。
 それは惨めにぶっ倒されるべき悪役として、マジ唐突に現れたヤバ女と、整った2次元顔をご用意された主役さんたちが大して差がないことを既に告げている。

 それは虚実の狭間を描く題材がどーとか、テーマ性に応じたキャラ造形がこーとかいう話ではなく、すげーシンプルに薄っぺらくなるしかない作りを絵としてもキャラとしても話の運びとしても、このアニメが突き出してしまっている結果としてある。
 そしてそのキッチュなチープさが、パープル・ロリポップの造形と立ち位置に妙に噛み合い、嘘なく作品を体現してる”いいキャラ”として、なんかやれそうな期待感を宿してくれていた。
 対等な敵対者気取っていてその実、超てんちゃんに恋するポーザーから出れてないその無様さに嘘をつかず、しっかりイベントとエピソードを手渡して削り出せていったら、結構面白い歴史が彼女とアニメに刻まれていく気がしている。
 ……まぁそういうフツーの足取りをキャラに進ませない捻くれは、もう既にプンプン臭っているので、途中でグシャグシャになる可能性も大だが。

 

 

 

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 コピーのコピーのコピーでしか己と己の世界を埋め尽くせない苦悩なんてものは、それこそエヴァがもりもり垂れ流して苦悩し、30周年記念興行で一応の自分なりのケリを付けたネタだ。
 その手垢のついたペラさに新たに挑み直し、今改めて語り直す価値のある何かを綴るのであれば、やっぱり自分たち独自の語り口と切り口は必要になる、
 ゲーム”NEEDY GIRL OVERDOSE”がある程度以上のインパクトで着弾してしまった現実の中で、わざわざアニメ”NEEDY GIRL OVERDOSE”をぶっ放す難しさを自覚しているからこそ、アニメオリジナルキャラクターが多数いるんだとは思う。

 超てんちゃんがアイコン化し、ファンとアンチからの祝福と呪いによって実態なく浮遊してしまっている(その裏に、ファックされ便所に行く生身のあめちゃんがいる)状況は一応睨めていると感じるし、「その二面性は作者の苦悩の投影ってやつカナ!? これからも俺達はテメーの「辛い辛い苦しい苦しい」を、オトモダチでもねーのに聞かされるのカナ!?」と、視聴者に余裕でナメられるほど自意識が溢れてもいるだろう。

 

 そういう極めて個人的な寝言が、フィクションとして世の中にぶっ放されてしまっている以上、上滑りする妄言ではなく心の扉をこじ開けるメッセージになることを、否応なく望まれている。
 インディーから大資本へ、自身そういうメッセージ性で少なくない人間をぶん殴れたからこそ滑り出して、だからこそアニメになってしまったこのお話はやっぱり、不格好でペラいポーザーを越えて自分の腸をもう一度、口から吐き出し叩きつける必要があるんだと思う。
 大リメイクアニメ時代な昨今、それでもなおぶっ刺さるお話はそういう血反吐まみれの向き合い方を原作と時代に対してやっぱやってるし、リリースより四年、一般人が想像もつかない毀誉褒貶と商業の地獄を越えてきた作品は、否応なくそういう”リメイク”をアニメ化にあたり果たす必要があるのではないか。
 EDで見事に削り出された浮遊するノスタルジーを越えて、アニメにまでなってしまった自分たちをアニメとして綴る……浮遊以上の飛翔/墜落をやり切らなければいけないのではないか。
 そんなことを感じながら、二話まで見た。

 

 そういう自作と自意識への取っ組み合いをやり切るには、場外乱闘騒ぎから漏れ聞こえる制作環境の恵まれなさと、実際お出しされた作品のアリモノ感は、「ちょっと難しそうですね!」と告げているが。
 しかしその出来なさ、無様さ……を開き直れないカッコつけたさが、スカした借り物の外装からジワジワ滲んじゃっている八方破れは、正直そんなに嫌いじゃない。
 俺は変な匂いがしたほうが、”深夜アニメ”って感じがして好きだ。

 もともと素っ裸の露悪を演じることでインターネット有名人に成り上がった人たちのコンテンツなので、真実素っ裸になりきるのもなかなか難しいと思うし、だからこそかつて好きで自分を救ってくれた衣装を借りてアニメ頑張ってるんだとも思うが。
 もっと適切に裸になって、効率良く他人の脳みそをぶん殴るレトリックを積み上げて、ワクワク面白い物語の中にどうしても吐き出さなきゃ死んじゃうことをねじ込んでほしいな、と感じる。
 いやまぁ、仕事として物語を紡ぐ上で、それが一番難しいんだとは思うけどさ。

 

 

 

 

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 配信者題材のアニメも山盛り玉石混交あって、”夜のクラゲは泳げない”に”真夜中ぱんチ”に、直近で”超! かぐや姫”まであるなかで、現実の方も四年前とは全く様相を変えている。
 イエローペーパー路線は新鮮な悪趣味でインパクトを狙える限りに、ネタとメタの足が早すぎてメディアを変える時に色々苦労するわけだが、ゲームが見据えていたインターネット地獄の視界は、ぶっちゃけもはや時代遅れだ。
 オールドスクールだからこそ描けるものも確かにあるが、そうなりきれるほど成熟もしていないくせに、アニメが見据えている視線は凄く後ろ向きで自己満足に閉じていて、あらためて時代と寝るには心音が眠たすぎる。

 そういう鈍さを今更振りちぎって突破すると期待するには、お出しされたものの爆発力が足りなすぎ自己愛の殺し方と再生力がヌルい感じはある。
 これはそうそう越えられない、ぼんやりとして残酷な壁なのだろう。
 それでもどっか、物語が確かに綴られ放送されてしまう化学反応の中で、異様な何かがドカンと暴れてくれねーかなと、この段階では思っている。

 今後この感想がどうなるか、さっぱり解んないけども。
 可能な限り、見て続けていきたいと思う。
 俺はこの感想では、「次回も楽しみ!」とは言わないようにする。
 そうしない自分ってのを、試してみたほうが良いのかなとちょっと思ったのだ。

淡島百景:第1話『田畑若菜と竹原王子/竹原絹枝と上田良子』感想ツイートまとめ

 時を超えて綴られる、舞台に魅せられた少女たちの年代記。
 淡島百景 第1話を見る。

 

 原作未読なれど志村貴子作品は好きであり、名手・浅香守生の手で久々のアニメ化…ということで、見る前から期待はかなり高かった。
 蓋を開けたらこちらの想像を超える詩情が色彩とモチーフ選択に宿り、柔らかくも要所をカッチリ抑えた画作りに助けられ、豊かな詩情が馥郁と漂う物語が、堂々と幕を開けた。

 こりゃ凄い。
 公式ページの人間関係図が、”百年の孤独”みてーなサイズ感でがっぽり、描かれるべき空白を開けてるの見たときの慄きを、しっかり受け止めてくれる仕上がりだった。
 いやホント、マジックリアリズム年代記だよアレ…。

 

 物語はあからさまに宝塚モチーフな歌劇学校を舞台に、時を行き来し主役を変えつつ、少女たちの影あり光ありな青春を掘り下げていくようだ。
 何しろオトメ永遠の憧れであるから、様々な傑作がフィクションの題材に選び、また選ばれて舞台に上がっているわけだが、その末尾に席を占めるだけの貫禄は、開幕からしっかりと漂っていた。

 光が強ければ陰も濃い、規律に縛られた共同生活と、その先にあるハレの舞台。
 淡島歌劇という大空に巣立つ前の、何者でもない雛鳥たちの群像は、”志村ブルー”とでもいうべき青の水彩で豊かに飾られ、独自の残酷と颯爽を宿す。
 ほんと、あの色合いを動かしまくってて凄かったね…。

 

 

 

 

 

 

 

 

画像は”淡島百景”第1話より引用

 物語は良くも悪くも淡島イズムに染まっていない少女を、合宿場が向かい入れる所から始まる。
 玄関にかかった扁額には「桜梅桃季」が揮毫され、OPでもまた様々な花が顔を出す。
 「厳しい物語が動き出すのだな…」と、その時感じた。

 

 様々な個性を持った花々が艶やかに競い咲く「百花繚乱」ではなく、各々の個性に合った場所で、合った咲き方を祈る「桜梅桃季」をわざわざ、入口であり出口でもある場所に置くということは、桜のようには咲けない花が、必ず在ることがここの前提なのだ。
 路上のたんぽぽのように楚々と強く避けるならまだしも、未生のまま手折られ、あるいは盛りを終えて惨めにしおれていくところまで含めて、花の様々な命を切り取る視点があればこそ、合宿場の一番目立つ場所に「桜梅桃季」と書かれ、OPにただ華やかなだけで終わらない種々の花様が、慎重に配置されているのではないか。

 それは花の形をした言語として、花言葉を暗喩するためだけに画面にねじ込まれる”アニメ的な花”とは少し違っていて、生きていればこそ咲き、咲きたいと願ってなお咲けずにしおれ、野花でしかない己をあるいは呪い恨み、もしくは寿ぎ誇り、そんな人間の推察など何も届かぬまま、勝手に蒲公英は咲く。
 どんな花として生まれようが、何処に飾られようが(飾られなかろうが)、たとえ根を切られ人の感興のために一時の美しさだけを搾り取られようが、花は花として決死に生きている。
 そういう手触りで花を扱うのは、自分が知るアニメの文法から少し外れていて、だからこそ花が花であること…それを描くことで照らされる、この作品の心臓部に、結構深く食い込む表現なのではないかと思った。

 

 既に舞台に上がれるのは、タフなサバイバルレースを生き残った勇者だけであると示唆されているけど、つまりは咲かない花が脱落する物語も、いずれやってくるのだろう。
 それが動き出す前に、「それもまた花なのだ」と物語の冒頭に、美しく豊かなメッセージをオイてあること自体が、この作品の視座と語り口を示している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像は”淡島百景”第1話より引用

 物語は二編、そういう険しき花の揺籃に迷い込んでしまった予科生と、彼女と同室になった本科生の物語を紡いでいく。
 そこでは人間が一箇所に詰め込まれ、実力と生きやすさに応じて選別され、舞台で華やかに輝く存在とそこに選ばれないものに別れていく。

 舞台/学校もまた人の営みである以上、垢にまみれた共同浴場をザカザカ洗い、人の間を上手く泳ぎ、それが出来なくて傷つけられていく、悲喜こもごもで埋まっていく。
 そういう生臭さを初手で睨みつけつつ、しかしそこから逸脱したとびきりの美しさが、淡い水彩と美しいソプラノで瞬く。

 

 華やかな夢の舞台でも…あるいはだからこそ、人間の泥がたっぷり積もる場所の空気。
 それを伝えるのに、”風呂掃除”はとても良いモチーフだったと思う。

 お湯越し他人の肌がこちらに迫ってくる、極めてフィジカルな肌触りを無縁にせず、あるいは長年の伝統が錆として屋上の手すりに宿る様子を切り取り、その上で青い歌声が全てを跳ね飛ばしていく。
 ヒソヒソコソコソ、扉の向こう側で雑音を積み上げる人間のしょーもなさを、舞台に向けて磨き上げられた芸の冴えは、全て吹き飛ばしてしまう。
 そういう圧倒的なものの足場は、クソくだらねぇ阿諛追従と噂話で作られていて、卑属と卓越がこの合宿場に交わっている。

 

 この高い飛翔を、カーテンで覆われた二段ベット越し、先輩の本音を聞き届けるカットでしっかり羽ばたかせて、第1エピソードは終わっていく。
 「なんでここに来ちゃったんだろう?」と誰もが思う、垢だらけの現実に若菜は閉じ込められ、その寄る辺なさに穏やかに近づいてくれる先輩の姿も、カーテン越しに見えない。
 しかしここに辿り着く前、置き去りにしてしまった感情を美しい朦朧体で回想する言葉は、ずーっと何かに閉ざされていた若菜の視線を、最後にスッと上に上げ、カーテンが終わる場所へ解放していく。
 卑属から超越へ、抑圧から解放へ。
 そういう、下から上に昇る爽やかな風が、美しい檻を吹き抜けていく。

 華やかな歌劇学校のイメージから、陰口上等のリアルを接写し、青い歌声と美しい夜で、花の眩しさとはまた違う、不思議と切なく暖かな空気が切り取られて、この作品は最初の挨拶を終えた。
 明瞭な目標もなし、圧倒的な才能の片鱗もなし。
 最初の視点担当人物としては冴えない若菜は、歌と優しさに押し上げられる形で、自分がいるべきなのか否応なく悩まされる、美醜共存する青春の舞台が悪くない場所かもしれないと、一つ噛みしめることになる。
 その歩みに乗っかって、僕らもこの物語がどういう味がするのか、微かに嗅ぎ期待を高めていく。
 なにか、凄いものが描かれていくかもしれない、と。

 

 

 

 

 

 

画像は”淡島百景”第1話より引用

 ここで物語は第2エピソードへと移り、舞台も淡島から鎌倉・藤が谷女学院へと移る。
 つか”青い花”ま~~~じかッ!
 急に13年前のアニメとリンクが発生し脳髄がぶっ飛んだが、第1エピソードではしっとり落ち着いていた絹枝先輩が、アドリブ上等な暴れん坊であり、夢に向かって全力で突き進める、ともすればはた迷惑ですらあるバイタリティをもっている事が、美しい筆致で綴られる。

 良子の身長と髪型の変遷が、あっという間に駆け抜けていく二人の時間を豊かに語っていて、大変いい。
 暗い影に取り残されるものと、自ら発する光を裏切れず、高い空へ旅立っていくもの。
 こんなに幼い者たちにも、離別は残酷に訪れる。

 

 若菜から見つめた/若菜へ語りかける絹枝先輩の姿を、第1エピソードでしっかり描いたからこそ、そんな彼女が自分たちを翻弄する嵐の中、心の支えとする女の重さもグッと強まる。
 離れてなお想う人は、風に揺れる柳のように頼りなく、しかし確かに二本の足で自分の物語を進んで、思わぬ再開に雫をこぼす。

 第2エピソードにして、「自分を何者かにしてくれる特別な装置に”淡島”は思えるだろうけど、その外側にだって花は咲いてるし、物語はあるんだよ…」と告げてくる話運びだ。
 夢の花園の風呂掃除から物語始めたのと同じ、”生きる”を描くのに必要などっしりしたハラを、強く感じれてありがたい。

 

 

 

 

 

 

 

画像は”淡島百景”第1話より引用

 良子にとって絹枝は、自分を暗く重たい影の中に引きずり込むほどに、眩しく大きな星だった。
 その引力から自分を引き剥がすべく、鎌倉に残り夢を追わないことを選んで、星は再び出会う。
 もはや同じ学舎で、同じ舞台で当たり前に時間を共にすることはないが、しかし絹枝が淡島の日々に良子を宿し続けるように、良子もまた鎌倉の景色に、消えたはずの星を思い続ける。

 それがどのような色をしているのか、本当に美しい描き方で切り取ってくれて、たいへん良かった。
 戯けて付けた王子の装束を、再び巡り合った時は絹枝ではなく、涙に濡れながら良子がまとっているのが、終わらない輪舞曲のようで綺麗だ。

 

 良子が灼かれ、離れることでしか自分を保てなかった、絹枝が放つ強い光。
 これが第1エピソードで描かれ、絹枝自身も淡島の定めと語っていた選抜主義に、どう食い込み生きていくかは、ここから先の物語を見ないと解らない。

 しかしたった一人、幼く瑞々しい心を耐え難いほどに揺さぶられ、振り回され、とても美しい舞台を二人だけもう一度作り上げられる観客が、確かに彼女を見つめ続けていること…その視線は良子へと反射し、遠く離れてなお響いていることは、しっかり示された。
 その思いの共鳴が、とびきりの美しさを宿していることも。
 この切なさと透明度が、淡島に明滅する百の花を描く、基礎となることも。

 

 

 というわけで、大変良い第1話でした。
 初手で2エピソード…しかも片方は淡島から舞台を移しての回想というのは、かなり思い切った構成ですが、アホ見てーな人間が入り乱れ、時間を飛び越え紡がれる年代記としては、このぐらいの挑戦が必要なんだと思います。
 そういう心意気をしっかり形にし、伝えるべきを伝えてくれる手際の良さに、とても美しいものをしっかり描こうとする気合が青く滲んでて、本当に素晴らしかった。

 生っぽい現実味と淡く滲んだ詩想が同居する作風が、美しくも厳しい淡島イズムと混ざった時、一体何が生まれていくのか。
 ここからの物語に期待が高まる、最高のスタートです。
 次回も楽しみッ!

霧尾ファンクラブ:第2話『あの日見た君の涙』感想ツイートまとめ

 どんだけイカれて見えたって、今ココが私たちの王国(クニ)だ!
 ノーブレーキで元気良く突っ走りつつ、時折繊細な地金を見せる青春を描く、霧尾ファンクラブ第2話である。
 たいへん良かった。

 

 

 

 

 

 

 

画像は”霧尾ファンクラブ”第2話より引用


 つーわけで凹んだり歌ったり、上がったり下がったりでなかなか忙しい回だった。
 恋のライバル(?)皐月ちゃんが話の真ん中に踊り込んでくれたおかげで、グッと作品世界が横に広がり、陽気に見える人たちが実はかなり屈折した秘密を抱え合っている様子が、よりクッキリと見えてきた。

 あと主役二人のはしゃぎっぷりが、やっぱ可愛いて眩しい。
 なにはともあれ、仲良きことは美しき哉。

 

 あこがれの人に距離感近くグイグイ行くライバルに、バチギレしつつもいきなり突っかかることはせず、ヒソヒソ陰からちゃんと観察する藍美ちゃん。
 皐月ちゃんが非の打ち所のないいい子であることを、素直に認めてしまえるネジレのなさが確認できて、そういう意味でもいい回だった。
 藍美ちゃんはとびきりの奇人でありながら悪人ではなく、というか他人の良い所をちゃんと見つけ認めることが出来、自分にそういう輝きがないことを認識できてしまう人だ。
 教室の隅っこでクラスの主役にバチギレつつ、恨みで全てを吸い込むブラックホールに自分を変えない、妙に健全な靭やかさが藍美ちゃんにはある。

 「…そこを波ちゃんも好きになったのかなぁ…」などとも思う回だったが、藍美ちゃんは自分の”無さ”に凹むことはあっても胸の中に立ち上る炎を消すことはなく、自分がどんだけ霧尾くんが好きなのか、滾る思いを勢い良く吐き出し、黒板に書きつけて音楽に変えていく。
 一人だったら沈み込んでしまいそうなところでも、ずーっと隣で一緒にはしゃぎ、その顔色をよく見てさり気なく上向きのコントロールする波ちゃんが、下向きの引力を振りちぎって明るい狂騒へと、自分たちの青春を導いてくれる。
 見た目ほど明るくも騒がしくもない、結構ジメッとした内面をそれぞれ抱えつつ、皆が必死に青春を演じている。

 

 その共犯された嘘っぱちは、二人が眩しい夕焼けの中ゲラゲラ笑っている時点でもはや嘘ではなく、誠を宿した真なのだ。
 正しい交流の外側から勝手に睨みつけ、勝手に吹き上がり、勝手に凹んで勝手に立ち直る的はずれな運動であっても、確かにそこに熱はある。
 そのドドメ色の透明度をすごく丁寧に削り出してくれているところが、僕がこの作品を好きな理由なのかもしれない。

 ここら辺、いわゆる”リア充”に見える皐月ちゃんが作品に飛び込んだことで、より鮮明に陰影が付いた部分だろう。
 ハタから見てどういう評価をされようが、嘘つき奇人どもの青春は星のごとく眩しい。
 たとえそれが、毒電波垂れ流す暗黒星であったとしてもだ。

 

 明るく元気で人当たりがよく、ずーっと二人でツルンでるトンチキ人間にも分け隔てなく接してくれる皐月ちゃんは、どうやらそういう奇人たちのことが嫌いではない…つうか結構好きなようだ。
 恋のライバル(?)である彼女は、波ちゃんが全てを偽ってでも守り抜きたい藍美ちゃんとのハッピーライフを、(僕らがそうするように)ポジティブに評価してくれる。
 その外側からの視線が、「クラスメイトの推し活」という他者のコンテンツ消費から、上手く毒を抜いてくれてる感じもある。
 とびきり野放図な無邪気さは主役コンビの大きな魅力だが、その透明度を皐月ちゃんの視線が担保してくれている…というか。

 霧尾くんとの距離が近い彼女が、ブリッジの役目を果たす形で、霧尾くんと桃瀬くんと皐月ちゃんの微妙に陰影の来い関係性も、人間同士の繋がりとして立体感を増してきた。
 つーか皐月ちゃんが突っつこうとする、桃瀬くんが霧尾くんに抱える感情爆弾が追加され、青春サスペンスとしての深度が更に増していっているのは、本当に面白い。
 こうして賑やかでバカバカしい青春大暴れの参加者が、全員なにか複雑な秘密を抱えている構造だと、表向きのコメディと奥に隠したミステリが呼応し合い、かなりコクのある奥行きが生まれていくと思う。
 どう隠しどうチラ見せし、どう暴くか…情報開示のタイミングとセンスが大事だな。

 

 ともあれ皐月ちゃんというカメラが霧尾くんに向くことで、主役たちが勝手に消費する(片方にとっては、本当に好きな人の隣りにいるための嘘でしかない)他者の顔に、個別のライトが当たり始めているのは良いと思う。
 霧尾くんも霧尾くんなりの歴史と痛みを抱えて、あんま他人との関わりに積極的になれない今があるはずで、それは外からワーワー騒ぎ立て、勝手に涙なめなめソング作る推し消費では踏み込めない、人間的な体温を宿す。
 ここらへんを皐月ちゃんと桃瀬くんが引き受けてくれると、ヤダ味少なく藍美ちゃんと波ちゃんのユカイな奇行を堪能できるので、ありがたい新機軸だった。

 湧き上がる思いをただ抱えることが出来ず、波ちゃんに吐き出して一緒に歌まで作ってしまう、藍美ちゃんのクリエイティビティが元気だったのも今回良かった。
 やってるこたーイカれた偏愛空回りなんだが、それがあんな名曲になってしまう(DIALOGUE+メンバーの無駄使いすぎるッ!)あたりに、二人が二人でいることで生まれる、奇妙で綺麗な結晶作用を感じることが出来た。
 メチャクチャではあるし、お互い秘密を抱えてズルくはあるのだが、それでも狂騒の日々は確かに何かを生み出す。
 その証として、今回”歌”があったのはとても素晴らしいと感じる。
 いやまぁ、そうしてヒリ出さされるの涙なめなめソングなんだけどさ…。

 

 第1話で力強く「俺達ァこういうお話だぁ!!」と叩きつけてくれたことで、霧尾くんを焦点に閉じて満たされた二人の関係が、その外側から見るとどういう形なのか、皐月ちゃんという存在で教えてくれる第2話でした。
 ハタから見てても勢い良く世界の隅っこを突っ走る藍美ちゃんと、そんな彼女をずっと見つめてる波ちゃんの関係は好ましく、眩しく見えると解って嬉しかった。
 こういう形で、視聴者の感覚を作品内部にフィードバックして、感じ取ったものの裏打ちを明るく楽しく元気良くやってくれる手際は、とてもいいと思います。
 この巧さがあるから、かなり難しい構造の多重青春ミステリが描写可能にもなっている。

 藍美ちゃんに全力で走ってもらいつつ、そのエネルギーが立ち止まったり迷ったりしそうになったら、ひょっこり顔を出して軌道修正する波ちゃんの強かさやズルさ…そうせざるを得ないほど、中3の冬から脳みそトンチキ女に灼かれてる深度も、よく分かる回でした。
 波ちゃん、基本受け身に見えて(本心から霧尾くん好きなわけじゃないから当然でもある)二人だけの大暴れのハンドルはガッチリ握っていて、どういう道を走っていくかの選択権は、大暴れエンジンな藍美ちゃんにはあんまないんだよな…。
 そういうテクニカルなコントロールが、凄く切実な感情から滲み出してる気配もビリビリ来ていて、大変いいです。

 

 

 人当たりが良い皐月ちゃんが橋渡しをすることで、霧尾くんサイドの人間模様もしっかり書けそうな感じになってきて、いよいよ青春トンチキ大暴走は速度を増していきそうです。
 ギャグ方面でも溢れだすアイデア一切手加減無し、出し惜しみなしのラッシュを仕掛けてくれてるのが、贅沢でありがたい。
 バッババッバ、凄い勢いでトンチキ贅沢に使い倒すことで、独自のリズム感が生まれているのはとてもいいと思う。

 奇人力全開のハイテンションコメディと、切ない青春多層ミステリの両輪で、果たして何処までぶっちぎれるのか。
 どんどんポテンシャルを見せてくれて、大変期待が高まります。
 次回も楽しみっ!

氷の城壁:第1話『線と壁』感想ツイートまとめ

 ようこそ、数多の貌が乱反射する鏡の迷宮へ。
 青春のじっとり重苦しい所まで潜り抜く物語の、剽軽で重苦しいスタートラインを描く、アニメ・氷の城壁第1話である。

 

 スーパー阿賀沢紅茶イヤーSEASON2! つうわけで、”正反対な君と僕”の衝撃も醒めぬまま、前作もスタジオKAIでアニメ化である。
 マジすげーぜ…。
 元はLINEマンガのウェブトゥーンがジャンプコミックスで発売され、今の表玄関はマーガレット…という、妙に複雑な経緯を辿って世に出てる作品は、思慮深く言語化能力とコミュニケーション性能が高く、明るく笑いながら人生の正解をガッチリ掴めた、正反対なあのコたちとはかなり違う。

 氷の防壁に世界を閉ざし他人を遠ざけることでしか、自分を軽んじてくる痛みから己を守れない少女の、冷たいどん詰まり。
 そこが物語のスタート地点…であり、彼女と出会う若者たちもまた、明るく装った表層の奥に、様々な悩みと秘密を抱えている。
 じっとりネバついた薄暗い自意識と、その奥で膿んでいく心の傷と、そんなものなかったように振る舞うことで生まれる、学校社会の適切な泳ぎ方。
 そういうモノがないまぜになって、理想的とはとても言えない生っぽさで、ズブズブ思春期の心と繋がりに踏み込んでいく物語である。
 いやー…やっぱ全然違うなッ!(そこが好き)

 

 しかしそれは間逆な作風というより、人間というオブジェクトを明暗どちらから照らすのかという、照射角の違いでしかないように思う。
 ヒリつく拒絶と痛みを宿しつつ、ホッと息を抜くひょうきんさは自然と顔を出し、笑えたり心許せたりする場所は、氷の世界にもまだまだある。
 だがそれが凍りついた拒絶を溶かす魔法にはなってくれないし、未だ表層しか見えない人々の奥には、それぞれの氷と炎が薄皮一枚、渦を巻いている。
 ”正反対な君と僕”があえて踏み込むのを避けた、思春期の泥に首まで浸かりつつ、そういうモノを生み出すしかない苦しみや悩ましさが何処から来て、何処に救われていくのか、真っ直ぐ見据える視線が確かにある。

 ままならない世界とままならない自分に振り回されつつ、小雪が出会ってしまった人たちによって変化していく道のりは、ま見てて羨ましくなる明るさや軽やかさからは遠い。
 しかしだからこそ削り出せる、嘘のない暗さや深い痛みは確かにあるし、それは美しい楽園を下支えする岩盤として、しっかり見つめられていたモノだと思う。
 だからまー個人的には、”陰”のコッチと”陽”のアッチ、両方合わせて補完し合う関係かなぁ…などと思ってる。
 コッチが完結した後連載媒体を切り替えるにあたって、どういう戦術で自分が睨みつけているものを描き直すか、そうとう考え抜いた結果のアッチ…ってことなんだろうなぁ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像は”氷の城壁”第1話より引用

 この明暗の対比は他作品とだけでなく、自作の内部にも長く伸びている。
 つーかOPのキラキラ青春加減と、EDの思春期ドン曇り加減の対比が凄くて、思わず笑ってしまった。
 どっちが嘘って話ではなくどっちも”氷の城壁”なんだけども、インパクトあるのはEDの薄暗さと二面性だよなぁ…。
 ”正反対”ではソフトに受け入れられていた二面性が、リアルでシビアな虚実の刃になって、自分の内側と外側にニョキニョキ伸びていく未来が、上手く表現されていたと思う。

 明るく眩しい表層と、暗く混沌とした内面。
 その分断は人それぞれはこころの中に抱え込む、違う地獄の匂いを宿す。

 

 そのどんより重たい壁の向こう側に、自分を出し他人を受け入れていく成熟に至るまで、若者たちはどんな触れ合いを果たし、傷つけ傷つけられて、足踏み迷い道の先にちょっとずつ進み出せるのか。
 その途中に確かに、眩しい多幸感と充実を星のように瞬かせながら、なかなかハードコアな自己探求の旅を、これから四人は進んでいくことになる。

 そのディープで薄暗い思弁性と、すぐさま答えにたどり着けないままならなさを、アニメがどんな感じで料理していくのか。
 クセが強い食材なのは間違いないので、今後の演出方針がどうなっていくのかは、とても楽しみである。

 

 

 

 

 

 

 

画像は”氷の城壁”第1話より引用

 というわけで物語の主人公である氷川小雪の書き方をまず見ていくわけだが…結構表情豊かでカワイイやつなんすよ!
 中学時代に精神メッタにされた結果、トゲだらけの防壁(攻撃性に自覚薄)を張り巡らせ感情を一部凍りつかせることで、なんとか高校生活を生き延びているけども、美姫にだけはニカッとした笑顔を見せてくれる。

 そして素顔をさらけ出せる心理的安全性は、美姫にとってもお互い様で、なんかアイドルっぽくなってるけど単細胞ゴリラな地金を、ムキーッと暴けるのはこゆん相手だけだ。
 微かに氷が溶けて誰かと繋がっている城壁の空気孔が、ここに開いている。

 

 他人を遠ざけ心を凍らせるのもしょーがねぇ、最悪な経験を中学で心に刻まれてなお、世界の全部を拒絶せず美姫相手にはデフォルメで笑えている。
 それは確かな希望で、同時にこの率直な地金は現状、美姫以外には晒されせていないままだ。
 「生のまま無防備に他人と向き合ってたら、心ズタズタにされたから凍らせて守ってんだろーがッ!」という話ではあるが、トゲだらけの表層と結構温かな内面の矛盾が、もうちょい横幅広く、色んな人相手に解消されたほうが息はしやすくねーか? つう話ではある。
 そうやって色んな場所に空気穴を開ける生き方が、どんだけハイコストで息苦しいかもまぁ、この後書いていくわけだがな…。

 智に働けば角が立ち、情に棹させば流され、意地を通せば窮屈な、とかく生きにくい人の世。
 色んな人がそれぞれの難しさの中で生きている中で、未だ自分の形を固めきらなくて良い贅沢と、それでもある程度以上の社会性を備え、時に無神経で傲慢な世界を生き延びなきゃいけない残酷の、狭間で生きてる高校一年晩秋。
 人生の春…と雑にくくるには、あまりにイラつくノイズが多い季節の冷たさと渇きと、不定形の混沌と微かな光を、今後物語は追っていくことになる。
 誰と繋がり何を求め、どうあるべきか。
 答えを見つけたと思いこんでは切り崩され、血まみれで新しく探しては滑って転ぶ、楽しいハイキングの始まりである。

 

 

 

 

 

 

 

画像は”氷の城壁”第1話より引用

 美姫との絆を命綱にして、周りもおののく氷の女王として高校生活を生き延びていた小雪だが、否応なく人は人と出会い、様々な印象を受け取り、新しく繋がりを生み出していく。
 幼年期に邂逅したキリンを思わせる、穏やかな長身の青年。
 自分をかつて傷つけた無遠慮な軽薄を、否応なく思い出させるチャラ男。
 奇妙な引力に引き寄せられて、主要人物たちは学園生活の中接触を果たし、小雪は城壁の向こう側に自分を出さない。
 そこに閉じこもる戦術こそが、唯一傷つけられた自分を生き延びさせる有効打だと、心を凍らせて強く思い込む。

 その硬い壁が「お高くとまってる」とか「冷たくて怖い」とか思われているから、彼女は氷の女王扱いされてるわけだが。
 そうやって他人を遠ざけ自分の領土に踏み込ませない事で、自己を防衛できている現状に満足しているのが、本当なのかフリなのか…出会いによって否応なく動き出してしまう物語は、小雪を揺さぶり問いかけていく。
 壁の向こう側では、コミカルな擬音と結構愉快な思考満載のオモシレー奴なんだけども、そういう素が見れない距離に他人と世界を遠ざけなきゃ、息ができない苦しさに今在るのも事実だしな…。
 なかなかに難しい立場なのです、氷川小雪高校一年生ッ!

 

 そして他人が小雪に投げつける思い込みと決めつけは、別に小雪を特別に除外しているわけではない。
 小雪も年相応に…あるいは人間の宿痾として、他人を勝手に判断し、自分の偏狭な理解が正しいと思い込んで、適切な反応を決め込んで自分の外側へ出力する。

 あるがままの誰かを受け止めるには、引き攣れた傷跡が心の柔軟性を奪いすぎてて、色眼鏡のかかった視線でしか他人を見れない…あんま良いとは言えない現状。
 そういう見えなさと不自由が、当たり前に学校には満ちている。
 それは凄くありふれた、笑顔の外装でみんななんとかやり過ごしている牢獄だ。

 

 他人は解ってくれないし、自分も解ろうと出来ないし、それでも勝手な思い込みと適当な演技で、なんとなくノイズのない(って事になってる、実は飾り立てた不協和音だらけの)人間関係が流れていく。
 率直にあるがままの自分と他人を見つめ、そうして見つけたものをノイズのない言葉で伝え合い、変わることを恐れずむしろ寿ぎながら未来へ進んでいけるような、楽園の足取りはここにはない。

 あるのは他人はおろか自分の形すら不鮮明に良く見えず、そのくせ心の何処かでより善く分かりより良く繋がることを望んで、全然果たせない不格好な藻掻きだけだ。
 極めてありきたりで、だからこそ描く価値のある現世の青春である。
 そこには重苦しい氷だけでなく、確かに笑える瞬間もあるのだ。
 …あった上で、その笑いや軽やかさが万能の魔法になってくれねーから、より厄介なんだけどね。

 

 

 

 

 

 

画像は”氷の城壁”第1話より引用

 

 自分を粗雑に嘲笑う、世にありふれた無邪気な軽薄さを目の前にした時、小雪の視線はとても怖くなる。
 その攻撃性が「こえ~」ってされる大きな理由ではあるんだけど、そうしなきゃ自分が殺されるってんなら視線で刺しもするだろうッ!

 そして自分が誰かを傷つけていると想像できない、顔の見えない「よくいる人達」にすら、小雪の防壁は侵食され、心の刃は届かない。
 そこで反発し攻撃し返すより、高く高く氷を積み上げて他人に踏み込ませないやり方を、この子は選んだのだ。

 

 踏み込まないし、踏み込ませない。
 小雪が選んだ戦術は万能でも無敵でもなく、共感能力に欠けたクズが土足で踏み込んで、ヘラヘラ尊厳を踏み荒らしていく。
 それに追い詰められた時、氷の城壁の向こう側に誰かを求めてしまう心は、小雪の中でまだ死んでいない。
 それは痛みと辛さの源泉であるけど、同時に本当に心を凍死させてしまう未来より、ちったぁ明るい…かもしれない場所へ、進み出すための鍵に、なるかもしれない。
 不器用に手を伸ばしたら、ぼやけた視界に眉間をしかめながら近づいてきてくれる、でっけーキリンも世界にはいるのだ。
 いやマジ、ありがとうヨータ…。

 この第1話で小雪が、美姫以外に氷が溶けた表情を見せるのは、このラストカットだけだ。
 そんだけ彼女が張り巡らせた防壁は分厚く、自分自身が何を望んでいるのか見つける感性は、痛みと一緒に凍りついている。
 でも少しでも暖かい場所をまだ望んでいるから、自分の外側から自分を助けてくれる誰かに手を伸ばす時、世界は温かなオレンジに染まっているんだと思う。
 そこには氷を溶かして、疼く痛みとままならない心音を、ココではない何処かに連れていける可能性が、確かにある。
 それを諦めていないからこそ、小雪は名もしれぬ誰かを見つけて、手を伸ばしたのだ…と、僕は傲慢ながら思う。

 

 

 この小さく切実な身じろぎが、一体どんな波紋と繋がりを生んでいくのか。
 氷の城壁で身を守っても、自分の柔らかな部分を傷つけてくる世界に包囲された少女に、どんな変化が生まれていくのか。
 待ち構える道は茨だらけの迷路であり、見つけた答えがすぐさま消える五里霧中であるけども、まーそれも青春のもう一つの顔だわなッ!!

 凍りついた諦観と救済を求め疼く心が、相矛盾しながら転がるでこぼこ道を、四人がどう走っていくのか。
 動き出してしまった物語を、アニメがどんなふうに描いていくのか、とても気になる第一話でした。
 程よくコミカルな要素を挟んで、重さを抜いてたのが良かったです。
 次回も楽しみ!

とんがり帽子のアトリエ:第1話『はじまりの魔法』感想ツイートまとめ

 憧れの光と禁忌の闇が、出会いの果てに混ざり合う。
 技術と倫理と芸術の真髄をファンタジックに綴る、見習い魔法使い立志の物語。
 アニメ”とんがり帽子のアトリエ”第1話、堂々の開幕である。
 たいへん良かった…ありがとう渡辺歩監督、ありがとうBUG FILMS。

 

 風光明媚な世界で健気に暮らす少女が、憧れの魔法と出会いふたたび日常に戻る様子を穏やかに描く…ところで終わらず、掟でがんじがらめにされるだけの危険性をもった技術に知らぬまま触れ、唯一の肉親を石に変える過酷な開幕である。
 魔法に満ちた世界がどれだけ美しいのか、説得力あるヴィジュアルと演出で豊かに書ききってくれて、感謝に絶えない。

 血筋と地位が手の届かぬところに隔てている憧れが、実は誰もが利用可能な技術でしかないと判る、極めて民主的かつ現代的な希望。
 全肯定されておかしくないそれが、プロメテウスの火を無垢なまま弄ぶ危険性として炸裂する所から、ココの修行は始まっていく。
 理不尽に思える掟には重すぎる理由があり、秘密の奥には複雑怪奇な謎と痛みが隠されている世界で、全てを奪い去って旧い形を保つよりも、過酷ながら唯一光を消さない可能性へと扉を開けて、闇と光は複雑に混ざり合っている。
 ただ美しいだけでは終わらない、重たく衝撃的な旅立ちが、この作品における”魔法”をよく綴っていた。

 

 魔法は全人類が平等に学べる技術であり、数多の秘密と掟で縛られるべき倫理的課題であり、あまりに美しく創造性を羽ばたかせる芸術でもある。
 その多彩さに、衣食住から風景、不思議な生き物たちのデザインまですべてが美しい描線が説得力を与え、ここではない何処かのおとぎ話は、だからこそ鋭く我々の課題を射抜いていく。
 AI技術とその経済圏の拡大に伴い、テクノロジーが社会に与えるインパクトと変質をどう扱っていくべきなのかが、極めて身近な課題になっているからこそ、様々な顔を持つこの作品の”魔法”は、あまりに美しく眩しいまま、とても身近な体温を宿している。

 テック解放主義過激派の匂いがある、一つ目玉の魔術師によって、ココは技術暴走の片棒を握らされ、母殺しの罪を背負わされる。
 適切な知識と導きがないまま、ただ技術をトレースすることによって生まれる歪によって、少女の人生と母の命は残酷な牙に飲み込まれてしまった。
 これを取り戻すべく、長い長い学習の旅へと進み出すココの幼年期は、我が家を後にした時既に終わっていた…ともいえるし、激情を微笑みで隠すキーフリー先生の手のひらによって、未だ優しく包まれ始まり直す…ともいえる。
 どちらにしても、夢との再開は極めて過酷な巣立ちを、ココに押し付けることになった。

 

 馬車を空に浮かばせ、汚水を清め、人を殺すも活かすも自由自在な、ただの技術。
 一度世界を焼き尽くした魔法がどういう社会体制に縛られ、どんな秘密と倫理で抑え込まれているかを描くのはここからであるが、その可能性と加害性両方が、ココを中心軸にして力強くうねる初回だった。
 これだけ危ういもの、罪を生み出してしまうものと向き合う時、魔法使いは否応なく、人とはどのような形をしているか/するべきかを問われる。
 ココは己の罪と願うを暴く照魔鏡を、常に隣においてこれからの道を過ごすことになる。
 そしてその旅は厳しいだけではなく、美しくも暖かく、愛しいものになっていく。

 これだけの第1話を作り上げてくれた筆が、ここから先の物語をどれだけ豊かに描ききってくれるのか、原作ファンとしては既に期待しかないけども。
 一度しか描かれぬココの故郷が、これから踏み込んでいく魔法の國に勝るとも劣らぬ美しい場所であったこと…それを己の過ちで傷つけてしまった痛みを、しっかり積み上げてくれるスタートで良かった。
 ここから始まる魔法修行は確かに素晴らしい時間で、でもそれはここで父を失い母と過ごし、仕立て屋としての技量と素直な心を少女なり育んだ、ココの時がちゃんとあったからこそだ。
 それを始まりにしっかり刻んでくれたのは、とても嬉しい。

 

 

 

 

 

 

 

画像は”とんがり帽子のアトリエ”第1話より引用

 というわけで見てくれよ、この村の情景を…。
 鼻の長い不思議な獣とともに暮らす、この村に日が昇り夜が来てまた日が昇るまでのたった一日で、ココの人生は大きく変わってしまう。

 眩しい陽の光に照らされ、魔法使いという憧れの存在に何が出来るのか、晴れがましく照らされていた昼間から、「見るなのタブー」を破り禁断の知識を得て、知恵の炎に近づく夕暮れ。
 それが我が家と母を飲み込む暗い夜と、それを越えてなお新しい夜明けに向き合う瞬間の、眩しい光。
 時間経過の制御が、物語とシンクロして神話的な運命性を、しっかり物語の始まりに刻み込んでいる。

 

 明るく隠すもののない場所から、無垢なまま危険な真実に触れる暗がりを経て、傷だらけのまま新たな道に向かい直す旅路は、そのままココの心理的旅路でもある。
 幼い日、自分は魔法使いにはなれないのだと思い知った影を吹き飛ばす、キーフリーとの出会い。
 そこではひたすらに陰りのない憧れだったものは、暗い闇から謀略を弄ぶ長い手に操られて、危うい闇を帯び直す。
 そうして、常人には手が届かない禁忌だったものの危うさを刻み込まれてなお、ココは母と一緒に石になることも、全てを忘れて魔法と無縁に生きることも、もはや選べなくなってしまう。
 無知だった自分の罪を噛み締めながら、魔法使いになっていくしかないのだ。

 浄水や流通といった生活インフラに、魔法が深く根付いている描写があることで、ココを襲った悲劇は彼女一人の個人的なものでは終わらず、作品社会全体に及ぶとても大きな事件であることが判る。
 この第一話で彼女が辿った、憧れの眩さと禁忌の陰り、その二つを知って黎明に旅立っていく歩みは、修行と学習を通じて子供でなくなっていく未来と同じく、極めて扱いが難しい技術を秘密のまま、掟で縛って維持している社会にも伸びていく。
 この時間的・社会的な広がりが強く感じられるスタートが、とても美しく雄大な風景描写…夢と想像力を否応なく掻き立てられる見事なファンタジーによって、強く羽ばたいているのがとても良かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

画像は”とんがり帽子のアトリエ”第1話より引用

 そういう遠い運命の地平線を見据えた筆致だけでなく、生き生きと主人公のかんばせを描く筆先も大変に雄弁で、とにもかくにもココがかわいーのホントッ!
 村の人達が過ごす日々の中に、生活文化の蓄積を感じさせる美術の作り込みと同じ気合が、感性豊かな少女が目を輝かせる感動や、涙を絞る悲劇に出会う描線に注ぎ込まれ、たーいへんチャーミングだった。

 ホンマココが素敵な子であるのは作品の心臓なので、最高に好きになれる女の子としてまず描いてくれたのは、マジありがたかったです。
 ほーんと、表情がコロコロ変わって可愛いんだぁ…。

 

 明るい笑顔と品の良い礼節が印象的だからこそ、魔法を暴走させ母を石に変えてしまった時の悲しみと絶望…キーフリーの手を跳ね除ける力強さも印象的である。
 もはや憧れに向けて進み出すのではなく肉親の側に留まることを選んだ、母思いの優しい少女であることを許されなくなってしまったココは、運命が刻み込んだ大きな傷にもかかわらず、聡明で前向きで逞しい、希望の子のままだ。

 それはキーフリー先生が、掟を杓子行事に適応して記憶を奪うのではなく、むしろその掌中にココを招き入れることで、新たな運命と責任と可能性を拓いたことが、大きく関わっている。
 まぁそんな彼も、鍔付き帽子が絡むと”いい大人”ではいられんがね…。

 

 ココを問いただすシーンが原作よりも荒々しくなっていて、「荒ぶる花江くんも素敵…」となっちゃったけども。
 完璧な大人であり師匠である…用に思えるキーフリー先生が、実は極めて重たい感情と決意を秘めているってのが、この作品の大きなエンジンである以上、第1話でしっかり大人の仮面を乱してきたのはいいことだな、と思う。
 母と我が家を自らの手で石に変えてしまった(変えさせられた)ココには、新たな人生の導きとなる光と、安らげる家が必要なわけだが。
 キーフリー先生はそれをしっかり手渡しつつ(マジ偉いッ!)、同時に過酷な運命に翻弄される、もう一人の子どもを自分の中に抱え続けている。

 一見庇護される子どもと立派な大人という、静止して揺らがないモデルに固定されているように見える二人だが、実は師弟の関係性は「大人/子ども」という境界線に「魔法使い/人間」という境目を巻き込んで、複雑に揺れていく。
 そのダイナミズムに、魔法技術によって構築される社会の複雑な面白さを乗せている物語が、その足場をしっかり見せるよう第1話を進み出せたのは、とても良かった。
 キーフリー先生を完成した大人の檻に閉じ込めず、結構危うい人物にしたのは、ココたちを純粋無垢な子どもという殻で覆わず、それぞれの個性と難しさを抱えた一人間として描く筆の、大事な裏側だと思うんだよなぁ…。

 

 

 

 

 

 

 

 

画像は”とんがり帽子のアトリエ”第1話より引用

 そしてこの世界の魔法が適切な素材と技術を組み合わせれば、血筋や才能に関係なく扱える技術である以上、様々な技芸の描写も、とても大事になってくる。
 ココの堂に入った布さばきは、キーフリー先生の迷いのない魔法陣執筆と対照をなし、あるいは拙い魔法を初めて描く指先と響き合う。
 暗い謀略を秘めて、幼い少女に気の長い爆弾を手渡す時の妖術師の手つきも、職業詐欺師特有の滑らかさに満ちている。

 時間をかけて習熟したものは、善悪や秘めたる危うさとは無関係に、滞りのない美しさを宿すわけだ。
 そういうテクネーの美術が元気なのは、技術論のアニメとしていい足場だと思う。

 

 ペンとインクで軌跡を綴る”漫画”という、原作が選んだアートの形態に重なるように、この物語の魔法は「描くもの」として描かれる。
 ココが布を断つ前段階、迷いなく真っ直ぐ線を引く見事さが今回描かれたのは、キーフリー先生が飛行円盤を修理する時に見せた魔法行使の見事さに、それが繋がりうる可能性を示す。
 憧れに惹かれそれを覗き込んだことで、ココは知識なしでは世界を焼き尽くしてしまう危うい技術に、何も知らぬまま飛び込むことになる。
 そうなるための危うい灯火を、祭りの怪しげな出会いに仕込んでいるイグイーンもまぁ、気の長い野郎だって話だけども…。

 ともあれ魔法は血に宿る才能ではなく、道具と知識と経験を組み合わせて綴られる技術であり、万人に平等な奇跡…になりうる。
 同時に致死性の毒にもなりうるのが技術というもので、陣が孕む危険や意味も知らぬまま、形だけトレースした(適性があったので、トレースできてしまった)結果、取り返しのつかない悲劇がココを襲うことになる。
 極めて有用であり、ココが住まう片田舎ですら生活を支える魔法技術は、理由なき因習だけで閉ざされているわけではなく、過酷な掟はさらなる悲劇を防ぐためにある。
 …という硬い倫理だけですまない複雑さが、この作品の魔法に宿っていることは、ココを翻弄する運命を見れば直ぐに分かることだ。

 

 我々の世界では技術は経済と結びつき、野放図にカネを稼ぎそれ故に怪物的進歩を果たして、より多くの人を殺し命を救いうる炎になっている。
 驚異的な速度で駆け抜ける技術に、あるべき倫理の枷が全然追いつかぬまま必死に、社会が己の形を保てるよう足掻くせめぎあいは、現世の様々な場所で観測できるが、ココのいる世界では過酷な掟が技術を縛り、その濫用を防ぐべく張り巡らされている。
 全てを民衆の手の中に手渡す啓蒙の光が、真っ先に駆逐した”魔法”の陰りに、職業集団内部の秘密と倫理が抵抗し、世界にとって有用な形に抑え込もうとしている、社会性ドリブンな技術制御…といえるか。

 それが思わず幼子を魅了する美しさに満ちた芸術であり、ナノハザードめいた大災害を引き起こす禁忌でもある複雑さを成立させるために、”魔法”という豊かなフレームが必要…ともいえるか。
 描かれる魔法はどれも夢いっぱいで美しく、あるいはSF的悪夢の色を宿して悍ましく、”技術”という言葉を聞いた時思い浮かぶ灰色から、面白く距離を取っている。
 この眩さと闇に引き寄せられ、魔法技術者たちはとても熱心に超常の知識に手を伸ばし、時に技術が持つ本質をそのまま解放するよう、野放図に可能性を解き放とうとする。
 その結果、どんな事が起こりうるのか。
 夢の眩さと背中合わせな惨劇を、ちゃんと書く所からスタートだ。

 

 「いや…書くだけでこんなこと起こるなら、そらー適応可能範囲を厳密に定め、逸脱者にはシビアな対応するのも当然でしょ…」と思わされる、魔法技術の暴走。
 何も知らねーココの憧れを薪に変えて、そういうモン引き起こすテック解放主義者にはかなりブチギレであるけども、技術が技術である以上、それはこうして解放され、暴走する可能性を常に宿す。

 不完全な人間が扱うにはあまりに危うい魔法がなければ、洗濯も移動もままならない世界で、ではどのように魔法を扱っていくのか。
 これからココが歩む道は、創造を形にするArtと、それを刻み込めるTechniqueと、生み出される力を正しく使えるWisdom全てを学ぶ旅だ。

 

 

 

 

 

 

 

画像は”とんがり帽子のアトリエ”第1話より引用

 すべての技術が必然的に宿す、人間性の明暗。
 そこにひたすらに美しいものに心動かされる、無垢で純粋な輝きが混ざり合うことで、タネが割れてなおこの作品の魔法は”魔法”たり得ている。

 ほーんま幼ココちゃんが無邪気でチャーミングなほど、イグイーン絶対許せねぇ心がメラリと燃え上がるが、それはさておき魔法でウキウキココちゃんも、夢が消えちゃってしょんぼりココちゃんも、魔法出会い直しキラキラココちゃんも、夢の奥の暗い真実を知っちゃったココちゃんも良い…。
 いや良くねぇんだけども、自分の手で唯一の肉親石にしちゃったんだからッ!!! 許せねーッ!!

 

 

 しかし色鮮やかに明滅する光と影が、とても印象的にこの第1話を彩ることで、魔法に心躍るココと僕らの素直な喜びが嘘ではなく、同時にその憧れこそが危うさを孕むことを、しっかりと描いてくれている。
 これから彼女が向き合うのは、ただ夢を叶えて美しいだけの幻ではなく、何もかもを焼き尽くしてしまうかもしれない危うさと、それを制御し幸せを生み出しうる可能性を両方備えた、双頭の獣だ。
 それはココ自身の中にあり、人間という存在が常にもっていて、これから自分のあり方を決めていく幼い存在の中、星のように瞬く希望の光…その裏側にある暗い陰りなのだ。

 こういう技術倫理的視座で”魔法”を描き、それによって成立している社会を解像度高く切り出していく姿勢は、かなりテックSF的だなぁと感じたりするけど。(特にその万能性と産業規模から、ナノテクSFの匂いがある。グレッグ・ベアとかの)
 ともあれ様々な驚異に満ちた魔法世界に、本格的に足を踏み入れた/踏み入れるしかなくなったココの旅は、今幕を開けたばかりだ。
 その先に待っているものが、僕らを心の底から驚かせワクワクさせてくれることは、この第1話の仕上がりが証明してくれた。
 やっぱね~…極上のファンタジーをアニメで啜る瞬間が、最高に気持ちいいんだからホント…。

 

 

 

 過酷に瞬く夢色星に導かれ、新たな我が家に足を踏み入れたココが出会うのは、一体どんな仲間なのか。
 俺の大好きなあの子やあの子やあの子が、アニメでどう書かれるか考えるだけで脳みそぶっ飛びそうだけども、そう思わせてくれるだけの最高のスタートを、しっかり飾ってくれて、ありがたい限りでした。

 いやー…待っただけはある、最高の夢を見せてくれたなぁ…。
 「じゃあこのアニメ自体が、数多の知恵と技術を織りなし生まれた”魔法”ってコト…!?」などと思いつつ、次回を楽しみに待つ。
 異郷に微睡みつつ、だからこそ現実を深く思える最高のファンタジーを、馥郁と飲み干す三か月になりそうだ。
 マジありがとー!