イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

紅殻のパンドラ:第10話『恐怖-フィアー-』感想

セナンクル島決戦第二幕! というわけで、今回は五分間のなげー戦いと、その裏で悩むネネちゃんのお話。
クラりんがいない間にしっかり二人の関係を悩ませつつ、話が落ち着いたらトリックスターであるブエルで一気に進める展開は、戦闘から遠いところにいるネネちゃん故の展開だなぁと思いました。
ここでしっかりモチベーションを整理しておくことで、優しいおじさんの上げたトスが合流後、ネネちゃん経由でクラりんにまで届くからなぁ……突入してアクションでテンポが早くなる前にやっておくのは、結構大事。

今週はとにかくネネちゃんのクラキチっぷりが凄いことになってて、『クラりんが好きすぎて辛い……』とばかりにいきなりぶっ倒れる所とか、心ここにあらずでボーッとしている所とか、本人いない所でオジサン相手に愛の告白ぶちかます所とか、迸る王子様妄想とか、アクセル全開で最高でした。
クラりんの愛がネネちゃんを置いて実力で脅威を排除する『引き』の愛なのに対して、ネネちゃんの愛はあえて踏み込み関わる『押し』の愛なのだなぁ……EDの歌詞とアニメで示されてるとおりやな。
クライマックスの戦闘で必要になるだろう『何故二人は頑張るのか』『何故傷ついても大丈夫なのか』『何故勝てるのか』辺りのロジックに、『だって、好きだから!』という真ん中狙いの豪速球な答えを早いタイミングで気づかせ、世界に向かって叫んだのは、今後の展開を安定させる良い流れだったと思います。

やっぱこのアニメ愛と正義と希望のお話なんで、ネネちゃんがクラりんをとにかくど真ん中に好きだ!! って気持ちが、一番大事なわけで。
答えを直接言うのではなく、問を与えて子供に気づかせるソクラテス的産婆術を駆使し、一番大事なものに気づかせるロバートさんの人間力もあって、良い具合に答えに導いた感じがしました。
ネネちゃんと語り合うことで、自分のなすべきこともちゃんと整理し、決意と実行力を持って『お互い助け合う平和』を題目で終わらせない所とか、ホント有言実行の良い大人だよなぁ……。

ただクラキチなだけではなく、クラりんがいない時は自分一人でやってみようと頑張る辺りも、人格と関係性の風通しが良くて好きです。
ネネの不安の背景に、義体特有の借り物感というか、『肉』体含めた自分自身を所有しきれていない実感と、一度すべてを略奪されたトラウマがうっすら関係している所を見せたのは、シリアスになり過ぎない見せ方含めてナイスでした。
ヘヴィな過去を完全に排除するのも、重たく描写しすぎるのも、作品のムードを裏切っちゃうわけで、今回くらいの見せ方がベストだと思います。
クラりんを猫耳王子様に配置して、お姫様な自分を迎えに来てくれる受け身の妄想も、身体を所有せざる自己認識の延長線上にあるのでは……。(何でもかんでも性抑圧と身体性と所有の概念で分析しようとする、サイボーグ・フェミニズム的やり過ぎ感)

猫の王子様はインチキ技術のドロイド相手に頑張っていたけど、他人を守るために腕一本取られちゃった。
この話女の子二人の話なので、ネネちゃんと合流するまで勝てないという理屈はよく分かる。
お人形呼ばわりしつつも「『死』はムダにしない」と言っちゃってる辺り、やっぱ拓美ちゃんは根本的に善人だのう。
大好きな運命の相手のために戦いの真ん中に飛び込んだネネちゃんが、傷ついたクラりんを前にして何が出来るのか。
来週も非常に楽しみです。


本筋とはあまり関係ないが、舞台裏に引っ込みつつ事態のコントロールを一番ディープに握っているウザルは、クラリオンに何を込めたのだろうか。
電子化された知識や技術を他者と共有できるデバイスは『パンドーラー』と名付けられているが、これはギリシア神話において泥から作られた(アンドロイドであるクラリオンの大先輩と言える)女性であり、災厄の詰まった箱を世界に解き放った存在だ。
知っての通りこのアニメの作品世界は種々の士郎正宗作品と共有であり、この後第四次非核大戦やら大国と企業が複雑に絡んだ陰謀やら、技術の進歩とともに世界の災厄は加速し炸裂する。
軋轢と破壊を伴う『これから』の歴史に、クラリオンのような『人間と区別がつきにくい機械』、そこに投入された過剰な技術が及ぼす影響は大であり、しかも時計の針を巻き戻し危険(を伴う)技術を『なかったこと』にすることは、当然出来ない。
たとえ人倫を摩耗させ悲劇を呼びこむとしても、高度経済と先端技術の加速を止める術を持たない人間のカルマは、サイバーパンクが『パンク』である所以だ。

『開けるな』と言い含められていたにも関わらず箱を開け、災厄を世界に撒き散らしたパンドーラーのように、人間と機械の境界線をあやふやにし、世界を刷新し破壊する技術。
加速し突破するしか道がない未来に対し、それを予見した(おそらく)人類有数の知性が表舞台から引っ込む前に残した、何世代か先取りした『人間と区別がつきにくい機械』。
それが『機械と区別がつかない最初の人類』『機械と人間の境界線を、生得的に既に乗り越えている存在』たる七転福音と出会ったことから物語は始まり、むしろその出会いを切っ掛けにウザルは一旦舞台から退場する決意を固めたのではないか。
パンドーラが開放した箱の中に最後に残った『希望(エルピス。パンドーラデバイスで開放されるスキルシリーズの語源)』のように、『人間に似た機械』と『機械に似た人間』が出会い、その境界線が薄れていく未来のモデルケースとなる可能性を予見(その未来予測が正しいことは、例えば後の素子と”人形使い”の融合であるとか、バイオロイドの登場・普遍化などを見れば判る)したのではないか。
この作品の中で展開される、時としてあまりに脳天気なほど前向きな少女たちの愛は、人類の定義を危うくもする先端技術と、約束されたその暴走、それが連れてくる災厄に対し絶望する必要が無い『希望』として、ウザルに見出され観測されているんじゃないか。
そんなことを妄想する。

新しい知識と技術は常に人間を定義を揺るがしてきたし、新たな発見が行われるたびに禁忌や不可能とされてきた領域に手を伸ばしてきた。
士郎正宗の作品群はそこに伴う変化や悲喜こもごもを時にシリアスに、時にコメディチックに思索し、様々な可能性を物語ってきた、想像力の具現だ。
"攻殻機動隊"がもはや古典と化し、幾度目かのリーブトを受けるこのタイミングで、これまであまりアニメ・メディアでは拾い上げられなかった士郎正宗的『技術への、未来への、人間への楽観性』を軽妙に(時に軽薄に)アニメーションさせ、七転福音とクラリオンという二人の少女の明るい出会いにまとめ上げたこのお話は、確かに『紅殻のパンドラ』という題名に相応しいと思う。
この話は、災厄の未来に約束された希望のお話なのだろう。
考え過ぎなんだろうが、そんなことを思ってしまうのだ。