思い出と輝きが幾重にも折り重なり紡がれる、青春色のタペストリ、今週は遂に来た! スーシィ・マンババラン祭りッ!!
ヘンテコで魅力的な声と外見、毒と可愛さのあるキャラクターで分厚い存在感を示しながらも、あくまでサブキャラクターの枠に収まっていたスーシィが主役に収まり、彼女がどんな女の子なのかを精神への冒険の中で見せていく回でした。
眠りの中で不思議の国に迷い込み、サイケデリックでナンセンスな冒険の果てに、少しだけ何かを掴んで帰還する。
"ふしぎの国のアリス"を下敷きにしつつ、カトゥーンアニメに旧エヴァにシン・ゴジラにトランスフォーマーに、たっぷりパロディをぶち込み、楽しく無理なくスーシィの複雑な内面に降りていく。
ゲラゲラ活劇を楽しんで、スッキリ見終わった後には、『ああ、スーシィってこれまでは過激な側面が目立っていたけども、実は色んな考えや望み、価値観を抱えた、普通の子でもあるんだな』と納得できる。
作劇的仕掛けを多重に使いこなし、キャラを壊すことなく鮮やかに内面を描ききった、見事なお話でした。
というわけで、三バカトリオの化学弾頭、スーシィのメイン回です。
『普通』であることがキャラ性のロッテは、第4話のように街の外側で様々な人々と出会い、『本当の自分』を素直に見せれば話が成り立ちますが、スーシィは我が強く完成された人格をもち、揺るがないことがキャラ性の芯にあるキャラ。
『実は……私だって色々悩んでて……』みたいな湿っぽい弱さを見せてしまうと、今後過激なコメディエンヌとして、話を爆発させるスパイスとして、鈍亀アッコを支える実力者としての仕事が、結構やりにくくなってしまいます。
いわゆる『キャラが崩れる』という状況ですね。
簡単に多種多様で脆い自分を見せないキャラクターが、その実危うさも引っくるめて、色んな可能性をもっていると見せる。
この難しい要求に、今回のエピソードは『直接精神の中に潜る冒険を描写し、キャラクター化された願望や価値観、可能性との掛け合いを軸に据える』という奇策で答えます。
現実世界でスーシィに接近しても、強く揺るがない彼女はラストカットのように自分を強く保ち、『アッコがうざい』とはねのけてしまう。
しかし今回の舞台になっているのは夢であり、複雑な人格が同居するスーシィの精神そのものなので、『本当の自分』が顕になったとしてもそれは一時の夢であり、統一され完成度の高い人格としてのスーシィを崩すものではないわけです。
こういうトリックを使いつつ、夢だからこそ可能なハチャメチャな展開、普段は漏れてこない本音、押さえ込んでいる危うさは本当のことです。
それは『私はこういう存在である』という規定を、かなり強くかけて行動している大人びたスーシィからは出てこない、夢というフィールドだから見えてくる、もう一人のスーシィです。
夢は覚めてしまえば消える儚いものですが、その幻の中で手に入れたピュアな幻想は、夢を共有したアッコとスーシィ(や視聴者)の行動に確かに影響を与え、認識を変化させていきます。
『夢や魔法は現実とズレた位相にありながら、その特質故にもう一つの現実として機能し、『現実』に強い影響を与えていく』という作品内部の規定と、よく響き合う描き方ですね。
さて、そんなふうに掘り下げられていくスーシィの精神世界には、たくさんのスーシィがいます。
作中でも明言されていますがこれは『スーシィ・マンババラン』という統一された自己の一側面であり、天使とか幼女とか悪魔とかドラゴンとか死刑執行人とか裁判官とか、様々なキャラクターは全て紛れもなくスーシィです。
それと同時に、分裂した自分自身をうまくまとめ上げ、『スーシィ・マンババラン』という自己同一性(もしくは身体)に統一している『オリジナル』が存在している以上、たくさんのスーシィは『本物のスーシィ』ではない、とも言える。
ナイトフォールを読みたいとか、男の子ともちょっと付き合ってみたいとか、『スーシィらしくない』ことを思いつく自分を押し殺しながら、彼女は社会と折り合いがつくレベルの『自分らしさ』、他者を食い殺す『ドラゴン』ではないスーシィを選び取って、学園の生活を送っています。
ヤバイ科学実験をバリバリ行い、興味がない科目は余裕でブッチ、スーシィは反権威的な問題児であり、社会と対立しているようにも見えます。
しかし今回、たくさんのスーシィを内部に保ちつつ、社会と(そして多分、誰よりもアッコと)共存可能な自分を選び取って生存させている描写を見ると、スーシィなりに世界と折り合いを付け、欲望にブレーキをかけながら行きていることがわかります。
あまりにも自由に見えるスーシィはその実、何もかもブレーキを外して生きているわけではなく、例えば『必要なキノコは手に入れたし、学校辞めて帰ろう』という自分は殺し、『アッコを見ていると面白いし、学校には残ろう。追い出されない程度に、ヤンチャも楽しもう』という自分を活かす、決断の果てに生きている。
もしくは、他人をぶっ殺したり、AKIRAバリの良い作画でロッテを押しつぶしてしまうような危険な可能性は、思いついても『殺し』て封じ込める。
それはアニメ的な濃いキャラ(それもまた、彼女の魅力ですが)として社会と自我の摩擦に悩まされない特権階級ではなく、僕らと同じように悩みつつも、それをあまり外側には出さない『普通の人』としてのスーシィを、身近に感じさせてくれる描写です。
スーシィはこのアニメのあらゆる存在(もしくは、今生けるすべての人々)がそうであるように、様々な感情や決断、可能性の間で悩み、摩擦を感じながら、自分の生きざまを選び取って『スーシィ・マンババラン』を制御しています。
その内面には、色によって秘められたメッセージを変える花言葉のように、多様な『自分』が息づき、常に闘争と融和を繰り返している。
白い百合が指し示す『威厳と純潔』も、黄色い百合が示す『陽気さと偽り』も、全てはスーシィの中にちゃんと活きていて、僕らがこれまで見てきたスーシィとは違うかもしれないけど、それもまたスーシィを示す花なわけです。
そういう多種多様な『スーシィ・マンババラン』という花束の複雑な色を、ドリームランドへの旅の中でしっかり見せることで、僕らはスーシィをもっと好きになれる。
良いエピソードだと思います。
『オリジナル』が眠ってしまった世界で、アッコはスーシィが『殺す』と選び取った様々な願いを開放し、胸の高まりが導くままに生きることを囁く。
それはアッコ自身の生き方であり、ロッテやダイアナにも共通する少女たちの根本原理なわけですが、理性によって統御された欲望には、危険なものや制御不可能なものもあります。
これが暴走することで、協調や融和という可能性を食いつぶしながら、『少女』は『ドラゴン』に変わる。
逆に言えば、『オリジナル』のスーシィは世界全てを破壊し食い殺す『ドラゴン』にはなりたくないと考えているから、様々な自分を殺し、実現可能な『自分らしさ』を選び取って発露させているわけです。
思いの外、スーシィは大人であるということが、今回の描写から強く感じ取れますね……ていうか、『オリジナル』は自分を殺してアレなんだから、本当に欲望を開放したらとんでもないイドの怪物になるんだろうな。
スーシィの心の園の中で、アッコという存在は非常に大きいです。
ドライブシアターで様々な『スーシィ』が共有し、何回思い出しても感動できる(もしくは面白い)思い出として、二人の白黒のフィルムは美しく輝いている。
それはもしかしたら、(自分なりに)欲望を抑圧して『スーシィ・マンババラン』を演じている彼女には、憧れに対して一切ブレーキを踏まず、どれだけ間違えても『自分らしさ』を暴走させているアッコが、あまりに眩しい星だからかもしれません。
ひねくれて揺るがない自分自身を強く守っている(そういう自分が好きなのでしょう。その自尊は、とても良いことだと思います)スーシィは、行動の端々にアッコへの『大好き』を滲ませつつも、アッコのようにド直球に好意を表現したりはしません。
大人びた人格を持つスーシィにとってそれは、夢の中だけで言える、ガキっぽくて照れくさい真実なのでしょう。
そんなアッコに花束を送ってくれた『少女』のスーシィは、どんなスーシィだったのか。
赤の女王めいた法廷で『少女(アリスのスーシィ?)』を問いただすシーンは、アッコが間に入ることでキャンセルされましたが、軽く推測することは出来ます。
それは悪辣な不良娘のセルフイメージがなかなか表に出さない(出せない)、誰かを好きになり、感謝するイノセンスな『スーシィ』なのでしょう。
黄色と白の百合の花束は、学園の自分を繋ぎ止め、楽しい日々を過ごさせてくれているアッコへの、感謝のプレゼントというわけです。
しかし同時に、『少女』は様々な欲望を食い殺し、『ドラゴン』へと変貌していく。
その切っ掛けになったのは、他ならぬアッコとの出会いの瞬間です。
ヒドい目に幾度もあいながら、だからこそドタバタ楽しいカトゥーンはあの瞬間鳴りを潜めて、まるでロマンスそのもののような美麗なタッチに色合いが変わります。
スーシィは運命の出会いを果たした乙女のようにまつげがが長くなり、アッコもコメディの主役からロマンスの相手役へと、色合いを変える。
そして、せっかく法廷で告白しなくてよかった『その先』を、アッコに見られたくなかったからこそ、『少女』は『ドラゴン』になり、世界を食い殺し始めたのではないかと、僕は思うのです。
眠れる『オリジナル』が住まうという高い塔("いばら姫"と"ラプンツェル"のあわせ技ですね)にたどり着いたアッコは、目覚めの薬を口に含み、女の子同士のキスでスーシィを目覚めさせようとします。
それを欲望の獣は、目をハートマークにしながらうっとりと見守っている。
かつて『少女』であり、今は『ドラゴン』である『スーシィ』にとって、アッコが王子様として自分にキスしてくれるのは、世界を壊す衝動を収めて見守りたくなるほど、喜ばしい行為なわけです。
しかし『オリジナル』のスーシィは、アッコとのキスで目覚めることを拒絶し、二人の間にあるものが性愛ではなく友情であることを選び取って、自力で起き上がります。
『ドラゴン』は涙をためながら消え去り、夢は終わる。
幼いアッコは出会ったものの影の部分に思いを馳せることなく、自分が理解できる範囲の『自分を抑圧しているスーシィ』を気遣いつつ、物語は終わっていきます。
アッコの手助けにより、レズビアンではないことを選び取った『オリジナル』は『スーシィ・マンババラン』の統御権限を『ドラゴン』(もしくは『少女』)に明け渡すことなく、意地悪でひねくれもので、ちょっとだけ優しくて友情に篤いスーシィを維持します。
少女が差し出した花は、機能的には植物の性器です。
そこに秘められた(だろう)含意に、アッコは気づかない(気づけない)。
大股開きで飛んだり跳ねたりするアッコは、自分の性だけではなく、親友の中にある一つの可能性にも当然気付かなくて、ただただ真っ直ぐに『大好きだよ』『愛してるよ』と言ってくれる。
キスに一瞬ためらいつつも、『トモダチならノーカウントだから!』という結論をすぐさま見つけて、無邪気に口づけしようとする。
もしかすると、その欲望の薄さ、自分を恋の相手として一切見ていないアッコに口づけされていしまうことに耐えられなくて、スーシィは起き上がったのかも……と考えるのは、ちょっと過剰な読みかな。
でも、『(ノーカンなら)やめろや』はプライドありすぎて、マジかっけぇよスーシィ……。
スーシィはなぜ、薬を飲まなくても自力で起き上がったのか。
このお話のキャラクターたちが、王子様のエスコートがなければ魔法を使えない旧世代のプリンセスではありえないことは、例えば第6話でしっかりと示されています。
スーシィもまたそういうタフな少女であるが故に、アッコの必死の努力を助けにしつつも、最後は自分の足で立ち上がり、『キノコ』という『スーシィらしさ』を適切にニョッキリ生やしてお話を落着させた。
そういう側面は、確かに強くあると思います。
その上で、あの覚醒はセクシュアリティの覚醒だったのではないかと、僕は思います。
アッコにキスされない自分、唇同士でキスしないことで維持される友情に彼女は誇りと愛着を持っていて、だからいつか『ドラゴン』となる『少女』に死刑判決を下した。
それが自力で抑えられなくなって、他者と外の世界(つまりはアッコ)を破壊する前に、心の湖に沈めてしようと願った。
そのくらい、今ルーナノヴァでアッコたちと過ごしている、性から距離をおいた気の置けない関係性というのはスーシィにとっては宝物で、だから今は目覚めのキスを拒み、抱かれることなく自力で起き上がったのではないか。
それは同性愛者の物語を語る時メインテーマになりがちな、『強要された自己の抑圧』とはまた違う、自主的な選択とプライドに基づいた、一つの『自分らしさ』の発露だと思います。
『スーシィ・マンババラン』は『ドラゴン』を殺し、暴力性で全てを飲み込む『自分らしさ』ではなく、これまで自分が選び取り、育み、調整してきた、三白眼で変な声の『オリジナル』を維持することを選んだわけです。
そこには誇りがあり、決意があり、キスを受け入れてしまった時崩れるもの、変化するものへの怯えがある。
心の花園でもひっそりと隠されている、確かにそこにある気持ちをあえて実行に移さない配慮と恐怖がある。
たくさんの『スーシィ』によって今回表現されたとおり、それら全てが『スーシィ・マンババラン』を構成する、かけがえのない本物(であると同時に、統制権限を持たないスレイブであり、いつでもイドの怪物と化して逆転を狙ってくる存在)なわけです。
何かと肯定されがちな『自分らしく生きる』生き様は、アッコが直面するように問題だらけで、アーシュラ先生が押しつぶされたような挫折が待ち構えているわけで、今回それが『ドラゴン』となって無軌道に全てを食い尽くし、手に入れたいものすら破壊してしまう暴力性が示されました。
スーシィは、それが嫌だという気持ちもあればこそ、自力で起き上がったのでしょう。
仮に『ドラゴン』に食われていたとしたらどうなってたのかなぁ……アッコはスーシィ自身を拒絶することはしないと思うけども、急に関係性が変わってしまうことには恐れを抱くだろうし、幼いアッコを丸呑みしてしまうような性急な手段を取る気もするなぁ……留まってよかったと、僕は思う。
それはとてもスーシィ『らしい』決断で、僕はそれを心から寿ぎたいと思いました。
『自分の中の真実』に素直になって、社会的にマイノリティなセクシュアル・アイデンティティを選択するのと同じくらい、今目の前にある『普通の(というには、ちょっと大暴走な)日常』を選び取り、『今は』キスをする関係にならないことを選択したスーシィの物語、意識して性を選択『しなかった』物語は、貴重で価値があると思います。
スーシィはレズビアンだから(もしくはヘテロだから、バイセクシュアルだから、ズーフィリアだから、その他全ての特定の性傾向を持つから)存在する価値があるわけでも、ましてや思春期性の同性愛をポップ文脈で消費するためのキャラクターだから意味があるわけでもなく、脳みその中に複数の自分を飼い、様々な価値観、性嗜好、自己イメージの間で揺らぎつつ決断を重ねる『スーシィ・マンババラン』その人だからこそ、強い輝きを放っている。
そしてそれは、劇中のスーシィだけではなく、フィクションの壁を乗り越えて僕達にも届く、人のあり方の一つの真実だと思うわけです。
そしてそれは、あくまで『今は』の物語であり、将来的にはスーシィは『ドラゴン』や他の『スーシィ』を殺さない方法を見つけるかもしれないし、アッコとキスする未来を選ぶかもしれない。
性選択の可能性含めて、未来は無限に広がっているのであり、そこへ自己を開放していく手助けをしてくれるからこそ、アッコ達は親友なのでしょう。
一人の少女の現状肯定を優しく見つめ、激しいアクションを交えて描きつつも、その先に広がっていく様々な可能性の萌芽を分厚く肯定しきる。
強いエピソードであり、強い作品だなと思いました。
殺されるべき『スーシィ』の命を救ったことで暴走を呼び込む可能性に、幼いアッコは気づきません。
同い年ながらスーシィは『欲望を殺し、自分らしさを殺すことが、自分と自分以外を守ることになる』という境地にたどり着いている。
そんな二人の精神年齢の差は、しかし優劣の差異には結びつきません。
幼いアッコだからこそ、可能性を開放し新しい『スーシィ』を見つけることが出来たし、大人びたスーシィだからこそ、様々な可能性の中から一つの『スーシィ』を選び取ることが出来た。
スーシィの中の『スーシィ』と同じように、スーシィの中の『アッコ』、アッコの中の『スーシィ』もまた多様な顔と名前、関係性を持っていて、その全てが価値のあるモノなのでしょう。
おバカで暴走超特急なアッコは、カトゥーンめいた喜劇役者の側面と同じくらい、『ありがとう』と『ごめんなさい』を欠かさず言葉にできる心の輝きを、幾度も切り取られてきました。
今回も、親友を助けるために迷わず生贄に志願する自己犠牲も、スーシィが見た『アッコ』を『スーシィ』たちと笑い合う素直さも、しっかり描かれていました。
そういう真っ直ぐな輝きがあればこそ、スーシィは眠りから覚めるわけですが、同時に自分の中の『ドラゴン』を眠らせ、心の危うい部分が触れ合った冒険を『夢』として封じることで、今回のお話は終わります。
同時に、それは『夢』ではないという可能性、『夢』と『現実』を切り離さず同じ延長線上で関連し合う存在と見る意義も示唆されていることが、非常に豊かです。
心のなかを冒険しても、アッコはスーシィのことを全て理解したわけではありません。
それはアッコが幼いからではなく、たとえ魔法を使って精神の国に迷い込んだとしても、人間は他者を絶対的に理解し得ないという、冷静な分析から生まれています。
それを見据えればこそ、アッコ『らしく』大暴れをした結果、見えにくかった親友の一面に触れ、これまでは殺していた、見えなかった『スーシィ』たちを引きずり出し、受け止めようという決断も生まれてくる。
分かり合えないからこそ、断絶されているからこそ、手を伸ばして触れ合おうと、アッコは(そして、そんなアッコに心を動かされたスーシィも、多分)行動するわけです。
それはとんでもなく真実で、尊いことだと思います。
今週はアッコとスーシィ達のお話だったので、ロッテはあんまり目立ちませんでしたが、謹慎中にピザ頼んで一週間の停学されてたり、マジカルバットをフルスイングで側頭部にぶち込んだり、"外道忍法帖"のフェレイラよろしく指全部がキノコになったりしてました。
様々なスーシィに出会う今回、問題児三人組の一角に数えられるだけ婆娑羅っぷりをロッテが見せてくれたのは、キャラクター『らしさ』をぶっとく打ち出しつつ、その影にある様々な側面を打位時にするこのアニメらしく、大笑いしつつありがたかったです。
ナイトフォールで大暴走した辺りで『コイツ……ただの普通の地味眼鏡じゃねぇ……』と確信していたわけですが、スーシィとアッコの元気に乗っかって話が暴れまわる今回、ロッテの秘めた獣性が見えたのは、本当に面白い。
ああいう部分があるから、三人でツルメるんだろうなぁ……。
というわけで、味の濃いキャラをしたスーシィが一体何を望んでいるのか、一気に掘って見せるお話でした。
『深層心理にサイコダイブする』という、直接スーシィの心に触れる状況設定の中に、アッコの幼さとスーシィの成熟をうまく摩擦させ、語られない場所に隠れていったメッセージを輝かせたのは、まさに妙技でした。
そういう細やかなテクニックと、カロリーぶっちぎりの生きのいい作画と撮影(白黒シーン、相当ヤバい)で飽きさせず楽しませてくれて、アッコとスーシィがお互い思い合う気持ちも暖かく食べさせてくれる。
本当に、欲張りなアニメだと思います。
硬軟緩急、色々やりつつ、全部狙った効果にたどり着いているところが凄い。
特別な眠りから覚めたスーシィは、『いつもの』スーシィに、お話を引っ張り守るクールな脇役に戻ると思います。
しかし今回の話でアッコと一緒に、スーシィを構成する複雑な精神世界を旅し、そこに秘められたものを垣間見た僕らは、『いつもの』スーシィを見ても彼女のことをより愛おしく、より親密に感じるでしょう。
そういう喜ばしい変化をもたらすために、キャラ個別のエピソードというのはあるものだし、その目的は完璧に発揮され、この後の物語を見守る行為は、より楽しくなるでしょう。
とてもいいお話でした。
リトルウィッチ追記。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年2月27日
『人を喜ばせたいスーシィ』が取った『蛇を出す』という行動は、フロイト的なファロスの暗喩であると同時に、第1話の出会いのリフレインでもあるか。アッコからしたら意地悪でしかないけど、スーシィはアッコに喜んでほしかったんだね。優しいね、わかりにくいけど。