イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ボールルームへようこそ:第19話『敵(ライバル)』感想ツイートまとめ

追記 セクシュアリティのアンマッチと思春期

追記の追記

スゲー俗っぽくいうと『ノンケに惚れちゃったゲイの悲しさ』ではあるんだが、そういうわかりやすい形式に明の不明なる幼年期が当てはまるかというと、そういう話でもない。
清潔な差別として無遠慮に飛び出す『俺はホモじゃない。お前が好きなだけだ』という寝言とは全く逆の意味合いで、『明はレズではない。千夏が好きなだけ』とは言える。
もし明がレズビアンであったとするなら、『女』という鋳型で情欲を型抜きして、別の女に体重を預けることも出来ただろう。
ダンスが真実を切り取るものだったのなら、他のダンス大好き人間のように踊り続けることも出来ただろう。

明はそうはできない。
ただ千夏一個人を求めて、千夏に求められない自分を今更変える器用さも持つことが出来ないまま、当てつけに形式だけをおいもとめる。
その不純さを開き直ることが出来ないまま、峰さんの純真を怒鳴りつけ、謝らせてしまった自分にショックを受けるほどに、彼女は幼くピュアなのだ。
それは幸福なる一体感で女と女が踊り続けることを許された幼年期を永遠に再演し続けようという、破綻を約束された願望の結果でもある。
そしてその歪なる性意識……とすら確定できない、とてもあやふやで未分化で幼い『女以前』の感情にこの作品は相当な尺を使うし、ダンスが普遍へと強制的につながってしまう『正しさ』と同じくらい、思春期と戦ったドン・キホーテの奮闘を祝福する。
とても良いことだと思う。
おっぱいが大きくて、むっちりした体型の明は『女が女である武器』の使い方に長けた存在でありながら、『男と向かい合うこと前提にした女』しか許容しない社会、競技ダンスのルールに反抗/適応する。
その小ずるい器用さがなんの解決にもなってなくて、不器用にぶつかり合って『正解』にたどり着いた主役の偉業を照らす位置に配置されているのは、なかなかずるいなぁと思う。

明は、千夏のようにスレンダーになりたいと願ったのだろうか。
それとも、千夏がならない/なれない『女らしい体型』だからこそ、千夏に抱かれて踊る娘役の特権を甘受できることに、喜びを感じていたのだろうか。
はたまた、多々良のように(あるいは峰さんのように)『男』なら、千夏と踊り続けることが出来ると考えたのだろうか。
彼女は『女』として特権的に千夏と出会い、特別濃厚な時間を共有/共犯出来たからこそ、幼年期を永遠に閉じ込めようとあがいているようにみえる。
『誰か』になりたいとは思わず、ムチムチの自分が結構好き(何しろムチムチの自分とスレンダーな明の対比はむっちゃ映えるし)で、あくまで『自分』として千夏に向かい、求められたいというエゴイスティックな願望は、リーダー=男ではない明には遠い夢だ。哀しい。
柔らかい『女』の身体それ自体には愛着があればこそ、そのまま千夏に抱かれ愛される道を求めているのだが、『ムズムズする感覚』を生のまま共有できるセックスに至るほど、性意識と自我が成熟していない。

思いが炸裂し、プリミティブな形で共有される(少なくとも理想形としては)セックスの瞬間に、明が飛び込めたら(それは確実に、千夏との関係破綻、過去の美しい思い出の蒸発を意味するし、そこに足場を置きすぎている明は絶対に踏み込めない仮定だが)、『楽』ではあったと思う。
でも、明はダンスを選び、セックスは選ばなかった。
そのアンバランスな距離感は、常にエロティックな雷光を胎内(あるいは多々良という外部/異性との接触)に感じつつ踏み込めない千夏の逡巡と、間合いを同じくしている。
特別個人的な感情を掘りつつ、そことは無縁に冷淡に、主役の精神的成長(あるいは逡巡)を照らす鏡として、明は使い倒されている。
その物語的冷酷と、でもどうやっても過去を掘り下げ内面を吐露する寄り道を入れるしかなかった思いの爆裂とが同居しているところが、この作品のどうしようもない不器用さで、非常に好きなところなのだ。