イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

アニメ感想日記 14/06/18

 

・ エスカ&ロジーのアトリエ
ゆったりたっぷりのんびりやっていたこのアニメも、そろそろリミットが迫ってきて終盤戦。
主人公二人の夢を叶えるという〆方は、終わっている世界だからこそ綺麗な構図で、とても好き。
いや、まだ未踏大陸攻略残ってるから、エスカの夢はかなってないけどさ。

一足お先に叶ったロジーさんの夢は、一度折れた飛行船の復活。
いつものエスロジアニメ速度でザックザック進んでいましたが、ポイントを抑えた展開でゲーム知らないで見てる身としてはなかなか良かったです。
やっぱ『ライトスタッフ』(もしくは『アポロ13』とか『オネアミスの翼』)系の、みんなで頑張って何かが飛ぶ話は上がるネ。

ロジーさんをエスカが持ち上げるところは、どう考えても濃厚なラブコメ粒子が漂っておったのだが、そこら辺の答えは出るんでしょうか……尺考えると出ねぇなぁ……。
原作の方向なのか監督の方針なのかイマイチ判んねぇですが、恥ずかしい正論を迷わずパナすシーンがこのアニメは多く、終わった世界で必死に日常を維持している話として、こういうシーンをちゃんとやるのが大事なことだなと再確認した。
ヘッポコ若造の成長モノというジャンルを考えると、真っ直ぐ熱い展開はやっぱグッドよね。

下準備が整って、ついに浮遊大陸突入。
のたのた進んでいたように見えて、「此処に辿り着いたらエンディングですよー」というサインは丁寧に出していたアニメなので、今回の展開もあって期待が高まる。
やっぱ岩崎監督の緩急の付け方は肌に合うなぁなどと考えた、クライマックス直前でした。

 

・ シドニアの騎士
成功と敗北、日常と隠された真実、平穏と戦争が終わらないロンドを続けるこのアニメですが、今回も上がったり下がったり忙しく面白い展開。
イザナとユハタが競り合いを繰り広げたり、艦長が長道好きすぎだったり、ラブコメ要素も貪欲に拾っていた。
女将艦長で笑いを取ったと思ったら人造カビの真実に出会い、VOD+ロングレンジカビ兵器で勝利を手に入れたと思ったら超巨大ガウナ出現と、一個一個のエピソードにサスペンスとSFテイストが山盛りなのが、見ていて楽しい秘訣だろうか。
プロダクトデザインや美術の仕上がりもあるんだけど、音響の迫力も凄い仕事してるよなぁ。

長道がイザナをキャッチするシーンは、主人公力高くて凄く良かった。
その前に新兵器を華麗に操って、パイロットとしての唯一性を示していたからこそ、男としての格好良さもよく刺さるなぁ。
全方位に攻略しているが、白痴美まで手に入れた星白が頭ひとつ抜けている感じ。

とは言うものの、いいことばかり続かないのがシドニア。
シドニアの8000倍のデカさという、分かりやすいハッタリの効いたエネミーが出現した所で次回にヒキましたが、予告の段階で画面真っ赤であり、「まぁ上げた後は下げるよねー!!」と、引きつった笑いを浮かべるしかねぇ。
全人類的な危機でも楽しいことはあるし、だからと言って世界が残忍さを忘れるわけではなく、主人公も様々なものを奪われるというバランス感覚は、やっぱ健全だと思う。
とりあえず、イザナ死なんでくださいね……性別未定の豊崎声なんて、後十年は出てこん逸材なんですから。

 

・ ラブライブ!(10話)
危ない! と一声かければすむところを、ノータイムでハードコンタクトに行ったアリーチカは、相当重度の海未キチ(挨拶)
ラブライブは褌を締めて見ないと魂を持っていかれるアニメなので、ついつい感想を書くのに腰が重くなってしまいますが、今更十話の感想であります(言い訳)
……僕はこのアニメに過剰に思いいれている部分があって、そこを外される怖さみたいのを、不要なほど感じてるんだろうなぁ……。

今回の話はA-RISEとの闘いの始末を描写しつつ、μ'sの魂がどこにあるのかを、μ'sの魂である穂乃果が歴程していく話でありました。
というか、これ以上ないほどのド直球ドル論であり、正直ここまで真っ直ぐ速度のあるタマを投げてくるとは思っていなかった。
穂乃果という女の子は画面の真ん中に座ると、全てが背景になってしまうくらい存在感のあるキャラクターなので、特に二期はあえて前に出ていなかった印象がありますが、μ's(というかアイドル)のアイデンティティを徹底的に探る今回は、彼女が出なければ話にならない。
なので、ほぼすべてのシーン、カメラは穂乃果をとらえ続ける形になります。

とは言うものの、9話のヒキが「μ'sの攻め手」で終わり、10話のウケが「時間すっ飛ばして新年」で始まる関係上、「んで、どっちが勝ったの!」というヤキモキが、開始から五分間引っ張られます。
このじれったさは非常に巧妙に計算されていて、五分間徹底的に不協和音めいた期待感が胸を突っ走るように、画面が構成されていきます。
今回のコンテは山本裕介でしたが、最終的に勝敗が見える階段のシーンにおいて、階段の上下と明暗を入れ替えることで、感覚的に勝負を先覚させる構図の妙は圧倒的でした。

光当たる高い場所にいたA-RISEがμ'sに場所を譲り、ラブライブの舞台から降りていくあのシーンは、高まりに高まったハードルを爽やかに潜り抜ける、巧妙な作画的カロリーコントロールでもありました。
あのSnow Halationに匹敵するステージを描画するとなれば、同じ労力と尺、同じドラマの盛り上がりを要求するわけで、真向から当たるのではなく、叙情性と演出の妙で正面を外してきた今回の描写は、優れていると思うし、好きです。


その上で、ただ負けさせないのがラブライブ! 
今まで「スクールアイドルの天井」として描写され、ライバルにしてメンターだったA-RISEに最後の仕事として。「μ'sとはなにか」という根本的な問いを投げかけさせます。

「アクティングとしての完璧さはA-RISEが上だった。ならば何故、μ'sが選ばれA-RISEは下がるのか」
スクールアイドルとしてのμ'sは「スクール」の部分が今まで重点的に描写され、アイドル論は作中であまり語られなかったわけですけども、最終盤の一歩手前、このタイミングしかない場面でしっかりねじ込んできました。
そういう大事な仕事を、ちゃんとツバサにさせる優しさみたいなものが、僕は好きです。

とは言うものの、あのSnow Halationは余りに完璧で、「アクティングとしても優れてんだからドラマまで背負ってるμ'sが負けるわけねーだろ」と感じさせてしまっているのが贅沢な悩みだとは思います。
階段や屋上での練習シーンを、一期と同じレイアウトで見せることで、μ'sのスペック向上を描写するシーンも有りましたし、それこそツバサが言っていたように「どうしてもわからない最後のひと押し」を手に入れるためには、それ以外の全てを必死にやることが必要なんでしょうね。

画面としても、ツバサが穂乃果を問うシーンは印象の作り方が非常に明確で、いいシーンでした。
ベンチの前に柵を置いてちょっと圧迫感を出しつつ、晴天の池が抜けるように眼前に広がっている構図。
希望そのもののような青い場所にはしかし、目の前の問いを突破することでしかたどり着くことが出来ず、今これから巡礼を始めるシーンとして、これ以上ないレイアウトでしたね。


この後、最も身近な助言者であった雪穂だとか、バックステージを支えた一般生徒だとか、様々な人と触れ合いつつ穂乃果は答えを探していきます。
此処で問われているのはμ'sというよりも、個人的には直球にアイドルそのものだった気がしています。
雪穂が非常に的確に答えていますが、「アイドルは頼りないほどウケる」のです。

アイドルというのは非常に特殊なステージアクターで、如何に多様化してもその原義的には、10代の少年少女が直向きに舞台を務めることで、観客の声援と好感を得る構図を持っています。
此処において、稚拙であることや無様であることは、むしろ賞賛の対象になりえる。
日本の芸事には雛なことを尊ぶ価値観が確かにあり、例えば歌舞伎のお披露目であるとか、あるいは高校野球であるとか、「稚拙でもいいから全力でやれ」という「結果を置いて、志を買う」ステージングの文脈が、確かに存在していると思います。
アイドルも(そしてスクールアイドルも)また、「志」の価値観の内部にいるわけです。
年経て賢さに支配されれば、神がかった誠実さというのは自然失われるわけで、アイドルに年齢制限があるのは何もペドフィリアへのセックスアピールだけではなく、それが青春という季節でしか実現できない夢だから、という意味合いも強くあるでしょう。
そしてそれこそが、「スクール・アイドル」の物語として、少女たちに「学校で」「アイドルを」させた理由(の一つ)なのではないでしょうか。

「志」を評価されるのは「結果を無視される」というわけではなく、そこに込めた思いやドラマ、真摯さに対し敬意を表して価値を認めているわけです。
それは誠実さを核とする清涼な関係であり、「志」に「志」で返せない、感謝のない存在は即座に弾き出される恐ろしい関係でもあるわけです。
「志」の視線と支援を浴びるに相応しい存在として、穂乃果は即座に餅をつき、自分を支えてくれた人々に感謝を返す。
「志」のコール&レスポンスがしっかりと出来ている、誠実な(もしくは神がかり的な)アイドルだからこそ、μ'sはA-RISEに勝ったというロジックが、此処で示されます。

そして、精神が肉体を、理念が実態を凌駕するこのロジックは、創作物であるラブライブ! においては圧倒的に正しい。
物語において、物語内部の力学、丁寧に組み立てられた盛り上がり(もしくは盛り下がり)ほど優先するべき論理は、存在しないからです。

(此処でやることが「餅つき」であることに、ちょっとしたメタファーを感じずに入られませんがそれはそれ。
最終的な啓示を受ける場所が絵馬置き場であることもあって、今回の描写は神事としての芸能を、強く意識していた感じがあります。
若さと汚れのなさを根本的に重視する芸事と、アイドルとの共鳴関係はなかなかおもしろい視点だとは思いますが、これ書くとラブライブ!からズレるんで今回はナシで)


結局穂乃果はいつもの様に正解にたどり着き、「真摯(もしくは神聖)な応援を受け止め、姿勢(もしくは至誠)を正して舞台を務め、それにより応援してくれた人々に活力を与える」往復関係こそ、μ'sの核心である、と宣言します。
これはアイドル(つーか芸事)の核心でもあり、同時に三次元のアイドルは一瞬しかたどり着けない極点でもあると思います。
生身の肉体を持った生アイドルは、スクールアイドルのように経済から自由でもないし、μ'sのように周辺を女性で固め、性的な視線や暴力から遠ざけられた世界に安住することも出来ないからです。
アイドルを職業とする少年少女達は、時には年老いて、時には傷ついて、時には傷つけられて、綺麗で透明な共鳴関係が支配する舞台から降りなければいけなくなります。

そういうことを描いていないラブライブ! は、狡くて都合の良い話なのか、という疑問もあるでしょうが、物語を加速させ事象の核心を活写するためには、テーマを確実に捉え続け「何を画面に写すべきか(もしくは写すべきではないか)」という問いを延々と繰り返すことが必須です。
ラブライブ! が省略/操作した苦さ、汚さ、辛さは、たとえそれが綺麗事で、一瞬しか到達できず、常に損なわれ続ける宿命にあるとしても、アイドルの核心にある答えを明確に描写するために画面から遠ざけられたのだと、僕は考えています。
そして、それは必要なことだとも。

「青春物語としてのラブライブ! に、このシーズンでケリをつける」というサインは、それこそ絵里から穂乃果に権力が禅譲された二期一話アバンから、ずっと出されていました。
残りの尺は、μ'sを如何に終わらせ、聞こえてきた青春の音に終止符をどう付けるかというポイントに重点されるはず(べき)です。
その前に、「何故アイドルなのか」というもう一つのテーマ(何しろμ'sは「スクール・アイドル」なのです)に真正面からぶつかり、しっかりと答えを出した今回の話を、僕はとても良いなと思いました。

 

・ ラブライブ!(11話)
前回が「アイドル」の最終回であったのであれば、今回は「スクール」の最終回。
μ'sたちの個人的な決着と、彼女たちに憧れてしまった存在への責任を果たす話でした。
最終回がテーマごとに複数あると、スクライド思い出しますね……何を我慢していやがる矢澤……お前は今泣いていい、泣いていいんだ!!(東條カズマ爆誕)

スター性のある存在とは一種の呪いであって、憧れという名前の焦燥を勝手に胸に植え付け、行動を規定し、挫折を強制してきます。
「みんなで楽しく、学校のために」やって来たμ'sも、勝手に輝いてしまったとはいえ、その魅力に引きつけられ、人生をねじ曲げた存在が多数いる。
それはなにも、無邪気に10人目になれると思っていたアリーチカだけではなく、ラブライブ! という作品に脳髄を焼かれ、心に刻まれてしまった視聴者もまた、其の決着を付けなければならない、ということです。
つまり、今回のアリーチカは僕なのです。
「お前らも頑張れ! μ'sのラブライブ!ではなく、お前らなりの何かを作れ!」という穂乃果の言葉は、アリーチカ=視聴者に向けてのスタッフからのエクスキューズであり、同時に激励でもあったのかな、と深読みしてしまいました。

結果として、穂乃果はアリーチカ(つまりファン)の憧れに背中を向け、「九人の物語」の美しさを優先してμ'sを解散させます。
この構造は非常にメタ的で、「一生今のお話が続いてほしい」「素敵で楽しいμ'sのアニメがずっと見たい」という、身勝手ながら当然なファンの気持を、誠実で残忍なフィルムで切って落としているわけです。
少なくとも、俺達が作るμ'sの話は、此処で終わりにする。
そういう強い決意と、それをわざわざ宣言し描写しなければならないスタッフの心のこり、両方を感じさせる展開だったと思います。

僕個人の価値観からすると、物語は終わるべきであり、終わるべき時が必ずあります。
それを逃して続く物語は、その精髄を失い、本来視聴者(つまり僕)を惹きつけていた魅力は反転し、精彩を欠いたものになります。
だから、しょっぱなから「終わる」と宣言していたアニメ二期には信頼できるものを感じたし、物語のエンジンから力を失い、少し迷走していた時期には「もしかしたらアレとかソレみたいに、終わるべき時に終わらねぇんじゃねぇかな……」と不安にもなりました。
(なお、終わるべくして終わるのはアニメラブライブ! であり、ラブライブというメディアそれ自体はぜひぜひ活況してほしいと思います)

やきもきしましたが、ようやく此処に来た。有り難い限りです。
こういう風に尺を使ってファンの未練を(実際に断ち切れるかは別にして)始末しにかかるのは製作者として誠実だと僕は感じるし、此処で巧く断ち切れないと、『けいおん』なり『たまこまーけ」みたいに、映画一本まるまる未練の処理に回したりするわけです。

憧れを抱いて上を見上げ、μ'sを目標に歩いてきたアリーチカは、μ'sが「九人」であることへの思いを感じ取って、自発的に身を引きます。
あまりにものわかりの良い「いい子」だった其の姿に、都合の良さを感じてしまうのは、ある意味自然なことかもしれません。
ぶっちゃけあそこで「μ's解散あかん! あかん!!」とダダコねられてたら、Bパート丸々叙情性の積み重ねに使う構成が破綻するんで、しゃーないといえばしゃーないですが。

ただ、最初が憧れであったとしても、「スクールアイドル」という競技への真摯な態度はアリーチカの中に確かにあって、「μ'sではなく自分のスクールアイドルを目指す」という発展性のある結論は、必ずしも物語的な都合だけで呼び出されたわけではないと、僕は思っています。
そこに結論を引っ張って来た雪穂の人間力もひっくるめて、やっぱいい子たちだなぁ妹チーム。
……時々ほのキチ海未キチすぎんけど、ラブライブ! の女の子みんなそうだしな……。

 

こうして「外側」との決着を付けたμ'sは、九人だけの物語に入っていきます。
それは「スクールアイドル」μ'sではなく、絢瀬絵里であり、東條希であり、矢澤にこであり、高坂穂乃果であり、園田海未であり、南ことりであり、西木野真姫であり、星空凛であり、小泉花陽である、個別の女子高生の物語の結末であります。
それは観客や、バックステージを支える一般生徒や、家族や、ライバルや、その他もろもろの「外側」が存在していてはどうしても語れない、「内側」の物語なのです。

彼女たちは何故、「ラブライブ!が終わるまで、その後の話は無し」にしていたのか。
笑ってお別れしたくてとても楽しい時間を過ごしたのに、泣いてしまったのか。
それは、彼女たち九人が、彼女たち九人を、とても好きだったからです。

「なんてことない毎日が かけがえないの」とは別のアイドルアニメの歌詞ですが、出会いと別れ、失われてしまうけど輝く青春の季節を切り取るのであれば、「楽しい毎日」をどれだけフレッシュに切り取れるかは、まさに死活問題だと言えます。
人が人を好きになるには、命や人生のかかった劇的な瞬間だけではなく、下らなくて詰まらない、しかしかけがえのない毎日というものが、とても大事だからです。
物語は描写されたこと以外は存在しませんから、我々が生き延びているこの人生の中では自動的に発生する日常の積み重ねも、叙情性を持って印象的に描写されなければなりません。
そうしなければ、作中の人物たちが感じる「あ、この子好きだな」という感覚に、視聴者は共鳴出来ないからです。

今までのラブライブ! でも「なんてことない毎日」は沢山描写されてきました。
今まで見てきたなら、「ああ、あのシーン好きだな」というどーでもいいシーンが、どっさりと思い出せるはずです。
俺は……やっぱ矢澤とのんかな……ワシワシなシーンね。

同時に、日常的な時間の積み重ねは劇的なシーンのために存在していて、今回で言えば六人で一緒に行った「μ's解散宣言」のシーンです。
アレは相当生ドルを研究したであろう、「アイドルの卒業」感満載の素晴らしいシーン(言いかけて詰まる穂乃果とか、よく見てんなぁと感心した)でしたが、今回穂乃果が悩んでいた問題への結論を、クッキリ宣言するシーンとして分かりやすい山場でした。
Bパート前半で、今までのエピソードを再確認するように巡った「九人の楽しい時間」が楽しすぎるからこそ、「外側」の目線をすべて捨て置いてでも九人の「内側」の理論に従って、μ'sを終える。
これが取り残される六人が出した結論であり、制作スタッフの出した答えでもあると、僕は思いました。


此処に至る前に矢澤が相当ゴネていますが、そのつっかかり方にこそ、ラブライブ!製作陣のキャラ把握・キャラ表現の極意があると感じた。
矢澤にこはμ'sで唯一アイドルという存在に強いモチベーションがあり、「アイドルかくあるべし」という理想をエンジンとして、苦しい三年間を走りきってきたキャラクターです。
つまり、金銭やファンへの責任などのしがらみに束縛された「アイドル」の「普通」を、しがらみから開放され青春を走り切ることだけ考えれば良い「スクールアイドル」に問いかけることの出来る、唯一の存在なわけです。
この疑問点は「スクール・アイドル」が「アイドル」でもある以上、視聴者が抱く当然の疑問であり、これに答えることで「スクールアイドル」の特権性、この作品があくまで学園青春モノであるという主張を、スムーズに視聴者に届けることが出来る。

物語の機能としてだけ矢澤のこだわりは存在しているわけではなく、アイドルを愛しているからこそ、自分の好きな人たちにアイドルを続けてほしい(でもそう明言はしない)矢澤にこの心意気の表現でもあります。
それをしっかりと真姫ちゃん(を筆頭に、アイドルを好きになった取り残される六人)が受け取ってるのも、最後まで意地を張ろうとするのも、決壊してすげーブッサイクな顔でなくのも、俺の好きな矢澤にこを映像にしてくれ過ぎてて死ぬかと思ったデス。
湿っぽくなるのを嫌って思わずダッシュしちゃう穂乃果とか、完全に察してる海未ちゃんとか、あえて「外側」を排除しても九人の物語に決着を付けた回だけあって、キャラへの理解と表現は「全員個別回」ともいうべき濃厚さだった。

「アイドル」というテーマに、答えを出した前回。
「スクール」で出会った九人の物語に、決着を付けた今回。
となれば、来週は「スクールアイドル」という物語に決着がつく回だと思います。
ラブライブ! が「スクール・アイドル」の物語である以上、此処が一つの決着点であるのは、間違いないでしょう。
楽しみです。