イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダムUC RE:0096:第19話『再び光る宇宙』感想

未来は犠牲なしには掴み取れないのか、一角獣は答えてくれないアニメ、今週は宇宙に舞う菩薩。
ビスト邸への突入権限をめぐるせめぎあいは、バンシーとローゼン・ズールの自滅、メガ粒子砲による面制圧が決め手となり、ネェル・アーガマユニコーンに道が開かれた。
負傷を押して出撃したマリーダはビームマグナムの露と消え、その魂最後の残照が戦場を貫く。
マシーンに踊らされた哀れな道化たちは死ぬことを許されないまま、見向きもされず虚空を漂う。
加熱し加速した状況は魂をいくばく吸った程度では止まらず、ついに『箱』が開く……というお話でした。


というわけで、マリーダさんが死にました。
まぁサブタイがララァが死ぬ回を猛烈に意識している以上、女が死ぬ話になるってのは一種の宿命ですし、死≒肉体からの開放だけが可能にする超空間的なコミュニケーションがなければ、リディの魂はどこにもいけないだろうしね。
あの人がどのくらい辛い目にあってきて、どれほど優しくて強い人だったとか、背負うものがどれだけあったかとか、そんな軟弱な事情は一切関係なく戦場は魂を吸う。
そこら辺のルールはバナージがギルボアさんを殺して示したもので、マシーンに憎悪を増幅されてこの結論に至ったリディは、正しくバナージが歩んできた道を踏み直しているといえます。

浪川さんの熱演込もる、リhぢのみっともなくて無様な姿はバナージにとって既に通過したものであり、泣いている様子は映しても、実際に流す涙は影になって見えない。
砂漠で望んだ『涙を流さない、強い男』にバナージは成れたわけです。
感情を無理に押し殺すとろくな事にならないのもこのアニメはずっと描いてきたので、哀しみを共有し一緒に理想に突き進むオードリーに、己を受け止めてもらうシーンはちゃんと入ります。


しかしリディにはジンネマンのように、厳しいイニシエーションを用意し一緒に砂漠を横断してくれる父親はいないし、作中の状況としてもメタ的な残り時間としても、心を落ち着ける余裕は全然残っていない。
これまで追い求めてきた『箱』へのチェックをかけるべく、マリーダさんが死んだ哀しみに溺れている余裕もないのに、リディにかまっている余裕は主役二人には当然ありません。
『俺を撃ってくれ!』という言葉は『俺を救ってくれ!』という懇願に聞こえたけれども、バナージは当然死を救いとは考えないし、リディ相手に隣り合う余裕もない。

それはこの期に及んで綺麗事を振りかざし『私人』の顔を見せないマリーダも、『本当の貴方』なる一度も見ようとしなかった(そしてリディも見せようとしなかった)ものに帰るよう説得する人々も、皆同じです。
マシーンに加速されたエゴに耐え切れず、ビームマグナムという安易な暴力装置の犠牲になってなお、全てを受け入れ優しく諭したマリーダさんだけが、リディに寄りそう構図は、ちと残忍にすぎる感じがしました。
何度も言うように、彼は無様で醜く身勝手で愚かで孤独であり、魂のどん底に至る道は作中でもそれなりに描かれているわけですが、それにしたって冷たいな、と受け取ってしまう。

ミネバにしてみれば、ブリッジから祈るあの姿勢がリディへの最大限の歩み寄りだったのだろうけども、リディが求めていたのはもっと踏み込んだ対応で、それはミネバだけではなくバナージや父、世界全てに対する叫びだったと思います。
もちろん、その言葉は甘え過ぎだ。
ねだらず、諦めず、他人を信じ己を鍛えて常に『それでも』と言い続けたバナージと比べれば、求めるものが与えられないリディの身勝手さは、当然主役足り得ない。
しかしバナージが気持ちの良い主人公足りえている足場には、確実にリディの無様さが対比物として存在しているわけで、そこに少しだけでも情というか、物語的な都合を分け与えてくれてもいいかなぁと、彼に相当感情移入している立場としては思ってしまうわけだけど……それはこの先にある最終決戦でやることなのかな?

マリーダさんが加害者であるリディの魂を許し、『本当の貴方』に踏み込んでくれたのは、優しくありがたいことであると同時に、それが死を燃料にする最後の光だと考えると、哀しいことでもあるなと思います。
他に拾う人がいなかったから、『弱い部分も醜い部分も頑なな部分も引っくるめて、心の奥底に踏み込んで認めてくれ』ってリディの願いを、死によって超越的存在になったマリーダが拾った形かなぁ……ほんと菩薩だな。
生前リディとマリーダを繋ぐ線はほぼなかったので、キャラクターの『死』が持っている圧倒的な熱量で押し込んで、つなぎを作らないと説得力がないってのは判るんだけど、まぁそれにしたって死ぬことはないよ。
戦場はそういうものだと言われてしまえば反論のしようはないし、身内だけ犠牲を出さずに奇跡を手にすることの都合の良さを排除するためには、必要な犠牲だったのもわかるけど、まぁ死んでほしくなかったよ、僕は、本当に。

ミネバは受け止めてくれなかった『本当の貴方』を、リディはマリーダさんを殺すことでマリーダさんに受け止めて貰えました。
いささか荒療治ですが、寂しい少年として主人公バナージの影となり、暴走と孤独を深めていった男にも、心の拠り所が出来た……のかなぁ。
汚名返上の見せ場が用意されているのか、はたまた狂った醜い男として舞台から退場するのか、さてはて、どうなるかねぇ。


マリーダさんがバンシーを受け止める中、バナージはアンジェロと対峙していました。
アンジェロもリディ以上に物語的リソースを割り振られない男でして、フル=フロンタルが好きすぎて頭がおかしいっていう部分はわかるけど、その理由はさっぱり描かれず、ただバナージに噛み付いてくる狂暴な敵役という印象があります。
小説からアニメにするに辺り、バッサリ切った部分の一つかな、そこら辺は。

しかし『本来倒してはいけない相手を殺す』『マシーンに踊らされた』もう一人のリディとして、物語的対比は結構綺麗に作られていました。
自分の身勝手さは横において、手に入らない蜃気楼を求めて暴れ回り、暴力で周囲を傷つける無様さという意味でも、アンジェロはリディの鏡であり、それらのエゴを乗り越えたバナージの鏡でもある。
味方を殺したその腕が、己を傷つけて決着する戦いにしても、シンプルかつコンパクトに戦いに意味を込めていて、結構好きな見せ方でした。

マリーダの死によって暴走したサイコミュが、アンジェロの何を暴き、何を傷つけたのか。
アニメの範囲では正直さっぱり判りませんが、マリーダさんの霊魂がリディを救ったのと逆の効果が、ユニコーンからローゼン・ズールへと逆流した思念波にはあったように思えます。

生物学的には生きているし、殺害手段も自害だしで一見綺麗に見えるけど、激情を増幅するマシーンを制御できてないって意味では、バナージもリディも同じよね……殺していい理由の加減は、大きく違うけども。
人が分かり合う補助具にもなれば、魂に土足で入り込み自死を選ばせる暴力装置にもなり得るサイコミュは、確かに人間には早過ぎる技術だよなぁ……マリーダさん相手には、いい仕事したんだけどな……。

内山くん渾身の叫びを効くだに、アンジェロの心への侵入は狙ってやった結果ではないと思うわけで、事ここに及んでもバナージは未だ人間の精神を強化するマシーンを完全には制御できず、バンシーのビームマグナムと同じ暴力の装置として機能させてしまう危うさがある。
それは『『箱』が犠牲に見合うものでなければ……』というセリフの危うさと、奇妙に響き合っている気がします。
それはひっくり返せば『例えば人類全てを叡智に導くような結果が約束されるなら、どんな犠牲も許される』という結論に至ってしまう、シャアが飲み込まれた暗黒そのものなわけで。
『箱』への謁見にオードリーがついていったのは、人の命に値段をつけかねない危うさにお互い陥らないよう、ミネバとバナージは支えあって生きていくということなのだろうけどね。


と言うわけで、死んだ女の優しさが戦場を包み込み、怨念返しのどうしようも無さを昇華させる出口を作る回でした。
地球の裏側まで届くくらいアルベルトのことを思ってたのなら、マリーダとアルベルトの描写も、もう少し分厚さが欲しかったかな。
まぁアニメにまとめるにあたって、色々削ったり逆に太らせたり、やんなきゃいけないことが沢山あった結果だとは思うが。

死人の腕に抱かれて一旦暴走を止めたリディが、こっからどこに行くのか。
長い旅路と犠牲の果てに、『箱』と対面した主人公たちは何を選ぶのか。
数多の人の運命を狂わせた『箱』には何が詰まっているのか。
不気味な沈黙を続けるフル=フロンタルは、最終盤でどんな手を打ってくるのか。
2クールに渡ったUCもついにクライマックス。
こっからどうお話を盛り上げまとめるのか、とても楽しみです。

 

こっからはちょっとした余談。
サブタイトルが露骨にやれって言ってるんで、ちと"光る宇宙"と今回の対比を考えてみます。
マリーダさんは死んで菩薩となり、殺したものも残されたものもすべての魂を救って、後腐れなく殺し合いが収まるようにメッセージを残してくれましたが、ララァは殺し合いになる前はアムロと感応し、矛を収める希望を戦場で見つけつつ、それがブッツリと途絶える。
ララァの声は救いをもたらす慈愛の菩薩ではなく、後々アムロとシャアを縛り付け、特にシャアをアムロとの決着路線、現世への復讐路線へと駆り立てる呪いに変わってしまいます。

死してなお分かり合えるかもしれない希望を残したマリーダさんと、あまりにも割り切れない死と無言を叩きつけたララァの『光る宇宙』は、ガンダムガンダムUCの間にある差異を、結構クリアに見せてくれていると思います。
バナージを軸とした大きな物語のラインを心地よい範疇に収めることを優先して展開してるUCと、物語の大枠が壊れかけてもキャラクターの抱え込んだカルマを掘り下げてくガンダム(含む富野作品。"Vガンダム"あたりまで?)との差異といいますか。
ココらへんをきっちり掘るには大量の資料に当たらないと説得力がでないので、あくまでパット見の印象による妄言になっちゃいますけどね。

一年戦争以降のララァの声って、生き延びてしまった男たちのエゴが生み出した妄想とも、実際にララァの霊魂なるものが存在していて接触したとも取れる曖昧な幻視なんだけど、マリーダさんの場合は明確な意志を持って自分の死が最善の結末にたどり着くよう、始末付けて死んだからな。
死人が言葉を残せないどうしようも無さが、残された人間を歪めて逆シャアの人類巻き込んだ心中まで突っ走らさせたのとは、物語的都合の良さの強度が違うという感じを、強く受ける。
あそこでマリーダさんのメッセージがなければ、リディはおろかジンネマンもミネバもバナージも自責の念を多少なりと残したと思うが、マリーダさんは自分を犯してズタズタにした男たちも許し、殺した男も許し、残される人たちも許す。
あの人がそんなに世界を許さなきゃいけない理由を、正直僕はなかなか思いつけないけれども、実際許す姿が描写されてんだから『いや、本当は納得してないでしょ? 恨み言の一つも言いたいでしょ?』って問いかけは、身勝手な妄想にすぎんのだ。

主人公と恋愛関係にあるミネバではなく、マリーダが散ったこと。
『あなたには守る人も帰る場所もない。人間としておかしい生き方をしている』とアムロを指弾したララァと、『私のもとに帰って来なさい』と命じたミネバ。
他にも"光る宇宙"との対比は多いので、ここら辺は宇宙世紀を総括しシリーズ(もしくはメディア、文化)となったガンダムをまとめ上げる、一種の総集編的役割を担ったUCらしい回になったなぁと思う。

死人への感情を始末できないばっかりに世界ごと心中しようとしたシャアと異なり、バナージもジンネマンも復讐に支配された生存者には、けしてならないだろうと思います。
答えの帰ってこない死人への問いかけを自分の中で無限に反響させていく地獄は、ジンネマンがなんとかくぐり抜けて否定した生き方なわけだし。
そうならないようにマリーダさんは自分の死体を始末して去っていく物分りの良さを見せたのだし、それはUCという物語が根本的に背負っている語り口の形式だと思う。
そういう『都合の良さ』はストレス少なく物語の起伏を楽しめる素直さであるし、キャラクターのエゴを掘りきれないままならなさを、どうしても感じさせるものでもある。

それはどちらが優れているというわけではなく、製作者や物語自体が要求し選択した、盤上この一手の方法なわけで、そこまで引っくるめてガンダムUCなのだろう。
そういう物語の中心にいるバナージと、その対比物として結構な目にあっているリディが、物語が畳まれようとする中どこにたどり着くのか。
その語り口も含めて、UCのラストスパートはとても興味深いところなのだ。