ラブライブ! サンシャイン!! を見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
棺に釘を打って、沢山のお花で飾って、笑顔で死んでいきましょう。荼毘に付した青春に、名前をつけて漕ぎ出しましょう。
ラブライブ史上最大の敗戦は、終わりを覆すことなく終わっていく。それを女神たちのように受け入れられない、ヒトの足掻きを写しつつ。
というわけで、最終回である。二期第七話で掴んだ『終わる』というテーマをそのまま担いで、ダメ押しにもう一回迷って、サンシャインは終わった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
死ねと言われて素直に死ねない。悟って消え去ろうとしても、名残が後ろ髪を引く。どこまでも飛び立つには、燃料が足らない。紙飛行機の僕らの物語。
冒頭、千歌の投げる紙飛行機は綺麗に飛ばない。現実の重力に引かれて落ちて、クシャクシャになる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
綺麗に掃除された浦女の死骸もまた、現実的な傷と埃、思い出と生活にまみれている。そこが生きている以上必ず訪れる、エントロピーの帰結。
人間は皆、諦めながら歩き直している。
その引力を圧倒的な正しさで振り切り、神話へと駆け抜けてしまったμ's。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
真正、女神(あるいは菩薩)となってしまった彼女たちは衣だけを残し、身体は現世に残らない。
伝説になるということは、人間が繰り返す過ちや倦怠から離れ、静止した永遠として青空にピン留めされる、ということだ。
Aqoursはその道を選ばなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
選べなかった、のかもしれない。人生の全て、己の物語の全てを燃やしきり、引力に惹かれることのない無限の飛翔を可能にするのは、ごくごく限られた一部分だけ。
『ラブライブ』の看板を引き継ぐサンシャインは、身体を滅した永遠の神話にはならなかった。なれなかった
Aqoursがなれたのは、せいぜい内浦の民話だ。語り継がれ、時折思い返して痛みと熱を取り戻す、青春の1ページ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
ごくごく普通の人間が、ごくごく普通に起こした奇跡。その上に幾重にも日常が積み重なる、当たり前の勝利。
それは、世界を書き換えない。世界そのものになり、その後に物語は続く。
そんな『ラブライブの日常化・人間化』こそ、μ'sが自分たちの先に望んだ景色として劇場版に切り取られ、しかしμ'sの葬式である劇場版では当然語りきれなかった風景だったのではと、今回の最終回を見て思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
内浦を離れても。スクールアイドルを止めても。Aqoursの人生は地続きの舞台で続く。
μ'sの神話に比べれば、それはとても地味な話だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
圧倒的な熱量を捏造し、物語的必然をエモさで引っ張り込む『ラブライブ』らしい豪腕は、Aqoursには遠い。
遠くなるよう、演出を組み立てている。そうでないなら、紙飛行機は最初から、永遠に向かって飛んで行くだろう。
鳥のように羽ばたき、真っ直ぐに目指す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
そういう物分りの良さが、Aqours(というか高海千歌)から遠いことは、浦女とのお別れが『二回』あることからも判る。
物語がクローズするこのタイミングで、それでも『私はやりきった』と断言できない迷妄からも見える。
終わりを拒否できない。綺麗に消え去ることも出来ない。打ち立てた旗を永遠だと信じ切ることも出来ない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
棺に打ち込んだ釘を抜いて、愛おしい青春の残骸をもう一度確認せざるを得ない、弱々しい人間の肖像。
最後まで『それ』が描かれたということは、やっぱサンシャインはそういう話だったのだろう。
僕はそれは、とても善いと思っている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
常に前作との距離を測定し、ともすればAqoursよりもμ'sを探る目と語りに時間を使った…それほどまでに巨大な存在として『ラブライブ』を描くしかなかった物語の結論が、『人間は死ぬ。その先に、人間がい続ける』なのは、必然としか言いようがない。
努力の跡には勝利がある。友情の果てには永遠がある。感動の次には奇跡が来る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
μ's(を描いた京極尚彦)がその才覚によってたどり着き、世間を巻き込んで大いにうねった、一つの社会現象。あるいは新時代の青春神話。
その熱量を、サンシャインは最後まで獲得できなかった。できない自分に素直だった
μ'sが辿り着いた永遠が、スクールアイドルの、ヒトの真実だと強く認めつつ(でなければ、一期であそこまで直接的に測量し、それが終わった二期でも延々μ'sを語り続けることはしないだろう)。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
それだけが、ヒトの、スクールアイドルの形ではないんじゃないかという、控えめなプロテスト。
紙飛行機のように、死と停滞の引力にどうしても引かれつつ、幾度も幾度も飛び直す。クシャクシャのズタズタになれる身体を持ち続けたまま、老いて間違い、永遠にはなりえないまま泥臭く生き続け、拡散し続ける。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
それもまた、『ラブライブ』なのではないか。
僕はそういう答えをこの作品から受け取った
『ラブライブ』という作品の檻(と己が定めたもの)に閉じ込めるには、あまりに重たく泥臭い感覚を、ずっと抱え続けてきた高海千歌を主人公に据え、最終話もまた基本、彼女の一人称で進めてきたこのアニメは、まぁそういう所を走ってきて、そういう所で己を語りきったのではないか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
そう思うのだ。
先頭を切って永遠を走った高坂穂乃果に対し、千歌は一番別れをぐずる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
幾度も『これで良いんだ』と内言しつ、百万回扉を締めても、彼女の焦燥感は消えない。
ラブライブで優勝しても、浦所が閉校になっても、どこかに忘れ物をしたかのように戻ってきて、またあるき直す。生き汚く、諦めが悪い。
そんな風に綺麗に悟れない高海千歌が、俺はやっぱり好きだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
彼女が背負うラブライブ! サンシャイン!! という物語が、俺はやっぱり好きだった。
どこまでも高く高く飛んで行く、永遠に向かう物語。μ'sが見せた奇跡の眩暈は、俺の瞼の裏に焼き付いて消えない。貴方も多分、そうだろう。
でも、それだけが答えじゃない。それだけを答えにしてはいけない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
永遠になれる人がいる。空を飛べる人がいる。脆い身体を捨て、伝説へと気化できる女神がある。
現実に縛り付けられた人がいる。勝てない連中がいる。諦められず、かといって悟れもしない人間がいる。
精神と身体。永遠と一瞬。夢と現実。ロングトーンとリフレイン。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
それらは対照に見える両輪で、μ'sがたどり着いた場所の『先』を描くためには、彼女たちが到達できなかった『敗北』と『現実』を描くしかない。
しかも、『ラブライブ』的な多幸感をまとったまま。
今週も、エモさで殴る腕力は健在だし、ハッピーハードコアなバカさも元気だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
図書館をクローズする瞬間のマルの激情。最後まで『公』に報い続けようと、報いることが出来ない『私』を重たく抱きしめる小原の涙。
カットごとの圧は分厚い。
だがその強さが、同時に枷でもあったのかもしれないと、今ふと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
もっと『ラブライブ』らしくない、ずっと重たくてずっと可愛くなくてずっと真面目でずっと熱量のない語り口を選んでいたら、サンシャインは『楽』だったのではないか。
例えば、千歌が『普通』であることの焦燥を、直言できるような
だが、サンシャインはそういう表現法を選ばなかった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
μ'sに絶対なれない少女たちを、μ's的な技法で描き続けることを選んだ。女神が成し遂げた永遠の残光と、女神の模倣のなかで足掻き続ける、ただの人間の無様さを大事にした。
それは時に、軋みとなって画面から漏れた。無理をしているように見えた。
でも、Aqoursも高海千歌も、ラブライブサンシャインも。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
出会ってしまったμ'sの輝きが、あまりにも永遠だから。『ラブライブ』が好きだから。
自分たちで否定して、対極として己を貫くのではなく、その衣鉢を引き継いだ出来の悪い二代目として、それでも自分を語る方向に歩いていった。
制作の内幕を除き得ぬいち視聴者としては、この結末、この過程、この表現をサンシャインが選んだ本当の理由は、絶対にわからない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
会社のメンツとか、予算の都合とか、色んな人の意見の衝突とか、スケジュールの変化とか、僕には想像しかできないいろんなものが、この結果には反映されているのだろう
ただ、僕の中に刻まれたラブライブとμ's、サンシャインとAqoursを見返して、自分の中に生まれた感情と感謝を味わい直してみると、そう思える、ということだけだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
『僕はそう思う』しか僕には言えないし、それは極力素直に嘘なく(まどろっこしく見えるけど自分的にはそうなの!)語りたかった。
最後の最後まで、伝説になりうる自分を信じ得ない、高海千歌のちっぽけな足跡。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
それはあまりにも輝く『ラブライブ』とは正反対の歩みで、なおかつ『ラブライブ』的な語り口を維持したため、分かりにくい。
サンシャインがアンチ『ラブライブ』的な顔を、強く持ち合わせていることを。
奇跡、輝き、永遠。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
『ラブライブ』的なタームを(宗教的な熱すら帯びて)語りつつ、サンシャインのストーリーは着実に、それとは逆の方向へと歩き続ける。
廃校は阻止できず、千歌は自分を悟れず、物分りよく青春を殺していく仲間から置いてけぼりにされながら、幾度も走り直す。
その無様で不格好で、あんまり主人公っぽくないちっぽけな姿が、俺は好きだった。彼女が背負うサンシャインの物語もまた、とても好きだったということを、最終回を見ていて思い返した。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
良い終わり、良い物語だったと思う。瑕疵はある。山ほどある。テーマと語り口はあっておらず、過去との対応も拙い
でも。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
『μ's以降』に配置され、『μ's以外』の答えを探し求める必然を背負ったこの物語は、高海千歌というちっぽけな女の子の、その有限性に嘘をつかなかった。
あくまで身体を持った人間であり、人間でしかない彼女の到達点を、ちゃんと語った。ギリギリの所で語り得た。
最後のステージの衣装チェンジは、あくまで一個人の中の追想であり、幻想であり、妄想でしかないのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
時間は巻き戻らない。過去は蘇らない。頭の中の一瞬の幻が、思い出の匂いを連れてくることだけが、女神になれない少女たちに許された、せいぜいの慰みだ。
でも、そういう幻こそが、引力と身体に縛られた人間を活かし続け、挫折と死から立ち上がらせるのだし、Aqoursが追い求め生み出したのはそういう類の、とても麗しい物語なのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
たとえ神話になれなくても、当たり前の人間の当たり前の輝きは、瞼の裏に残る。涙で洗っても洗っても、多分消えない。
夢を乗せた紙飛行機は、いつか重力に引かれて落ちる。そこを振り切って永遠になるということは、静止し続ける、ということだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
音ノ木に残響すら残さなかったμ'sと、当たり前の新学期を迎え直すAqours。
どちらが正しいというわけでも、幸せというわけでもなく。
どちらも善いものだろう。
どうにも、二期七話以降のサンシャインが好きすぎて、個人的な波長がしっくり来すぎて、甘い採点になっているとは思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
こんな大きなものを、『本当は』このアニメは語っていないのかもしれない。その場を取り繕った、美少女動物園の感動演目なのかもしれない。
それでも。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
彼女たちの歩みとその先が、僕にはやっぱり綺麗に見えたから。
ラブライブ! サンシャイン!! は有限の奇跡しか起こせない当たり前の人間の物語として、いい具合に泥臭く、素晴らしく輝く物語だったと思います。
良いアニメでした。ありがとう。
追記 『シェーン』とラブライブ
LSS追記。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
俺が言えるのは、サンシャインは『シェーン』ではない、ということです。
悪漢を倒し、平和を取り戻したシェーンに少年から声がかかる。
『シェーン、カムバック!』
でも馬上で死んでいるシェーンは日常に帰還することなく、神の永遠を刻んだまま、地平線に去っていく。
少年は置き去りにされたまま、シェーンが取り戻してくれた平和のなかで当たり前におとなになり、お母さんと一緒に暮らしていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
飯を食って、雨に打たれて、時に風邪を引き悪態をつきながら、ホコリにまみれて生活を続ける。
時折帰還の呼び声に応えないまま地平線に去っていった、ガンマンを思い出す
間違える身体もなく、死の瞬間で固定されたまま永遠となったシェーンは、少年が日常の泥に飲み込まれ、自分を見失いそうになる度、理想として輝く。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
それは神の特権であり、投げつけた夢を絶対に裏切られない偶像だけがなし得る、立派な仕事だ。そんな大事業、死人にしか出来ない。
μ'sが去りゆく『シェーン』になり得た少数派の物語だったとしたら、Aqoursは取り残される少年の側、圧倒的多数の衆生の物語であったのだと思います。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
あのラストシーンで神と人の道は決定的に別れるのだけど、シェーンは人のために死に、少年はシェーンを思い続けて、小さく当たり前に生き続ける。
そのどちらも、欠けてはいけない物語だと思うから。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年12月30日
伝説のガンマンだけではなく、彼に守られ生き延びた無力な少年の側を描きに行ったラブライブサンシャインは、とても良かったと思います。
つうかみんな『シェーン』見て…萌え萌えスクールアイドルアニメの副読本として勧めるの変かもだけど…。