いかにしてジオンは勝利し、赤い彗星は刻の果てへと去っていったのか。
新しき世代が紡ぐ物語のポイント・ゼロを描く、機動戦士Gundam GQuuuuuuX第2話である。
いやー…改めて見ても、やりたい放題過ぎるBiginningである。
正史ではアムロがやること、正体不明の仮面アドリブ人間が乗っ取った結果、宇宙世紀は描かれたことのない未来へと突き進んでいきました…というお話なんだが、何しろ絵柄も本編とは違いすぎるので、異色も異色の第ゼロ章。
劇場先行版から再編集され、語り部たるシャリア・ブルが知り得ないことがカットされたのが、逆に失われしMAVを追い求める男の存在感を強めていた。
緑のおじさんは時代を切り開く新戦術の相棒として、木星から帰還した自分を運命で射抜きつつ、本当のことは何も告げずに消えていった男のことを、何も知らない。
知らないからこそ追い求め、勝利で終わっているはずの戦争に一人取り残されてもいるわけだが、「ジオンどうなっても良いし、最高のタイミングで最悪の復讐ブチ込もうぜ!」という仮面の奥の狙いは、戦後を生きる誰も知らないのだろう。
この第二話だけ見てると、恩讐を超え一命を賭して、”ジオンのザビ家”を守り抜いた真の英雄として、銅像立っててもおかしくないのが、編集という行為の妙である。
色々ぶった切って一話に収め、マチュたちの物語にスペースを残した判断はまことありがたいが、そこに深く絡んでくるだろうシャリアが見ているもの、取りこぼしているもの、知らないことを強調するために、今回の第ゼロ話があった感じもする。
おじさんにとってシャアは歴史に名を残す大活躍を手渡してくれた恩人であり、謎めいた底の見えない青年であり、消えてなお心を奪う彗星だ。
劇場では生臭く青臭い一個人のエゴも描かれたけど、そういうものはおじさんにとって大事ではないし見せてもくれなかったから、シャアは回天の大勝利を成し遂げた英雄として、綺麗に消えていく。
だが、それだけがシャアの全てではない。
おじさんもそれを知っているからこそ、あの時教えてくれなかった仮面の奥をもう一度覗き込みたくて…というか、それを許してくれる自分を掴みたくて、ずっと赤い星を追いかけ続けている。
そのロマンティックは、第1話で鮮烈に描かれたマチュとニャアンの出会いに負けず劣らず、眩い鼓動を放っている。
己が何者であるか解らないからこそ、理不尽な抑圧に反発していた若者よりも、軍という巨大なシステムに組み込まれ、なお疼く願いと痛みに突き動かされているおじさんの方が、激情という病は深いのかもしれない。
喪失と邂逅、若者と老練。
二つのロマンティクスを繋ぐのは、サイコミュを搭載したジオンのガンダム…となるのか?




ともあれこんなん許されて良いのか! オフィシャルによる1st名場面ハックが乱打される、シャア少佐の大英雄記が綴られていく。
いやー…一話に三回アイキャッチいれるアニメ、初めて見たよオレ。
劇場版と話の順序が入れ替わり、マチュの戦後からシャアの戦争を振り返る形になってみると、MSが徹底的に人殺しの道具であり、シャアがその扱いに大変優れていることがよく分かる。
迷いのないブリッジ焼き、機体性能を最大限に発揮したガンダムキック。
ガンダムとペガサス級を鹵獲し、ジオン敗着の歴史を書き換える大きな決断は敵兵の血で濡れているが、彼は殺戮をためらわない。
原典から脈々と続く、鋼鉄の巨人として感情のこもった芝居と殺陣をこなすMSの描写も最新版にリフレッシュされ、シャアの駆るガンダムには颯爽としたカッコよさと、血塗られた兵器の悪臭がしっかり同居している。
宇宙が自由かどうかを気にする、恵まれた思春期で逆立ちしている少女が、戦後世界でその手を血に濡らさずにすんだのとは真逆に、シャアはジオン公国の軍人として…あるいは一匹の復讐鬼として、積極的に殺し、盗み、白を赤に塗り替えて道を切り開いていく。
こういう殺しの道具が軍警による抑圧とか、鬱屈とした戦後をクランバトルにぶつける青春とか、別の目的に使えるようになった(使うしかくなった)のが、マチュのいる現代だ…とも言えるか。
それが幸せなことなのか、戦わざるを得なかったシャアが不幸だったのか、この再編集版は見せない。
つーか逆シャアまで見届けても、シャア・アズナブルという男の幸福と不幸がどんなもんかは判然としないからこそ、緑のおじさんもびっくりなくらいの濃度で、赤い彗星に脳みそ焼かれちゃったオタクが沢山いるのだろう。
シャア自身己を把握していないからこそ、もう一つの未来であーなってこーなっちゃった感じもあるが、劇場版ではちったぁ己の野心や願いを垣間見せていたシャアは、運命がネジ曲がる特異点としての機能だけを今回良く見せて、ちょっと非人間的(だからこそ英雄的)だった。
それは白いガンダムと邂逅して以来、マイナス方向に運命を引っ張られ続け地上にも堕ちる未来を、赤く塗り替え勝ちまくりモテまくり…情けない姿を見せなくてすむ筋書きに、助けられての華やかな仮面だ。
ハンパな人間味を見せて人として正しく、血筋と力の使い道をちゃんと考えようとして、藻掻いた挙げ句に大失敗して地球ぶっ潰しマンになった未来から、殺戮と略奪の機械、戦争の申し子たる”このシャア”は遠い。
その仮面を裏切る野心と真実を、キャスバル・レム・ダイクンでもある彼はもちろん抱えているわけだが、それが表に出る前にジオン最大の危機を救い、刻の彼方へと消えていく。
まさに、”さっそうたるシャア”である。
この描き方はある意味”シェーン”的というか、人間が生きていれば必ず生まれる惨めさや限界に、追いつかれる前に完璧なまま死んでしまった、英雄/偶像の終わり方でもある。(僕はシェーン死亡説を支持するファンだ)
ジョーイ坊やが涙ながら「Come back!」と叫ぶ声に、馬上で息絶えたシェーンは答えることが出来ない。
その死すら認識されないまま、暴力によって平和を築いた男は少年の中永遠となり、けして間違えず惨めにもならない、非人間的存在へと昇華されていく。
ガンマンの時代は終わり、平和で退屈で問題山積の日常がやってくるが、それはまた別の話だ。
これから綴られるのはシャアとか良く知らない、マチュたちの物語なのだ。




そういう時の流れに抗い、脳髄を深く抉った仮面の男を追い求める、未亡人テイスト満載な緑のおじさん…。
マッキー渾身の最高OPでも、赤い彗星に胸を撃ち抜かれる直喩で一人画面の湿度を上げており、感情の緑色巨星として、異様な存在感を放っている。
サイコミュ搭載MSによるMAV戦術を引っ提げ、ジオン勝利の立役者となったシャリア・ブル。
ララァともアムロとも出会わない世界線のシャアを、世界で一番強く想う男は、明暗同居する不思議な交流の果て戦争を生き残り、終わらない夢の中に取り残されている。
少し幼さを残した一年戦争時のかんばせも、陰りを宿し年輪を増していく。
シャリアもシャアも、若武者としての爽やかさと微かな鬱屈が入り混じって、あの血みどろの戦争が彼らの青春であったのだと、素直に飲み干せる味になっていたのは好きだ。
大胆に声優を変更することは、脳髄にUC年表ぶっ刺さったファンが多いコンテンツにおいては挑戦だったろうけど、まーカラーとマッキーに製作任せてる時点で、「チャレンジなくしてジークアクスなし」て感じだろうし。
生物的でキモい赤ガンダムの禍々しいリファインとか、前のめりに叩き込んだ一発は現状、かなりいい仕事をしているように感じた。
やられてみっと、二人の青さが際立つ芝居で良いんだよな…。
シャアは木星帰りのニュータイプに、人の革新を共に導こうとラブコールを贈る。
この理想がシャアの全てではなかったことは、シャリアが知らざるゼクノヴァの真実に色濃く描かれているけど、父から継いだ夢の一つではあったろう。
今は戦場の常識を凌駕し、怪物めいた大殺戮を可能にする兵器でしかないが、いつか二人で人の業を超え、新たな世界の扉を開くという、甘すぎる祈り。
それが自分をだまくらかすための嘘でしかなかったのか、本気で人類の革新を願っていたのか、確かめるチャンスもなくシャリアは戦後に置き去りにされ、赤い彗星を探し続けている。
凄みと年輪は増したが、心はずっと純情である。
凄惨な殺戮に身を置きつつ、二人が感情の手綱をしっかり握って知的であること…その静けさの奥に確かに、熱い感情を燃やしている姿が、やはり印象深い。(これは原典が青年アムロが世界を旅し、戦争の中様々な矛盾や理不尽を体験する旅物語であったのに対し、戦場と宇宙だけを舞台にした英雄譚だからこその清潔感だとも思うけど)
MAVとなりジオンの運命を書き換えた二人が、確かに利害以上の何かで繋がった実感があればこそ、シャリアはシャアを忘れられない。
多分嘘だったのだと思う気持ちと、本当であって欲しいと願う祈りの両方が、ズキズキ胸の奥深くに突き刺さって抜けぬまま、永遠になってしまった彼の英雄を追い求めている。
その報われぬ恋の果てに、再開は為るのか、為らぬのか。
出逢えたとして、望む答えは得られるのか。
緑のおじさんの終わらない青春は、作品の大事な柱だ。
なのでそこん所重点で再構築したんだろうなぁと、勝手に意図を推察するのが楽しい、TV放送版第二話でありました。
いやー…一話で収まってよかったなッ!(見終わっての素直な叫び)
バカみたいに面白ぇけど、一年戦争はあくまで前座でしかねーはずだからなッ!
同時に戦後の景色にとっても、緑のおじさんの想いとしても、この血腥い青春は大事な前提で。
MSがひたすら殺しの道具であった時代を遠くに、新たな宇宙へ漕ぎ出していく若人と、その残照を聞きながら彗星を探す男。
”ガンダム”を通じ、彼らの運命がどう交わっていくのか…次回もとても楽しみです。