イマワノキワ

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アイドルマスターシンデレラガールズ 2nd Season:第25話『Cinderella Girls at the Ball』感想


魔法をかけられた女の子たちの旅路、その終着点……と、その先に続いていく物語にまつわるシンデレラガールズ最終話。
常務との対決路線としては第22話で、物語的なストレスとカタルシスとしては第24話で、それぞれ決着が付いている関係上、お話を盛り上げるというよりは、これまでの歩みを総括しつつテーマをまとめ上げ、キャラクターたちを未来に向かって開放する最終話でした。
1話まるまるエピローグという作り方は、余韻があってとても好きな終わり方です。


お話の構成としては大まかに分けて、シンデレラの舞踏会の理念を説明しプロデューサーと常務の対立に決着をつける部分、『流れ星キセキ』と『M@GIC』二つのステージで少女たちの到達点を見せる部分、CP一期解散後の姿を見せ物語をまとめ上げる部分と、3つに分割できると思います。
先程も述べたように、アイドルの総体的な物語は第22話で、個人的な感情の物語は第24話で終わっていますので、例えば第3話での緊張感、第13話でのアクシデントの連発、第22話での立場の変化など、これまでのステージでは必ず起こっていた波乱は、今回のステージにはありません。
必要なのは、これまでの長い物語の中で女の子たちがどういう存在になったのかということを、説得力を持ってみせること。
そして、アイドルの話をし続ける中でメインに据えられなかった舞台装置たちに、自分たちの物語を総括させることになります。

シンデレラの舞踏会はCPプロデューサーの持つ個性重視主義が最大限発揮され、複数ステージを縦横無尽に利用し、歌あり踊りあり、仮装コントにゲーム大会にお菓子の試食ありと、圧倒的なヴァラエティを誇るイベントになりました。
あまりにも大量のキャラクターを抱え込むシンデレラガールズを、いかに魅力的に見せるかを考えた時、アイドルの持つ過剰な個性を全肯定し、それが生み出す混沌を肯定するプロデューサーの姿勢以外、主役が持ちえるスタンスはありえません。
『高級感があって、物語性を持っているアイドル』だけを価値と考える常務のスタンスでは、シンデラガールズの女の子たち(アニメーションに登場しなかった、数多のアイドルたちも含む)に線を引き、『価値のあるアイドル』と『価値の無いアイドル』を分けることになる。
プロデュサーが辿り着いた笑顔第一主義は、特定のアイドルを推す(それはつまり、特定のアイドルを推さないということとイコールになる)消費者のスタンスではなく、コンテンツ全体を肯定し称揚したい作り手の立場でもあると言えるでしょう。

同時に、シリーズアニメーションとして物語を展開していく以上、過剰なアイドルの個性を全肯定するプロデューサーのスタンスは、色々と無理があります。
一期が持ち前の個性を発揮できるまでの、そしてその個性が響きあって集団として輝くまでの物語だとすれば、二期になって登場した常務は、一種常識的な視点から一期の物語にカウンターを当て、その反論が否定されることで主役サイドの主張が強化されていくという、査問装置的な役割を担っていました。
常務がお話のテーマを浮き彫りにしていく彫刻刀としての役割を担えるだけの強度があったかどうかは、正直疑問が残るところですが。


一期の物語展開を見ると、プロデューサーはキャラクターの一人としてかなりの時間を与えられ、失敗し、悩み、挫折し、立ち上がって成長する彼個人の物語を、かなりの濃度で展開できていました。
本田未央に不用意で苛烈な言葉を投げかけ、アイドルを傷つけ、傷付いた姿を見て自分自身も傷つく彼は舞台装置の枠を超えて、人格的な血の通ったキャラクターとして描かれていた。
それが彼に対する共感を生み、彼が導くCPへの愛着を生んでいたからこそ、アイドル個人の物語としてだけではなく、CP全体の物語としても展開したこのお話を視聴者が好きになれた部分は、かなり大きいと思います。

そんな彼と、彼が代表する理念に対するカウンターとして登場した常務はしかし、プロデューサーほど物語的な尺を与えられず、彼女がどんな価値観を持ち、何を大事に思い、何に傷つくのはなかなか見えてきませんでした。
キャラクターデザインや魅力的な声など、第一印象で人を引き付ける重力を(プロデューサーと同じように)持ちつつも、物語装置を超えた常務の個人的な部分はあくまで匂わされるだけで、そこに踏み込んでいったのはあくまで脇役の部長だけです。
最終話、アイドルたちの物語がゴールを迎えた後に一気に語られた、理念者達の対論。
それがどこかドラマの熱気を伴わず、理念以上の実感を生み出さないのは何も過剰に詩的な言葉遣いだけが原因ではなく、プロデューサーの反対側に立つ常務の描写が不足していることに、強い原因があるように思います。

常務が物語装置として持っている意見は、最終的にプロデューサーが肯定したようにうなずける部分が多々あるもので、それは作中でもしっかり示されていました。
美城という『アイドルの入れ物』と、アイドルという『会社の中身』どちらを重点するか、それはあくまで立場の違いであって両方に価値がある、意味のある平行線だという常務の言葉にも、ロジックとしてのまとまりの良さがある。
そういう思惑を全て飛び越えて、アイドルたちは輝いてしまうというロジックの外側も、しっかり見据えている。
そういう意味で、最終話塹壕で交わされた会話は、良くまとまっている。

しかし僕はあまりに情熱的な物語として展開してきたこのアニメをまとめ上げるシーンには、やはり相応の熱がほしいと思ってしまうし、あのシーンがロジカルなまとまりの良さを超えて、感情と価値観のぶつかり合いの果てに生まれた和解のシーンとして熱量を持つためには、蓄積が足らないと感じてしまった。
これがないものねだりだというのは、重々承知した上で。
あくまでアイドルを輝かせるための外部装置、脇役であるプロデューサーと常務の物語には重きを置かず、その分の時間を少女たちのぶつかり合いや、一度肯定されたテーマの掘り下げに使った二期の構成は正しいと分かった上で。
どうにかして、プロデューサーと常務にはあと一つ、一期でプロデューサーを描いた時のような熱量と感情量を込め、時間を使って分かり合うシーンが欲しかったと、思ってしまうわけです。


常務のロジックには一定以上の分があり、CPが一期で積み上げたロジックを否定するのではなく、むしろ批判的に受け入れて拡大しうるものだったというプロデューサーの発見は、実は発見ではないと思います。
物語の中にこもっているものを見せる手腕がスマートなこのアニメ、常務の理屈が持っている強さや正しさ、そこから受け取れるものに関しては、その登場段階(第15話での楓さんとの対話)で、それなりに的確に示せていた。
乗務の選抜主義とプロデューサーの個性主義が相補的に補いあい、第15話で見えた『だいたいこういう感じにまとまるんだろうなぁ』という予想着地点を越えていく展開を期待していた側としては、プロデューサーが辿り着いた答えは予想を超えてくれる驚きに満ちているわけではなく、『まぁそうまとまるよね』というポイントに収まっていました。
予想着地点からズレずに落ち着くというのは凄いことなんですが、そこを遥かに超えて脳髄を揺さぶってくるようなエピソードを多数できていたからこそ、物語全体の骨格足りえるプロデューサーと常務の対論にも、同じものを期待してしまう。
優等生が85点とったら起こられるような、理不尽な現象ですね。

結局あのシーンを残念に思うか、はたまた十分と感じるかは、このアニメに何を求めているかによって大きく変わるのでしょう。
あそこに感情のうねりが足らないと感じる僕は、常務が提出したロジックを批判的に吸収し、プロデューサーが代表する主役サイドのロジックがより大きく、より正確にテーマをえぐりだしてくれることを望みながら、このアニメを見ていたわけです。
しかしそれを達成するには例えば『常務が何故、無差別な夢を見なくなったのか』だとか、『余計』なシーンをしっかり作って、アイドルに割くべき時間を略奪しなければいけない。
そうなっていれば、『アイドル論のお話』ではなく『アイドルのお話』を強く求めている、僕ではない誰かにとっては納得出来ない映像になっていたのは、おそらく間違いがない。
そして、一切論理的後ろ盾がないただの直感ですが、この話を『アイドル論のお話』ではなく『アイドルのお話』として見ていた人数は、大多数と行っていいほど多い。
だから、常にギリギリの選択の中でベストに近い場所を選び続けたこのアニメらしく、その選択は正しい。

これまで愚痴を垂れてきましたが、僕はアイドルマスターシンデレラガールズが『アイドル論のお話』をしていなかったとはけして思わないし、『アイドルのお話』に全力で注力する中で、それを補い強化していく『アイドル論のお話』をしっかりと用意し、運営していたと関心しています。
アイドルのお話が終わったタイミングで、裏方が裏側で理念の話をするシーンがある。
最終話の構成自体が、相当に細かい気配りの中で『アイドルのお話』と『アイドル論のお話』のバランスをどうにかして取り、画面の中に何を収め、何を収めないか苦心して考え続けたのだと、無言で語っているように思うわけです。
しかしまぁ、正直なことを言えば僕はキャラクターとしての常務が(もしかすると一目惚れというくらいの速さと強さで)好きになってしまっていたわけで、プロデューサーが一期で見せた挫折と性向の物語と同じくらい、彼女に時間を使ってくれても良かったんじゃないのかな、とか思ってしまったわけです。(結局キャラ萌えマン)

でもすべてが終わった後、シンデレラガールズがもう一度集まる舞台を高い場所ではなく、アイドルの視線に降りて見守っている彼女の姿を見ると、誰かと語り合い影響を受けて変わっていくという、凄くシンプルで基本的で、だからこそ力強いお話を彼女が成し遂げたのがちゃんと分かるので、満足といえば満足してしまうのが困りどころだ。
平行線と言っている割に、プロデューサーの理念に相当吸い寄せられた1クールだったんじゃないかね、美城常務。
嫌われ者をやるには悪すぎず・強すぎず・出すぎずな扱いだったと思うけど、僕はアナタが好きですよ。

 


そんな『アイドル論のお話』はさておき、『アイドルのお話』としてのクライマックスは、やはりステージ。
主役として物語を牽引してきたNew Generationが歌う『流れ星キセキ』と、集団としてのCPの集大成『M@GIC』。
二つのステージは延期を幾度も挟んだだけはある作画カロリーで、過去のエピソードからの引用も的確に決まり、顔も名前もない少女たちが何処に辿り着いたのか、良く分かるクライマックスだったと思います。

『流れ星キセキ』が引用しているのは、主に第3話の初舞台でして、あの時はガッチンガッチンだった本田が率先して冗談を言って空気をなごませている所とか、あの時は憧れの対象でしか無かった美嘉と対等の立場になっている所とか、反復故によく見えてくる差異が、巧く強調される作りになっていました。
第三話では掛け声で緊張をほぐす手助けをしてくれた小日向先生が、島村卯月の地獄巡りを経て対等な立場に立っているのは、個人的に一番グッと来たポイント。
ホントな、あの子人間出来過ぎてる……「頑張ります!」で涙が出るってことは、その裏に隠された無理と強張りをしっかり解っているということであって、自分で聞きに行ったのかPとかが耳に入れたのか、ともあれ卯月を最後まで抱きかかえてくれる子だと思います。
サンキューコッヒ、いやマジで。

第13話の『GOIN'!!!』を出だしで引用しつつ、全体曲として最後に飛び出した『M@GIC』
THE IDOLM@STER』という金看板を象徴する"@"の一文字をようやくタイトル・インしたこの曲が、ステージの最後(つまりはCPの女の子たちの物語の最後)に来るのは、当然といえば当然の構成だと言えます。
凸凹とした個性が集まり、自分の才覚を発揮していく方法を学びつつ、一つの集団として総和以上の力を発揮するまでの物語だった一期。
その終わりであり、クール折り返しでもある『GOIN'!!!』が正しくここまで辿ってきた足跡を思い返しつつ、今いるステージから未来を見据える曲だったように、『M@GIC』は過去形の曲です。

『ここでめぐり逢えた ずっと大好きな君に ここでめぐり逢えた 君と共に』と語る言葉は、一期OP『Star!!』が希望とともに上だけを見て『Say! いっぱい輝く』という決意とともに始まったように、シンデレラプロジェクトの物語が既に過去のものであり、このお話が完成したのだということを的確に伝えています。
二期OP『Shine!!』が、島村卯月の苦難を予言するように『思い通りいかない夜に 星を見上げる』歌、『新たなヒカリに会いに行』く歌だとしたら、『M@GIC』はその旅路を終えて手に入れたものを、懐かしさと寂しさが同居する視点で思い返す歌である。
出会いと努力の日々に感謝しつつも、『明日はもっと輝いてゆく それは 自分励ますエールに変わる』と、苦難の中で学習した『痛み止めの呪文』を呟いてまた走りだす少女たち。
綺麗にお話の形をまとめていて、良い歌だなと思います。
物語の要で登場する命曲の使い方がとにかく上手いのだと、今更ながら教えてくれるステージでした。

 

アイドルマスターという物語の終わりがいつもそうであるように、『M@GIC』の終わりも希望を込めてカメラが空に向かい、エピローグになります。
反復を効果的に使い、『行きて帰りし物語』というお話な基本的な構造を徹底し続けたこのアニメに相応しく、物語が始まった桜の季節に帰ってきて終わるのは、とても収まりが良いです。
エピローグは冬空→桜の空というリレーから始まり、各キャラクターの到達点の先を描写し、次のキャラクターにリレーし続ける演出がされています。
出だしでCP解散を意味するホワイトボードを大写しし無言で状況を説明しつつも、バラバラになっても繋がっている真心を分からせる意味で、このリレー演出は最高の仕事をしていると思います。

アイドルマスターシンデレラガールズというお話は終わって、一旦カメラは彼女たちを映すのを止める。
でも彼女たちの『コマの外側』の物語は続いていくし、CPという制度が終わりになったからといって、そこで手に入れた繋がりや感情、経験が消え去って無駄になることは、けしてない。
二期全体が常に視野に入れ続けた『変化』への肯定、『挑戦』への是認が前面に押し出ているのに、押し付けがましくなく物語を受け入れられるのは、やはり生理的な気持ちよさを突き詰めたカットのつなぎ方に大きな理由があると思います。
繋いだ手を離して、一歩先に踏み出していく彼女たちを笑顔で祝福できる、とても気持ちの良いエピローグでした。

ラストシーン、第1話アバンでは顔も名前もなく、アイドルに憧れるだけだった女の子たちが『お願い!シンデレラ』を歌う。
それは彼女たちが成し遂げたそのステージそれ自体が、彼女たちをアイドルに変えた魔法それ自体であるという意味合いを含むリフレインで、とても綺麗なエンドカットでした。
多分あのステージを見て、第1話のCPメンバーのようにアイドルに夢を見て、自分自身が夢になるべく前に進んでいく子たちが必ず出るし、その子たちの物語もまた、僕達が見てきたCPメンバーの物語のように、山あり谷ありつつも優しくて幸福で温かい、苦難と達成の物語になる。
顔も名前も出なかったCP二期生のお話も、これまで見てきた一期生の物語のように、素晴らしいお話として幸せに展開していく。
そういう想像力を加速してくれるような終わり方になったのは、なかなか豊かなことだと思いました。

キャラ萌え的な話をすると、まるで核地雷のように的確にアーニャとのイチャイチャアイテムを置いてある新田さんとか、第18話で発破をかけてもらった幸子がビビるような高さに飛び込んでいく智絵里とか、ラストのラストでちょっとビターでクールな衣装を着込んで『かっこ良く』なるきらりとか、最後まで美味しいところをくすぐりまくってくれる、良い見せ方だった。
控えめに言って最高だったなぁ……橘がうっかり携帯について聞いたら、ここぞとばかりに六時間ぐらいしゃべるんだろうな新田さん……。。
CPという場所を大事にしつつも、そこから飛び出していく勇気と風通しの良さを新アイドルとの絡みで見せていたのも良かったし、CP全員が自分の個性を損なわないまま、最初苦手だった分野に果敢に勝利する姿をコンパクトにまとめていたのも素晴らしかった。
あの到達点描写がコンパクトでも機能するのは、やっぱり『アイドルたちのお話』に最重点を起き、徹底して少女たちの気持ちを丁寧にエピソード化した結果であり、デレアニが持ってた強さ最大の証明だと思います。


(一期で『団結』し一つの価値観を共有する仲間に育ったCPが、何故常務というキャラクターを唐突に生やしてまで、二期では『挑戦』と『変化』の価値を追求することになったのか。
これは完全に僕の妄想なのですが、偉大なる先達にして無視できない巨大な影として伸びる無印アイドルマスターの物語を、強く意識した結果なんじゃないかなと、このエピローグを見ながら僕は思いました。
僕は『作品はその文脈ではなく、基本的に作品自体を解体・評価されるべき』と考えて無印との対比はあえて視界の外においていたわけですが、物語が時間的・記憶的な生成物である以上、文脈が投げかける影からは絶対に逃れられません。
ましてや無印アイマスでシリーズ演出をやっていた高尾さんが監督になったこの作品は、その歴史的文脈から考えても、スタッフの個人史から見ても、無印アイマスの影響は切っても切れないでしょう。

あくまでメインとなるキャラクター一本で個別エピソードを積み重ねていく無印のスタイルと、ユニット単位でキャラクターを描写し、相互の影響と関係性を重視したデレアニという、スタイル的な対比ももちろんあります。
無印春香エピとデレアニ卯月エピの形式的・演出的な類似(と差異)だとか、無印第4話とデレアニ第9話の類似(と差異)だとか、エピソード単位での目配せも沢山ある。
しかしその上で、『団結』という魔法の言葉に向かって集約していった無印全体のテーマ性に対し、『挑戦』と『変化』に向かって拡散していったデレアニの物語的運動の対比こそが、もっとも大きな差異点なのではないかと、僕は感じたわけです。

あくまでアニメシリーズでしかアイドルマスターという巨大な、歴史があるコンテンツにコミットしていない門外漢の意見として、無印が見せた『団結』はすごく心を揺さぶる温かいものでありながら、同時に何か危ういものでもあるのではないかと、少し感じています。
自分は劇場版アイドルマスターにおいて、矢吹可奈が代表する衆生の業全てを受け止め、全ての答えになり得る『アイドル菩薩』になってしまった天海春香の姿を、どうしても正面からは見えられなかった。
多分天海春香は幸せになったんだろうけど、そこに寂しさというか、怖さというか、全肯定できない何かを勝手に感じ取ってしまった身としては、彼女たちが物語的結末に到達する魔法の言葉として使っていた『団結』を、無条件には信じ切れない。
デレアニで言えば『笑顔』という言葉に宿っている魔法と呪いを、無印アニメにおける『団結』に僕は感じていて、だからこそ『団結』という結論に第12話の夏合宿を経由し第13話の夏フェスでたどり着きつつも、バラバラに成って別の存在と結びついていく二期の運動性、それを凝縮し完成させた最終話のエピローグは、心が落ち着く終わり方でした。

無論オンボロ事務所からアイドルの頂点にたどり着くまでの、765のサクセス・ストーリーは最高に気持ちがいいし、『団結』の物語それ自体が悪いというわけではない。
というかむしろ、デレアニ一期は露骨に『団結』までの物語だし。
しかし概念はその対比物との照応を経て初めて瑕疵が浮き彫りになり、そこを埋めてより完成度の高い結論に至ることが出来るのならば、『団結』に『挑戦』『変化』を対比させ昇華させたデレアニ二期の回し方は、テーマの弄り方として個人的にはよりしっくり来る。
ここら辺は『んじゃあ無印第23・第24話の展開は『挑戦』の可能性について語っていないのか』とか『お前は765プロへの愛が足りない』とか、かなりナイーブな領域に踏み込んでいくことになるわけですが。
今回はとりあえず、最終回を迎えた感覚を書き残すところまでで終わりにさせていただきます)

 

アイドルマスターシンデレラガールズは、無事終わりました。
分割二期になったり、総集編が挟まったり、色々ありましたけども、終わりました。
良いアニメでした。

このアニメがどういうアニメだったのか考えてみると、一番最初に浮かぶのはやはり『女の子の話』だったな、ということです。
色々と欠点を持っている女の子、血も涙も流さない、けして無敵の天使ではない女の子たちがアイドルとして選ばれ、傷つき、仲間の手を取ってもう一度立ち上がって、その経験に学んで成長して、より大きく広いステージに上がっていく物語。
その過程で起きる柔らかな感情の起伏を丁寧に追いかけ、共感させる力が本当に強いアニメーションだったと思います。

にょわにょわ言うデカ女にニートアイドル、にわかロッカーにネコミミ、ずっと笑顔の天使。
イカニモなキャラ記号に囲まれた少女たちはしかし、記号性の一歩奥に踏み込んで自分のお話を始める。
僕達が嬉しい気持ちになりそうな場面では喜び、傷つきそうな場面では涙を流す、ちゃんと僕らと同じいきものなんだよということを、過剰に掘り下げていく。
その大真面目な仕草は、キャラクターを消費する以上の態度を僕に要求してきたし、時々あまりにも心を揺さぶれて疲れたりもしながら、それでもやっぱり彼女たちの物語を見させてもらうことが嬉しかったし、楽しくもあった。
『二次元の架空の存在だけど、この子らだって泣きもすれば、嫌な気分にもなるし、頑張れない時もあるよ?』という、時々忘れ去られるけど考えて見れば当然の都合の悪さから目を背けず、その上で彼女たちが好きになれる場面をたっぷりと詰め込んでくれたこのアニメは、やっぱり素晴らしい。

記号的キャラクターが隠し持っている、人間として当然の弱さと強さを、視聴者にストレスを与えることをためらわずに振り回す物語が、やっぱりアイドルマスターシンデレラガールズの物語だったのではないでしょうか。
本田が「私アイドル止める!」と叫んだ時のドン曇り感とか、島村さんが「私にはなんにもない!」と慟哭した時の哀しみとか、そういう柔らかくてなーバスな部分に切り込んでいけたのは、やっぱりキャラクターを愛して彼女たちの物語を伝えようと細かく気を配り、映像にまとめてくれたスタッフのおかげでありまして、感謝の極みとしか言いようがねぇ。
やっぱあの子達好きだったなぁ、俺……。


映像から感情を喚起するべく、過剰なまでに徹底された演出の哲学がそれを支えていました。
光、影、花、風、足、靴、階段、信号機、足元の一線、それを踏み越えて進む一歩。
明確な意思を持ったレイアウト、心理的な状況が如実に出る身体表現、現在と未来を暗示するライティング。
高雄監督の苛烈な印象主義を最後まで維持し切り、一つのトーンで作品を包み込んだのは、やはり凄いことだと思います。
それが効果的に少女たちの劇的瞬間を演出していたことに加え、一つの演出哲学を25話維持し続けること自体が、強烈なメッセージ性を作品に与えている、という意味で。

メインで14人、プロデューサーに他のアイドルにととんでもない数のキャラクターを扱うべく、基本的に束でキャラクターを扱い、見せ場を細かく与えていく構成も、群像劇として見事でした。
エピソード内部の『横』の掛け合いだけではなく、とある話では脇役として見せていた仕草が主役のエピソードで生きてくるような『縦』の話作りにも鋭さがあり、圧倒的な人数を巧くさばいていたと思います。
その上で、本田未央と島村卯月という二人の軸に注力するタイミングでは人数を絞り、見せ場を集約させる思い切りもあったのが、捉えるべき軸を間違えていない信頼感に繋がっていた。
もう一人の主役、渋谷凛に関しては、島村さんの危うさのようにじわじわと見せられている『衝動』という個性が未だ真正面からエピソード化されておらず、今後を待ちたいところです。
いや、映画やOVAがなかったとしても、TP関係としまむーエピの中でかなり渋谷凛の物語って完成しているとは思うんだけど、島村さんのお話に至るネタのばらまき方(そしてその回収の仕方)を見てしまうと、凛ちゃんにもおんなじようにやってくれね? とかね、贅沢にも思ってしまう。

キャラクター個人、それが集まったユニット、その集合体以上の存在としてのプロジェクト。
各スケールで丁寧に展開される物語を貫くテーマにしても、それを可視化するべく導入された常務の扱い方に扱い方に瑕疵がないとはけしていえませんが、全体として巧く行っていたように思います。
アイドルとして、ユニットとして、シンデレラプロジェクトとしてまとまるまでの一期と、そこを超えて別の可能性に飛び込み、変化し、もしくは過去見つけた価値を再発見していく二期との対比は、シリーズ全体として緊張感が維持できる、良い作りだったと思います。
あくまで『アイドル論のお話』ではなく『アイドルのお話』に注力していたけど、個別の物語に注力し切ることで、結果的にテーマ全体を貫通させるパワーもあったし。
やっぱり僕は、お話しの筋立てにしても演出の方針にしても、何がやりたいかはっきりしている作品のほうが肌に合うんだなぁ。


というわけで、アイドルマスターシンデレラガールズのアニメーションは終わりました。
良いアニメだったし、巧いアニメだったし、好きになれるアニメでした。
こういうアニメーションを見させてもらえたことには、やっぱり感謝しなければいけない。
製作者の皆さん、どうもありがとうございました。