誰かが死ぬべきと告げる世界に、抗うように真球を転がす。
青の双子の貌を一気に彫り込む、Turkey! 第9話である。
大変良かった。
前回整えておいた足場を活かし、ようやく素顔を見せた朱火…を結束の真ん中に置く戸倉家と、「己が消えるべき」という情念を共有する利奈の深い所まで、一気に潜るエピソードだった。
最後の青色個別回というべき内容だが、ピンクのカリスマが差し出した解決策がかなりド直球に、作品のテーマを語る回でもあった。
なぜボウリングで、なぜ戦国なのか。
この物語で大事にしたいはなにか。
このアニメらしい真っ直ぐさで、力強く突き出してきた。
朱火という秘密を共有することで、戸倉家がどういう価値共同体なのかも一刻館ボウリング部に晒され、手を携えてその問題を乗り越えていく道も拓けていく。
理不尽な死と暴力に満ちた戦国のリアルを、そのまま飲み干すには優しすぎる戸倉家の女たちは、やはり裏打ちされた主役の影…時代からはじき出された迷い子なのだと思う。
彼女たちの”現代的な”優しさが、クニとイエを背負って闘う厳しさにどれだけ通用するかは、この後のクライマックスに鮮明に描かれるとは思うが、厳しすぎる時代(あるいは場所)にそれでも瞬いてる、甘っちょろい人間味は時を越えて、人と人を繋いでいる。
本当は殺しも殺されもしたくないが、生きるためには戦い、命に軽重をつけるしか無い。
一刻館の子ども達が幸運にして遠ざけられている、そういうシビアな決断を、ムラの外側での野武士との戦いにおいても、クニを接した強国との政治においても、あるいはイエの中に秘められた家族の事情においても、戸倉家は強いられ続けている。
そういう過酷さを経て確立された自由と平等と平和を、空気や水のように当たり前に感受している少女たちも、もはや戦国のお客さんではない。
犯されかけ殺されかけ、そういう残酷の中でなお自分たちと同じ顔をした人間であろうとする、自分たちと同じ髪の色をした女たちを、己を照らす鏡として見る。
そういう旅路の最後に、今回のエピソードがあるんだとは思う。
ここで共感と連帯を確認し、どんなときでも楽しい幸せを追い求めてしまう人間の業を、泣きながら微笑んで肯定した物語が、一体どこに行くのか。
ちょっと不思議な夏休みの課題を終えて、現代に帰ってハッピーエンド…つうなら、この話数じゃない感じはある。
というかここまでの話運びに、濃厚に虐殺と蹂躙の赤を滲ませてきた物語が、戸倉家という例外的に現代の人権意識を共有できる「受け入れやすい他人」だけ描いて終わるとは、まぁ思えない。
他人を殺し、踏みにじってでも生きようとする「受け入れがたい他人」の姿も、描かなきゃそらー片手落ちだろう。(というか第2話、野武士との遭遇で既に描いている)
時代を飛び越えて出会った、自分に何処かが似ている他人。
戸倉家の女たちが一刻館ボウリング部の鏡であり、己の輪郭を確かめる時必須となるシャドウであるのは、既に鮮明である。
同時に戸倉家の女たちにとっても、この鏡像関係は重要である…と示すために、レジェンド声優まさかの歌唱ユニット結成な、反転OPも暴れるのだろう。
いやー…ズルいよねマジ!
百日経っても忘れぬほどの絆を、時空を超えた隣人との出会いに見つけたのは、戦国の習いに必死で抗う少女たちもまた同じ。
でも心の中に刻まれた大事な鏡を見つめること、果たしてシビアすぎる現実を前に、どれほどの意味を持つというのか。
死んじゃいたくなるような過酷な理不尽を、何度も突きつけてくる世界と、麻衣は既に出会い戦い、傷つけられてなお笑うことを選んでいる。
その微笑みの裏にある思いに、ようやく目を向け手を添える事ができるようになった利奈の成長もまた今回描かれるが、そういう心の中の宝物がぶっ壊れるほど、情け容赦がない現実に襲われてなお、少女たちは甘っちょろい夢を語れるのだろうか?
今回描かれた一つの結論は、麻衣というキャラクターにとってもこの作品にとっても嘘のない本当だと思うが、それを真実本当にするためにも、もう一つ…一番キツい試練がこの後襲ってくるのだろう。
…そういうハラ固めておかないと、終盤戦はキツそうだ。
どういう結末になろうが、今回描かれたものは嘘のない本当だ。
過酷な世界の中で家族を思い、一緒に生きようとしたこと。
どれだけ生き延びてしまった罪悪感に苛まれても、世界に溢れている楽しさに惹かれ、明るく笑ってしまう魂の色。
それを映すキャンバスとして、家族で楽しめる「ボウリング」が最適だからこそ、この話は戦国ボウリングタイムトラベルジュブナイルなんだと納得もした。
歳や事情を飛び越えて、戸倉家全員が楽しむレジャーとしてのボウリングには凄い説得力があったし、死の影にズタズタにされてなお眩しい、麻衣と家族の思い出がそこには反射もしている。
俺は音無麻衣って人にかなり惚れ込んでいるわけだが、物語が始まる前に噛み締め咀嚼した…でも乗り越えることなど出来ない悲憤と痛切が、「死のう!」と笑う横顔から強く滲んで、大変良かった。
そういう壮絶を抱えたまんま、あの子はみんなで楽しいボウリング部をやろうとしていたわけで、それは全くもって軽くもユルくもない、人間必死の営みだ。
両親が死んでしまった(麻衣の内面では、もしかすると「自分が殺した」位の認識かもしれない)虚無に食われず、終わった世界に確かに点る楽しさを拾い集めて、絶望の長い手を振りちぎって振りちぎって、ゆるくて楽しい「日常系」を演じる麻衣の姿は、
気楽に見える誰かの奥に常に地獄が燃えてて、それでもなお笑う人の強さがあることを示す。
これっていわゆる「日常系」への猛烈なカウンター(あるいはジャンル内批評)になってる気もして、第1話の反転で置き去りにしたように思えた、千曲ボウリング奮戦記の幻影を取り返すような描写だったと思う。
ここまでの9話は、利奈を問いかけ役にして、麻衣が何を抱え何と戦っているか理解していくまでの旅でもある。
ヌルい理想ばっか吠えてるお気楽ピンクに見えた女が、どんだけの覚悟と決断力、理想と地獄を抱えて現実に立ち、大事だと思えたもの…輝きとして誰かが手渡してくれたものを、諦めないためにヘラヘラ笑っていたのか。
それが解ったから、利奈も自分を蔑ろにすることで楽になる道を塞いで、誰かに愛されてしまう/愛してしまう自分を認めて進むことにした。
そうなるためには帰還のチャンスを棒に振って、誰かの手を諦めずに取る選択とか、めんどくせー女の面倒くささにどっしり寄り添う日常とか、自分の鏡となる生贄少女との対面とか、色んなモノが必要だったのだ。
麻衣が第1話からまとっていた、いかにもお軽いピンクのオーラは何も考えずに与えられたものではなく、それを剥奪しようとする「重たい現実」ってやつから、必死に取り戻したものだった。
そういうサバイバーの傷を目の当たりにしたから、利奈もまた己の傷と直面し、楽しさと優しさで撫でて生き延びる道を、選ぶことにした。
そういう所に何もかも諦めたかった女の子を持っていくのは、相当大変で偉いことだし、そうやって引っ張り上げられた手の暖かさを忘れぬよう、自分によく似た朱火の手を取る連鎖が、どうにも希望に思えて良かった。
誰かに手を握ってもらえたから、自分も誰かの手を取ろうと思えた。
前回麻衣の生存哲学を掘り下げておいたことで、そんな部長に救われちまった利奈が同じように生きる必然性も削り出されるし、本当はそういう希望をこそ求めていた朱火から、自害の刃を奪う道も拓けていく。
人間存在が持つ影響力が、魂を震わせ動かす様子が描かれているのが、俺は好きだ。
麻衣はプライドがあるヘラヘラピンクなので、自分の口からどんだけ地獄の中で傷ついたのか、語ることは少ない。
それを理解しているからこそ心酔しているさゆりが、朱火に引っ張られて奈落に落ちかけた麻衣をぶん投げられたのは、とても良かったなと思うが。
語られないだけで…語らなれないからこそ、両親を奪われた麻衣が心の中に飼い続けている地獄は、相当強いし深いんだろうなとも思った。
そして利奈は、麻衣の中の言葉を奪われた怪物に目を向けて、自分だけがそれを飼っているわけじゃないことを理解する。
踏み込むことを躊躇する、あまりに暗くて深い水にそれでも踏み込んでいく意味を、踏み込んでくれた麻衣の温もりを思いながら、
自分に引き寄せていく。
第1話、利奈の抱えた抑圧と切望を映像にしっかり宿して描き、彼女がどんだけ面倒くさくて傷ついているのかを伝えてきたことが、今回示された変化のカタルシスを支えている感じもある。
あんだけ面倒くさい鎖で自分を縛り、どうでもいいと突き放しつつ誰よりも救いを求めていた子が、すでに自分は救われていたのだと気づき、自分自身が誰かの救いになるための一歩を踏み出す。
そらね、大変偉いことですよ。
そういう場所までしっかり話数使って、あの子を連れてきてくれたお話には”ありがとう”しかねぇっす(利奈が出会ったときから好きな人)
こういう変化を踏み潰すように、現実なるものは死に向かう引力に満ちているわけだが、本当はそんなモンに誰だって屈したくない。
唐突な暴力に人生を断ち切られたくないし、家族の絆を奪われたくないし、モノのように扱われ己の身体を弄ばれたくもない。
それでもそういうイヤでイヤでしょうがないことが起こってしまう世界に、殺されないための生存戦略として、一番楽なのがその不条理に同化し、殺し犯し踏みにじる側になっていくことなんだと思う。
その次に楽なのが傷つく己を捨て去って、何もかもがどうでもいいというニヒリズムに身を投げることだと思うけど、麻衣はそのどちらも選ばなかったし、手の届く誰かに選ばせない。
そのあがきが、戦国を生きる優しすぎる女たちに届いた今回の先…待ってるのはもう一度、死にたくなるような現実の洗礼なのだろう。
なんだかんだ巧いアニメなので、ここで十人姉妹がたどり着いた人間の真実をぶっ壊すほどの試練を与えて、だからこそこの作品だけの揺るがぬ答えとして、地獄の中にいても笑ってしまう人間の業を寿いでいくとは予想できる。
それでもな~…どうにかこのまんま、旅の先に見つけたものが本当だということで、全部終わんねぇかなぁ…。
過酷な最終試練に飛び込まなきゃ、この物語が妥協なき完成を迎えることはないと解ってはいるけども、麻衣と利奈がたどり着けたこの場所を、嘘だとせせら笑うような厳しさを目の当たりにするの、ちょっと耐えられないかも知んない…。
だって俺もさぁ、それが人間と世界の答えであって欲しいもん…。
殺すの犯すの家族を見捨てるの、そういうのが世界の当たり前だと吐き捨てて武器を取る側が賢く正しい。
現在進行系で世界がツッコみつつある、面白くもねぇ決断が”答え”だなんて、やっぱ思いたくないワケですよ。
…そこにモニタを貫通して何かを訴えうる強度を宿すためには、やっぱ徹底的にやり尽くさなきゃいけないわけで、まー大変なことにはなるのだろう。
それがボウリング玉抱えて戦国に迷い込んだ、この奇妙な旅の必然であるのなら、そこに惹かれてしまった視聴者としては、描かれるものを真っ向から受け止めきるのが、誠実の証だろう。
幸せになんなくてもいいんで、嘘だったことにはしないでください。
…とまぁ、精神安定のための予防線を張っても、”Turkey!”がやり切ることしか出来ないアニメだって信頼は、既に僕の中にあるわけだが。
ここまで力みすぎて不格好なほど、過剰な本気を暴れさせて進んできた物語だからこそ、自分たちが描こうとしているものから逃げずに、描くべきものを描ききってくれるだろうという期待は強い。
流行りの軽やかなステップには程遠いけども、ベタ足で自分たちがテーマに選んだものを殴り続ける姿勢を見せていたことが、この後のクライマックスで効いてくる…のだろう。
やっぱそういう、泥臭い戦いができる創作は好きだ。
基本的にテーマに即した話ばっかやり続けとるからな、このアニメ…。
というわけで、開幕白刃ぬらりと光り、明かされる戸倉家の真実である。
野武士と殺し合い誰の子を生むかも選べず、双子が生まれりゃ即座に潰す。
現代視点から見れば不合理な…しかしこの時代を生きる人にとっては当たり前な残酷を前に、なんとか抗おうとした人々の影が暴かれて、9人は同じ場所で同じ光を見る。
その輪から朱火だけが取り残され、切り離されることで、愛するものに累が及ばぬ現実を守っている。
そういう家族共有の冷たい泉に、温かな灯火抱えて踏み込める距離まで、タイムトラベラーも近づいたわけだ。
朱火が己を隔離する座敷牢、それを世間の目から守る戸倉家、そういう甘っちょろさ含めて領主様を尊んでくれるクニ。
こうして真相が見えてくると、少女たちが迷い込んだ場所が何重にも結界を張り巡らせたアジールであり、戦国のスタンダードたる残酷から現代的価値観を守れるだけの、温もりを保った苗床だったことが解ってくる。
クニの外には野武士が徘徊し大国が強権を振りかざし、戸倉が大事にしたいモノを容赦なく蔑ろにしてくる。
それに抗うべく幾重にも防塁を築き、秘密が明かされぬようあがいてきた日々も、朱火の存在が明かされたことで内破していく。
家族だけじゃ抱えきれないモノも、確かに世の中にはある。
「そういうどん詰まりが剥き出しになっちまったら、もう”刃”しかねぇだろー!」という、異様なテンションのKAKUGO祭りにノータイムで飛び込むのが、まぁこの話ではあるのだが。
運命の双子がお互いの喉にヤッパ突きつけ合う、異常状況を前にして笑うピンクのカリスマもすげーが、朱火の強がりを保つ呪具である狐面を、利奈が「手渡し」ているのが印象的だった。
手を伸ばし、掴む。
その行為がこのアニメでデカい意味持っとるのは、すでに幾度も描かれているとおりである。
これまでは麻衣に手を握ってもらうばかりだった利奈が、自分とよく似た痛みを抱える朱火に手を伸ばし、支える側に回れているのを見るのは、とても感慨深い。
そういう強さを手渡してもらったからこそ、利奈は部長がヘラヘラ顔の奥にどんな悲壮と覚悟を燃やし、「死のう!」と提案しているのかをじっと見つめる。
自分もその、軽薄で強靭な作り笑いに救われたことを、もう利奈は否定しない…というか出来ない。
優しくされる資格がない自分を、それでも優しくしてくる他人と切り離そうとした第4話で、麻衣が選んだ掌の重たさを、無視できるほど感受性の弱い子ではないのだ。
ここら辺の繊細さゆえに傷つきもするのだが、それは利奈の(そしてこのアニメの)いいところだと、俺は思ってる。
こっから展開する深夜の決死賭命ボウリングは異様なテンションで、めっちゃこのアニメらしいヘンテコさだったけども。
やっぱここでも誰かに寄り添い、手を添え繋がっていく行為の意味はしっかり描かれ、「それこそが、作品の真ん中なんだろうなぁ…」という感覚を強くする。
あるいはそれを分厚く描くために、ボールと握手し続けるボウリングという競技を選んだ感じもある。
それは年の差を超え、みんなで楽しめるレジャーでもあるので、命がけの土壇場なのに戸倉家の女たちはウズウズはしゃぎ、ワイワイ騒ぎながら皆で楽しむ。
楽しんで、しまうのだ。
鏡合わせの双子が生きるの死ぬの、愛と死を白刃に照らす対峙が、麻衣が取り切るべき難しいスネークアイであるのは明白だ。
言葉を尽くしても届かない、死の重たさに固定された視線を、どう動かすのか。
麻衣は自分が歩いてきた地獄を思い返して、ボウリングの楽しさに賭ける道を選ぶ。
そこに家族の絆が、笑顔に弾けて瞬き直すと信じられたのは、麻衣自身がボウリングをするたび…「一緒にお家に帰ろうね」と呟く度、死んだ父母に出会い直しているからなのかもしれない。
あの子にとって楽しい玉遊びは、死を超え理不尽を倒す、一つの戦いで有り続けているのだろう。
こういう壮絶を抱えてるからこそ、お気楽ピンクが吐き出す綺麗事は異様に重い…と解っても来たが。
それでもターキーのあとに調子を崩すイップスは解消せず、麻衣は完璧な救済者にはなりきれていない。
それはあの子がずーっと傷を抱え、心の中に燃え盛る地獄を飼ったまま生きている子どもなのだと、作品に証明してもらってる感じがして好きだ。
幼くして父母不在の荒野に投げ出されたトラウマは、長い影を伸ばして全然消えず、だからこそ麻衣は同じ影を抱えた自分の影に、本気で優しく出来る。
そうやって理不尽に背負わされた傷を、生きる証に変えていける逞しさ…そうしなきゃ生き続けられない切なさが、ピンク髪の修羅に在る。
麻衣が過去の傷を解脱した救済者ではなく、現在進行形で相当苦しんでいる(からこそ、笑顔で苦悩を塗り固めている)サバイバーであるのは、俺は凄く良い書き方だなと思う。
そういう苦痛への当事者性があればこそ、あんだけめんどくせー利奈が心の扉を拓き、望み通り救われてあげること、痛みから自分を解き放って前に進むことを、自分に許したのだろうし。
麻衣が綴る人間の真実はマジ真実なので、話がたどり着くべき決着はここにしかないんだけど、正解だからこそ胡散臭くもあって。
そこら辺の難しさを視聴者に飲ませる上で、ピンク色の軽薄な外装と、その奥に燃える烈火を描き続けているのは、かなりデカいなぁと思う。
自分が死んで全てを終わらせる道を見据えていたはずなのに、朱火は投球遊戯に確かな手応えを感じ、拳を強く握る。
それはどんだけ死を見据えても生きようとしてしまう、どんだけの地獄に身を置いても希望を見出してしまう、人の業の発露だ。
麻衣は多分両親死んで以来、幾度も「それでいいのかな…」と思い悩みながら、「それで良くしなきゃいけないんだ」と己を奮い立たせて、未来の方へと進んできた。
両親がいる死の国に、自分を引っ張る引力に抗って抗って、明るく笑って気軽に玉転がししてきた。
お気楽部活モノの裏側にある、傷だらけの鋼が涙を流す。
利奈と朱火が魂の青い双子である以上、利奈が狐面を外す手つきは彼女自身の魂に伸びていて、朱火を孤独な決着から引っ張り上げる掌は、彼女自身が傷を抱えてなお生きていく道に繋がっている。
今の利奈はここら辺の照応関係にかなり自覚的で、自分もまた生存者として、愛し愛されることを諦められない世界に投げ出されている事実を歩いていく決意を、救済を手渡すと同時に語っている。
この体を張って理不尽に体当りする生身イズムは、そのまんま麻衣が利奈にやってきたことであり、人間の生き方ねじ曲げようとするなら、結局身一つ本気でしかねぇんだな…という気持ちにもなる。
泥臭い…素晴らしい…。
髪色を同じくする戦国の姉妹が、自分の心を照らす鏡であるのなら、寿桃の抱える生き延びてしまった痛み、生きてしまっていることの申し訳無さは、麻衣の中に凄く濃いんだと思う。
それはず~っと、解ったような正解しか言わない理想主義者の奥で疼いていて…つまりは麻衣だって、消えてしまいたかった利奈と同じだったのだろう。
戸倉家の双子、それを答えへと導く利奈の変化にフォーカスを当てつつ、今まで話を牽引してきた主役の深部をこういう、屈折のかかった描線で描くの、面白い筆跡だなぁと感じる。
麻衣がかぶろうとしている微笑みの仮面を、頑張って維持させてあげようとする優しさが、そこには匂ってて好きだ。
どんだけ死んじゃいたくなっても、生きていたほうがいい。
麻衣が絞り出すように告げた言葉が、多分この物語の背骨だ。
彼女は他者と世界に対して…それ以上に自分に対して、幾度もそれを呟いて、みんなでお家に帰ろうとあがいてきた。
帰るべきお家はもう無いし、幼い自分と一緒に笑ってくれた両親が帰ることはないのに、それでもそんな幻を求め、夢を引き寄せようと生き延びてきたのだ。
そこにはキラキラな理想よりも、血みどろの罪悪感と絶望が強くあって、それでもなお生きて隣に立つ誰かと、死んでどこかへ行ってしまった誰かが遺してくれたものを頼りに、前に進もうとしてきた。
生きてしまっているのだから。
その信念に支えられ引きずり回されて、麻衣は利奈と双子、両方を救い切る奇跡を成し遂げた。
両取りは不可能なはずのスネークアイを、しっかり取りきったのだ。
それで話が終わるなら、話数三つも残ってねぇんだよなぁ…。
稲妻とともに何が訪れるのか、予感は出来ても予測は出来ず、大変不安であります。
今回作品が描いたものを嘘にしないためには、本気の残酷を容赦なく突き刺す事がどうしても必要でしょうから、こっから先の”Turkey!”見届けたいと思います。
時を超え、死を超え、人が掴み取れるものはなんなのか。
まだまだ、物語は続きます。
次回も楽しみです。