イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

ゆるゆり さん☆ハイ:第12話『満開桜に浪漫の嵐』感想

永遠の青春時代を泳ぐ美しき妖精たちの物語、ついに最終回。
みんなでワイワイ→ごらく部漫才→個別の関係→日常に秘められた尊さの確認と、24分間でゆるゆり三期がやって来たことを、丁寧に復習する構成でした。
最後に京子がごらく部に籠めてる願いを真正面から描いたことで、アップテンポなコメディを目指した一期・二期とは別の場所に、ちゃんと辿り着いた終わり方だったと思います。

前回のフリから引き継ぐ形のお花見は、生徒会メンバーも交えた暖かな空気。
櫻子がバカやったり、京子がまた綾野をドキドキさせたり、幾度も繰り返されるけど幾度見ても嬉しい光景が繰り広げられる。
彼女たちの幸福な青春時代を液晶越しに眺めている多幸感と、どう足掻いても次元と時間の壁でそこから隔てられているという事実のカクテルを飲まされるようで、妙に心地よい酩酊感があった。
春の薄明かりと深夜から朝焼けにかけての時間の中で今回の話は展開するので、ゆるゆりが持っている美しい夢の様な感覚が強調されていた気がする。
『もう最終話なのだなぁ……』というノスタルジーがフィルターになって、そういう光景を見せていた可能性は否定しない。

場所を部室に移してからは、ドッシリと腰を据えての漫画大喜利と、寝室を出たり入ったりしつつのしっとりとしたタイマン百合。
三期のギャグは動きの激しさで楽しく見せるというより、ネタの捻り方とちょっとシニカルな味付けで笑いを取るスタイルで、ここでも一期・二期との差異化を図っていたように思う。
BGMに喋らせる演出とあいまって、ちょっと懐かしい感じの舞台芸に近い笑いというか。
百合方向でもシックに掘り下げていった演出方針と、この笑いの作りこみはよくマッチしていたのではないかと思います。

濃厚な京綾とか綾あかとか展開しつつ、開示されるごらく部のオリジンと今。
ゆるゆりにとっての過去は、未来と同じように見えつつもけして手が届かない蜃気楼としてあるんだけど、同時にその幻影が存在していることでゆるゆりの永遠に続く現在はギリギリ腐敗から逃げている。
結衣と京子が二人きりで茶道部室にいた一年間があればこそ、京子が真顔で礼を言ったような日常の煌めきが、この永遠に続く青春の中には塗り込められているのだ。
ジャンルとして、商品として、作品として時間の流れを止めて、綺麗なものを閉じ込めたこのお話はしかしやっぱり、女の子たちがいつかごらく部を離れていくことを前提にしつつ、けして訪れない離別に追いつかない歩みをずっと続けているのだ。
そこで見据えているごらく部の終わりがあればこそ、ごらく部の現在は輝く。
例え健全性を保つための一種のポーズだったとしても、一種の死に向かう作品内の有限性に対し、三期はかなり意識的で意欲的だったと思います。

京子が礼を言った後、まずあかりが駈け出して抱きつくシーンが僕はとても好きで。
あかりは人生において本当に大事なものを絶対に間違えない子で、純朴でストレートな『大好き』という言葉が、永遠の日常の中に危うさを秘めたごらく部を繋ぎ止める一種の引力になっている。
いい子すぎて百合コメディであるこの作品においてあまり目立てない彼女が、どれだけ貴重なことを達成しているのかってことに関しても、三期は自覚的だったと思います。
極めてありがたい。


薄桜の薄暮の中に消えていくかのように、ゆるゆり三期はこうして終わりました。
良いアニメだった。
ほんとうに良いアニメだったなぁ。

ずっと足踏みを続けている少女たちが目指す未来には、成長があっておそらくは挫折と破綻があって、可能性がある。
三期はそのことを大事にしたアニメだったと思います。
ゆる系萌え百合コメディというジャンルの要請からか、その未来にはけしてたどり着かないわけだけど、時間的停滞に甘えず『未来に向かって滑り落ちていく途中』の少女たちの危うさを、優しく柔らかい日常の中に毒針のように仕込んでいたと、僕は感じるのです。
いつか彼女たちの時間は終わるが、しかしそれは永遠に今ではない。
矛盾に満ちたこの意識をしっかり保っていたことが、『ゆるゆりらしさ』と新規性を同時に達成するという偉業を成し遂げた、一つの足場なんじゃないかと。

ともすれば露悪的になってしまいそうな批判意識を健全に保ちつつ、これまでゆるゆりのアニメを見守ってきたファンが見たい映像をふんだんに実現したのは、素晴らしいエンターテイメント製作者の誇りでした。
僕(もしかしたら僕ら)は己の人生の中で達成できなかった(達成できない)何かを仮託しながら、時間の止まった金魚鉢の中の青春を見つめている部分があります。
優しく、柔らかく、暖かく、約束されてしかるべき大事なものがしっかり大事にされている世界をちゃんと現出させ、僕達の前に届けてくれたことには、強く感謝しなければいけないでしょう。

作品の作り方で言うと、淡い色彩と仕草での演技を重視し、シックで湿り気のあるムードを統一して演出していた作り込みは、ゆるゆりの新しい可能性を見事に発掘したと思います。
キャラクターの動きや感情に合わせて音楽が起伏する演出、少しのシニカルさを混ぜた笑いの作りも、全体的にBPMを落とした演出ラインにしっかりと咬み合って、『ゆるゆりらしさ』と『ゆるゆり さん☆ハイ』らしさを両立させていました。

何よりも、あの子たちはあの子たちのことを本当に好きなのだという、作品全体が乗っかる最大の土台に最高級のリスペクトを払いながら走り切ったことが、僕はとても嬉しい。
時々暴走して、少しはぶつかり合って、それでも一緒に時間と場所を共有して過ごしていく関係が持つ、独特の温度と質感。
それこそが『ゆるゆりらしさ』の大きな成分なのであり、彼女たちが過ごすなんてことない、しかしかけがえのない毎日を僕らに伝えるためには、やっぱりそこへの憧れと好意、敬意が映像に塗り込められなければならなかった。
そして三期は、見事にそれに成功したのだと、僕は感じています。

僕があの子たちを好きなように、アニメーション制作者もまたあの子たちを好きだと感じられること。
それは一期・二期でも達成されていて、創作物を作る上では当然の事なのかもしれないけど、こうして一つのアニメが終わって感慨を噛みしめてみると、なかなか果たされない危うい奇跡なのだなと感じます。
それを果たしてくれたこのアニメが、僕はとても好きです。
ゆるゆり さん☆ハイ、良いアニメでした。
ありがとう。