イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

機動戦士ガンダム 鉄血のオルフェンズ:第24話『未来の報酬』感想

戦場から飛び出した少年たちが、最後に行き着く所は戦場。
万人が倫理の荒野に投げ込まれるロボアニメ、第24話です。

人間が常に求め与えられるはずの『正しさ』が一切機能しない場所で、あるいは呆然と立ち止まり、あるいはその不正義を知ってなお進むしかない人たちが、沢山血を流すお話でした。
子供たちも、子供たちの敵もどんどん死ぬ容赦の無さは、これまでの物語の中で目配せしていた『正しさ』に背中を向けるようであり、幸運な部外者として避けてられてきた『正しくない』死に当然のように飲み込まれているようでもあり、複雑な気持ちを抱きました。
一つ言えるのは、物語が来るべき場所に来ているということを、大量の屍で思い知らされたということでしょう。

今回のお話はステープルトンさんをナレーションにして、膠着状態が続く戦場とそのさなかにいる少年たちを描くAパートと、『蒔苗を議事堂に送り込む』という戦術目標を達成するべくオルガが賭けに出て、過去の因縁と正面衝突を始めるBパートに分けられています。
僕はステープルトンさんに過剰に思いいれている自覚があるのですが、今回の彼女の描写で、その理由が少し見えた気がします。
オルガの口走る『最後の賭け』という綺麗な物語の内実、ガキどもの命を木っ端のように使い捨てるしかない、火星時代から一歩も動けていない現状をステープルトンさんは嘆き、悲しみ、『間違っている』と嘆く。
彼女が言う『間違っている』という感覚は、『正しい』人生があるという認識があればこそ生まれるもので、ヤクザのフロント企業とはいえ命のやり取りとは無縁な安定した職につき、教育を受け、自由を保証され、最低限の生命保証がある環境で育ち、種々の権利が約束されるのが当然の世界に身をおいているから生まれる言葉です。
つまり、彼女が縋り付く『正しさ』とは、無論個々の状況に差異はあるとはいえ、一応法治国家に生まれ近代が獲得した様々なフェールセーフに守られて、『正しい』生き方を甘受できている僕たちに近しい価値観です。
彼女は命を使い捨てにしなければ生きていけない荒野、近代以前の光景とされながら当然のように現代でも様々な場所で発現してしまう極限状態を認識しつつも、自分のものとしては理解できない僕達の代理人なのです。

しかし彼女の言葉は前回同様無力で、少年たちはステープルトンさんの言う『正しさ』を気にかけることもなく、明日への希望を抱きながら死んでいきます。
ステープルトンさんの、そしておそらくは僕達(っていう大きな主語はやめましょう。僕)の『正しさ』は、その『正しさ』が機能しない社会しか選択肢がなく、そこから脱出する欲求を丁寧に描写されつつも結局囚われざるを得なかった少年たちにとって、自分のものとして理解できない只の言葉でしかない。
『間違っている』『正しくない』というステープルトンさんが、安全圏からモノを言っているとは僕には思えないし、そう描かれてもいない。
彼女は殺しには加担しないけど、命を繋ぐ仕事を現場で必死にやっているし、その服は鉄華団のジャケットではないけれども、現実の塵に汚れている。
それでも。
それでも彼女の『正しさ』を拒絶する、拒絶するしかないシビアで無意味化された現実の重たさが、まるで第1話の再演のように死んでいく子供たちの背中には、その重たさを自覚されないままのしかかっています。

ステープルトンさんの言う『正しさ』-各々が個人として自分のやりたいことをやり、そのための才能を健全に教育によって伸ばし、食事と家屋と安全を保証され、みらいが無限の可能性と同義語であると信じられるような『正しさ』-は、作中でも『正しさ』として描写されています。
革命家としてクーデリアが求めるのも同様の『正しさ』でしょうし、火星からこの運命の戦場に至るまでの物語の中で、教育され、食事を取り、安らかに眠り、人殺し(もしくは弾除け)以外の可能性に子供たちが目を輝かせるシーンは、本当にたくさんあった。
それはそうなるかもしれない、もしくはそうなってほしい光景として描かれつつも、ビスケットの死を決定的な分岐点として、しかしおそらく『タービンズの隣で宇宙ヤクザとして、喧嘩を売っても良い相手に売る』選択肢を切って捨てた瞬間失われてしまった『正しさ』です。
『家族だから、バラバラになってはいけないから、俺達は一丸となって地球に降りる。巨大な抑圧装置であるギャラルホルンに喧嘩を売る』とオルガが決断した瞬間、その時はひっそりと描写され、今ではもはやその醜悪さを隠すこともない『家族』の闇に押し流された瞬間、泡と消えてしまった未来です。
それを予見していたからこそ、名瀬さんは今回死んだ(もしくは取り返しの付かない重傷を追った)女達と、今生の別れを済ませておいたのかもしれません。

僕は『正しさ』を保証された世界に身体と価値観を預ける身として、彼らにも『正しい』物語を歩いて欲しかった。
『正しさ』が保証されない荒野のロジックをなんとか振りきって、学び、稼ぎ、自己を実現するありきたりでオーソドックスで甘っちょろいビルディングロマンスを、彼らに歩いて欲しかった。
その兆しはあったし、それは単なる悪意を隠すアリバイ的身振りではなく、もしかしたらそうなったかもしれない希望としても描かれていたと、僕は今でも思っています。
しかし今現に『間違っている』状況が目の前にあって、『正しさ』を振り回しても何も自体は変わらず、少年たちと同じように『間違っている』世界を偶然生き延びてしまった雪之丞さんに、嬉しくもない慰めをされるくらいしか出来ないわけです。

ナレーションという三人称的な役割を、今回ステープルトンさんが担うこと。
その理想故に少年たちを殺すものとして、クーデリアが部外者でありながら羽織った鉄華団のジャケットを、あくまで着こまないこと。
戦場に実際に立って、鉄華団の無茶苦茶なロジックを共有して、『正しさ』の視点からは希望にすらなっていない希望に駆り立てられ、幸福なまま死んでいくことが、どうしても彼女には出来ないこと。
それら全てが、『正しい』世界の物語が結局、鉄華団の少年たちの人生を貫通し得なかった事実を哀しく告げてきます。


僕が共感している存在はステープルトンさん以外にもう一つあって、それはこれまでの物語の中であえなく死んでいった、ブルワーズのヒューマンデブリや、コロニーの労働者達『死んでもいい奴ら』です。
いわゆる主役補正を受けることなく、物語のシビアさを担保しつつメインキャラクター(≒視聴者の気持ちの預けどころ。崩れると不愉快になる部分)を守るために、木っ端のように死んでいったように見える、名前も顔もない彼ら。
しかし思い返してみると、論理として鉄華団と彼らを分ける区別は存在しておらず、ともに『間違っている』世界に残忍に食い殺されてもおかしくない、シビアなルールの犠牲者候補であると、この話は描いてきたように思います。
小気味良い快進撃の味付けとして蹴散らされつつ、実は同時に『こいつらのように、お前らは尊厳なく死ぬよ。ここはそういう世界だよ』という予言を、このアニメは小さく呟いていたのではないか。
それを勘違いと否定しつつ聞いていたからこそ、今まさに木っ端のように死んでいく鉄華弾を前に『正しさ』にすがりつつも、同時に虚無的な納得をしているのではないか。
そんな気がしています。

『家族』の外側で死んでいった彼らを『死んでもいい奴ら』と切り捨てたように、敵の事情に鉄華団は想像力を働かせません。
人殺ししあってるんだから、それは当然のことであり、そういう甘っちょろい奴らは死ぬというロジックは、良く分かります。
しかし思い返してみれば、今ステープルトンさんが身近に嘆く『間違っている』世界の残忍さを、一番最初に嘆いてくれたのはクランク二尉だったのではないか。
子供が戦って、子供が死ぬ戦場は『間違っている』と感じ、当然愚かしい行為ではあるけれども、子供たちに対し想像力を発揮して『自分か子供一人だけが死ぬ決闘』で寄り添った男を、彼らは『あっそ』で殺してしまった。
その末路として、鋼鉄の虐殺者と化したアインくんがエゴを暴走させ、かつて為した想像力の欠如した殺しを効率的に行っているのはあまりに残忍な帳尻合わせではありますが、しかし同時にその想像力の欠如に眉をしかめつつ納得してしまう、『間違った世界』のタフな説得力もこのアニメは描いてきました。
そういう意味でも、『正しさ』が機能しない極限状況を高所からただ非難し、一つの正解にたどり着くような物語は、実は当初から想定されていなかったのでしょう。
人が人を殺さざるをえない状況は『正しく』ないが、しかしそれをいくら否定しても目の前に存在してしまう。
物語的想像力が孤絶した荒野の手触りを、肯定も否定もせずアニメーションという手段で切り取ることが、このお話の狙いの一つなのではないかと、お話が一つの終わりに近づくこの段階に至って僕は感じています。

鉄華団には、実は致命的に想像力が欠けています。
いつでも自分たちを一呑に出来る『間違った世界』の中でなんとか生きていくためには、明日のことも他人のことも考えず、『家族』という絆だけを信じて他を切り捨てる勇気が必要だったのでしょうが、彼らは例えばクーデリアの持つヴィジョンや、敵の事情や、実は同じ境遇である有象無象に対し想像力を伸ばすことはしない。
いま目の前のことだけで手一杯という彼らの浅ましさは、しかし批難されるようなことではないし、そうすることは彼らが今まさに感じている怒りや血潮を無視した、神の目線だけが可能にする傲慢でしょう。
想像力を欠落させることでしか生き延びることが出来なかった彼らを、実は肯定も否定もせず切り取ること。
想像力の欠如の結果、実は物語の始まりととても良く似た場所へ行き着いてしまった皮肉を、冷笑を浮かべず正面から受け止めること。
今回の戦いからは、そういうスタンスを強く感じました。

そんな彼らが現状に満足して死ぬために、想像力の集合体である物語を求めるというのも、皮肉に満ちた洞察だと思います。
死んだ奴は無駄じゃないから、その屍の上にしか俺たちの未来はないから、今死ね。
俺たちは家族だから、他の家族の死は俺達の生に繋がるから、お前が死ね。
よくよく考えればロジックとして成立していないオルガの演説に少年たちは心躍り、BGMもまたまるでこのシーンが『盛り上がる良いシーン』であるかのように熱く鳴り響きます。
しかしその欺瞞性を鋭く見抜く『家族』以外の存在、『正しさ』の権化たるステープルトンさんの視線から、オルガは目線をそらします。
ビスケットが死んで岐路に立たされた時、三日月の追い込みをヤケッパチで切り返したように、オルガは自分の決断の正しさを全く信じていない。
それでも、負けを認めて絶望の中で死ぬより、良く出来た偽りが生み出す連帯と熱狂の中で死んだほうが、『救い』があるし勝ち目も少しはあるから。
オルガはこれまでのようにカリスマ(もしくはイデオローグ)として物語を積み上げ、最後の勝負に出ます。

それは『アツい』シーンであるかのように偽装されていますが、同時に意識してグロテスクでもあるよう、非常に細かく接写されている。
嘘と知りつつ言葉を紡ぐオルガ、それに押し流される子供たち、『正しさ』にしがみつくステープルトンさん、そんな彼女に寄り添いつつも味方はしない雪之丞さん。
『鉄華団最後の血戦』として、その先に華々しい絶滅があるにしても、約束された勝利があるにしても盛り上がりそうなこのシーンは、『正しさ』か『間違い』か、どちらの極にも押し流されない、多種多様なリアリティを込めて切り取られています。
『間違っている』世界に対しキャラクターたちはそれぞれ違う立場から何を感じ、何を願い、何を切り捨ててきたのか。
このアニメは巧みに加減をしつつも、常に冷静に特定の極に対しカウンターを当てて、細やかな目配せをしてきました。
その足場があってこそ、『間違っている』戦いへと身を投じる(もしくは投じられない)人たちが切り取られた演説のシーンは、有効に機能しているように思います。


想像力の欠如という意味ではガエリオも似たものなのかもしれませんが、しかし彼は賤民出身であるアインを友と認め、自分を変化させる余裕を持っている『正しい』キャラクターです。
ステープルトンさんと同じく、(比較的)『正しい』世界にいる僕にとって気持ちを寄せやすい、巧く行って欲しいキャラクターだといえる。
そんな彼もモンタークの意図に絡め取られ、大事な幼馴染は謀殺され、心を寄せた部下は殺人機械の一部と化し、自分自身も友と信じた男と殺し合いをする状況に追い込まれています
彼の持つ高邁な倫理観も、(鉄華団と比べれば)柔軟な人格的可塑性も、『間違っている』状況を変えるには現状役に立っていないわけですが、では『正しさ』を機能させないために獅子奮迅の謀略を繰り広げているマクギリス=モンタークは、何を望むのか。

そこは未だ明らかならざる最大の謎であり、これが明らかになる時こそ、『間違っている』世界のシビアさから逃げなかったこのお話の気球力が見えてくる瞬間だと思います。
こんな状況に誰も追い込まれたくなかったのに、気づけば喉笛まで埋まってしまっている『間違った』世界のどうしようもなさを、何故マクギリスは望み、状況を操作して達成しようとしたのか。
彼の悪しきマキャヴェリズムを見ていると、『そもそも『正しい』世界など達成はされていない。世界はそもそも『間違って』いる残酷な状態のままである』と認識しているような気もしますし、もっと別の希望と絶望を抱いている気もします。
蒔苗という玉がアーブラウ首長選挙という盤面に『詰めろ』をかけ、義父を失脚させるであろう次回、それが判るのか、否か。
気になるところです。

ステープルトンさん以外の女も、『間違った』世界を前にして、各々動いていました。
死んじゃう(死んでないかもしれないけど)人もいたし、『家族』の一員として自分に出来ることを果たすべく戦場に突っ込む人もいたし、自分の『正しくなさ』を理解しながら凶刃を前に怯まない姿勢を見せる人もいました。
『虐げられた人すべてを救う、革命の乙女』というフミタンの理想、死せる『家族』からの呪いに突き動かされて、『虐げられた人』そのものである鉄華団を死地に追いやるクーデリアの矛盾は、僕は凄く……好きです。(『正しい』とは言わない)
意図的に倫理と想像力を麻痺させるという意味合いにおいて彼女はステープルトンさんとは違うし、おそらく無力でもないでしょう。
『間違った』世界を否定し『正しい』世界に近づくためには、『間違った』行いに身を投じなければいけない残忍さは、このアニメの根本にあるものですし、クーデリアもまたそこから逃げなかったわけです。
犠牲故に立ち止まって戻ることも出来ず、『どこか』にたどり着く幻影を追いかけながら走り抜こうという姿勢は、ビスケットの死を背負った鉄華団とそっくりですね。

そんな鉄華団をオルガ込みで死地に引き釣りこんでいる三日月は、まるで騎士のようにクーデリアとオルガの窮地に割って入りました。
オルガの「お前が俺たちを、こんな所で終わらせてくれるはずがねぇ」という言葉に、強制の響きが色濃くある辺りに、彼が三日月に感じている複雑な気持ちを想像できます。
識字という可能性を無邪気に喜んでいた三日月が遠くに思える、シビアな展開が続いていますが、彼が殺人以外の手段で未来を切り開くことを信じきれなくなったのは、当のオルガが支持した殺人が、強烈に彼の意識を切り刻んだ結果だというところも、また因果ですね。
火星下層という『間違った』世界に生き続けてきた、物語が始まる以前の鉄華団の体験を、結局この24話展開してきた物語は塗り替えるものではなかったのか。
その一時の結論も、来週ある程度答えが見えてくるでしょう。


というわけで、『正しさ』が無力となる荒野が押し寄せてきて、沢山人が死ぬ話でした。
『間違っている』少年達も、『間違っている』世界に『正しさ』を押し付ける人も、『間違っている』世界の中で『正しさ』を掴み取ろうと藻掻く人も、このアニメはフラットな価値観で描いていると思います。
『正しさ』も『間違い』もその価値を問う以前に、裸のままで存在してしまっていて、それは圧倒的な圧力で物語を支配し、例外を生み出さない。
『正しい』物語に引き寄せられた少年たちが『間違った』世界に戻っていくような今回のお話を見ていると、製作者達が描きたいのはキャラクターの生き様(死に様)であると同時に、価値判断を超越して生々しく実存してしまう『正しさ』と『間違い』それ自体のような気もします。

『間違った』世界に生まれたものたちが、『正しさ』に引き寄せられ、しかし『間違った』世界の残忍さから抜け出せないまま何処か、にたどり着く物語。
それは僕がかつて見たいと希求した、人間の可能性が都合の良い結末を引き寄せる『正しい』物語とは違うでしょう。
でも、見たい物語が必ずしも『正しい』とは限らないと、今この物語が持っている圧倒的な重たさと圧から、言えると思います。
鉄血のオルフェンズは僕が見たいと願った物語ではもはやありませんが、今絶対に見届けたい物語として、その価値を新たに生み出しつつあります。
血みどろの戦場を産褥として、一体何が生まれるのか。
物語の終わりを、期待して待ちたいと思います。