イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プリパラ:第111話『子連れ怪盗まほちゃん』感想

エゴイスティックな優しさが人を傷つけ人を救う救済のドラマ、今週はまほちゃんの不器用子育て奮戦記。
豪華3ステージの半分総集編みたいな構成ながら、ひびきが背負っている厄介なもの、綺麗なものを捉えつつ、ファルルとの関係性にもしっかり切り込んだ良いエピソードでした。
これまでも『異物な他者』としてキャラクターを掘り下げる鏡になってくれたジュルルが、今回も非常に良い仕事をしてくれて、やっぱ三年目はシリーズ構成の狙いがぼやけてない印象ですね。

今回は三年目から入ったお友達にもまほちゃんを好きになってもらえるよう、ひびきの紹介を兼ねたエピソードでした。
顔だけいい性格最悪人間ながらも、なんだかんだ規範意識が高く、それゆえ理想の高さを他人に押し付けて問題を起こす。
二期で大暴れしたひびきの問題点でありチャームポイントでもある要素は、短い尺の中でしっかり描写されていたように思います。

規範意識が高いので相手が何を考えているか把握し(た上で切り捨て)たくなるし、言葉やルールが通じない赤ん坊という存在は思わず『醜い動物』扱いしてしまう。
みれぃの場合は規範意識が自分に回って内罰的な子育てしてましたが、ひびきはそれが世界に向かうので、『自分の理想と違う状況はおかしい。改変しなければいけない』という行動に出るわけですね。
しかし生き物であるジュルルはひびきの理想を押し付けた所でいきなり喋るわけでもないし、放っておけば死んでしまう。
ここに、二期のクライマックスを経てなおひびきが抱え込んでいる、『高い規範意識=自分』と『自分の思い通りにならない世界=他者=ジュルル』の対立が生まれます。

二期のひびきならば強権を発揮してジュルルを従わせていたんでしょうが、彼女は一回負けています。
強引に世界を自分色に書き換えながら生きる方法論は既に内破しているし、それはそれで自分を傷つける生き方であり、そこから少し距離をおいたからこそふわりとファルルを手に入れたとも、紫京院ひびきは理解している。
なので、あくまで性格最悪のひびき主義は崩さないながらも、安藤の助けを借りながら食事を与え、『怪盗ジーニアス』というペルソナを復活させて『ジュルルと一緒に』楽しい冒険にでかけたりします。

赤ん坊のことをとにかく慈しみ、世界の中心として尽くし守る育て方が正しいように、身勝手に才能を振り回し結果として赤ん坊が喜ぶひびきのスタイルも、けして否定されるべきものではないわけです。
彼女は確かに自分の思い通りにならない世界≒他者を疎ましく思っているけども、それは世界≒他者に高い理想を抱き期待する反動でもあるし、色んな経験を経て世界≒他者に歩み寄るやり方を学びつつもある。
『自分がやらないと、赤ん坊が死ぬ』という超倫理的状況に置かれた時、ひびきは自分のスタイルではなくジュルルへの情を優先して、ミルクを与えました。
それはやっぱ、いかに性格がねじ曲がろうが、孤立しようが、紫京院ひびきの根本には凄くジェントルな部分があって、他者や世界と繋がるチャンネルが完全に閉ざされているわけではないという証明になったと思います。
そういう状況を作る意味でも、他のメンバーは一旦背景に下がって、ひびきをジュルル≒他者と孤独に対峙させなければいけなかったのでしょう。

そこではジュルルの機嫌を取ろうとか、一緒に遊ぼうという気持ちはないんでしょうが、ひびきが『怪盗ジーニアス』という自分らしさを振り回した結果、ジュルルはとても楽しい気分になる。
そこには、アイドルの自分らしさ≒個性と才能を身勝手に振り回しても観客が付いてきてしまう、紫京院ひびき天性の才能が反映されています。
観客を『トモダチ』として捉え、観客席に寄り添いながらステージを運営するスタイルが尊いように、持ち前のカリスマでファンを引っ張り込み、とにかく自分の世界を身勝手に押し付けて喜ばせるひびきのやり方も、否定されるべきではない。
ガヤの熱狂下限が凄いことになってた"純・アモーレ・愛"も含めて、ステージアクターとしてのひびきの個性を否定しない展開になったのは、僕は凄く好きです。


ひびきお姉ちゃんが一緒に遊んで満足させてくれたのに、ジュルルはファルルだけに神コーデを与え、ひびきは神コーデチャレンジまさかの三連敗となりました。
これは赤ん坊特有の理不尽とも取れますが、僕としては二期で掘りきれなかったひびきにもっと試練を与え、キャラクターを徹底的に掘り下げるための準備だと捉えました。
今回ジュルルと対峙することで、ひびきの何が変化し何が変わっていないかは凄くクリアに見えてきたわけで、ジュルル絡みのクエストが終わらないのはむしろチャンスだと思うんですよね。
つーか、徹底的にリソースを回さないと描ききれないくらい、紫京院ひびきは難しいキャラクターだと思う。

『神コーデを手に入れるには、何が足らないのか(もしくは何が過剰なのか)』という課題をひびきに残すことで、彼女は自分自身と世界の関係についてじっくり考える必要が生まれるし、その過程において自分の中での『トモダチ』を再定義もするでしょう。
それがらぁらが代表しプリパラが是認する『みんなトモダチ』というテーゼに寄りそうにしても、反発するにしても、まともに負けることすら許されなかったひびきにとって、二度目のメインストーリーを徹底的にやることは、凄く大事だと思うのです。
というかむしろ、ラスボスとして権力の座に縛り付けられていた二期よりも、色々気楽になった今の立ち位置のほうが、紫京院ひびき個人の物語を掘り下げるには、適しているかもしれない。
性格最悪の顔だけ女のまま、肥大した自意識とグダグダ戦ったり、そのくせ根本的にニンが良いところを見せたり、素直になれないけどひびファルが好きでありがたく思っていたりする三期のまほちゃん、俺すげー好きだし。
なんというかな、『こうすべき』という肩の力が抜けて、気楽にやれてる感じがする。

らぁらが無邪気に叩きつける『みんなトモダチ』という、一種暴力的なメイン・テーゼに対し、ひびきは『僕はお前のトモダチじゃない。『みんな』は『みんな』を否定する個人も含めて初めて『みんな』だ』という強烈なカウンターを当てました。
己を否定する要素を真剣に検討することで初めてテーゼは強靭さを手に入れるわけで、ひびきを掘り下げていけば『みんなトモダチ、みんなアイドル』というキャッチフレーズ(つまりプリパラという作品それ自体)はより深く、強く、真実に近い答えを出せたはずだったと、今でも僕は思っています。
様々な都合が噛み合った結果、ひびきとひびきにまつわる問いかけは完遂されなかった(と僕は感じている)わけですが、今回ジュルルという他者に積極的に関わることで、もう一度別の角度から問いを発し直し、掘り下げなおすチャンスが来たのかなと、今回見てて思いました。

ひびきはプリパラのトモダチイズムから離れたアウトサイダーなので、インサイダーからは出てこない鋭い問いかけを発することが出来ます。
今回ひびきは『ジュルルに家族と認められることが、神アイドル候補になることとイコールな現状は、閉鎖的かつ不公平だ。プリパラはもっと開かれた場所であるべきだ』という詰問を投げかけましたが、それは視聴者も(というか僕も)感じていた、重要な要素だと思います。
ジュルルという他者を家族として認め、己のうちに取り込んでいく歩み寄りは確かに尊いが、では他者を他者としておいたまま構築される関係には一切価値が無いのか。
そうであった場合、プリパラがオープンアクセス可能な『場』として運営され、モブだろうがアイドルがいることの意味はなんなのか。
ひびきのツッコミは、これまでの物語がかすめつつ正面からは捉えてこなかった問題に、鋭い光を当てています。

ステージを挟む都合もあって答えはでませんでしたが、この問いかけはひびきがジュルルと向かい合う物語が、ジュルルがひびきと向かい合う物語でもあるという双方向性を担保したと、僕は思っています。
女神として、赤ん坊として、無条件に守られ愛される立場に基本的には居座っていたジュルルは、順調に発育のステージを重ねて、ついに『お前もお前の公共性を果たせ。想像力を健全に発揮し、社会を構成する顔のない他者を視野に入れろ』という大人への要求を叩きつけられる立場になったわけです。
ジュルルに『大人である』ことを要求するまほちゃんは確かに器が小さいけど、赤ん坊ジュルルが女神ジュリーでもあることを考えると、あながち過大な要求でもない気がすんだよね。
ドロシーやシオンもちょくちょく発してきたこの要請に、ジュルル=ジュリーがどう答えるのかは、結構大事な気がします。


今回のお話はひびきとジュルルの話であると同時に、ひびきとファルル、ジュルルとファルルの物語でもありました。
二期の段階でガァルルの母だったことを考えると、ジュルルの課題はやる前からクリアしてたと言えますが、それでもジュルルをファルルがどう受け止め対応するか、ちゃんと描かれたのは良かったです。
ボーカルドールの親和性なのか、ママ歴の分厚さの違いなのか、らぁらですら翻訳できないジュルルのベイビートークを完全に理解し、ひびきに伝えてたのは流石だ。

ひびきがお話の真ん中に座ることで、暴走しがちなひびきを見守り、支えるファルルも目立っていたのは、今回良かったですね。
古くからのお世話役である安藤、乙女顔してその実タフなふわりとスクラムを組んで、ひびきをひびきのままより善い生き方をさせてあげようと頑張る姿には、なんというか真心があった。
ひびきも身近な人の真心に気づいていなかったり、無視したりしているわけではなく、分かりにくいけど感謝し応えてもいるってのが細かいやり取りの中に見えて、ほんと良かったな。
一瞬写ったLineでのやり取りを見るだに、安藤に日常的に投薬管理してもらってるもんな……いろいろ繊細そうで大変だ。

"0-week-old"のステージも、ひびきとファルルの過去と現在と未来をギュッと詰め込んだ素晴らしいものでした。
綺麗なものに憧れすぎて、人間の肉体を捨てて概念になることを望んだ過去は、ひびきの中で完全に整理されたわけじゃないと思います。
しかしそれを『プリパリで人気のミュージカル』という、観客を楽しませる形で演じ直せる程度には、ひびきの浄化衝動は落ち着いてきている。
スターとしてしか生きられないひびきにとって、俗界を唾棄しボーカルドールへの羽化(もしくは自決)を望んだ過去を否定するのではなく、物語の形式で表現できることは、今なお残照する気持ちと向い合う意味でも良いことなんじゃないかなと思います。
ありえたかもしれない、あって欲しかった未来を演じることは負け惜しみではなくて、一種の癒やしとして機能すんじゃないかなと。
おまけにファルルとのデュオだしね……かつて自分の理想であり、今でも憧れ愛する存在と一緒に己に向かい合えるのは、なんだかんだひびきにとって良いことなんだと思うよ。

ファルルも『目覚めのファルル』になる前の、自我の希薄な時代から現在に至るまでをしっかり演じていました。
一年目のラスボスとして変化と死、再生と豊穣の機械神話を語り尽くしたファルルは、ひびきとは違って『綺麗な人形としての自分』にそこまでコンプレックスはないと思うのですが、いかにファルルが健全でもボーカルドールの宿命は彼女を無条件に縛る。
ステージの形で自分史を表現し、観客に共有し楽しんでもらえる場があることは、ただでさえ立派なファルルの人格が、より強靭に仕上がる足場になってる気がします。
ファルルは『ボーカルドール』『少女』『表現者』『母親』などなど、プリパラ一複雑な顔を持つキャラだと思うんだけど、そのどの側面においても自己肯定感強そうだよね……どんな自分も否定しないからこそ、どんな他者も健やかに受け入れる強さがあるというか。
ガァルル除けば最年少のファルルが、人格的には一番発育してるってのは面白いところだ……やっぱ一回死んだ人間は強いな!!


というわけで、作画的カロリーはステージを挟んで抑えつつ、キャラクターへの洞察がガッツリ深めていくという、土屋さんの職人芸が最大限に炸裂するお話でした。
『紫京院ひびきはこういう女です!』という紹介、現在彼女が抱えている問題と美点、ジュルルやファルルとの関係性と変化、アイドルとしてのひびきの強さ。
これだけの要素を過不足なく情感豊かに語りきって、ステージ三本入れてまとめきるってのは、やっぱ圧倒的に巧い、巧すぎる。
エピソード的にやるべき義務を果たすだけではなくて、圧縮された演出でコンパクトにキャラや関係性を見せて、物語の味わいを濃厚にしてもいるのが本当に凄いんだよ……巧くて楽しい。

とはいうものの、今回大量にばらまかれた物語の要素がどれだけ回収され、結末にたどり着くかは先を見なければわかりません。
僕は紫京院ひびきという人物が好きなので、できれば語りきって欲しいところですが、同時に女児アニメというフレームの中では『難しすぎる』キャラだってのは、のんちゃんが言ったとおりです。
ジュルルとジュリーの間にあるギャップ、そろそろ始動しそうなノンシュガー周りのお話、神アイドルGPというイベント。
やることがたくさんあるということは、面白くなる要素がたっぷり用意されているということで、プリパラ後半戦への期待ははちきれんばかりに高まっております。
三年目のアイドル神話が何を語りきれるのか、僕はすごく楽しみなんですよ。