イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甘々と稲妻:第9話『うちのおうちカレー』感想

愛する人に死なれたら奉仕の気持ちで生き延びる永訣の詩、今週は失われた時を求めて
これまで背景で扱われてきた『母/妻の死』に真正面から向かい合う話でして、レシピ通りに再現したがゆえに胸を突き刺す味覚の記憶と、小鳥の前では涙をこらえるつむぎのプライドが突き刺さるエピソードでした。
犬塚親子の個人史を変奏し開放し共有する『明日』の話の次に、親子/夫婦という狭い関係の中でしか共有できないものを飲み込み、前に進もうと歯を食いしばる『昨日と今日』の話が来るのは、お話が捉えているレンジの広さが伺えますね。

この物語はつむぎの健気さや小鳥の可愛げが全面に出る、一見前向きで明るい話です。
しかし人生のままならない部分を切り捨てているわけではなく、つむぎは適切に自分の感情を爆発させてくれるし、小鳥が踏み込めない領域があることは示唆されるし、気持ちがすれ違う瞬間だってある。
もちろんそういう都合の悪さは最大限コントロールされ、理不尽に飲み込まれず一歩を進める前向きな物語として、良く調整はされています。
そのポジティブさはしかし、やはり『母/妻の死』という土台に乗っかって構築されているものであり、喪失とどう向かい合うかというのは常にお話の真ん中にあるテーマでした。

今回のお話は何かを想起するシーンが非常に多くて、犬塚親子にとって母/妻の不在は(当然なんだけども)なかなか乗り越えられない、非常に大きな事件なのだと思い出させてくれました。
全てを乗り越えたふりをしながら日常を積み重ねていても、むしろ日常をともに生きた大切な人だからこそ、日々の様々な側面から思い出が立ち上ってくる。
それは身を切るような痛みであると同時に、残された人々がどれだけ故人を思っていたかの証明でもあり、ただ忘れて蓋をすればいいというものでもない。
意識して切り捨てようと思っても蘇る思い出をどう受け止め、どう付き合っていくのかという部分が、今回の大きな軸になっていた気がします。

どんなに魂をちぎられるような思いをしても、生きている人間は飯を食い血肉を養わなければならない宿命にあります。
苦いピーマンも、楽しい思い出と一緒に想起される悲しみも、全部笑顔で飲み込んだ今回の紬のようなタフさとプライドが、ままならなさを孕んだ塵界にはどうしても必要で、犬塚親子はそういう資質をしっかり持って楽しく日々を生き延びているのだなと、今回は思い知らされました。
大きく口を開けて飲み込んだ食事も、喪われた母への慕情も、しっかり噛み砕いて健康に消化すれば、それは心身の血肉になるわけです。

そういうポジティブな綺麗事だけではなく、後ろ向きな本音をしっかり扱っているのも、僕がこのお話が好きな部分で。
ママとの思い出を想起することは、必然的にママが今いない痛みを叩きつけられることであり、そらつむぎは泣く。
その涙は理不尽なんだけども、人間が生きていく上で必ず流さないといけない魂の汗であり、ましてやつむぎは子供なのだから、そういう気持ちを押さえ込み続けることはあまりにもむごい。
第1話で悲しみに蓋をさせて『いい子』を演じさせていることに気づいたおとさんは、今回もつむぎの傷にちゃんと向かい合い、思い出と痛みを共有する同士としてそばに居てやる。
隣り合う誰かがいてくれればこそ人生の理不尽を飲み込むことが出来るというのは、例えばお泊り保育で寂しいおとさんを気遣うヤギちゃんの描写からも、伺うことが出来ます。


第7話では『子供』の部分を全面に出していたつむぎですが、今回は自分のエゴを見事に制御し切る立派な『大人』の部分を見せてくれて、誇らしいやら痛ましいやら、立派な人だ……という気持ちを強くしました。
おそらくレシピを発見してしまった時点でかなり複雑な気持ちだったと思うのですが、つむぎにとって『みんなのお料理会』は凄く楽しい場所であり、今生き延びるために絶対必要な喜びなわけです。
大人のレイヤーで話が進んでしまえば子供から言えるのは『わがまま』でしかなく、それを(それこそカレーの中の苦いピーマンのように)祝祭が終わるまで飲み込んで、切ない気持ちを隠しながら笑顔を作りきったつむぎは、とても立派でした。

もちろん『料理会が楽しい』という気持ちが嘘というわけではなくて、それはそれとして存在しているのでしょう。
しかしママの楽しい思い出と悲しい気持ちが同時に想起されるように、感情はプラスとマイナスが帳簿のようにに打ち消し合うものではなく、『楽しい現在』と『悲しい過去』はお互い独立して、そして影響を及ぼいし合いながら存在している。
未だ発育段階にある子供だからと言って、そういう人間心理の複雑さから解き放たれているわけではなく、むしろ自分を制御する言葉や体験を持たないからこそ、矛盾する気持ちに敏感なのかもしれません。
そういう年頃にあって、『家族』ではない小鳥の前では一滴も涙を流さなかったつむぎは、分別とプライドのある存在だなぁと思います。(そういう存在として子供を描ける製作者も、同じく立派だと思う)

この話は開かれた物語であると、同時に閉じた関係性だけが持つ暖かさもしっかり書いています。
『ママがおとさんの眼鏡を掛けてクラクラなったお話』を、『家族』である犬塚先生は共有できても、小鳥ちゃんはなんで笑っているのか解らず首を傾げる。
そういう小さくてくだらなくて、しかしあまりにも貴重な思い出を共有できる相手がいればこそ、つむぎは母のいない世界でなんとか生き延びられているのだと思います。
そしてそれと同時に、死者ではなく今生きて食事を取れる存在と、新しい喜びを見つけていくことの大切さも、無視していない。
そういう横幅の広さとバランス感覚は、やっぱこの話の強みだなぁと思います。


前回は『思い出の料理』をアレンジして再構築・再開放したのに対し、今回はレシピという遺書どおりに作ることで、同じ味の料理が同じように出てくるという見せ方でした。
ここで『母の料理』が連続して顔を出すのは『みんなのお料理会』が始まってかなりの時間がたち、母/妻の不在に向かい合う余裕がようやく生まれてきたからかなと思います。
それは赤の他人である小鳥と一緒に気付きあげた、非常に立派な成果なわけですが、前回の煮込みが三人にとって同じ意味を持っていたのに対し、今回のカレーは犬塚親子と小鳥とでは全く意味合いが違う。
思い出や喪失と向かい合う上でたったひとつの正解を描くのではなく、複数の答えを出して多様性を許容する姿勢があるのは、とても良いと思います。

『家族』が持っている閉鎖された暖かさと、『他人』が持っている開放性と可能性。
家族二人と他人一人が作り出す『みんなのお料理会』はその両方が入り交じる場所で、時にはまったく新しい可能性につながり、時には個人的な思い出と痛みを共有することにもなる。
一見矛盾する相反が実は切り離せずお互いを支えあっているのだという作品の視点が、前回の煮物と今回のカレーにはよく表現されていました。
おんなじ出発点から開始して、全く逆の、しかし両方に価値のある結論に辿りつけれるのはとにかく鋭いよね。


これまで作品を支える背景として描かれてきた喪失に正面から向かい合う、思い出と痛みの回でした。
そこかしこに痛みと喜びを想起させる瞬間を挟みこみつつ、涙を最後の最後の瞬間までこらえるプライドの書き方が、僕は好きです。
喜びと悲しみ、痛みと思いで、他者と家族、大人と子供。
一見対立する要素が合一であると、ロジックを飛び越えて実感させる物語特有の力も最大限発揮され、見応えのあるお話でした。

9話まで話数が積み重なることで、かつて描いた要素が別の表情を見せたり、そこを足場に話が広がったり、連続したお話ゆえの楽しさも出てきました。
一瞬一瞬の人生のきらめきを織り上げた結果、連続した物語としての面白さが顔を出してくるのも、この作品が得意とする『矛盾の合一』の一つかもしれません。
これから先紡がれる物語で、どのような魅力をさらに引き出してくるのか。
まだまだ期待は高まっていきますね。