イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

甘々と稲妻:第12話『あいじょーたっぷりお好み焼き』感想

毎回テーマと構成が明瞭なので、EDテーマに入るたびに『ああ、いい最終回だった』と思いながら見終わっていたこのアニメも。ついに本当の最終回。
特にハードコアなイベントが起きるわけではなく、かと言ってなにも起きないわけではなく、いつもの通り犬塚親子が頑張って親子して、みんなで飯食って、その『みんな』に小鳥ママが加わって終わる話でした。
気負うこと無くいつもの"甘々と稲妻"をやりきり、これまで語ってきた食事と生活と親子に別の角度から切り込む、とても良い話でした。
最初から最後まで、己が何を作っているのか自覚的であり続けたのは、このアニメ最大の強みだったと思います。

妻の一周忌から始まる今回の話は、望むと望むまいと時間は流れてしまい、人間性は何もしなければ傷んでいくこのアニメに、相応しい最終回だったと思います。
悲しいことや上手く行かないことも沢山あって、それをお互いにケアしていく一つの手段、お互いが繋がる媒介として食事を描いてきたこのアニメにとって、人生は思いの外起伏があるものです。
つむぎがお好み焼き屋でワンワン泣くのも、その後ギクシャクした空気が流れるのも、お料理したからといってすぐさまギクシャクが直るわけではないのも、非常にこのアニメらしい。

人生の波風として描かれているお好み屋さんでの出来事ですが、そのきっかけが『お好み焼きを自分で作りたい』というつむぎの欲望だったのは、僕にはとても面白かったです。
第1話で孤独にコンビニ弁当を食べていたとき、つむぎは『調理』という行動が自分の力の及ぶ範囲にあり、それに関わることで笑顔や暖かさを与え、受け取ることが出来る行為だとは認識していなかったはずです。
12話に渡る物語を蓄積したことで、つむぎは自分が『料理ができる』存在であり、(たとえそれが、大人たちが優しく調整してくれた出来合いの見せ場だったとしても)自我が芽生え始めた己を世界に対して問う、自己証明の一つだと認識している。

だから『お好み焼きを自分で作る』ことに拘りすぎてへそを曲げて、ああいう顛末になってしまったわけですが、それは必ずしも悲しいことばかりではないわけです。
無論無条件に良いことでもないのでおとさんは『叱り』ますが、つむぎがママに抱きかかえられる赤ん坊であることをやめて(もしくはやめざるを得なくなって)、自分の力を世界に誇りながら一人で立とうとする力強さの価値は、例えば第9話ラストシーンなどでこれまでも描写されていたところです。
そういう尊いものも、少し方向を間違えれば衝突を起こすし、衝突を起こしたあとも小さな真心を積み上げて取り返すことが出来る。
作品内で幾度も繰り返されたという意味でも、世界中あらゆる親子が今まさに繰り返しているという意味でも、今回の衝突と和解、その背景にある自尊と愛情のドラマというのは、凄く普遍的なことなのでしょう。


同時にそれは個別の表情を持っていて、今回で言えば『叱る』ことと『怒る』ことの違いと、つむぎがおとさんの真意を学ぶまでの道のりが、これまではあまり掘り下げられなかったポイントです。
血を分けた親と子であり、これまでたっぷり見てきたように、『母/妻』を喪った同士としてお互い支え合っている関係であっても、分かり合えていないことは沢山ある。
つむぎはしっかり向かい合って言葉にされるまで、『叱る/怒る』の際や、大人が案外『怒る』行為が好きじゃないこと、それでも『叱ら』ないといけない瞬間があることを、理解できていなかったと思います。

そういう白紙の状態を、例えばお好み焼きを一緒に作ったり、自家用車の中でぎこちなく会話をしてみたり、マゼマゼの電波歌をがなってもらったり、真っ直ぐ気持ちを言葉で伝えたり、色んな手段で変化させ成長していくこと。
母の死であったり、特に理由もなくギクシャクする人間関係であったり、己が行為主体として世界に有益な影響を及ぼしうる事実だったり、これまで描かれた様々な発見と同じように、今回つむぎは『叱る/怒る』の違いと、その行為に込められた大人たちの思いを理解した。
一個ずつの料理、一個ずつの成長はそれぞれ個別でありながら、人間が生き、食事を取るという普遍的な場所に繋がっていて、それを共有する『場』としてあの調理場が機能していることを、今回のお話もしっかり教えてくれました。
この個別性と普遍性のバランスの良さは、お話一個一個が独立して存在していることと、キャラクターと舞台を共有するシリーズであること、物語の形式と響き合って、このお話を豊かにしていたのだなぁと、お話が幕を閉じるこのタイミングで思い知ったりしました。

この作品が豊かなのは、成長をつむぎの特権にはせず、小鳥ちゃんやしのぶという『子供でもないが、大人でもない世代』、おとさんやヤギちゃんという『もうおとなになった世代』にも可能な、普遍的な行為として描いていることだと思います。
おとさんは(まぁ毎回そうだし、そのことが僕に彼を尊敬させるんですが)娘であり被保護対象であるつむぎのプライドを基本的に尊重し、対等の存在として同じ目線で話をする。
己の未熟を思い知ればそれを謝罪し、二度目の失敗はないよう心がけ、成長期の子供のように変化を積み上げていく。
犬塚親子との『お料理会』でじっくりと己のトラウマを癒やし、自己の存在意義を確かめていた小鳥にとっても成長は開かれたものであるし、小鳥がおとさんに与えた発見だって、今回もこれまでのお話にもたっぷりと埋め込まれています。


弱く未成熟な存在を見守りつつ、その行為それ自体に教えられ、成熟し強いはずのモノたちも変化していく。
そういう双方向に開かれた平らな場所として『食卓』を描いてきたこのお話が、小鳥ママという新しい可能性を受け入れて一旦幕を閉じるのは、なかなか象徴的で豊かなことだなと思いました。
無理した制服姿を恥じること無く見せつけてしまうママだからこそ、『料理には栄養や味だけではなくて、愛情も詰まっているのよ』というこっ恥ずかしい、しかし大切な真実を真っ直ぐ言葉にして、ことり(と周囲に居る人々)に伝えることも出来る。
ママンが『みんなと一緒のお料理会』で何を受け取るかは今回あまり描かれなかったけども、彼女もまた一方的な関係ではなく、与え与えられ、作り食べる場所を豊かに受け取っていくのだろうなと確信できる終わり方だったのは、凄く良かったです。

『つまんね……怒られるのつまんね!』状態だったつむぎが、自家用車の中で『小鳥ママも来るよ!』という言葉で興味を取り戻すのは、幼児っぽい好奇心旺盛さと、彼女の中で『母の喪失』がどれだけ大きいかを再確認するシーンでもありました。
『女の子の話』が出来ないおとさんとの暮らしは凄く楽しく麗しいものなんだけども、どうしても取りこぼしてしまうものがあって、つむぎは小鳥ママにその補填を強く望んでいたから、不機嫌をちょっと引っ込めて食いついたのかなぁ、とか思った。
その喪失を埋めることは絶対に出来ないわけだけど、小鳥ちゃんと出会ってから積み上げてきた食事の物語がそうであったように、それぞれがそれぞれの自分らしさを発揮し、共有していくことで、別の形で再構築することは出来る。
そういうことをこれまでのお話で学んだからこそ、つむぎは小鳥ママと新しく出会うことに期待をかけて、でも実際出会うと気恥ずかしくて、よそ行きの声を作ってご挨拶したのかなぁと、微笑ましく見ていました。
つむぎがおとさんに隠れつつなんとか差し出した真心をしっかり受けて、優しく返してくれる小鳥ママのありがたみ、マジ新井里美最高だなって感じだったね。

無論ヤギちゃんやしのぶといった『いつもの面々』も元気で優しくて、ありがたい存在でした。
おとさんのやや生硬で誠実な対応に比べ、ヤギちゃんのつむぎへの当たり方はちょっとぶっきらぼうなんだけども、その遠慮の無さが逆に心地よかったというか、なんというか。
色んな接し方があって、色んな『叱り』方があって良いんだなと実感できる仕事をヤギちゃんがやってくれたのは、多様性を大事にしてきたこのお話を〆るに当たって、大事なとこかなと思いました。


キャラとは離れた部分の話をすると、学校での犬塚先生と小鳥ちゃんの距離の描写が、最後までブレなかったのは面白かったです。
もともとレイアウトによる心理的関係の描写が判りやすいアニメではあるんですが、壁と窓を挟んで明確な一線を引いている『生徒と教師』は、食事を通じて親しくなりつつも、ある特定の線を超えないまま最終回まで来ました。
それを恋と呼ぶのか友情と呼ぶのかはさておき、あくまで『他人』から始まった二人の関係は『他人』『生徒と教師』という線を維持したまま進み、だからと言ってけして無価値ではありえない、『自分に踏み込んでくる他人』だからこそ生まれる慈しみを共有してきました。

学校を舞台にした時二人の間に割り込んでくる硝子とコンクリートは一見冷たいようでいて、それを乗り越えて声をかけることが可能な、完全な拒絶ではありません。
あえて恋愛関係の描写を切り落とし、犬塚親子の関係と変化に重点して作られたアニメ版において、背中越しに語り合うあのレイアウトは、巧く二人の間合いを象徴し、この作品が何を切り取っているのか、言外に伝えていたと思います。
最終話だからといって大きく関係が変化するわけではない終わり方を受けて、二人は最後まで背中合わせに、距離を保って話していました。
でもそこでかわされた言葉があったからこそ、おとさんはお好み焼きをもう一回焼くことにして、つむぎもおとさんも大事なものを再確認し、みんなで美味しいご飯を食べることも出来る。
そういう冷静で温かい目線を『生徒と教師』に向け、映像として表現し、演出として描き続けたのは、凄く良いなと思うわけです。

学校では背中合わせの二人は、『お料理会』では厨房に隣り合い、お互い支え合う関係でもあります。
コミュニケーションの適切な角度というものは、人と人だけではなく、公的空間と私的空間、お好み焼き屋と『お料理会』、学校と私宅という『場所』にも変わること、それによって創出され共有される様々な言葉や思いには、それぞれ個別の昨日と尊さがあるということ。
それを、学校での壁越しの距離感と、厨房での隣り合った間合い、そこでかわされる会話の変化は、巧く切り取っていました。
テーマ性をしっかり見据えているだけではなく、それを視聴者に伝えるためにはどういう演出の武器を使えば良いのか、製作者サイドが把握してんのが強いよね、このアニメ。


というわけで、"甘々と稲妻"のアニメはひどく穏やかに、いつもどおりに終わりました。
色んな波風があって、それを受け止め対応する方法も沢山あって、失敗したり成功したりしながら、いつものみんなと笑いあったり、新しい誰かと出会ったりしながら進んでいく人生。
それぞれの生き方が共有される場として、人々の気持ちを繋げ楽しく共有する触媒としての食事。
これまで大切に描いてきた作品の核からブレること無く、しかし個別の顔を持ったエピソードとしてしっかり仕上げた、いい最終回でした。

魅力的で応援したくなるキャラクターたち。
シンプルで強い主題と、それを掘り下げる様々なエピソードの多様性。
明瞭さと味わい深さが同居した、色使いとレイアウトによる的確な演出。
相当作画カロリーかかっているのに妥協しないことで、作品を視聴者に近づけることに多大な貢献をした食事シーン。
良い所が山盛りある、ハンサムで素敵なアニメでした。

いろんな魅力の中でも、つむぎを『良い子』の枠に押し込めず、適度にエゴを暴走させる『悪い子』としても描いてくれたこと、小さな彼女のプライドを確かに尊重しながら描いてくれたことは、凄く嬉しかったです。
子供にだって、守られ育まれる側にだって、弱い生き物にだって、それぞれ個別の願いや思い、痛みや誇りがあるし、それを無いものとして物語の役割を押し付けるのではなく、個別の複雑さの中に分け入って描くこと。
相当に難しい行為だと思いますが、根本的に他人を思いやれる優しさを見失わず、物語がレールを外れて大暴走することもなく、巧くつむぎを『子供』として描いていました。
凄いことだし、ありがたいことでした。

暖かで前向きな空気を基調としつつ、生病老死の宿命から目を背けず、しかしそれと共存できる人間の可能性を強く信じながらお話を進めてくれたのも、とても良かった。
キツイ現実を忘れる麻痺剤としてフィクションを使うなら、影の部分を描く必要はないかもしれないけど、このお話はそっちの方向には行かず、影も苦味も含めて飲み込み血肉に変えていける、人間の可塑性を信じて進んでいました。
その陰りが差く品独特の陰影を生み出していたし、影を見つめつつも飲み込まれない、強靭な楽観主義が作品を支配した結果、強く前向きなメッセージがしっかり届くお話にもなっていたと思います。

甘々と稲妻、本当にいいアニメでした。
見ていて気持ちのよい気分になれる、影を含みつつ人間を信じる、強いアニメでした。
初めて見たときから好きになれて、見るたびにどんどん好きになっていけるアニメでした。
とっても楽しかったです、ありがとうございました。