イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

プリパラ:第124話『ジュリィとジャニス』感想

年齢も人理も飛び越えて、目指せ銀河の一番星!
ノンシュガーの物語にも一段落付いたプリパラ、見事な手腕でクライマックスへの足場を固める第124話。
ジャニス登場となった第118話を踏まえ、神アイドルとしてのジュリィの強さ、隠しているもの、ラァラとの関係、それと対比する形でジャニスの影、ちりとの関係などを小気味よく描写していく、見事な繋ぎ回でした。
終盤戦を引っ張るキャラクターへの印象が綺麗にひっくり返る回であり、シリーズ構成直々に担当するだけの重要さを匂わせる、大事な回だったと思います。

というわけで、プリパラらしく色んなことが並列して描写された今回。
話の真ん中にいるのはジュリィとジャニスなんですが、姉妹の関係だけで終わらせず、赤ん坊でもある彼女たちの『母』たるらぁらとちり、そして有象無象の匿名アイドルたちをしっかり繋げて、二人の女神を立体的に描くお話となりました。
第118話の段階では彼女たちの『表』しか見えてこなかったため、ジュリィは身勝手な欲望により責務を放棄したマザコン女神に、ジャニスは果たすべき役割を真面目に捉えるしっかりものに、それぞれ感じられる。
しかし今回最後まで見通すことで、ジュリィのマイナス評価はプラスに、ジャニスのプラス評価に隠れていた暗部がしっかり見えて、女神たちが複雑な事情を抱えていたことが見えてきます。
これは彼女たちが引っ張るだろうラスト1クールの深さに直結するわけで、今後の展開に必要な奥行きを作るべく、手際の良さと刺さる描写、両方が最大限に動員されていました。

まずジュリィから見ていきますと、単体のアイドルとして『神』を名乗るに相応しい『強さ』が、凄く具体的に示されました。
人間トップランカーであるソラミドレッシングを上回るパフォーマンスもそうなんですが、プリパラシステムの権現である出自を活かし、あらゆるアイドルに身近に接する親しみやすさと、それでも消えないカリスマ性を両立している描写が、強者としてのジュリィに太い説得力を与えていました。
田中角栄もびっくりの人心掌握術を見せられては、みんながジュリィのことを好きになるのには納得できるし、高貴で近寄りがたい『神』が身近によってくればこそ、親愛の爆弾はよく刺さるのでしょう。

ジュリィの親密さはお為ごかしや演技ではなく、強きも弱きも、メジャーもマイナーも全部ひっくるめた『みんなアイドル』を愛している、真実の愛から生まれてくるものです。
彼女は根本的に『みんなトモダチ、みんなアイドル』というプリパラの理念の体現者であり、語りかけるような曲調とパフォーマンスが特徴の"Girl's Fantasy "もそれを裏打ちしています。
ジャニスの管理主義と対立する立場にいるジュリィの行動理念が、言葉だけではなく普段の振る舞い、アイドルとしてのパフォーマンスにしっかり現れているのは、キャラクターの行動に一貫性をもたせ、物語に説得力を与えるわけで、非常に骨太な描写だと感じました。

そういうジュリィがなぜ『神』の座から降り、己のエゴで人間の領域に降りてきたのか。
らぁらが母親として、主人公として必要な繊細さでしっかり質問した言葉を、ジュリィは『忘れちゃった』とごまかします。
らぁらだけではなく、ジャニスにも問われる『なぜ、女神・ジュリィは赤ん坊・ジュルルになったのか』という疑問点は、すなわち三期の物語が始まった始点でもあり、ここを明らかにすることが物語の始まりを開陳することにも繋がる。
逆にいえば、『なぜ、女神・ジュリィは赤ん坊・ジュルル』という疑問に答えた時物語は終わるわけで、これがクリティカルに大事な問なのだと強調するべく、母と妹、二人の家族にしっかり問わせ、はぐらかせたのでしょう。

今回ジュリィが見せた姿は『神』に必要な平等も、博愛も、実力もしっかり兼ね備えた、アイドルの一つの理想形だったと思います。
画面越しに見ても『あ、良いな』と素直に思える行動に、ジュリィの本性をしっかり語らせているからこそ、彼女が語らない行動の理由、はぐらかしや嘘の奥に何か大事なものが隠されているというメッセージも、視聴者にしっかり届く。
そこに疑問点を持ち、今後開示される物語への期待度をしっかり高めればこそ、クライマックスはクライマックスとして機能するわけです。
なので、今回『神』としての行動と、疑問をはぐらかす言葉の間にしっかり違和感をはさみこみ、ジュリィというキャラクターに陰影を付けたのは、素晴らしい展開だったと思います。


今回の話しが優れているのは、ジュリィの陰影に巻き込む形で、妹であるジャニス、母であるらぁらの陰日向をより強くしていることです。
アバンでは独立独歩の気概を見せたジュルルに喜びつつ、自分を超える『神』としての立派なステージを体験し、『もしかしたら、私はジュルルをずっと所持していたいのかもしれない』というエゴに行き当たらせる。
これまでしっかり積み上げてきた『母』らぁらと『子』ジュルルの関係が、ジュリィの出現によって加速し、人間相手なら時間をかけて受け入れるべき『子離れ』の悩みにまで、一気に小学六年生を引っ張り上げる豪腕が、ラスト1カットで吠えていました。

背丈でも身体の成熟度でも、らぁらを遥かに超えるジュリィ≒ジュルルが、いつまでも『ママ』と呼び、母に庇護される関係を維持するかのように膝を曲げ低い位置を取る。
そこからはアモラルな魅力と同時に、成熟するべきなのに成熟しない、ゆりかごの暖かさに甘えているようにみえる一種の嫌悪感が、自動的に呼び覚まされます。
しかしこのようにして、ネタの奥にらぁらとジュルルが持つ『母』と『子』の歪さを埋め込むことで、らぁらの最後の疑問は突然湧き出たものではなく、なんとなく視聴者が感じ取っていたものを言語化する、見事なロゴスとして機能する。
ここらへんの違和感を強化するべく、同じ『家族』であるのんちゃん相手には、膝を曲げず『大人』として抱き合っているシーンを事前に挟んでいる所とか、周到だなぁと思います。

『人間』を超える『神』でありながら、『母』に抱きしめられる『子』としての関係に安住しているジュリィ。
そこに感じる違和感はそのまま、ジュリィが隠しているもの、今回強調された疑問に視聴者が足場を置く、さりげない導きになっています。
『人間』の領域であるはずのアイドルに『神』が介入する疑問。
しっかり『大人』としての強さを持っているのにらぁらには『子供』として甘え続ける違和感。
これらは全て、『なぜ、女神・ジュリィは赤ん坊・ジュルルになったのか』という物語の始点へと回帰し、それが解放されるクライマックスに視聴者の目線を集中させる仕事を果たします。
こういう高度に構造的な展開を、台詞でグダグダと説明するのではなく、キャラクターの個性と感情がぶつかりあうドラマの中で自然と作れてしまう巧妙さこそが、実は『プリパラらしさ』の最大のものではないかな、と僕は思っています。

色々隠し事のあるらぁら&ジュルル親子ですが、女神が背負ったものと同じくらい、ジュルルかららぁらへの愛情が分厚く重たいものだというのも、今回強調されていました。
プリパラ世界のコントローラーであり、『神』の権限を保証するタクトを預ける相手が『母』だったという事実だけで、ジュリィがどれだけ『ママ』と過ごした日々を信じているかは、よく見えます。
あのシーンはジュリィのらぁら愛だけではなく、妹の陰謀に気づき予防措置をとるクレバーさも上手く表現していて、ひっそりと巧いシーンだなぁと思いました。

ジュリィが世界の命運全てを託すほどの信頼がどこから来たのかといえば、それは4月からずーっと積み上げてきた子育て奮闘記であり、山あり谷ありの人生を共有してきた経験です。
女神の姿になったジュリィが、ジュルルとして受けた愛情を無碍にせず、最大限の信頼で応えるような人物だとわかったことで、彼女へのポジティブな評価は更に上がります。
今回のお話はこれまでのジュリィのイメージをひっくり返し、疑問点を加速させてクライマックスに繋げる機能を持っているので、こういうひっくり返し方も非常に巧いし、暖かいですよね。
ジュリィがらぁらに世界を預ける姿だけではなく、『みんな』に適切な言葉を投げるジュリィをらぁらが『自慢の娘です~』と戯けて自慢する所とか、ここまで小学六年生の子育てを見守った側としては『ああ、そうだよな……』としみじみ頷く描写だった。


このように温かいつながりと、その先にあるもう一歩の成長を見せてきたらぁら&ジュリィに対し、ジャニスとちりも各々の繋がりを見せてきました。
ノンシュガーへの的確な指導を見るだに、ジャニスも優秀な『神』ではあるんですが、その根本には人間不信と、超越者の高慢がある。
あくまで平等な立場で、『神』に見込まれた特別な自分を信じたがっているちりにとって、『人間は信じるに足らない存在なので、神が上から導かなければいけない。その関係は平等にならない』というジャニスのスタンスは、ひどくショッキングなものでした。

しかし『裏切られた』という思いは、『信じていた』という気持ちがあって初めて生まれるものです。
家庭での抑圧を受け、プリパラでも孤立していたちりにとって、ジャニスが与えてくれる承認や自己肯定感というのは、らぁらとジュリィの間にあるものと同じように、大切で暖かいものだったはずです。
たとえジャニスが『神』の権限を略奪するための道具としてちりを見ていても、二人の間にあった繋がりは消えるものではない。
しかし、それが一方的な思いかもしれないという疑念はちりを揺るがせ、ジャニスの陰謀にヒビを入れる予感を、視聴者に与えます。
らぁらとジュリィという『母子』のつながりと同じように、ちりとジャニスの間にある関係もまた今回その奥にある不変の可能性を覗かせつつ揺らぎ、クライマックスにおいて重要な要素となるのだと、今回のお話は示唆してくるわけです。

身勝手なジュリィの行動の裏に信念と秘密があることが示されたように、今回ジャニスが主張する『神』の交代劇には人間への偏見と嫌悪が存在し、その先には高慢な支配体制が待っていることが示されました。
プリパラが『みんなトモダチ、みんなアイドル』を是として来た以上、ジャニスの管理主義はセレパラと同じように肯定し得ない、『間違った』理想でしょう。
しかし『規律が大事、『神』の責務が大事』というジャニスの主張には一分の理があり、これをひっくり返すテコになるのが、ジュリィが今回隠した秘密なのでしょう。
身勝手に見えた姉が実は『ジャニス自身に気づいてほしい』と思えるほど広大な視野を持っていて、公明正大に思えた妹が『人間は信頼できない、管理しなければいけない』という高慢なエゴイズムを隠していたという構図。
これが見えたことで、今後展開されるだろうクライマックスで、劇的な変化が起こりうる予感を強めてくれますね。

ジャニスとジュリィの対比という意味では、パクトから出れるジュルルと、パクトに閉じこもったままのジャニスの姿が、なかなかに鮮明でした。
身体を持って『外』に出るジュルルが歩く時、六人の母(もしくは父。もしくは既成の家族概念を超えた名前のない関係)が彼女を見守り、触ることも語り合うことも出来る開けた関係が構築されています。
彼女が『ジュルル/ジュリィ』という『赤ん坊/女神』二つの立場、身体、名前を持っているのに対し、『ジャニス』はパクトの中でも外でも、赤ん坊の身体でも成熟した肉体でも『ジャニス』です。
良くも悪くも、『ジャニス』とちりは常に意味のわかる言語だけで接触し、無言語的な身体接触を持たないまま、それでも深く繋がってきたわけです。

『意味の分からない言葉』に頼ることが出来ないまま、食ったり出したり戻したりという肉体と取っ組み合いで進んできたジュリィとらぁらの関係は、迷惑かけたりかけられたり、嫌いになったり好きになったり、動的で変化に満ちた関係性でした。
相手の言っていることがわからない以上、身体一つでぶつかり、時に間違えながら一歩ずつ積み上げてきた二人の関係は、夾雑物が多いゆえに、多様で複雑な間柄です。
これに対し、常にジャニスが導く側だったちりとの関係は、明瞭な言語で繋がり身体性を排除しています。
それはロジカルでスマートな関係のはずですが、『人間は信頼できない』というジャニスのエゴ、嘘一つで揺らいでしまうほど、危うく一方通行の間柄でもあります。

それを『冷たい』と切り捨ててしまえるほど、プリパラが描いてきた物語は単純でも冷酷でもないわけですが、『アイドルになりたい理由、忘れちゃった』というジュリィの嘘をらぁらは飲み込み、ちりは隠れて聞いたジャニスの嘘に深く傷つき、動揺はするわけです。
身体性と言語性、パトスとロゴス、姉と妹、相互侵犯と独立不可侵。
二つの『母子』の関係性は様々な対比を孕みつつ、無条件に安定したものでも、必ず瓦解するものでもない、揺らぎの中にあるものとして今回描かれました。
これがどのような方向に動いていくかが、今後物語が終局に近づくにつれ非常に重要になっていくというメッセージが、姉妹・親子・師弟といった様々な関係を立体的に並べた今回には、強く込められていたと思います。


この先の展開と絡めつつ話してきましたが、これまで積み上げてきたものとの対比を考えると、ジュリィが嘘をついたのは凄く意味深だなぁと思いました。
赤ん坊・ジュルルが言語を持たない存在で、そんな生き物とどうコミュにけーションしていくかに、三期のプリパラは散々悩み、本気で取り組み、大事なものを見つけてきました。
言葉を超えた身体のぶつかり合い(そこにはゲップとか、おしっことか、キレイではないものも当然含まれる)が連れてくるものを重視していたからこそ、言葉が通じない『他者』としてのジュルルの描写には、いつも揺るがない芯が入っていた。

二足歩行を始め『赤ん坊』であることを止めはじめたジュルルを背景に、ジュリィはジュルルであった頃には使えなかった『言葉』を使って母への愛情を語り、『他者』への深い配慮を見せ、真意を隠して嘘をつく。
『言語』という、これまでジュルルが扱えなかったツールが様々な仕事をする姿は、新鮮でもあり意味深でもあり、お話が新しい領域に入ってきたのだなと、深く実感させられるものでした。
ちりを含めた人間を見下すエゴイズムを隠すために、ジャニスが『言語』を使っているのに対し、ジュリィがついた『嘘』はとても大切で、大きなものを守るための『言語』だという印象を受けます。
それがジュルルの『成長』なのか、はたまたジュリィとしての『本性』なのか、その両方なのか、その区分を超越したものなのか。
それはこの先の物語を見なければ分かりませんが、なんとなく悪いものではないと確信できるよう、今回の物語は組み立てられていたと思います。

ジュリィが今回使った言語が、母たちという『身内』、自己の延長線上にいる心地よい他者だけではなく、縁もゆかりもない『他者』を幸福にするように使用されていたのは、とても面白いと思います。
無力な赤ん坊として、自分を愛し守ってくれるものだけに神コーデという恩寵を示していたジュルルは、細かい事情までよく知っている『身内』の範囲を今回大きく広げ、皆の思いや願いをしっかり受け止める『神』『大人』としての気遣いを見せていました。
それはプリパラの象徴として『みんな』を忘れていないという至誠を示すことであり、『母』の腕の中で『他者』と繋がらずに生きてきた幼年期に、ひっそりと別れを告げる挨拶でもあるのでしょう。
らぁらの疑問と不安は、『言語』を適切に使いこなし『他者』と繋がる『大人』としてのジュルル、己を超える存在としての『娘』を的確に見て取ったからこそ、生まれた揺らぎのはずです。
ならば、その先に主人公としての、少女としての真中らぁらの成長があり、より強く高く『プリパラらしさ』を獅子吼する展開が待っていると期待するのは、間違っていないかな、と僕は思います。

次回予告で見せられた、これまで出番のなかった様々なキャラクターが乱舞するケイオスは、『みんな』に呼びかけたジュリィの『言語』を受けるものです。
神GPも次で最後、名前のある存在にフォーカスして展開してきた物語が、ここに来て『みんな』をすくい取る公共性を獲得できるのか。
そういうシリーズ全体の仕事だけではなく、久々のメンバーが大暴れし、キチったネタがどれだけ乱舞するのか。
いろんな期待が高まるプリパラ終盤戦、非常に面白くなってきました。