幻想は現実へ、冒険は虚無へ、全てが移り変わり続ける激動のドグサ、フリップフラッパーズ第10話です。
無邪気な冒険が連れてくる新しい出会いに喜べた時代は終わり、少女たちは傷つき、暴力が押し寄せ過去が蘇る。
ずっと離れないと誓った親友は、今まさにここにいる唯一人の私ではなく、その背後にいる見ず知らずの過去を求めている。
ココナの現実が、フリップフラップ基地が、少女を支えていた信頼関係が内破していく、継続されし転換点でした。
はっきり言って、とにかくキツい。
感情を揺すぶられすぎて相変わらずまとまっていないですが、書きながら整えていきましょう。
まず話全体を見ますと、第4話以来のピュアイリュージョンへの冒険が無い、『現実』のみで展開するエピソードです。
あの時は南の島の不思議な青空の元、出会ったばかりの『冒険』の輝きを二人で確認し、『けして離れない』という約束を交わしたわけですが、今回はそれとは正反対に、ココナがピュアイリュージョンにまつわる因縁に絡め取られた子供だった事実が判明し、『現実』が破綻していきます。
幼馴染は怪しい教団の仕組まれた子供で、友達のふりをして自分を監視していた嘘つき。
親友だと思えた女の子は、別の女との強い絆を隠し、その匂いを追いかけている裏切り者。
家族だと思っていたお婆ちゃんはロボットで、夢みたいな冒険の象徴のはずの綺麗な石は、世界を捻じ曲げる暴力に繋がっている。
前回変わったお話の潮目が巨大な津波となって、ココナを押し流していくような展開です。
今回ココナは、周囲の期待を素直に飲み込み、流されるままの優等生ではありません。
冒険で手に入れた勇気をちゃんと使って、自分が知りたいと思ったものに踏み込んでいく。
しかし真実は必ずしも輝いているわけではなく、その怜悧な刃は(パピカが危惧していたように)ココナを切り裂いていきます。
一話の段階では『特に面白いこともない、普通の女の子』だったはずの自分が、実は世界を思いのままに書き換えるピュアイリュージョンに選ばれ、アスピオクレスによる陰謀の真ん中にいた事。
ヤヤカとの関係も、ココナとの出会いも、ピュアイリュージョンという現実的な力を求める、狂信的な力への意志に繋がっていること。
『現実』から切り離された『幻想』だと思っていたものが、実は『現実』の根本として閉ざされた過去の奥に埋まっていたこと。
様々な変化が一気に押し寄せるなかで、ココナはどんどん居場所を失っていくわけですが、何よりも彼女が傷ついたのは、自分が愛されていないという感覚でしょう。
『現実』と切り離されていればこそ、利害や因果から切り離され、真実ただ一人の関係を結べたと思っていたパピカには、共有できない過去がある。
己を傷つけてまで自分を選んでくれたはずの親友は、『アモルファス』というただの物質を求めて、自分を監視していた。
生活をともにし、お互い支え合って活きていたはずのお婆ちゃんも、自分を利用するだけのロボットに過ぎなかった。
真実だと思っていたものがひっくり返される衝撃はたしかに大きいですが、ココナが全てを否定し『みんな大っ嫌い』と言い捨てた根本には、何か理由があって初めて求められる、薄汚い利害関係への拒絶があるように思います。
ピュアイリュージョンに繋がれるから。
アモルファスを体内に宿しているから。
組織が求めているから。
ミミに似ているから。
今回表向きになったココナへの欲望は、どれも即物的で不純であり、『今ここにいるココナそれ自身』『ピュアな私』を真っ直ぐ求めてはいません。
思春期らしい潔癖さで、ただただ己が己としてそこにあることの自負を、優等生の沈鬱な仮面の奥に隠していたココナは、いつだって『ピュアな私』を肯定してほしかった。
第4話で『アモルファス』に賭ける願いを問われた時、『家族に会いたい』と答えたときも、『ピュアな私』を無条件で肯定してくれる存在を求める気持ちが、強かったように思います。
それはパピカに見初められ、その手を取って冒険に飛び出し、傷ついて強くなったからこそ表に出てきた自負心だと思います。
物語が始まったときのように、ココナが『世の中に楽しいことなんてなにもない』『自分には何もない』と諦めていたのなら、『ピュアな自分』を他人が求めてくれるという自負もまた、芽生えては来ないでしょう。
たとえそれが『幻想』であり、つまりは『幻滅』に必然的に繋がる危うい経験だったとしても、ピュアイリュージョンでパピカやココナ、双子と共有してきた『冒険』は、ココナ(というかありとあらゆる子供、そしてかつて子供だった全ての大人)が活きていくのに絶対必要なプライドを強化した。
それが巡り巡って、パピカもココナも否定する原動力になってしまっているのは、非常に残酷です。
今回の話しが巧妙なのは、ココナが感じている裏切りや崩壊、幻滅や失意をしっかりとお話の真ん中に据えつつも、ココナの気持ちとは無関係に存在する(してしまう/せざるをえない)『現実』の姿をしっかり捉えていることです。
ヤヤカがココナを守って身に受けた傷も、パピカがココナの心に近づこうと必死にあがく姿も、アスピオクレスの暴力から子どもたちが脱出するまで奮闘するヒダカとサユリの勇姿も、傷ついたヤヤカを保護したソルトの姿も、今回のエピソードは捕まえている。
自分から真実を求めて、その痛みに耐えきれず話を中断し、『自分の知らない他人』を拒絶してしまうココナの身勝手も、ちゃんと切り取っている。
ヤヤカが言いかけた自分の願いが双子の襲撃で、ミミとパピカの因縁がココナの拒絶で中断されず、真実が全て明らかになっていれば、ココナは再び世界に『居場所』を見つけられていたかもしれません。
これまで飛び込んだ『幻想』と『冒険』の価値、そこで繋がった心の意味をちゃんと見つめて、自分の過去や気持ち、アイデンティティを支える土台と向き合って、新しい自分を確立出来ていたかもしれない。
しかし世界は少女の成長を待ってくれるほど悠長でもなければ、少女もまた、自分を切り裂く真実に耐えきれるほど強くもないわけです。
自分からミミの真実を求めておいて、あんまりにも惚気けられて拒絶するココナの姿は身勝手ではありますが、同時にそれは一種の青春の防衛行動なわけです。
非常に主観的な心の揺れを取り扱いつつも、客観的な事実を冷静に切り取るフェアさが失われていないことは、一種の救いだとも思います。
ココナは『ピュアな自分』を全肯定してくれない世界に絶望しますが、そんなココナを守るために、みんな傷だらけになりながら戦ってくれる。
たとえ出会いのきっかけが不純だったとしても、そこから生まれた感情と経験は本物で、心と行動を強く変化させていく希望を、ヤヤカとパピカが背負ってくれる。
パピカが教団のために戦っていた『世界平和』という願いも、当然自分をごまかすための嘘を含みつつも、優しくて強い彼女の本当の願いだったのでしょう。
平たく言えば『世の中悪いことばっかりじゃない』とちゃんと描いていることが、ココナが落ち込んだ思春期の拒絶から踏み出す足場を、まだこのお話の中に残してくれています。
無論そういう公平さは善意だけではなく悪意にとっても開かれていて、アスピオクレスの狂信も、その手下である命のないロボットたちの冷たさも、希望と同時に存在している。
そういうところは、ピュアイリュージョンを安全なテーマパークではなく、性と死が入り交じる危険な『幻想』として描いてきた前半部の筆と、立場を入れ替えつつ共有されています。
『幻想』には『幻想』固有の二面性があり、『現実』には『現実』特有の両面性があるのですが、どちらにせよこのアニメが捉えている世界は善悪虚実さまざまな矛盾を孕んで、それらが入り混じり入れ替わり(FLIP-FLAP)しながら展開されています。
そういう部分でも、冷静でフェアなわけです。
まるで産道のような暗くて狭い通路を抜け、光あふれる『現実』に帰還したココナが求めたのは、帰るべき家、お婆ちゃんのいる場所でした。
とても『現実』の存在とは思えないアスピオクレスのロボットに脅かされ、ピュアイリュージョンを乗り越え『現実』でも発揮された双子の暴力と悪意から逃れてたどり着いたのは、しかし悪夢の延長だった。
あらゆる場所にアスピオクレスの狂信と悪意が埋め込まれている閉塞感は、ココナ(そして幾度もそれを求めていたヤヤカ)の『居場所』のなさを、これ以上無いほど表現していました。
いかにも怪しそうだったお婆ちゃんが自力で立ち上がり、冷たい鋼の本性を曝け出してくるシーンは、予測はしていても期待なんぞしていなかった悪い夢であり、世界がとろけていくモーフィング・アニメーションの見事な演出とあいまって、ココナの世界が砕けていく悲しみを巧く伝えてくれました。
自己保全のために世界を切り捨てたココナは、『幻想』の力だったはずの『アモルファス=ミミの欠片』を取り込み、『現実』を破壊する暴力として行使します。
すべてを失った(と思いこんでしまった)ココナが求めている、『ピュアな自分』への全面肯定を与えてくれたのは、ココナの体内で集まった『欠片』が結晶化した存在、『ミミ』その人でした。
パピカの心を縛り付ける過去の女として憎んでいたミミが、『アモルファス』に賭ける心底からの願いであり、空疎な自分を完全に肯定してくれる『母』だというのは、このアニメらしい皮肉さでしょう。
ラストカットのココナが、第3話でウェルウィッチアが指摘し、あの時は否定した『空疎で何者でもない私』そのものになってしまっているあたりも、エピソードを跨いだ響き合いを感じますね。
感知し得ない過去に縛り付けられて、様々なしがらみを飲み込みながら『現実』を生きるか。
『何もしなくていいのよ』と囁く母の子宮に帰って、『ピュアな自分』を全肯定してもらいながら『幻想』に沈んでいくか。
ラストカットで鏡越しのミミ(第7話で多用された『鏡に映る他者、自己の延長としての他者』の再演ですね)が囁く言葉には、そういう二項対立が透けて見えます。
しかし『幻想』と『現実』を対立概念ではなく、相互に侵食し支え合う関係性として書き続けてきたこのアニメが、母なる暗黒の危うさも、『ピュアな自分』への幻想を乗り越えた先にある風景も描かないまま終わりはしないでしょう。
こっから先、物語がどう展開するかさっぱり不穏ですが、これまで培った物語への、キャラクターたちへの信頼を支えに、しっかり見守りたいと思います。
ココナを筆頭に、女の子たちへの揺さぶりがあんまりにもキツくて、なかなか自分の気持ちをまとめられないまま時間が過ぎてしまいました。
頭では『圧倒的な結末にたどり着くには、圧倒的な試練で虚飾を剥ぎ取り、説得力のある唯一の真実に辿り着かなきゃいけない。この展開も必要なんだ』と納得はしていても、気持ちの方はグラングランに弱っています。
トリーズナー的に言うと『自分の中に生まれた、弱い考えに反逆できない』状態であり、俺を奮い立たせるために酒井ユキオの名曲がいいタイミングで流れて欲しくてたまらない、そんな気持ちです。
あくまで現実で話を積み上げ、実際にあった過去を連結して因果を繋いでいく展開を見ていると、まるで僕が惹きつけられた過去のエピソード、そこで展開された『冒険』や『幻想』やキラキラ輝く出会いの全てが嘘だったと告げられているようで、非常にしんどいです。
他のアニメだと結構、間合いを適切にとって振り回されず見ることができてると思うんですが、フリフラは久々に思いっきりぶっ刺さったなあ……作品全体の上下が、まんま僕の心境にシンクロしちゃってる感じだ。
しかし、このアニメは図太く『幻想』の力を信じるピュア・イリュージョニストによって製造されているのであり、でなければあれほどの奇想と煌めきを描くことは出来ないはずです。
ならば、悪しき『現実』、悪しき『幻想』に少女が押しつぶされ、すれ違ったまま終わらないと、僕は信じなければいけないし、信じたい。
そういうキモい義務感と期待を胸に、次回を待ちたいと思います。