イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

昭和元禄落語心中 -助六再び編-:第1話『助六再び編』感想

一年ぶりのご無沙汰でございました、話芸に絡む人の業、口先から盛れる魂の呻き、落語心中二期、ついに開幕であります。
一年のブランクを経てもアニメとしての強みは錆びつかないどころか、小気味良いカットワーク、クローズアップで切り取るキャラクターの魂の色、引いた視点で見つめる人間関係の描写、どれをとっても冴え渡っています。
声優陣も相変わらずの熱演を見せてくれ、円熟期に入った八雲、真打ち襲名で飛翔の気配を見せる助六と、油の乗った良い芝居。
この後物語が何に挑んでいくのかも明瞭に示唆され、うねる情熱と静かな目配りが両立した『らしさ』を強く感じさせてくれる、素晴らしい再開の挨拶となりました。


一期がそうだったように、二期の出だしである今回も良いところ山盛りあるんですが、まず出だしが良い。
落語を扱うアニメだけに許された、作中人物自らが己の物語を『落語』として口座にかけてしまう三分間は、諧謔とセンスに満ち、同時に人懐っこい可愛気に満ちた助六の落語をズドンと最初に出してくる、見事な奇襲になっています。
この話は落語と人生の話であり、噺家の魂の色合いはそのまま落語に乗っかってきます。
ここら辺は後で八雲がかける高座にも反映されるわけですが、逆もまた真であり、己の物語と己自身を語ることで、噺家としての助六の強さもまた、スッと視聴者に入ってくる。

今回のお話が『助六再び』と題されているのには、様々な意味合いがあります。
一年ぶりのアニメ放送であること、長い回想を超えて助六主役の話がようやく回りだすこと、そして二代目助六がなし得なかった新奇性溢れる落語の新生を、娘婿にあたる与太郎が背負い走り出すこと。
一期の殆どを埋めた過去回想は三人の男女の業が燃えるドラマであると同時に、巧く生きられなかった先代たちの人生を、与太郎改め三代目助六がどう生き直すのか、その長い前フリでもあります。

そういう状況を踏まえ、今回は助六の強い部分、過去の三人とは大きく異る部分が強烈に演出されていました。
乳飲み子を抱えた小夏を追いかけ、橋で問答をするシーンで、小太郎は画面真ん中に引かれた境界線をひょいと乗り越え、小夏の側に迷わず歩み寄っていく。
表情の見えない背中で語り合っていた場面でも、すぐさま回り込んで眼と眼を合わせ、『同情だけど憐れみじゃねぇ。俺ぁアンタと家族になりてぇんだ』という、人間の真実を鋭く捉えた言葉を投げかける。
そういう、馬鹿だからこそ迷わず人間の本当に真っ直ぐたどり着く動きというのは、カルマに捉えられた過去の三人には、けして出来ない生き方でした。

愛と憎悪と嫉妬に囚われ、噺家なのに(むしろ、だからこそ)己の気持ちを素直に言葉に出来ず、後悔に苛まれながら自分を傷つけ、他人を傷つけ、ようやく真っ当に生き直せるかと光を見出した瞬間、奈落の底に堕ちていった二人。
業に塗れた男と女から生まれ、同じような業に絡め取られて孤独になりかけた小夏を、助六は迷いなくヒョイと拾い上げ、絶対に間違えてはいけない選択肢を最短距離で正解する。
その頼もしさ、心地の良いバカ野郎加減こそ、天才たる二代目助六がどうにも乗り越えられなかった『落語の延命』という難題を、なんとか成し遂げられるかもしれないと、僕らが期待を寄せる足場になります。


『三代目は、二代目たぁちょっと違うぞ』と思える部分は新キャラとの絡みでもそうで、萬月や樋口といったカルマ濃そうなニューカマーとも、持ち前の気軽さで巧くやっている。
もともと愚直に八雲の芸を追いかけ、真打ちなった今ですら食い入るように師匠の高座を見つめる眼が強く描かれている助六は、二代目にあった過剰な自負心と、その裏打ちである不安を継承していないのでしょう。
『俺は凄い。だからお前らは凄くない』とはけして思わないからこそ、落語に背を向けた萬月にも『いつか落語に帰ってきてね』とチャーミングに切り出せるし、樋口の難しい話も『先生はスゲェや。落語が好きだって気持ちが伝わってくる』と素直に感心できる。
他人を素直に認め、そこに感動する自分の気持ちにもとにかく素直な助六の行動は、頑なに同情を拒む小夏とのあいだに『橋』をかけたように、古典と前衛、TVと寄席に離れてしまった落語に、もう一度橋をかけるかもしれない。
そういう期待を抱かせる可愛気と素直さが、助六にはあります。

新キャラ二人が、助六と同じように八雲に引き寄せられているのはなかなか面白い所で、談志も圓生志ん朝もおそらくいなかった落語心中世界で、唯一『名人』といえる八雲の株を、グッと引き立てています。
八雲が座る披露目の席は満席なのに、助六が一人で持ってる高座には空席が目立ち、落語の斜陽を強く感じさせる。
そういう時流の中で、あまりに大きな芸の質量をもった八雲は人々の視線を否応なく引き寄せ、同時にそれを弾く孤高の人でもあります。
萬月も樋口も八雲に引き寄せられつつ、二代目助六とみよ吉によって心を引き裂かれてしまった八雲の懐に飛び込むことは出来ず、与太郎だけが持ち前の真っ直ぐさで壁を乗り越えた。
そういう弟子の特別さを強調する意味でも、新キャラ二人の使い方はなかなか面白かったです。

二期第一話という大事な話数にあたり、樋口を使って『落語とは何か』『今後助六が立ち向かわなければいけない問題は何か』を言語化していくのは、見事な配置だと思いました。
これはどっかで明文化しなければいけない問題なんですが、助六はバカなんで自分で考える訳にはいかない。
そういう難しいことにかづらっていると、先代のように人生の桎梏に絡め取られて、どうにも身動きがとれないまま奈落に堕ちてしまう恐れがあります。
なので、バカな助六に聞かせる形式を取って、樋口の口から状況をまとめ、主人公が歩むべき道筋にヴィジョンとモチベーションを与えていく運びは、非常に上手かった。
助六のキャラクター性、物語のテーマ性を見事にまとめた『お前、なんで落語するんだい?』というサゲも、樋口の『難しい話』がフリとしてあるからこそ生まれますしね。

老境に差し掛かりつつ円熟した八雲は、相変わらず匂い立つような色気と達者な芸をもって、まさに名人の風格がありました。
セクシーなジジイは非常に良いもんですが、助六の人生を決定づけてしまった3つの約束を守る方向は、弟子とは大きく異なっています。
樋口の情熱に当てられ、創作落語に色気を出した助六を、八雲は『邪道』と断じる。
それは二代目が新奇性を重んじて周囲との協調を欠き孤立していった過去と同時に、古典落語を極めたからこそその美しさを守ったまま心中していきたいという、孤独なエゴイズムが強く影響しているのでしょう。

それは萬月や樋口を跳ね除けた姿勢と同根のもので、つまりは八雲という生き方そのものであり、素直に伸びていく助六の生き様とは正反対のものでもあります。
『一緒に生きて、落語の寿命を伸ばそう』と誓った師匠と弟子、菊比古が失ってしまった初太郎との人生やり直しは、生き方のレベルでどうにも反りが合わない。
しかし同時に、八雲というあまりに繊細で美麗な噺家が、願いどおりに落語と心中してしまっては、『助六』という呪いを乗り越えられないまま死んでしまっては、このお話はちょっと寂しすぎる。
クソ厄介で面倒で、だからこそ引き寄せられる巨星・八代目八雲を相手に、三代目助六がどういう話を、人生を板にかけていくのか、非常に楽しみになる対比だったと思います。


新しい可能性を生み出すだろう樋口と助六との黄昏での出会いのシーンに、非常に目ざとく『レンタルビデオ屋』という新しいメディア、落語を殺す劇薬を映してくるように、このお話の演出力が相変わらずの切れ味を維持しています。
画面に何を写して、どういう感覚と印象を与えるかを考え抜いたカットワーク・カメラワークが健在で嬉しい限りですが、何かとのっぺりしがちなべしゃりのシーンを、小気味良いクローズアップのリズムで見せてくるのは、とても気持ちが良かったです。
それはキャラクターがそこにいること、身体を持って高座に上がる噺家であることを視聴者の目の前に突きつけてくる演出であり、樋口が後に言葉で説明する『今目の前で、噺がやれる強さ』を視聴者に実感してもらう演出でもあります。
匂い立つような身体がそこにあればこそ、死んだ古典ではなく生きた前衛として落語は生き延び、再生しうる。
助六がこれから追いかけ、八雲がこれから乗り越えなければならない問題と希望を同時に描くためには、身体を構成するの様々な部分にグッと寄るカメラは、有効な武器たり得ているわけです。

それと同時に、人と人との距離感を切り取るロングショットの使い方も素晴らしかった。
落語に背中を向け、落ち込む萬月が助六より『下』の位置に堕ちていく姿、そこに擦り寄って同じ目線で語りかけ、一緒に『上』に上がっていく助六の有り様。
もしくは同情を拒む小夏の心にすっと滑り込み、家族の距離に一気に入り込んで問題を解決してしまう妙技を切り取る、橋の上の目線。
また、光と闇を行き来しつつ、緊張感をもって古典と前衛、死と生、過去と未来を対立させる、八雲と助六の対話シーン。
クローズアップで細やかな表情を切り取りつつも、カメラを引き事で助六独特の親しい間合い、遠ざけようとする防衛行動をするりと交わして懐に飛び込む強さが、客観的な視座を入れ込むことで見事に伝わってきます。
この2つの使い分けが映像のリズムを生んでもいて、ロジカルな意味でもエモーショナルな意味でも、非常に心地よい映像になっていました。


というわけで、『再び』舞台に立った助六を中心に、黄昏時に差し掛かりつつある落語と、そこを乗り越えようと、もしくはそのまま夜に消えていこうと願う人々のカルマが、色濃く匂い立つ第1話となりました。
助六のキャラクター性を反映し、全体的に明るい雰囲気ではあるのですが、落語が追い込まれつつあるどん詰まりの気配、そこを避けようとしない八雲の『老い』も重たく描かれていて、なかなか楽をさせてくれない出だしでした。
しかし同時に、『助六ならば大丈夫』という信頼と安心を、小夏の心と人生を背負ってすくい上げることで見事に与えてくれてもいて、心地よく不安と期待に揺れ動ける、素晴らしい冒頭部でした。
『どうなるか判らないけれども、先が見たくてしょうがない』ってのは、やっぱ幸せな視聴経験だなとしみじみ思い知らされます。

キャラクターの身体性、話芸としての落語を切り取るカメラの冴え、豊かにメタファーを盛り込みつつそこに溺れない語り口も健在で、見ながら『間違いないな、このアニメ』と深く頷いてしまう、技量への信頼も確認できました。
『何故落語をするか』『落語とは何なのか』という根本的な問いもしっかり投げつけ、より広く、より深い部分へ漕ぎ出そうという志が、ムワッと熱を帯びて視聴者を焚き付けてくる。
そんな第一話だったと思います。
一年間じっくり高められた期待は完全に応えられ、それを上回る幅の広さ、描写の深さを差し込まれるような、良い二期開始の狼煙でした。
三ヶ月、物語の終わりまでこのアニメを見守れると思うと、どうにも胸が高鳴りますね。