先週は『静止した永遠』『それを否定する生命』『涅槃』と、(僕個人的には)芯の分かりやすい24分フルラウンドであったが、今回は少女終末旅行の日常を細かくスケッチしつつ、夢想と幻想、鋭敏な感覚と悪夢的美術を様々な形で暴れさせる、センス勝負の短編集である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
ほんと、色んな魅せ方するなぁ
空想と現実の境目があやふやになり、傾いだレイアウトが不安と恍惚を加速させる第1話。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
特殊な撮影が夢の平板さ、突拍子もなさを強調する第2話。
圧倒的な音響が、偶然の音楽の麗しさを彫り込んでいく第3話。
角度は違えど、音と色、動きと演技の付くアニメーション独自の勝負を挑む回である。
『超巨大な廃墟の中で、少女が二人が終末を旅行する』という原作のセンスが根本にあるこのアニメ化、しかしそこに甘えることはせず、アニメーションというメディアで何が出来るかを常に考え、様々に戦っている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
原作への敬意ある切り込み、アニメにしか出来ない表現への挑戦が、作品のコアを輝かせる
経時的体験である映像の中で、無人の空間を楽しませるべく考え抜かれたレイアウト。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
クローズアップと遠景、主観と客観を戦略的に配置し、詩的で私的な題材を過度にメランコリックに描かないカメラ。
第1話から、かなり尖った表現が継続して用いられ、このアニメは成立している。
今回は少女たちの夢遊的な旅、その景勝を小刻みに切り取っていくお話。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
言語によって説明しにくい、センスに訴えかける物語構成を最大限遊ぶべく、各スケッチごとに異なった角度から、フォーカスされる表現手段が移り変わる。
それはとても豊かな、アニメーションという体験だ。
その豊かさと、水音に貫かれた奇想に溺れるだけでも十分以上に楽しいのだが、描かれているものの意味を探してしまう悪癖が、僕には(そしてもしかしたら、僕らには)ある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
賢いチーちゃんが、目の前の状況と自分の知識を結びつけ、解説してしまうのと同じような、ロゴス生命体の習性だ。
バラバラに見える三つのシーンには、いくつか共通するモチーフがある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
例えば流れる水。先週描かれていた涅槃の模造図では静止していた水は、そこから離れ少女たちの生活を追う今回、流れとして水平方向に、あるいは雨として垂直方向に流れ続ける。
流転と変化の象徴/媒介としての水。動く、動く。
それは静謐で空疎な廃墟の描写と相まって、冥界を流れる水を想起させる。瓦礫のジェンガと、賽の河原。崩れることを前提に積み上げられる、生の営み。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
そこに約束された終わりの虚しさを見るか、終わるまでは終わらない生命のしぶとさを見るか。僕(ら)は水鏡に少女を写して、感傷を鑑賞する。
あるいは遊戯。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
『もしXXだったら?』という空想は、想像力を持つ人類の特権だ。遊びにすぎないと分かっていても、少女たちの妄想はシームレスに現実に投影され、二人を照らす。マッチ売りの少女の幻影は、腹を満たさない。足を止めて、死んだマン・ホームに居続ければ死ぬだけだ。
戯れ事のように積み重なる夢を、二人で共有しているからこそ。少女たちはこの終わりきった世界で絶望せず、前に前に進み続けることが出来る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
チトのユーへの依存は、目を閉じてみる夢からも感じ取れる。巨大で、楽しくて、自分の足場を揺るがしてくれる存在。
一緒に死ぬまで、遊んでくれる友達。
チトの足場は常に不安定だ。賢い彼女は動物的なユーと違って、未来と外部を想像できてしまう。自分たちがどうしようもなく孤独で、世界がどうしようもなく終わっている事実へと、想像力が伸びてしまう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
その不安が、夢では瓦礫のジェンガとなって実体化する。ユーが揺るがさなくても、世界は揺れる。
バカで、訳が分からなくて、大切で、恐ろしい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
チトにとって、ユーは世界で唯一の他者であり、恐れると同時に愛する存在だ。その心象が『捕食』という形で現れるのは、別にフロイディアンでなくとも、熾き火のような秘められた性を夢解きしたくなる。
真っ白で清潔な廃墟に光る、リビドーの仄明かり
童話のような美しい夢の風景の中に、ちょっとエロティックな挑発を感じられるのは、個人的には安心するポイントだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
静止した涅槃、屋根あるホームに背中を向けた彼女たちは動き続ける。深層心理からイドの怪物が顔をもたげるとき、あのまんじゅう顔が『生きてる』って感じが、僕はする。
チーちゃんは相当ギリギリの所で、なんとか生きてるんだな、と思う。呑気に動物しているように思えるユーも、多分同じなのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
それでも、楽しい旅行を演じ続けているのは、やっぱ『二人』だからだと、チーちゃんの主観にかなり寄った構成の今回は、夢と現実の中でひっそり教えてくれる。
空想に満ちた家、あるいは街。夢の中の海。雨と文明の残骸が生み出した、一瞬のコラボレーション・ミュージック。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
今回の旅行に彩りを添えるものは、全てが一瞬の幻影だ。消えてしまえば、死と静寂が少女の周囲を包囲している。むき出しの現実と向き合えば、もう死ぬしかない。
そういう状況の中で、ファンタジーは心を鎧う防具であり、世界を書き換えていく武器でもある。死の川流れる地獄の縁でも、夢を見られるのが人の特権だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
雨音に五線譜を幻視し、消え去った過去の木霊を聞く。それくらいの彩りがなければ、終末旅行は歩けない。
遊戯性の生存戦略、ある種の収容所文学
そして想像の翼は、『ふたり』で共有され、反復され、あるいは拒絶されることで狂気ではなく夢になる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
おバカサで思いっきりやらかしたり、洒落にならないハードさでツッコミ入れたり。そういう危うさも引っくるめて、少女たちが二人でいることは、凄く大きいことなのだろう。彼女たちにも、僕にも。
そして想像の救いは、無言で周囲を包囲する現実の重たさの前には、多分無力だ。旅行が旅行として成立し、彼女たちが死なないのはただただ偶然の結果だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
そうだとしても。あの子達が夢を杖と鎧にして、『ふたり』で歩いていけていることは、僕にとっては喜ばしく、美しい。
マッチ売りの少女は炎の中に幸せな幻影を見たが、終末旅行の少女たちは水音に包まれながら、過去の残滓を拾う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
音楽も家も、美しいものは遠い。夢のヴェールを剥ぎ取れば、残るのはコンクリートと鉄柱の殺風景…『殺してくる景色』だ。
死の気配と美麗な破滅の同居も、第1話からずっと続いている。
アンデルセンの童話のような結末が、二人に待っているのか。それとも、あんまりに救いがなくて改変されたペローの物語のように、理不尽を跳ね除けてくるのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2017年11月4日
先のことは分からないが、今回の物語はよく幻想に満ち、アニメ特有の表現力を最大限に活かした、素晴らしいものだった。来週も楽しみだ。