ダーリン・イン・ザ・フランキスを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
天使たちの来訪を以て、楽園の終わりが始まる。
伸びる影、歪む世界。散る花の宿命を受け入れつつ、何かを残したいと願う祈りは、人類なき世界には罪悪となる。それでも瞬なる想いをキミに刻みたいから、白い肌に手が伸びる。
さあ、人間定義試験の時間です。
というわけで、ロボ戦のないダリフラである。入江泰浩のコンテ、益山亮司の演出が共に冴え、淫靡なる清廉、抑圧と解放を丁寧にフィルムに焼き付けていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
スタッフワークが多彩で、いろんな才能を味わえるのは、ダリフラの良いところかもしれない。(今更な意見)
今回のお話も横幅が広く、いろんなものが描かれる回である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
第7話(母子手帳の発見)、第11話(パートナーシャッフル)と続いてきた満とココロの関係性が、決定的な臨界点を迎える展開はスキャンダラスで、かつ誠実な必然でもあり、中心軸として太い。
これに加えて、9sの来訪と衝突によって顕になるあの世界の人類定義、『オトナ』と『コドモ』の中間地点にあるハチナナの危うさ、遂に(暴力的)対話を果たした叫竜サイドと、多角的に様々なものが切り取られていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
全体的にムードは沈鬱で、薄暗さの中に一筋の光明がある。
それはココロが見つけて皆に伝え、ミツルが一度は拒絶し引き受けた『性』の発見(と実践)にも繋がるライティングであり、キャラクターの心情と画面のムードがしっかり一致しているのは、良い演出だったと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
灰色の斜陽を切り裂く、一条の光明。それがココロにとっての『性』であり『母』なのだ。
ココロにとって、『街』で手に入れたあの小冊子は、人生を照らしてくれる強い導きだった。ゼロツーにとっての絵本と同じ、ホワイト・アウトした世界で己を定めてくれる『物語』
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
それはココロ個人で終わるのではなく、パートナーと世界に問われ、共有されていく。
ゼロツーが内面化した物語を、ヒロともう一度作り直すように、ココロは冊子(かつて人類が変質する前にあった文明の残滓)から知恵を読み解き、ミツルを内側に受け入れることで、新しい可能性を生み出そうとする。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
暴露と剥奪、抵抗と内面化。許容と再生産。
ヒロとゼロツー、ココロとミツル。二組のカップルは今回、鏡合わせに描かれ続ける。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
既にある到達点を越えた側。ヒロゼロが第15話で到達した高みへ、おっかなびっくり登ろうとする側。荒廃したセックスを弄んで傷ついた後、セックスと適切な距離を取った側。今正に、セックスに飛び込まんとする側。
ヒロのヘッタクソな『王子様』(セルフイメージの投射)を肯定し、『それは素敵なものだから』と、新しく生まれつつある物語に取り込もうとするゼロツー。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
そこに、物語序盤のスラットな貌はない。本当に求めるものに素直に、セックスしないことを選び取った少女の静謐は、私室で穏やかに展開する。
口づけで終わる関係性。人間の埒を超えてしまう『角』を隠さず晒し、突っつきあって肯定する距離感。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
ヒロとゼロの穏やかな睦み合いは、とても静かに進行する。それは善きものであり、彼ら自身が選び取ったものでもある。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/nNUZDGm3R0
そんな穏やかさに対し、ココロとミツルの関係は淫靡で隠密な距離感に満ちている。決意と怯え、震えと抱擁。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
聖典を抱え、生殖機能の意味を真剣に考え続けたココロの瞳は震えない。禁忌(あるいは真実)を突きつけられたミツルは、瞳を不安に揺らす
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/VAO5ztq39s
ココロがミツルを撫で擦る手付きは、非常に生々しくエロティックだ。相手に接近し混じり合いたいという欲望が宿った、挑発的な仕草。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
『女』がそういう欲望を所持しても良いのだと、絵が言ってるようで。スキャンダラスで前向きな描き方が好きである。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/K4ak2r1WU9
しかしそこに、禁忌を前にした昂奮はない。性のタブーそれ自体がない未来世界においては、性は禁じられたり制限されるのではなく『無い』のだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
ココロは『女は/性は/人間はこうあるべき』という規範を自分から解体し、ただ心の赴くままに自分の中の真実を、言葉と行動に載せていく。
その衝動主義がヒロと良く似ているのは、なかなか面白いなぁと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
ヒロが第16話で共有した世界の広さ、自由の意味、自爆兵器以外の生き方。それと同じように、ココロが小冊子によって目覚め、自分で考え手に入れた『性』の意味もまた、少年少女のサークルに共有されていく。
僕らの狭い観点からすれば、ヒロゼロの清廉とココミツの欲望は対比物に見える。綺麗なものと汚れたもの、観念と肉欲。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
しかし歴史も教育も、何も与えられていない彼らにとって、それはただ素直な愛の発露であり、両方共同じところから出てきている。赤く脈打つ心臓の、隠し通せない鼓動から。
心と体が求め合い、性器が接触する。あるいはしない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
その現れはカップルの(あるいは個人の)関係性によって異なるのだが、それはそれぞれ必死に自分と、自分を照らしてくれる『物語』(ゼロツーにとっての絵本、ココロにとっての小冊子)によって導かれた、自分たちなりの真実なのだ。
その思いと行動には血が通っていて、だからこそ怖い。ミツルは心の欲望を叩きつけられ、拒絶の仕草を見せる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
やっぱり男の子のほうがヒロインっぽい動きをしていて、性役割の撹乱はダリフラのスタンダードかな、などと考える。女から声を掛けるのを放埒とするのは、荒野においては機能しない規範だ。
ココロがたどり着いた真実は、(ゼロツーやヒロが第13話でそうであったように)世界によって否定され、略奪されかかる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
人間はセックスなどしないもので、性によって分かたれた差異には意味などなく、ただただ清潔に生き続けることこそが『人間』らしい生き方なのだ、と。
それは間違っていない、と震えながら言うこと。おずおずと手を伸ばしパートナーを抱きしめること。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
薄暗い密室でミツルが踏み込んだ道が、第13話のヒロと呼応しているのは面白い。泣いているパートナーを前に、そんなパートナーが新しい可能性を見せてくれたからこそ、男の子は荒野に踏み込む。
これまで水鏡に照らされ、直接対話をすることがなかったヒロとミツルは、長い道を経て今回、ようやく素直に対峙する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
これまで自分たちを反射していた水に体を浸し、素肌を晒し、直接肉眼で自分たちの類似点を確認しあう。愛する人がいて、か弱い少年の体である自分たちを晒しあう。
一歩先に歩いた、パートナーシップと愛の道。ヒロはその体験を水に溶かし、ミツルと共有する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
俺たちはバラバラかもしれないけど、それでも似通い繋がるものがあると信じるから、胸を張って個人的な体験を教えようとする。
それはバラバラであることに怯えていた序盤と、大きく違った態度だ。
そんなヒロの姿を見て、ミツルはココロを好きな自分の気持ちと、それをどう具体化すればいいかを確認する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
二度目の接触がミツルからなのは、ヒロという手鏡をしっかり正面から見て、自分の姿を確認できたからだろう。愛おしい気持ちは、けして嘘ではないと確信したからだろう。
それはとても力強い真実で、しっかりと共有される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
ヒロがゼロツーの反抗を見て決意を固めたように、ゼロツーがイクノに鏡を持ってもらうように。子供たちは曖昧な自分の境界線を、真実の姿を、他者を鏡とすることで確たるものに変えていく。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/IH72NMk0pC
アナタがいて、ワタシがいる。シンプルでとても大事な真実は、男女の別のあるパートナーにおいても、同性の友人たちの間でも、幾重にも重なり、反射していく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
曲がりくねった道を抜けて、ヒロとミツルもようやく、並びあうところに来たのだ。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/m1FM67WrP0
そんな共同体に、けして馴染まない異物達。今回のお話は9sの存在感もぐっと深めるエピソードであった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
パンと水と魚。子供たちが手ずから作った、人間の味のする食事を9sは口にしない。封すら切らない。一緒に汚れるつもりはないよ、と態度で示す。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/oSywYOCOyi
9sが13部隊に情報を射し込む仕草は、巧妙に親愛を装いつつ、固くて冷たい意図が透ける。第14話でイチゴに『ゼロツーは怪物なんだ』と告げたのと同じように、自分たちに(つまりAPEに)都合のいい状況操作を狙う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
ホンマジェネリックカヲルくんの質の悪さ、腹立つなぁ…。
そんな天使たちの仮面が、『性』を前にして剥がれ落ちる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
堕落を意味する小冊子を顔にかざした瞬間、9αの表情がすっと切り替わる。悪意と侮蔑、穢れへの怒り。ようやく見えた、余裕のない感情。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/htwxaaEyg3
9αが色々喋ってくれるおかげで、あの世界の性規範・人類定義が明瞭になってくる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
旧来の生殖に頼る人間は、時代遅れで穢れた存在であること。人類種にビルトインされた性機能は、フランクスを動かす(その果てに死ぬ)ための夾雑物であること。
それが駆動させる感情も生命も、大して価値はないこと。
第7話、あるいは第10話で描かれた新旧の『街』。あるいはAPEのゼーレごっこに見え隠れする高慢と異質さ。薄っすらと見えていたものが、憎悪に表情を歪める天使の独白で、どんどん形を手に入れていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
都市化・文明化が極限化した果てにある、身体性を極限まで切り捨てたナチュラリズム。
それでもコドモは成長し、性は成熟する。不要物、旧世代と蔑みつつ旧式の人類を排除しきれないところに、APEの不完全が見えもするが、その支配は巨大だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
パパによって製造されたバイオ・アンドロイドとして、自己を認識する子供たち。しかし眼の前に広がる事実が、そうではないと告げてくる。
パパたちの庇護(監視)から外れた一ヶ月で、より鮮明になった死の色合い。約束された散華を見つめつつ、自分たちらしい生き方(死に方)を探す子供たちは、ココロを先頭に『性』にたどり着いた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
9sはそれを『気持ち悪い』と蔑み、ゼロツーは『素晴らしい』と肯定する。
森のなかなのに活力の薄い、灰白の色彩。陰気な場所でゼロツーと9αは言葉をかわすが、それは決定的な絶縁に繋がる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
人間のマネをしても人間にはなれない。9αの指摘は、ゼロツーにとってはもう自明のものだ。むしろそこが、ゼロツーの基準点なのだ。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/v3Vklq3k9q
違うからこそ、あるいは同じになれるからこそ。お互いをよく照らしあう関係の中で、人間性は形ではなく内実に宿る。行い、言葉、あるいは思い。それが手鏡となって通じ合うのならば、それこそが人間の定義となる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
第15話をくぐり抜けたゼロツーは、APE式人類定義の檻から既に出ている。
これは『叫竜を殺せば人間になれる』という悪しき『物語』を、客観的に突き放している描写からも見て取れる。それは嘘で、でもそれにすがっていた過去の自分は嘘ではない。愚かだったかもしれないが、無意味でも隠すべきものでもない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
衝撃の真実をさらっと語る姿には、確かな変化が見て取れる。
そんな強さが、9sが楽園を切り崩しに来ている状況ではありがたい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
ゼロツーはしっかりサークルの中に入って、『こちら側』に立って9sと対峙する。性差を前提とした生殖の話なので、オトコノコとオンナノコが明瞭に内外別れているのは、面白い配置だ。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/zM5pU5uNzR
帰ってこないココロを心配するシーンでは、9sは天に去り、子供たちは一つのサークルにまとまり直している。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
分かたれればこそ生まれる命(あるいは価値)もあれば、同じものを見て育まれるものもある。それは、両方意味があるものなのだ。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/banzxQu0iM
今回は同ポジションを巧妙に使った演出が多く見られ、状況と感情の変化を巧く見せていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
初めて上から切り取られる温室は、思っていたよりも狭い。昼の清潔な白と、赤が毒々しい夜の表情の対比。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/1Mpyr0xJdn
これまで温室を舞台に育まれていたミツルとココロの関係は、生活感のあるココロの私室へと舞台を移す。秘められた場所でココロは、人形に母へのあこがれを反射させ、あるいはミツルと寝る。ゼロツーとヒロの私室…そこで育まれるものとの、響き合う差異。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/K5CWkyvw0j
コドモの人形を膝に抱いていた少女は、パートナーの精(性/生)を受け入れ、己の内側でコドモを育む可能性に、夢を繋ぐ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
それは涙と叫びに満ちた切実なもので、それを無視できないから、ミツルは去ろうとするココロの手を取った。
世界がどれだけ否定しても、俺達は間違っていないと。
お互いの体温で確かめるかのように、少年と少女は抱き合う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
危うく、儚く、尊い夢。彼らの必死さが安住の地を見つけて欲しいと思うが、世界は相変わらず冷淡で残酷であり、状況は厳しい。
全く安心できない描写が積み重なるが、それでも彼らの幸福を祈りたいと思う。
9sとは違う軸から、ハチナナもココロの『性』を指弾する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
生殖というタブーは、口にするのもおぞましい。APEの規範を鸚鵡返しするナナの記憶は、しかし惑乱する。
再発する思春期。病原としての感情。治療としての調整。ひどくおぞましいものが、コドモでもオトナでもない二人から透ける。
不完全なる老いたる霊長類を、あえて放置して観察するフランクス博士。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
APEと敵対するようで、同時にコドモの味方でもないように見える彼の狙いがどこにあるかは、やはり大事な伏せ札なのだろう。
変わり果ててしまった世界の、野蛮な真実を探求する好奇心故か。なんらか血の通った感情があるのか。
もう一つ、物語を駆動させるだろう伏せ札も、今回は切り込まれていた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
青い叫竜の本拠に、APE達が降り立つ。竜の血と同じ色をした入り口は、ひどく艶めかしい質感をしている。オレンジ色の清潔が香る、オトナたちの『街』とは正反対だ。
©ダーリン・イン・ザ・フランキス製作委員会 pic.twitter.com/OdIJA6hIUa
フクロウAPEが唐突な刺客ムーブを始めた時は思わず笑ってしまったが、仮面の奥には空疎が広がる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
性を切り捨て、感情と生命を遠ざけるAPEは、いかなる生命体なのか。彼らを『人類もどき』と吐き捨てた『叫竜の姫』は、なぜゼロツーに似た容姿をしているのか。
終盤に向け、色々伏せ札が確認される回であった。EDの『二人のゼロツー』が何らかの暗示なら、001の名を持つ姫君は、ゼロツー(と人類)のアイデンティティに深く関わっているのだろう。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
それが明らかになる時、子供たちの運命もまた定まっていく。待ち遠しくもあり、疎ましくもある。
とても悪趣味で異質な世界を設定した結果、子供らは地獄をウロウロしとるわけだが、今後クライマックスが近づき設定が明らかになると、なんでこんな事になってるかも見えてくる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
謎それ自体よりも、子供らの苦界に納得できるだけの強度がそこにあるかが、やっぱり気になるところだ。
今回のエピソードは、桜を見つめるイクノの独白で始まり、終わる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
花が散ったら実が成る。今回書かれたカップルたちの接触を考えると、なかなか悩ましい描写であるし、そもそもサクラは自家受粉が難しい樹木だったりもする。ゼロツーが己の、性的不能をサラッと告白した描写と、ちょい重なる。
イクノはなぜ、9αを殴ったのか。『性差は面倒くさいだけ』と吐き捨てる言動を、無視できなかったのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
それはやっぱり、彼女が一般流通する性差に悩まされ、女たちの集団の中でひとり、灰色の制服を脱げないでいることと、強く関係しているように思う。
『お前たちの性(サガ、あるいはセイ)は間違っている』と押し付けられるのは、イクノにとってはおそらく、とても我慢がならない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
その皮膚感覚的な嫌悪を、ココロとミツルの代わりに前に出た勇気と怒りを、大事にして欲しいなぁと思う。イクノの書き方は、僕の中ではとても重要なのだ。
未だクローゼットの中にある、イクノの真実。その輪郭を丁寧になぞるエピソードでもあったかな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
楽園の午睡はそのうち醒めて、花は当然のように散るのだろう。その『当たり前』を、イクノも子供たちも、ちゃんと見据えている。その上で、諦めきれずにいる。
第10話でゾロメは、『俺たちは可哀想なんかじゃない』と吠えた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
押し付けられた規範への反発、生き方を他人に規定される不快感。
可哀想ではない自分を証明するべく、なんらか証明を世界に残そうとする足掻き。
それは様々な現れで、コドモたちの心の奥底から、マグマのように吹き出し続ける。
ゼロツー達のプラトニックな恋も、ココロ達のエロティックな愛も、その一つの形だ。それは全く異なっていて、同じ場所から生まれる。両方に価値がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
たとえどれだけ否定されたとしても、それは本当のことだ。でも、本当のことを吠え続けるのは、とても大変なことだ。
必然の死。戦い。抑圧と対立。これからも彼らの前に、苦難が押し寄せるだろう。命を落とすものも出てくるかもしれない。(全く心の底から、出てほしくないが)
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
それでも、今回様々な形で現れた彼らの叫びが、何らか意味を持ってくれると良いなと思いながら、僕はこのアニメをずっと見ている。
叫竜。APE。フランクス博士。コドモとオトナ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月14日
意図的に伏せられた札が、クライマックスの予感とともにチラホラとめくれて来ている。それが表になる時、穏やかな時間は遠くに過ぎ去って、終わりが始まるのだろう。
その時失われるものを思うと、簡単には『楽しみ』とも言えないが。次回も楽しみですね
追記 ”ガリバー旅行記”は同時代のイングランドへの政治批評を大量に含んでいるわけだけども、ダリフラは一体どのくらいの深度で『今』を見据え、SFロマンス悲劇を展開しているのだろうかってのは、ずっと気になっているポイントである。
ダリフラ追記。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
ココロは放棄された文明の残滓たる小冊子を回収して、APE社会が切り捨てた生得の機能…生殖と性別の意味を捉え直す。いくら切り捨てても、それはナチュラルに存在していて、確かに息をしている。封じてしまうほうが嘘だ、と。
APE社会は『それが普通で、自然である』という言説を戦略的に使って、コドモたちを死地に追いやっている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
コドモはオトナを守って死ぬのが当たり前、使い潰され搾取されるのが普通。
ココロが性を見つめることで(再)発見した『ナチュラル』は、そういう『当たり前』の構造に意義を申し立てる。
ナチュラルなものとして流通しているものが、実はまったく当たり前ではない。真実に結びついたプロテストは強力なものだが、同時にAPE社会の過剰な人工化もまた、『人類』の一つの傾向性として、ある種の正当性とパワーを有している。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
都市を作り、言葉を重ね、道具を使う。技術と概念によって自然を作り変えていく生物としての、人間の特殊性。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
過剰に先鋭化し、また不当に偏って使用されてはいるものの、APEが振り回す人工化(科学化・産業化・都市化)は、ココロとミツルがたどり着いたのとはまた別の、ナチュラルな真実でもあろう。
パパから見捨てられた一ヶ月、コドモたちは野獣のように野で暮らしはしなかった。自然の侵食が進むドームの中で、道具と言葉を使い、残された遺産を活用してみんなで生き延びてきた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
ありのまま生殖する動物としての側面以外の、人間の技術的ナチュラルを、よく使ってきた。
ココロとミツルが踏み込んだ真実(あるいは禁忌)が、どのような決着に辿り着くにしても、その生物的な艶めかしさ、自然さを過剰に重大視するのではなく、文明との良好なバランスを保ったまま、人間らしくあってほしいな、と思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
そのオンバランスへの視座は、様々な場所で既に芽を出しているが。
パパたちのへその緒をから切り離された少年たちは、生き延びるために書物を使った。自分たちを組織化し、役割を分担した。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
APEが振り回す、文明の冷たい阻害。過剰な人間化による、生物的な人間性の廃絶。それとは違う可能性を、コドモたちは既に掴みかけている。
ゼロツーの絵本、ココロの小冊子。略奪され崩壊しても残る、文明へと向かう人間のナチュラル。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
その善なる部分を証明することは、生物としてこを為し未来へ希望をつなぐのと同じくらい、コドモたちの生き様を物語に刻むと思う。いいバランスを維持して、終末まで走って欲しい。
文明批評という意味では”ガリバー旅行記”に近いのかな、とも思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
小人と巨人の国(フランクスとパラサイト)。
巨人と小人の国(オトナちとコドモ)。
空飛ぶ国(コスモス要塞とマグマエネルギーの搾取)。
高貴な獣と野蛮な人間の国(叫竜と『オトナ』)。
”ガリバー旅行記”は前半二つの国が児童向けに語られることが多いが、原典としては知性と皮肉と当てこすりに満ちた風刺物語だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
その毒の強さと、パット見の甘さのバランスもまた、ダリフラは本来的な意味での童話めいてる。キーアイテムとして『絵本』を使うのも当たり前か。
最終的にガリバーは、気高い獣であるフウイヌムこそが最高の価値だと思い込み、醜いヤフーである自分と人間を軽蔑する狂人として、人間社会からはじき出されていく。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
ようやく言葉を発し始めた叫竜を、コドモはどう見るか。フウイヌムたる叫竜は、コドモとどう交わるか。
叫竜とAPE、共に殺し合いつつ『己こそが真実人間である』と主張しあっているのは、なかなかに地獄みが強い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
ナチュラルな人類とは、いかなるものか。それはシンプルな真実ではなく、政治と暴力とプロパガンダによって押し付けられる事実の奪い合いの果てに、荒野に突き立てられるものだ。
ココロが見つけた、生殖する生物としての人間。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
ゼロが再話する、物語を作りうる存在としての人間。
コドモたちの人間定義が、自然と文明の間で今後踊るだろう。それは真剣な思春期の叫びだけで終わらない、血みどろの殺し合いになるはずだ。パラサイトたる彼らが、これまでそこに居たように。
生きるものも死ぬものも出てくるのだろうが、彼らが見つけつつある人類の定義を戦いの中で踏むのなら、敬意と愛情を持ってしっかり踏んで欲しいと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
そうされるのに相応しい、とても大切な発見をココロは為して、それを一度捨てかけたところで、ミツルは手を取って支えようと決意したのだ。
そんな二人の抱擁がどこへ転がったものか。さっぱり先は読めない、というか悲劇しか予測できんわけだが、まぁ幸せになってほしいよ本当に。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年5月15日
人間の真実をずっと本気で考えてきたココロも、戸惑いつつ踏み込んだミツルも、歴史の教科書に載るくらい偉い。世界が褒めないなら、俺が褒める。そんな感じ。