ゾンビランドサガを見る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
いつも前向き、目配り効いたみんなの真ん中。
さくらは生前の記憶を取り戻し、フランシュシュとしてのアイデンティティを失った。刻み込まれた不幸と非才が、ゾンビの魂を腐敗させていく。
死んでも夢は叶えられる、それは祝福か呪いか。
そんな感じの最終話一個前、ずっしり重たい主人公掘り下げ回である。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
とにかく生々しいお話で、時折このアニメらしいポップなコメディ調子は挟まるものの、学習性無力感というかなりどうにもならないものに、真っ向勝負を挑んできた。
ゾンビのように日々を生き延びる、僕らの身近な問題だ。
先週の短いカットで予感させた悲劇を、今回のエピソードは丁寧に拡大する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
ゾンビとして蘇り、アイドル友情根性物語の主役として駆け抜けた11話が夢だったかのように、さくらは過去に縛られる。
記憶が無いこと、過去が白紙であることは、実は救済でもあったわけだ。https://t.co/75WVEOZtg9
第1話を印象的にカットバックする今回は、さくらの内部で起こったリセットと、それ以外のメンバーの中で継続されている物語がぶつかり合うお話だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
ここまで物語を見てしまった僕らは、白紙のさくらではなく、友情と自尊を掴み取ってきたメンバーの方に、基本足場がある。
冒頭、怪しげな洋館で目覚めたえちゃんに襲われる。ゾンビである自分に気づかないまま、”外側”に居場所を求め、警官の銃弾で否定される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
第1話を再演する構図はしかし、同じ形をしても中身が間逆だ。
たえちゃんが”襲う”のではなく”心配”していることを、言葉の意味はわからずとも、僕らは知っている
しかし思い出すことで忘れてしまったさくら、11話自分が主役として走った物語を手放してしまったさくらは、ゾンビの言葉を解読するコードを持っていない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
生前持っていな、人間であることのコード。頑張っても不幸が押しつぶしてくるコード。
諦めを学び取って、それでも憧れが幾度も蘇ることに疲れ果ててしまったコード。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
巽幸太郎が身勝手に、伝説のゾンビたちを復活させ、同じ立場の仲間で守ってやらなければ。あるいは記憶が白紙でなければこうなっていただろう、さくら『らしい』コード。
ゾンビを疑似生者だと思えば、生前当たり前に頑張って、当たり前に報われなかった当たり前の負け犬の記憶には、正当性と唯一性がある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
体が腐っていないことを人間の条件とするならば、11話積み上げたゾンビの思い出、仲間との絆、アイドルとしての自己実現は、全て偽物である。
しかし新時代のゾンビ物語たるこのアニメは、生者/死者のシンプルな二元性を肯定はしない。死んでも夢は叶えられるのだ。それは絶望にも、希望にも満ちている、当たり前の人生と同じ色合いなのだ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
その上で、死人が蘇ることはない。絶対的な終わりの後に、続く物語。閉ざされた夢が、儚く消えない話。
その虚偽性をぶっ飛ばすために、さくらを『正常』な状態に一旦戻し、白紙の記憶にもう一度、フランシュシュとしての、アイドルとしての、ゾンビとしてのアイデンティティを書き直す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
様々な形、様々なやり方でそれを獲得していく物語だったゾンビランドサガを、もう一度問う。
そのための記憶漂白である…とは分かるものの、やっぱり辛い。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
僕は仲がいい…良くなっていくフランシュシュが好きだった。
生前のさくらが見ていたアイドルドキュメンタリーのように、接点のなかった人間同士がぶつかり、繋がっていく物語は、いつでも美しく楽しい。ベーシックで強い。
『美少女をゾンビが取り囲む』という、ジャンル的フェティッシュに満ちた客観的構図。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
しかし恐怖と興奮を煽るには、パジャマは可愛すぎるし、布団は所帯じみてるし、ゾンビたちは困惑しすぎている。暖かな布団のホーム性から、綺麗にさくらが隔離されているのが巧い。
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ゾンビ仲間だったはずのさくらは記憶を取り戻し/喪失し、”人間”だったころの過去に縛られている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
第2話でサキちゃんが置かれていた状況…『全部終わってんだよ』に戻ってしまっている、というか。
世界でたった七人のゾンビ仲間を否定することは、ゾンビでありゾンビでしかない自分も否定することだ。
しかし急に言われたところで、アイデンティティが取り戻せるわけではない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
愛ちゃんや純子ちゃんが栄光の頂点から叩き落とされ、佐賀の地方アイドルからやり直すことを受け入れるのに、何話かかったのか。
リリィが失われたパピィとの思い出を歌に昇華するまで、どんな歩みがあったのか。
一話一話積み上げた物語の質量、そこに心を揺さぶられた記憶があればこそ、手に入れることで失った、前に進むことで後退したさくらの辛さは、しっかり身にしみる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
さくら自身は努力もし、その過程で実力も身につき、しかし結果だけが追いつかない。今回描かれる過去は、ありふれた哀しさに満ちている
人生そんなモンと諦めるしかない、失敗の不幸。”フランシュシュ一号”としての成功体験をダンボールに詰め、仲間の説得を拒絶する壁に使うさくらを、身勝手と責める気にはならない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
何しろ記憶がない。ゾンビとして、アイドルとしてのアイデンティティがない。
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デスメタルのライブハウスで、ジジババ相手のフリースタイルで、ドラ鳥のCM撮影で、楽しいガタリンピックで、あるいは伝説のロックフェスで。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
実際眼にし記憶に焼き付けられた成功が、今のさくらにはないのだ。ゾンビだからこそ、白紙だからこそ挑めたがむしゃらな挑戦は、嘘のように消えてしまった。
その辛さ、哀しさに共鳴しつつも、メンバーと同じ体験をまだ残している僕としては、まさおの真心が地面に落ちるシーンが、とても辛かった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
星は希望。ピーターパンであり続けようという決意。リリィの命。
それを第8話で見ていればこそ、星はザクリと突き刺さる。
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あの時リリィを優しく抱擁してくれたさくらが、リリィの歩み寄りを拒絶する。しんどい。正直しんどい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
リリィはさくらに抱擁され、永遠の12才、性未分化なままのピーターパンな自分、ゾンビだからこその永遠を肯定してもらえたからこそ、落ちた星を掴み直せた。https://t.co/iRHs4vMeSz
パピィと”ゾンビ六号”という嘘で繋がり、夢で出会って、言えないはずのサヨナラとオカエリを言い直せた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
そこに心揺さぶられた視聴者ほど、星が叩き落とされるシーンはキツかったと思う。思うっつーか、俺はキツかったのホント!
なんでこんな事になってんだよ…マジ許さねぇからな運命!!
フルアーマー姉さんの出陣(最終決戦のユニコーンガンダムみたいだったな…)も不発に終わり、ブランコで一人いじけるさくら。黄色い柵と錆びた玩具が、もう戻れない過去、現在への拒絶を上手く象徴する。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
”外部”との接触点である公園は、毎回うまく使われるなぁ…。
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挑み、間違え、憧れ、失敗する。繰り返す挫折の中で、すっかり折れた心が蘇生したのは、アイドルのステージ…ではなく、ドキュメンタリーを見たからだった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
少数派レジスタンスとして活動してたさく愛派が、大将首を獲ったようにイキる証拠映像は、アイドルの”生”を描く
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虚飾のない、当たり前の人生(と視聴者が受け取るよう、堅牢な意志と繊細な編集で組み上げられた”ノンフィクションという名前のフィクション”)を。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
挫折と敗北から立ち上がる物語を、光の中で煌く星も自分と同じように、持っていることを。
さくらは見て取って、憧れに向かって再度歩き直す。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
どれだけ過酷な運命にもてあそばれても、憧れを杖に立ち上がってしまうことが、さくらの強さであり呪いでもあるのだろう。
その視線の先の映像が、愛個人ではなく、今はいなくなってしまったアイアンフリルの仲間を切り取っているのが、僕は好きだ。
そしてさくらの願いは、死によって切断される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
最も決定的なピリオド。夢など叶わない、全ては腐敗していくという、絶対的な証明。
それですら終わりではないと、ゾンビの生は告げている。全ての記憶も、身体も、社会的立場も、過去との繋がりを失ったとしても。
蘇った夢は”アイドル”を求め、ステージで自分を肯定し、他者に笑顔を与える未来を求めてしまった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
溢れかえる魂のエネルギーが、一体どれだけ強く優しかったか。源さくらが何を果たしてきたか。
ここまでこのアニメを見た僕らは、さくらの代わりにちゃんと識っているはずだ。
しかし同時に、ゾンビの身体は人間社会では異物であり、銃弾によって排斥される。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
記憶が漂白され、物語が開始地点に戻る今回、ゾンビと社会、ゾンビ化した身体と自意識のギャップもまた、序盤のようにもう一度描かれる。
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巽のエンバーミング、少女たちの生き生きした再生、過去と現在をフラつきながら抱擁する光。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
フランシュシュという仮面をかぶることで、芸事に身を置くことでなんとか人間の形を保っていた麻酔が、今回剥がれ落ちる。
ゾンビはやっぱり、ゾンビなのだ。https://t.co/mieVwgvWm8
この異物性に目を背けず、『ゾンビのさくらは銃で打たれる。他人を恐慌させる』というルールを守り続けているのは、誠実だと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
ゾンビでも他人が受け入れてくれるような、優しい世界ではないのだ。ゾンビむき出しの凶暴をメイクで覆い、歌と踊りで鈍らせて初めて、ゾンビは”アイドル”になれる。
ただありのままの自分をぶつけても、世界は君を許容しない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
さくらを激しく苛んだ不幸と同じ、冷厳なルールがそこにはデデンと横たわっている。
揺らぐアイデンティティを世界と繋げ、腐り果てるのではなく生き通すのであれば、なんらかアダプターを通し、自分らしさの牙を丸くする必要がある。
たとえそれが、自分が望んだものではなくとも、だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
さくらが失敗し続けたのも、死んだのも、ゾンビになったのも。別にさくらが頼んだわけじゃない。
そんなふうにはなりたくなくても、必ず襲い来る理不尽。そのど真ん中にいればこそ、ゾンビだろうと生者だろうと、人は苦しむ。
一人で抱え込むには重たすぎる荷物を、誰が一緒に背負うのか。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
メンバーの歩み寄りは拒絶されてしまった。憧れの愛ちゃんは”持ってる”側で、不動のセンターに相応しい闘争心を剥き出しにする。それは、今のさくらには強すぎる。
(そういう人ですら傷つき、不幸に踊らされるのは第7話で判る通り)
憧れに身を乗り出せば、墜落して死んでしまうような。それでも身を乗り出して、星に手を伸ばさずにはいられないような。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
そんな不安定な心を受け止めるのは、やっぱりこの男、巽幸太郎さんしかいないんじゃいッ!!
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物語開始時はクソウザ爆笑エンジンとして、ゾンビが意志を取り戻してからは調整役と道化師、マジレス受け止め要因として。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
獅子奮迅の活躍をしてきたスーパープロデューサーは、さくらを幼い遊具から、遠い過去から引っ張り上げて、黄色い結界を乗り越えてくる。今までどおり。
美しくも遠い、佐賀の夜景。今は見えない天橋立を、巽は夢と語る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
それはゾンビとしてのさくらが、辛いトラウマを喪失して蘇り、既に成功を積み重ねたフランシュシュ一号が、たしかに掴んだ光なのだと。
お前のステージ、俺がプロデュースした芸事は、ちゃんと人の心に届いたのだと。
その事実は、まだゾンビ・アイデンティティを己のものにしていないさくらにとっては遠い。闇の中、曖昧と予感だけが漂っている状態だ。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
だが確かに、さくらの心は幾度も砕け、蘇ってきた。結果には繋がらなくても、体力や学力、周囲を思いやる広い視野と、夢に向かって突き進む瞬発力を育んできた。
失敗や挫折は、恥ずかしいことじゃない。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
愛ちゃんが堂々と言い放った強者の理論は、僕らには眩しすぎる。転んで、間違えて、恥ずかしくて、辛い。その痛みにしがみついて、前に進めない人たちのほうが、世界には遥かに多いだろう。
僕らはみんな、源さくらなのだ。
それでも。それでもゾンビのように、夢は何度も生まれ変わる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
絶望の中ですべてを諦めて、希望の物語を白紙にしたまま生きていけるほど、人は強く(あるいは弱く)はない。
どんな状況でも、どんな形であっても、夢を見て生き続けることを諦めないことは、希望なのか、絶望なのか。
巽の希望主義的ネクロマンシーは、さくらの中で死んでいた夢と本音を蘇らせ、いじけていた視線は前を向き始める。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
身体が蘇ることがゾンビではなく、魂が蘇ることが徒花のネクロマンシーなのだとしたら。たしかに巽幸太郎は、大死霊魔術師であろう。
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さくらが本音を吐露し、絶望を振り回し中心を侵犯してくるレイアウト。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
それはつまり、上手に、希望の方角にさくらが歩み寄り始めていることを意味する。
こんな事、他人に言ってもどうにもならない。
そうやって諦め閉じ込めていた思いを、巽にならぶつけても良い。
むしろ叩きつけ、受け止めて欲しい。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
そういう希望が蘇生したからこそ、さくらは感情をほとばしらせ、”ゾンビ一号”『らしい』熱量を、今回初めて見せる。
死んだとしても、人は生きたい。その矛盾した想いが何を生み出し、何に支えられてきたか。
僕らが見てきたものが、だんだん蘇ってくる。
どうにもならない持ってなさ、夢を抱いても砕かれてしまう現実の重さを呪詛に変え、巽に叩きつけるさくら。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
これに対し、巽はシャイな道化師の仮面でも、言葉を選びぬいたイケメンPの顔でもなく、語彙力が蒸発した”巽幸太郎”で切り返す。
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上手下手、感情をむき出しにする側と受け止める側が入れ替わる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
ここら辺の『中央』の意識、しっかりそれを乗り越えて感情や状況、関係性を”絵”で裏打ちするベーシックな技術の高さは、さすがの宇田鋼之介コンテ・演出か。
画面にモノを配置する時の意味論がブレないと、情動が素直に入るなヤッパ。
巽が興奮しきると語彙が蒸発するのは、純子の仕事放棄にキレた第6話を見ても判る。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
好感度を上げすぎないよう、ウザいが有能なPであり続けるよう道化を演じたり。
メンバーの本気と迷妄に筋道を付け、地力で過去と現在と未来を抱擁できるよう、いい言葉をイケヴォでつぶやいたり。
そういう余裕がなくなった巽幸太郎が、僕はいっちょん好きである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
最後まで演じきれない泥臭い情熱を、彼もゾンビに、アイドルに、佐賀に持っているのだ。さくらのことが心の底から大事なのだ。
だからネクロマンサー兼プロデューサーとして、ゾンビアイドルに寄り添う決意を吠える言葉は、不器用だ。
俺が持ってるから。持ってないお前の代わりに、夢を叩き潰され続けたお前の代わりに、俺が持ってるから。それを分けてやるから。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
だから、大丈夫。
間違えて、恥ずかしくて、諦めてしまいたくて、それでも夢を見て走り直しても、大丈夫。
それは源さくらに向けられると同時に、源さくらによく似た僕に、もしかしたらあなたに向けられた言葉だと思う。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
巽は過去を描写されない。少女を蘇らせ、夢をケアし、ゾンビにメイクを施し、アイドルに試練とステージを与える機構として、非常に有効に機能している。
人が死と絶望から、襲いかかる理不尽から蘇り、ゾンビだろーと充実した人生を送り直せる。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
そういう甘っちょろい御伽噺を成立させるためには、強烈な調整装置がいる。それを担当するために、巽はなによりも人格を象徴する器官…”眼”を覆い隠して、過去を剥奪された装置に徹しようとする。
しかしグラサンの奥から、ウザい道化芝居の裏から、宮野真守の熱演で溢れてくるものがある。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
それは巽と同じようにシャイで優秀な製作者達が、このアニメに込めた願いそのものなのだと思う。
世の中理不尽で溢れてるけども、大丈夫。一度死んでも、ゾンビになれる。ゾンビになっても、幸せになれる。
人間が生来持つカルマ、様々な情勢の変化で厳しさを増す世界の中で、誰もが腐り果てている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
それでも。
世の中笑えて泣けて感動できて、たとえ嘘っぱちのアニメーションを通してでも、まだ生きれる望みを、俺も一緒に背負ってやるから。
生きたいという願いは、潰されても消えることは出来ないから。
巽の言葉は、劇中で必死に生きているさくらに本気で向き合った情熱であると同時に、そういうメッセージでもあるように、僕には感じられた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
優しいし、強いし、ありがたいな、と思った。
僕は愛ちゃんじゃない。愛ちゃんの強さと正しさに憧れつつ、不運や非才ですり潰され、諦めるさくらの側だ。
そんなさくらにも、仲間がいる。ゾンビとしてやってきたことを忘れてしまったとしても、必死にあがいた軌跡/奇跡は確かに刻まれている。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
もし理不尽がさくらを苛むとしても、巽が、さくら自身が支えてきた仲間が、たどり着いたステージが、それを必ず打破する。
俺が持っているものを、君に渡すから。
そういう巽の真心が、彼らしいウィットとシャイネスに包まれつつドカンとぶつけられた今回は、本当に良かった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
さくらの生々しい哀しさと諦め、その中で燃える憧れの熱量をしっかり追ったことで、そのどん詰まりを打破する巽の無茶苦茶が、綺麗な救済に見えた。
下げ調子で終わるところを、豪腕一発上向きに。ダウナーではなく、アッパーなヒキで次回に繋ぐところが、見事なストレスコントロールである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
ハードでシリアスな死の傷、アイデンティティの喪失を扱いつつも、笑いと感動で場を暖め、暗い調子を引きずりすぎない調整力は、やっぱり強いなぁ。
ゆうぎり姐さんとたえちゃんのオリジンを掘る余裕がなさそうなのはちょっと残念だけども、今まで明るく元気に話を引っ張ってきたさくらの影を彫り込むこと、これまでの物語を漂白することで意味を問い直す運びは、非常に見事だった。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
今回出された問いに答えることで、作品全部を総括できるからな。
巽の起源、ネクロマンシーのロジックも語られないかなー、って感じだけども、意味深に描写された『New Jofuku』のやり取りを見ると、佐賀に残る徐福伝説と絡めてんのかな?
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
先週巽が飲んでた居酒屋も『徐福』だったし
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しかしまぁ、そこはあくまで枝葉かな、という感じである。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
僕的に大事なのはテーマとメッセージ、ドラマとキャラクター、熱量と質量。
それを盛り上げるためのゾンビであり、アイドルであり、佐賀である。そしてこのアニメは、選び取った題材に常に真摯で、熱かった。
その熱量が最後まで維持され、源さくら個人の不幸、思い、過去にしっかり向かい合ってお話を終えること、それこそがこのアニメ全てを見事に語り切ることは、今回しっかり示唆できた。
— コバヤシ (@lastbreath0902) 2018年12月13日
飛ぶためには、まず屈むべし。しっかりタメて、次回最終回。マジで楽しみです!