イマワノキワ

TRPGやアニメのことをガンガン書き連ねていくコバヤシのブログ

テクノロイド オーバーマインド:第11話感想

 鋼鉄の歌は未来を拓くのか、バベル5層での最終決戦に向けて状況が動くテクマイ第11話である。

 不完全な再生を果たしたコバルトが一旦エソラを拒絶し、心の奥底から湧き上がるものでもう一度縁を繋いだ……と思ったら世界政府の無慈悲な長い手がみんなを囲い込み、あれよあれよとステージへの道が開けるという展開。
 展開されてるドラマにそこまで大きな瑕疵はなく、アガれる展開のはずなのにイマイチ乗れないのは、話の真ん中に据えられているはずの”音楽”がなぜこの残酷な世界を変えうるのか、十分な架け橋がない……と、僕が感じているからかもしれない。
 カイトさんが出した助け舟に乗っかる形で最終局面が作られていくが、かなり過激なラッダイト主義者だったはずの彼がKNoCCに”人間”を感じる心変わりは、かなり無理筋のターンであるように思えた。
 妹への巨大すぎる愛を、エソラとKNoCCに置き換えて考えられる柔軟性がそもそもあるのなら、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い反動主義者になってないだろうし、KNoCCのパフォーマンスがそれを呼び覚ましたのであれば、もうちょい明瞭な描写があっても良かったかな、と思う。

 現状KNoCCの歩み(つまりは彼らを主役にする物語全体)はバベル踏破のご褒美としての世界改変にすがる形で進んでいるけども、あの塔がなぜそこまでの力を持っているか、なぜそこに縋る以外の道(例えば暴力革命とか)が閉ざされているのか、なぜ音楽なのか、なんとなく納得はできるがピタッとハマる説明は足りていないと感じる。
 パステル色の楽園に見えて現実的な厄介事が山盛りの、不満と未熟に満ちた未来世界。
 それをなんとか保っていくためのサーカスとして、ある種の娯楽麻薬的歪さがバベルのステージにあるのならば、世界の真ん中に立つ強引さも納得できただろうけども、バベル以外に楽しいこと結構あるしな、テクマイ世界……。
 ヘヴィな現実を明るい夢と対比し、それを乗り越えていける歌の強さを際立たせる構図にしては、主役と作品世界が詩を選んだ唯一性が弱く感じ、歌程度では乗り越えられない生々しさで、暴力が暴れすぎたきらいがある。
 なんもかんも反ロボット派の自作自演で収束しそうなこの状況で、世界を変えうる特別なステージを最後、演出しきれるのか。
 最終回に求められるハードルは相当高いと思う。

 

 機械のような人間たちに取り込まれ、人間味ある機械を弁護するエソラ。
 彼は機械の心を家族としてナイーブに弁護するが、道具的存在を人間として扱いうるにはあまりに未成熟で野蛮な社会が、相当厳しくそそり立っている状況はこれまでも描かれてきた。
 それは全く優しくなく醜悪で、正されるべき邪悪ではあるけども、人間の本性と社会の成り立ち噛み合わせて生まれた、一つの現実である。
 そこを説得したり改善したり、社会への広い働きかけがなければ主役たちの悲惨な状況は動き得ない……という視聴者(つうか僕)の感覚と、家族的共感を適切なアダプターなしで社会に繋げ、世界を変えようとしてる主役の振る舞いには、結構なズレがある。
 優しい君たちの得難い幸福とは別の場所で、人間に似た機械は人間扱いされないまま不満のはけ口にされて、社会の中である種の機能を果たしてしまっている。
 その断絶を乗り越えるためには、もうちょい幅広い影響力とそれを生み出す働きかけが、KNoCCに必要な気がしている。

 ここを一気に乗り越えハッピーエンドを連れてくるためのご褒美設定なんだと思うが、正直降って湧いた便利な救済の手触りが拭えない。
 あんだけロボットへの反感がうずまき、手に負えない生身の野蛮が暴れている世界で、『KNoCCの歌がカミサマに届いたから、アンドロイドは明日から人間扱いです』となるのは、ちと説得力が足らない気がする。

 これはエソラが実感として差し出す『ココロプログラムが搭載されたアンドロイドは、平等に扱うべき人間なんです!』という言い分の、柔らかな苛烈さも理由だろう。
 産業機械として、用意された社会不安のはけ口として、大間違いながら確かに機能を果たしてしまっているココロなき道具たちを、隣人として受け入れる準備は、テクマイ世界全く出来ていない。
 世界政府が芝浦教授の研究を危険視するのは、人間定義を書き換えるテクノロジーの暴走と未成熟な社会のバランス、両方を見据えればむしろ当然であって、エソラ(を主役にして、視聴者もここに肩入れするようにお話が作ってある)の主張は見た目の柔らかさに反して、相当にラディカルである。
 反ロボット派がなんもかんも都合よく状況を操れるくらい、彼らを支持する不定形の意思が社会に満ちてる……ってことだろうしな。
 溶鉱炉事件やらアンドロイドへのリンチやらで、センセーショナルに生っぽく書きすぎた結果、主役たちが家族単位で求める幸福で正しい結末が、『分かっているけど認められない』重たさが生まれてしまっている感じもある。

 

 ノーベルとボーラはエソラとKNoCCが身を置いている家族的サークルから離れて、司法と謀略という、音楽に関係ない領域から状況に触れる。
 ココロプログラムを(現状違法に)コピーし搭載することで、アンドロイドがそれ抜きでも生み出してしまう不定形の魂に、名前が付くのか。
 登場時からココロを持っていたKNoCCでは描ききれない部分を、ボーラが担当するのはなかなか上手い構造で、最終話が収まるべきところに収まるか否かは、彼の働きにかかっているだろう。

 このアニメは『人間に見えるものは人間である』という、一見正しいけど相当ナイーブな人間定義をかなりまっすぐ飲み込んでしまっていて、人を人たらしめる真実への精査が弱い。
 少なくとも、僕は現状そう判断している。
 イヤってほど積み上げられた人間の醜さもまた制御不能な”人間らしさ”であり、それこそがアンドロイドのココロを殺していくのだとすれば、そんな反動を乗り越えて正しさを世界に広げていく根拠は、一体何処にあるのか。
 芝浦博士の妄執と天才が生み出し、エソラとKNoCCという家族的サークルを超えて、溶鉱炉ポンコツやらボーラやらに伝播しつつある、ココロという現象/物質。
 ともすれば核兵器より厄介なそれを、『人間に見えるし、人間だと感じるから』という家庭的で暖かく、薄弱な根拠で世界に開放して良いのか。
 それは、善き行いなのか。
 自分はここら辺に相当、納得がいっていないんだなと書いてて思う。
 音楽ユニットとしてKNoCCに付与された家族的無邪気さが、複雑怪奇な社会の現状を認識させない障壁として機能し、ぽやぽや世間知らずなまま社会的核爆弾を起動させる寸前に立ってるヤバさが、最終局面で牙を向いてる……つうか。

 『善とか真実とかはどうでもいい、そう感じるからそうするんだ!』というエモーション第一主義で主役が動くならは、憂さ晴らしに機械ぶっ壊してたラダイト野郎と根っこは変わらない。
 ココロプログラムの開放、アンドロイドの(上から押し付けの)地位開放が生み出すだろう社会不安を、受け止める足場はKNoCC達にはない(と、今の僕には見える)。
 既に描写され、世界政府が正しく危険視するように、機械のココロには理不尽(だと個人が認識したもの)に怒り、暴力を持って意志を表明し強制する機能が、人間と同じく搭載されている。
 適切な制度や概念がなければ、それぞれ別々の形で傷つけ合う個人の認識に、適正な橋渡しを用意する前に極めてラディカルな形で、不可逆の変化を世界に投げかける。
 それはパステル色のテロルで、作中避けがたい一つの真実として主役がそれを選び取るのなら、お話として悪くない結論だと思う。
  でもまぁ、自分たちの無邪気で優しい実感の先にあるものを幼いエソラとKNoCC達が実感しているかというと、そうじゃないだろう。
 何しろ自分たちの電気代の稼ぎ方も理解らぬまま始まって、コンパクトで個人的な体験を経て少し知恵も付いたけど、根本的にその純粋さは変わりがない(からこそ、彼らは魅力的な)のだから。


 KNoCCとエソラが叫ぶ『僕たちは、僕たちでいたい!』という歌には、そういう暴力性が必然的に宿るわけだが……そこら辺どう着地させるのか、はたまたドスンと落とすのか。
 個人的に結構難しいところに話が転がってる感じがあるが、これはアンドロイドSFとして作品を見すぎた僕の咎なんだと思う。
 元々、そういう話じゃなかった。
 そういう物語的パラシュートを背中に用意しつつ、しかしさんざん積み上がったエグイ描写は間違いなく『そういう話』だったろと、かすれた声で僕にささやく。
 正直適切な距離感を測れないまま最終回になりそうだが、さて見終わった後どんな感覚を僕は覚えて、このお話を自分の中、どういう場所に位置づけるのか。
 来週も楽しみですね。