真夜中ぱんチ 第6話を見る。
第4話譜風回に続いての苺子回…なのだが、エピソードヒロインに感情をぶつける形の話ではなかったので、やや淡々とした味わいが生まれる事になった。
家の外に感情が流れ出さない分、他人を食い物にする悪しき吸血鬼仕草から身を乗り出して、「他人の気持ちに寄り添ってやれる」という一バズにもならねぇ価値観を掲げて、真咲がまよパンのクズどもを擁護し、マザーに堂々反抗する展開に。
「半年後の登録者百万人達成」という目標が、りぶちゃんの個人的な欲望から晩杯莊全体に拡大し、ゴミどもの居場所を守り誇りを打ち立てるための、死物狂いの本気が宿ってくる話でもある。
話の流れとしては一種の廃校部活モノともいえ、”汚いラブライブ”という単語が頭をよぎったりもしたが、苺子のサラッとしていながら重たい身の上話と、吸血鬼には不要な真夏の鍋と、べしょべしょに泣きじゃくる哀しみに絆されて、夜の王に啖呵切る真咲の思いは、欲得を押し流して熱い。
つーか動画投稿始めた頃は、多分こういう真っ直ぐな熱さ、ゴミなりの意地と絆を大事にする人情が真咲の真ん中にあって、六話かけてクソボケ共をプロデュースする中で、失われかけていたものが蘇ってきた…って話なんだと思う。
真咲は本来の自分を見失ったバズ中毒のクズなので、そこに戻るまでに六話もかかるのだ。
そこがいいアニメである。
エピソードの展開自体もエモくなりすぎないよう精妙に調整されてて、永遠の子どもとして夕日の公園に置き去りにされる苺子の悲しみとか、望んでもいないのに一生ガキっぽくしかいられないピーター・パンの苦悩とか、重たく湿った筆致では書かない。
イカニモな感動を練り込んだハンドベル頑張り物語を、マザーに訴えかけるりぶちゃんの口調もなんか棒読みだし、当然ゆきにも刺さんないし。
トボケてズレたペーソスは、物語の転換点でも健在であり、それが”腐ったミカン”と揶揄されるゴミ吸血鬼が、ゴミのまんま自分であることにしがみつく物語と、不思議なシンクロを生んでいた。
問答無用で腕を切り飛ばす、苛烈な夜の権力と対話するときも、マザーの発言にゆきが鬼被りしてくる一笑いを混ぜてくる、絶妙なオフビート。
どうしても真面目になりきれないのに、苺子が語る過去は極めて正統な吸血伝奇の味わいで重たくて、110年の歳月はその悲劇をそれでも自分の日常と、永遠の少女に平然と背負わせてしまう強さがある。
酒に酔った勢いで家を破壊し、世間に目立って波風立てる、吸血社会の劣等生どもは、第4話で見せたような透明度高い感動を確かに宿しつつも、今回はどっか煤けたクソボケ加減でもって、居場所を巡る動画投稿闘争へと突き進んでいく。 グズグズな中に生真面目な芯を残す煮込み方は、このアニメ独自の空気と味わいを後半戦に残す意味でも、愛すべきバカがバカのまんまでいるありがたさにおいても、結構大事なことだと思う。
真咲も終始キレっぱなしの社会不適合者のまんま、まよパンのPとして、晩杯莊唯一の人間として、重たい定めを背負いつつもなんとか、飯食って人間のふりして”普通”やろうとあがいてる同居人の、思いを熱く代弁することとなる。
弾帯のごとくニンニクで武装し、マザーの元へカチコミブッ込もうと先走る真咲は、苺子たちが長い生で体験してきたシャレにならない夜の暴力に、幸運にして殴りつけられてないから、ああいうことが出来る。
苺子がサラッと回想した、一世紀前の吸血鬼社会、終わりきった秩序。
ごくごく普通に家族と暮らし、成長し老いて死んでいく”普通”が一夜にして崩れ去った過去を聴くと、マザーの強権や無理解も「ある程度しかたがねぇかな…」とはなる。
まよパンの話の中では描かれない、あるいはボケ共が持ち込まないようにしている、剥き出しの暴力や悲惨が吸血鬼社会には当たり前にあって、その土台の上にクズたちは家も壊れる大騒ぎを、彼女たちの日常として乗っけてる。
あの傍迷惑も、吸血鬼物語の本道たるシリアスな悲劇に飲まれぬよう、必死に戯けてた産物なのだろう。
…少なくとも、その一部は。
これまでも細かく描写があった、吸血鬼には本来不要な人間の食事。
”ごっこ”でしかない人間らしさ、疑似家族としての絆を、晩杯莊のアホどもはそれでも大事なのだと見て取って、苺子と一緒に遊んでくれた。
それは同年代の子どもともう当たり前には遊べない、夕焼けの中にいても顔を覆い隠す重装備でいなければいけない、小さな逸脱者が唯一抱きしめられる、子どもで…あるいは人間でいて良い時間だ。
そういう大事な嘘っぱちを積み重ねてきたからこそ、吸血鬼社会の劣等生は冷たい秩序の奴隷ではなく、自由な意思を持った人間…のなり損ないとして、ゴミなりの意地と尊厳を吠えることが出来る。
これまでは「カッッッッス!」という印象が先に立っていた、苺子のウザさ思慮の浅さ感情最優先の短絡っぷりも、幼年期を通りすがりのゴミに簒奪され、絆を断ち切られ永遠に子どもで在り続ける、無辜の原罪が明かされるとあまりに悲しい。
普通の人間であれば、時とともに知恵を重ね落ち着きを得て”大人っぽく”なる道もあろうが、望んでもいねぇ永生者の血によって、苺子はそういう”普通”から閉ざされてしまった。
苺子は永遠におバカで浅はかな自分に、縛り付けられた囚人なのだ。
「それって…それってあんまり哀しいだろうがッ!」と、僕の気持ちを背負って真咲が吠えてくれたのは、だから凄く嬉しかった。
それは永遠の子どもである苺子の涙を汲み、マザーの圧政を飲み干し諦めざるを得ないりぶちゃん達が言えないことを、人間ゆえの気楽さでぶっ放す正義の代弁…ってだけではない。
波風立たない暴力的な平穏だけを”普通”とする、ヴァンパイア社会の秩序に物申す反抗であり、そういうパンクス帰室を誰かのために使える、真咲らしさが真咲の中に再生しつつある証明だ。
晩杯莊の騒々しい日々は、ただ利用し生き血を絞ってバズを稼ぐ最初の目的を、真咲から気づけば遠ざけている。
共演者、プロデュース相手、危なっかしい後輩、同じ釜の飯を食う同居人…あるいは家族。
そういう多層な繋がりが、ボケ女の燃える魂を蘇らせていく。
吸血鬼にとっては人間性を捏造する家族遊戯でしかない苺子の鍋は、人間である真咲にとっては命の糧だ。
招かれないから苺子の下へと入っていけない、不器用で厄介な夜の種族の躊躇いを蹴っ飛ばして、キレる動画投稿者は当たり前に腹が減ってしまう自分を、吸血鬼社会の”普通”の外側にあるアウトサイダーの怒りを、仲間の代わりにブン回す。
今回の話運びは、吸血鬼物語に迷い込んだ唯一の人間である真咲が物語に在る意味を、とても鮮明にしてくれて良かった。
そのモノわかりの悪さがなければ、りぶちゃん達はマザーが押し付ける諦観を(多分これまで通り)受け入れていたし、吸血鬼社会にすら居場所がない”腐ったミカン”のレッテルも、跳ね除けようとは思わなかっただろう。
魂の再生を果たした真咲の熱血が、仲間たちに輸血される回…とも言えるか。
Newtuberらしいイカニモな感動路線で、どうにか解ってもらおうとしたアプローチはマザーに届かず、真咲は真っ向正面からの宣戦布告をぶちかます。
押し付けられた秩序を前に諦めることも、それに同化して”普通”になることも出来ない幼さは、苺子本来の属性でありながら110年の長い夜に、擦り切れ消えかけていた在り方の再燃だ。
永遠の子どもを強要されているのに、真実子どもでいることを許されていない苺子の涙を引き受けて、真咲はガキっぽく権威に反抗し、ダチが言えない気持ちを変わって言葉にする。
「それって…ずいぶん熱血じゃんねぇ!」 というエピソードで、やっぱ好きだわこのアニメ。
苺子のような被害者をこれ以上出さないためにも、マザーが生み出す苛烈な秩序は必要だ。
しかしどうあがいてもクズにしかならない、晩杯莊のゴミどもは、物わかりの良い模範的吸血市民には、どうしてもなり得ない。
暴力独占によって成立する近代的秩序の戯画が、グッと解像度上げてきたエピソードを経て、”動画配信者”という極めて現代的な職業にしがみつくことで、クズはクズのまんま、自分たちでいる権利をもぎ取ろうとする。
この時、”まよパン”という名前が私達のアイデンティティとして、とても大事な意味を持ってるとりぶちゃんの叫びから感じれたのは、めっちゃ良かったな。
それはただのユニット名じゃない。
強大な力を持ったマイノリティとして、世間様に逃げ隠れして(物理的にも)日陰で生きるしかない、吸血鬼という種族。
そんな存在でもバズっていいし承認欲求もっていいし、鍋食っていいし仲良くしたっていい時代なんだと、晩杯莊に迷い込んだもう一人のクズは、共に暮らす中で教えた。
そんな真咲Pが吸血鬼たちに与え、皆で考え選んだ”真夜中ぱんチ”という名前は、苛烈な支配に反抗し己であることを吠える”私たち”が、歯を食いしばって戦える理由なのだ。
…この真実の名前を削り出ししがみつく物語、黒人公民権運動と重なる部分があって、個人的にメチャクチャ響く。
まよパンは実質”マルコムX”!!(暴論)
苺子の悲劇が明かされることで、マザーの支配も吸血鬼社会全体を考えたうえでの必要悪であり、改善されるべき現状の軋みがあると解ってきた。
真咲Pにエンパワメントされて、”まよパン”という新しい、真実自分たちらしい名前を手に入れたクズどもが、動画投稿という新時代のメディアテクノロジーを活用することで、そこで生きていくしかない窮屈な社会に、どう新しい風を吹かすか。
そういう、夜の社会改革物語としての匂いも微かに、しかし確かに漂ってきた。
やっぱこういう、ムチャクチャ生真面目な部分をかっちりやってるからこそ、野放図で下劣な大暴れもスッキリ飲めるアニメではある。
まよパンが晩杯莊を母体とした、複数人ユニットであることで、皆の好きなものを詰め込んだ苺子鍋のように、孤独なエゴではなく温かな絆を表す”私たちの名前”として機能しているのが、凄く好きだ。
そこに”まよパン”って名札がぶら下がったのはつい最近だが、大正レトロなテイストを残す晩杯莊は苺子が吸血鬼になってからずっと、失われたはずの我が家だった。
りぶちゃんが彼女を招き入れ、十景や譜風や真咲も一緒に加わって、暴力的に奪われてしまった家族の情景、子どもが子どもでいられる場所をなんとか捏造してきたことで、苺子は苺子として生きてこられた。
古くて新しいモノが、情に炙られ意地に燃やされ、再び蘇る。
やっぱそういう、極めて吸血鬼的な”再生”の話なんだなーということを、再確認させえてもらえる真ん中折り返しであった。
真咲の熱血にしても晩杯莊の連帯にしても、急に降って湧いたわけじゃなくてずっとそこにあって、でも忘れ去られていたものが蘇っていく手応えは、何もかも新しくなるより自分としては真実らしさがあって、凄く好きだ。
フツーにお腹が空く人間の真咲だからこそ、苺子が無駄だと知りつつ諦められなかった食事作りが、間違いなく命と心の糧を生み出す意味ある行為なんだと、嘘っぱちのおままごとでも本物で腹一杯になれるんだと、夜の外側から伝え直してやれてる所とか、ほんと良いと思うよ。
オメーらには空疎なゴミでも、アタシたちには大事なんだよッ!
そういう、熱い魂の血しぶきを宿した”多様性”を、人間と吸血鬼のボンクラ混成チームが強く打ち立て、「登録者100万人」の金看板で反抗するお話が、新たなスタートを切った。
一回はりシスでてっぺんまで駆け上がったからこそ、レッドオーシャンになったNewtubeを戦場に、半年で100万人は相当な無茶だと、真咲だけがリアルに解っている。
生きてる時間だけは長くて、しかし変化や成長からは遠いぽやぽや永生者たちを率いて、”真夜中ぱんチ”の戦いはより真剣な熱を帯びていく。
晩杯莊取り壊しを、苺子以外がまーまー低体温で飲み干せちゃってた描写、絆の弱さと言うよりは諦めへの慣れを感じて、哀しみが深いぜ…。
やっぱねぇ…フツーに異能駆使して大暴れすれば、万バズ間違い無しの生粋のエンターテイナーなのに、それを封じられて”普通”にアリモノ企画やるしかない(そしてなかなか響かない)吸血鬼の悲哀が、独特で切実で好きだ。
吸血鬼の”普通”が人間の規格を大きく越えて、それこそ家ぶっ壊しちゃうくらいのハチャメチャだってのは解ってるのに、そのまんまに生きたら罪もねぇガキが吸血ピーターパンになっちゃうし、狩り立てられてぶっ殺される。
そういう思いの外窮屈な状況で、”真夜中ぱんチ”という名前を得てしまった私たちは、どう私たちであるべきなのか。
真夜中の存在証明闘争が、いよいよ本格始動である。
チャンネルも晩杯莊も、譲れる居場所はどこにもねぇと、 揺れた挙げ句に思い知った…人間の”普通”に立ち戻って熱血かました真咲に思い出させてもらった、クソぼんくら共の戦いは、まだまだこれからだ。
「マザーに自分たちの生き様を認めさせるために、半年で100万人という目標に挑む」つう、話全体を支えるフレームが鮮明にもなった所で、まよパンの悪戦苦闘はどんな反響を呼び覚ますのか。
素直に人外やれば一番ウケる、ナチュラルな豪速球を封じられた上での不自由も、人を演じ人であろうとする人間性遊戯の一環なのかな…などと思いつつ、だんだん変わりつつあるゴミどもの明日を、しっかり見届けたい。
不老不変なはずの歩く死者だって、魂には尊厳と祈りがあり、本気で燃えれば世界も自分も変えていけるのだと、果たしてこの物語は描き切れるのか。
マジおもしれーアニメで、次回も楽しみッ!!