たとえ絵空事の中でも、そこが死に場と見定めたのなら。
食って恋して戦って、前髪おばけが転生先で勇者となっていく総力戦を描く、全修。第2話である。
観客席で既に終わった物語を見つめている、転生者であり部外者であるからこそのナツ子の”遠さ”を、メシを食べて命をつなぐ実感に重ねて埋めていくエピソードだった。
既に結末が決まっているフィクションの中でも、人々は最後の街で必死に生きていて、麦を育て酒を飲む。
だからこそ芽生える恋の気配を、爽やかかつロマンティックに追いかけてもいて、見ていてとても気分が良かった。
心を閉ざしていたり未来が見えなかったときは塞がり、希望を見出し答えを掴んだときには開く。
ナツ子の異様な前髪が、演出装置としてメチャクチャいい仕事してんな…。
お話としては特級のアニヲタにしてクリエーターが、第二にして唯一の生に投げ出された時、どう自分の居場所を掴んでいくか…という問題に、どっしり向き合う感じで進む。
メタ知識ダダ漏れで得体のしれないことをほざくナツ子を、ルークは信頼しない。
戦うか死ぬか、極めてシビアな現実を生き(そこなって、世界ごと滅ぶ未来が既に描かれても)ているルークにとって、作品の外にいる”お客さん”は、当然怪しむべき相手だ。
そういう硬質な対応を、思いの外腹ペコキャラだったナツ子の滅びメシ堪能記は上手く和らげ、また活きた実感を上手く掴み取っていく。
前回半笑いのネタ扱いしてた「弁当に中って死ぬ」つう、異世界のへ扉の開け方も、こんだけ”メシ食う人間”として主役が…そしてフィクションの中のキャラクターが描かれると、かなり大きな意味持ってるのかなぁ、と思う。
ナツ子は抱えた情熱と才能の扱い方に問題を抱えているけど、怪物めいた形相になっても映画を完成させるという強い思いや、魔法となりうるほどのアニメーションの技量を確かに持っている。
そういう人間が集団作業との向き合い方を見失い、生き方を間違えた結果として、命を繋ぐはずのハマグリ弁当は毒になってしまった。
そうしてたどり着いた嘘っぱちの中では、人は麦を育てメシを食い、飢えて死ぬ。
現実に帰りたくても帰れない、その事実を思い知ったナツ子は「ご飯を守る!」というバカげた願いのために、栄えあるナインソルジャーズの一人として、命懸けの戦場に挑むことを選ぶ。
それは滅びゆく物語の中で、もはや人類最後の砦となった街で日々の糧を紡ぐ人たちと、同じ目線で活きていくことを選んだからだ。
現実とフィクションの繋がり方は見えなくなってしまったけども、いま唯一自分の前にある事実として、飯は上手いし農作業は疲れる。
都合の良い夢ではなく、額にあせして共に働き、共に戦い、共に生きともに死ぬ”現場”として、ナツ子は設定資料暗記するほど好きな嘘っぱちを、新たな舞台として選び取るのだ。
その汗臭く命懸けの質感は、”遠さ”があったからこそ娯楽に出来たフィクションが、自分に近いリアルになっていく怖さを孕んでいる。
現実に帰りたいと、切実ながらテキトーに祈った時、ナツ子は「この差狗賓を嫌いになりたくない!」と叫んでいた。
匂いがあり腹が減る”現実”として付き合ってしまえば、夢物語として受容し消費できる距離感は崩れてしまう。
ここら辺、アニオタから制作者にかなり駆け足でなってしまったナツ子と”アニメ”の距離感が、結構反映されてる場面だったのかなと思う。
つまりアニメの中でメシを食う覚悟をしたフィクションの中のナツ子は、周囲との繋がり方に失敗し、孤立して倒れた現実を、半歩追い抜いて”アニメ”との向き合い方を適正化していくのではないか、という話でもある。
疑念と反発から始まったルークとの出会いに、微かに恋色の明かりが灯っていく様子も今回丁寧に刻まれていたが、ナツ子が帰る理由を見つけられない”現実”で追い込まれていたのは、初恋を題材にした映画だ。
彼女が持つ全修能力が、嘘っぱちでありながら確かに生きてる物語をどう変化させ、あるいは抗えずに滅びていくかはまだまだ分からないが、本気で嘘っぱちに飛び込みそこで飯を食えばこそ、生まれる手応えがあるだろう。
ルークとの凸凹ロマンスもまた、彼女に欠けていた何かを与え…あるいは奪っていくのだろう。
前髪お化けがその可愛らしい顔を見せる時、ナツ子は中々見えなかった真実に気づき、あるいは目を通じ合わせればこそ成立する真心のやり取りへ、自分を投げ込む。
その瞳は過去の名作の中に現実の誰かの面影があったり、命懸けの戦いの中で自分に何が出来るのか、創造性を絞り出し命の前借りをして板野サーカス(本人作画)で空中戦を制した時、美しく輝く。
文字通りのデッド・リミットを少しでも先延ばしするために、弓を取り畑に結界を張り、剣を取って時間を稼ぐ”共同作業”に、アニメの魔術師は自分がそこにいるからこそ出来ることを見出し、信頼をもぎ取っていく。
ここら辺の総力戦感を、ナツ子の不確かな予言を信頼して防空体制を整える様子とか、ユニオとメルルンが別格の結界術師であり射手である様とか、短くも適切に積み上げて見せてくれる描写で支えてくれていたのは、大変良かった。
それは食べて生きてるフィクションの中の人生が、死にたくないからこそ戦う熱量を宿していることを視聴者に伝える、大事な足場になるからだ。
僕は”滅びゆく物語”の監督が、”現実”において既に死んでいるのは面白い要素だなと感じている。
ナツ子がこのお話強火のオタクであることは、展開も設定も暗記するほど読み込んでいる態度から見て取れるが、そんな彼女にも気付いていないネタがあり、その只中を生きればこそ掴めるものがある。
その一つとして、問題作に投げかけられた作者の意図を、生死を超えて読む一つの奇跡があるんじゃないのかなと、予測し期待もしているのだ。
ユニオの幼くコミカルな芝居(釘宮さんマジ素晴らしい)で上手く息を抜いているが、作中現実の詰みっぷりはマジエグくて、バッドエンド間違いナシの絶望が作品を貫通している。
9人いるはずのナインソルジャーズも既に数を相当減らしているし、愛と勇気で奇跡を掴んでも良さそうな作風に反して、物語は避けがたい絶望を刻み込んで作られている。
そのドス黒さに作者は何を詰め込んだのか、作品の外側にいては見えないものを、物語の中で飯を食い、麦を作り守る人たちの思いを知り、死地を嘘っぱちの勇者たちと駆け抜けたことで、掴み取れるのではないか。
この転生戦記は食って恋して生身の体温がある”現実”であると同時に、やはりどこか”遠さ”を残した作品読解でもあって、しかしそれは元来相反するものではない。
むしろ己の全部をアニメの中に投げ込み、本気で作品に溺れ掴み取る体験があればこそ、ナツ子は若くして大ヒットを飛ばす監督となり、異様な力みで前髪に願かけて何も見えなくなってしまうくらい、アニメに本気な女になったのではないか。
そういう人間がトンチキながら本気で、眼の前の命に、そこに宿る物語に向き合う行為は、時間や次元や生死を飛び超えて、何かを伝える奇跡に繋がっていくのではないか。
このお話がメインに据えている”アニメ”がいっとう好きな人間としては、そういう主題が持つ可能性に深く切り込んだ展開へ、進んでいくのを期待もしたくなる。
そして転生×お仕事モノの奇妙な座組は、しっかり仕上がったクオリティに助けられて、そういう場所へと手を伸ばす頼もしさを既に匂わせてもいる。
ナツ子が”全修”ぶっ込んだ後、3日間昏倒してるのが意味深だなぁ、と思う。
あのサーカスを書き上げるのには「アタシでも3日はかかる」と言ってたけど、3日間の昏睡は本来払うべきコストの前借りであろう。
現実世界でアニメ制作に入れ込むあまり(コミカルな書き方ながら)死んでるナツ子が、奇跡の対価に何を求められるのか、あんま笑えないネタなのかなぁと考えたりする。
自分が好きになったものに、視界を狭くして全てブッ込めるだけの真剣さ、それで実際に奇跡を掴み取ってしまえる強さをナツ子は持ってて、それは尊いと同時に危ういものなのだろう。
ここら辺、”アニメ”を描くアニメであることに、すごく自覚的な描写だと思う。
こっから何を描いていくか全然読めない(からこそ面白い)作品であるが、今回フィクションの中に確かに息づく命の手応え、街のあらゆる人が本気で戦っている手応えを丁寧に積み上げてくれたおかげで、共同作業の重たさと大事さは、しっかり描けたと思う。
ナインソルジャーズの一員たる資格を、全霊の板野サーカスで証明したナツ子は、滅びゆく世界に抗う中で、誰かとともにいる意味をハラに収めていくだろう。
そんな死後にして架空の冒険が、悩める天才監督にどんな答えを手渡していくのか。
ナツ子の”初恋”の行方と合わせて、しっかり見守っていきたい。
死闘を通じて信頼を地道に育んでいく恋の書き方が、マジ好みの温度感なの、ホントありがたいんだよなぁ…。